第3話

 「…思い出したか?」

 「その節は大変ご迷惑をおかけしました」


 鍛えられた…スケートをやめてから大分筋肉は落ちていたが…足を窮屈に折り曲げて、ドヤ顔の少女に土下座する。

 要するに、音乃は少女の着ていた革ジャンの背中に、しこたまゲロを吐いた上に被害者の居宅に連れてこられて朝まで介抱されていた、というわけだった。土下座どころかそのまま切腹モノの話である。


 「…まあいい。それでカシミヤネノとやら。家は遠いのか?」

 「え?」


 後ろ頭の上からかけられた声に、音乃は驚いて思わず顔を上げる。

 下着姿で土下座とかわけの分からない格好だったが、少女ももうそんなことは気にして…


 「……これを着ろ」


 …ないこともないようで、少し顔を赤らめながら音乃の着衣を顔に投げつけてきた。


 「わぷ」


 顔を覆った繊維からは洗剤の香りがする。どうも汚れた衣服を洗濯までしてくれてあったらしい。


 「…ありがと」


 新歓コンパ、というものがナニモノか分からなかったので、汚れてもいい範囲内でそれなりにキレイなものを着てはいた。音乃の場合、足が太いのを気にしてパンツスタイルが多いが、珍しくフレアスカートなぞ穿くくらいには。

 ベッドから降りて音乃がその慣れない格好に戻るのを、少女は逸らしながらも時折目を向けていた。別に同性に見られても気にはならないが、そう照れられるとこっちも気恥ずかしくなる。

 自分まで妙な気分になるのを年上の余裕でどうにか抑えたが、その余裕の無さは年上の態度としてどうなのか、我ながら思わないでもなかった。


 「…着たか。家まで送っていく」


 そうして身支度を調えた音乃に、少女が申し出た内容にはちょっとした驚きがあった。

 昨夜のことを思い出すに、えらく乱暴でぶっきらぼうな言動が目立つようだったが、考えてみれば誰も助けてくれなくて困窮していた音乃を助けてくれたわけだ。意外に世話好き、あるいは面倒見の良い性質なのかもしれない。


 「え?そんなことまでしなくてもいいよ。それより革ジャン、クリーニングして返すから貸して?」


 かといってそれに甘えていられる立場でもない。むしろ弁償を請求されても仕方ないところで、吐瀉物のかかった革製品が元通りになるのか目算も無かったが、それくらいはしなければ、と再びゴミ袋に投じられていた革ジャンを自ら拾い上げにいく。


 「お、おい、汚れるから別に…そんなに気に入ってたわけじゃないから気にしなくていい!」

 「だって一張羅って言ってたじゃない。それに結構良いものに見えるし勿体ないよ」

 「それは…まあ、そうなんだが……」


 引っ張り上げると流石に臭気が酷い。思わず顔をしかめる音乃だったが、自分の責任に違いは無い。ガマンして背中の方を内側に丸めて畳む。

 このまま持ち帰るのも流石にイヤだなあ、と思ううちに、


 『ぐー』


 …と、自分の腹が鳴るという、間の抜けた空気に襲われた。

 思わず動きが止まると、音乃は気まずさを隠しながら少女に顔を向ける。


 「なっ、なんだ!わたしじゃないぞっ?!」


 いやそーじゃなくて、


 「…ごめん、私のお腹」


 片手を肩の高さに挙げて白状した。

 考えてみれば、今が何時かは分からないが、固形物を口にしたのは、コンパが始まってすぐに鳥の軟骨揚げを食べたのが最後な気がする。その後は次から次へとグラスに液体が注がれていたから、さっさと酔い潰そう、それもなるべく安上がりに、という打算だったのだろう。

 全く、あの場にいた連中のなんと下卑たことか。

 同じ大学に通う男女が大半だったし、顔はなんとなく覚えている。欠片も興味は無かったから名前は全く覚えていないが。

 次に会ったら体よく無視するのが上策だろうな、と音乃が考えているうちに、少女は部屋の隅にあった衣装ケースとして利用しているのか、古めかしい葛籠のフタを開け、自分の着衣を取り出して簡単に着込み始める。


 「あの、っ…どうしたの?」


 油断していたら革ジャンに染みついた臭さが鼻に入り、ついそれを持った手を顔から離してしまった。


 「腹が減っているのだろう?ちょうどいい。わたしも空腹だったからな。外に出て何か食べよう」


 ぐー。


 食事の話が出てきたことで空腹も遠慮が無くなったらしい。音乃も今度は照れも恥じらいもなく、年頃の娘らしい健啖っぷりを主張するように、素早く身支度を調えるのだった。




 そのつもりはあったから別に構わないのだが、普段なら入らないような少し気取った感じのトラットリアで、注文を済ませてから「カシミヤネノ、お前の奢りでいいな?」と面と向かって言われてしまうと、却って素直に「いいよ」とは言えない音乃だった。


 「おい、わたしはお前に着衣一式ダメにされているんだぞ。昼食一回くらい別に安いものだろう」

 「それはちゃんとクリーニングして返すって言ったじゃない。…っていうか、私あなたに名乗ってたっけ?」


 何度か名前を呼ばれていたが、フルネームで連呼されると違和感を覚えないでもない。いやまあ、どう見ても日本人ではないこの少女からすれば、日本人の姓と名前の区別などつきようがないのかもしれない。その割には日本語は達者なようだったが。

 …そしてよく考えてみると、音乃は目の前の少女の名前をまだ聞いていないことに気付いた。


 「わたしの部屋に寝かせた時に連絡先くらいは訊きだしておこうとしてだな。名前が精一杯だったが」


 覚えていなかった。まあ名前くらいは別に構わないだろうが。


 「そっか。まあ今さらだけど、世話になったね。ありがとう」

 「なに、わたしが気に食わなかっただけのことだ。気にするな…と言いたいところだが、ここの奢りだけは譲らんぞ」


 身を乗り出して、キレイな顔を寄せてくる。なんだか距離感が自分と違いすぎて、音乃は面食らいながら、訊いておかなければならないだろうことを、確かめる。


 「分かったってば。どうせそんな高い支払いでもないし。…それと、あなたの名前も」

 「うん?」

 「名前。私の方ばっかり知られているのは面白くない」


 そうだっけ?みたいな顔で考え込む少女。あまり自分を語ることに慣れていない性質なのだろうか。

 そんなことを考えてしまうくらいには、音乃からは無頓着に見えた。

 それでも少しばかり考え込んだ後に少女の口から出た言葉は、少なからず音乃を困惑させる。


 「…ヴィリヤリュド・ターネァリィス・アミーリェティシアだ」

 「……………なんて?」


 名乗りを聞き返すなんてえらく失礼な真似だと分かっていても、聞き返さざるを得なかった。

 英語…ではない。ドイツ語とも違う。北欧の方ならそれっぽい?ようにも聞こえたが、どちらにしても長くてどこをどのように呼べばいいのか、皆目見当がつかなかった。

 そんな音乃の反応は予想されたものだったか、やたらと長い名前の少女は少し口を尖らせて続ける。


 「…ターナでいい。近しい者は皆そう呼んでいた」


 …呼んでいた、か。

 その慨嘆するような物言いに、そういったものから遠く離れてここにいるだろうことを、思わせた。


 「いくつ?」

 「年齢のことか?ええと…十五でいい」


 これもまた微妙な口振り。だが音乃は、それよりも数字の方に呆れかえっていた。


 「十五歳って…まだ子供じゃない。夜の盛り場うろついてていい年齢じゃないでしょ」

 「ごあいさつだな。その子供に助けられたどなたかは、実はお幾つであらせられるのか?」


 ふん、と鼻で笑って音乃を煽る。

 バカにされた、とは思うが事実を指摘されただけで憤りを見せるのも、それこそ大人げないと思い、すました顔で答える。


 「十八よ。スゴいでしょ」


 何が?と言われなかっただけまだマシというものだろう。何故か自慢たらしくそう言った音乃は、対面から浴びせられる視線に、たじろいだ。

 これはあれか。噂に聞く生暖かい視線とゆーやつか。

 そう気付くと急に恥ずかしくなり、手元のグラスに入った水を一息であおって、別に乱れてもいない髪を撫でつけてみたりする。

 スケート靴を脱いでから伸ばし始めた髪は思ったよりも長くなるのが早くて、もう背中の肩甲骨の下辺りにまで届いている。このまま伸ばしたらどうなるのか、興味は無いでもないが、最近手入れが面倒になっているのも事実だった。


 「…年齢のことはともかくだな」


 そんな風に焦りを隠さない音乃を見て、少女…ターナは小さくため息をついて言う。


 「お前は向いていないから、止めたほうがいい」

 「向いてない?」

 「ああいう場所が、だ。自分を持っていない者が出入りしていたら、あっという間に堕落する」


 何か確信を得ているような言い方。音乃は気に障りこそしなかったが、自分より三つも年下と分かると素直に聞き入れる気にもならない。


 「…私の何を見てそう思ったのか分かんないけどね。自分こそどうなの?十五歳っていったら高校生じゃない。私は大学生だからいーけど、そんなの許されることじゃないんだからね」

 「別に高校になんぞ行ってない。それにわたしは遊びであの場所にいたわけじゃない。仕事だ」

 「…仕事?」


 音乃が聞き返すと、ターナはしまった、という風に口をつぐんだ。

 それっきり、音乃も追求を止める。

 気にはなったが、昨日変な形で会ったばかりの女の子に、あまり突っこんだことを聞くものでもない、と自制が働いたからだ。


 「………」

 「………」


 場が持たないなあ、と思ううちに、注文した料理が届いた。

 前菜の、タコのカルパッチョ。

 ウェイトレスがついでに音乃の空いたグラスに水を注ぐのを、ターナはじっと見ていた。


 「…食べようか」

 「…そうね」


 それが去ると、聞いた歳に似合わない落ち着いた所作で、ターナはフォークをタコに突き刺して口に運ぶ。


 「旨い」

 「だね」


 短い感想。だが、音乃も短く同意した。

 身の旨味とソースの酸味の調和がよくて、空腹が更に刺激される。メインの到着が待ち遠しくなり、二人とも厨房の方に思わず首を巡らすのだった。




 ランチコースなので、前菜の後はメインのパスタに続けてデザート、という形で、パスタは音乃がアラビアータ、ターナがボンゴレと二人とも違うものを頼んでいた。ターナの紹介だったこの店の料理が予想よりも美味だったこと、そして窓の広くとられた明るい店内ということもあってか、音乃もデザートがお終いになって食後のコーヒーが届く頃には、大分打ち解けてきている。それがどの程度のものか、となると…。


 「ティラミスって、『わたしを元気にして!』って意味らしいね」

 「そんなこと知らなくても美味ければそれでいい」

 「そこでぶった切っていたら会話が続かないじゃない。ターナって友だち少なそうだね」

 「…知るもんか」


 こんな感じで、遠慮の伴わない言葉をかけられるくらいには、だった。 

 実際、話してみれば年齢相応の可愛らしさが欠けていることもないし、ぶっきらぼうな仕草の中にも案外本音が見て取れて、なかなか退屈しない少女だ。

 これで友達が少ない、などというのであれば、よっぽど周囲の人間には見る目が無いのだろう。


 ターナは割と馴染みの店なのか、ランチタイムも終わりに近い頃合いで入店し、今はもう他の客もほとんどいない割には店内の雰囲気も居心地良くて、土曜の午後らしいのんびりした空気を楽しめている。

 広くとられた窓の外は、決して広くはない道路を多くの人が往来していた。土地柄か日本人の若者だけではなく外国人の観光客も多いようだったが、その中に一人、地図らしき大きな紙片を持ったまま立ち往生している人が居た。

 見れば年配の白人の女性で、大きな荷物を持っているところからしてついさっき日本に着いたばかり、のようでもある。

 通りすがる人は多く、気に掛ける様子の者もいなくはないのだが、やはり外国人にそう気易く声をかけられるものでもないようで、二人のいる店の前で地図を傾けたりしながら迷ったままでいた。

 音乃もそれほど堪能というわけではないが、一応英会話らしいものには馴染みがある。お節介にも外に出て道案内くらいしようかと思ったところだった。


 「…済まない、少し外す」

 「え?…あ、うん」


 ターナは音乃にそう告げると、気勢を削がれた格好の音乃がした曖昧な返事を背に、店員に何ごとかを告げると店の外に出て行った。

 もしかして?と思っていると案の定、店の外で立ち往生していた女性に声をかけ、並んで地図を眺めてたり何事か話していたが、しばらくするとターナは自分のウエストポーチからスマホを取り出して何か操作をする。そしてウエストポーチから紙片を取り出して女性に手渡した。

 それを見ながら一言二言言葉を交わすと女性は満面の笑顔になり、丁寧にターナに例を述べた様子でその場を離れていった。

 見送るターナの様子は、といえば心配そうにも安堵したようにも見えて、その横顔は音乃にもひどく好ましいものに思えた。


 そんな音乃の視線に気付いたのか、ターナは店内の音乃を見ると微かに、怒気によるものかもしれないが頬を赤らめてひと睨みし、そこを動くな、とでも言わんばかりに指を突き出して出て行った時よりもずっと、激しい足取りで戻ってくるのだった。


 「…カシミヤネノ、貴様趣味がわるいぞ」


 見られていたことに恥ずかしさでもあるのか、席に着くなりグラスの水を空にしてそう文句を言う。


 「どうして?」

 「……その、なんだ。まあ、見られて気持ちのいいものではないということだ」

 「ひとに親切にしているのが悪いところとも思えないんだけどな」


 逆に音乃は感心していた程である。なるほど、この面倒見の良さはターナの生来の性質なんだな、と思って自分でも意識しないままに、笑みが浮かぶ。


 「…仕事だからな」

 「仕事?」


 それはまた、意外な言葉だ。

 音乃が思うに、仕事などというものはもっと仕方なしにやるものだろう。先程の婦人に接していた態度は仕方なくやっていたものではあるまい。


 「そうだ。わたしはこの街でああいう風に外国人向けの案内みたいなことをしている…なんだその目は」

 「いや、ちょっと安心して。昨夜の様子からしてさ、どっかの用心棒でもやってるのかと思ったから」

 「お前は変な小説の読み過ぎだ。そんなわけがあるか」


 といってもね。革ジャン着た銀髪の美少女が素行の悪い男をとっちめて女の子を救うなんて、やっぱり少女向けの小説みたいじゃない。

 そう思ってから、ああその場合自分は助けてくれた少女と恋に落ちる主人公か、などと馬鹿馬鹿しい想像を巡らし、意味に気付いて思わず苦笑する。そんなわけあるか、と。

 その代わり、と言ってはなんだが思ったことをターナに告げる。


 「ね。カシミヤネノ、なんて仰々しく呼ばれたら肩が凝るから、音乃でいいよ。そう呼んで」

 「ネノ?ああ、そっちが名なのだな。いいぞ。わたしもターナで、いい」

 「うん。ターナ」


 不思議とその名は、声に馴染んだ。

 それはターナも同様であるのか、柔らかく微笑んで、まだカップに残っていたコーヒーを飲み干していた。

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