朝焼カーテンレール

杜未來

01. 空

 東の空が白んでいた。伊万里は、カーテン越しに見える空を眺めながら、今日の予定を思い浮かべていた。暫くして、再び目を閉じた。

 

 隣には男が、静かな寝息をたてながら眠りについている。この男と一夜を共にするのも何回目だろうか。特に強い好意があるわけではない。この男には妻子がいるが、特段、罪悪感を持つわけでもなかった。

 この男はなぜこんなにも静かな寝息を立てるのだろうか。いつもそんなことを思いながら男の隣に横たわる。こちらに向けられる背中も、女性なのではないかと思わせるほど美しい。


 男は、伊万里よりひと回り年上で、職業は小説家だ。伊万里の中では、小説家というのはとても崇高で、聖人君子のような存在であって、不貞を行うような人間ではなかった。しかしこの男は、伊万里の小説家像を根底から覆す男だった。一冊本を書き終えたと思えば、その後数ヶ月は毎日朝から酒を喰らい、何人もの女と遊ぶような、崇高という言葉からはかけ離れた、堕落に満ちた生活を送っていた。


 伊万里と出会ったのは、まさに新作を書き終え、酒と女に塗れた生活を送っていた最中だった。初めてこの部屋に伊万里が足を踏み入れた時は、女物のアクセサリーや下着が散乱しており、まさかこの場所であの名作が生まれたとは、到底信じがたい光景が広がっていた。決まって二人が会うこの部屋は、男が作業部屋として自宅とは別に借りている部屋だ。

 この男は処女作で多くの賞を受賞した。それはもう爆発的な勢いで、瞬く間にその名を世に知らしめた。しかし、この男の作風は処女作を機に、大きく形を変えた。処女作後の男の作品は、驚くほどに綺麗な言葉が並び、男の実生活とは正反対の、可憐で美しく、誠実な世界が広がっていた。作家と作品の同一性という意味においては、むしろ処女作の方が近かったといっていい。何故このような変化が起こったのか、男が口を開くことは一切なかった。もちろん伊万里にも。


 伊万里は二十四歳の大学院生で、烏山にある女子大に通っている。彼女の経歴はなかなかに華麗だ。幼少からスポーツに打ち込み、中学生の時すでに、伊万里よりも十も年の離れた大人に混じり、日本の頂点を決める大会で入賞するなど、その将来を有望視された選手だった。

 しかし、大学入学を機に競技成績は下降を辿り、大学四年の夏を最後に、本格的な競技からは引退したのだった。




 明け方の浅い眠りから覚めた伊万里は、霞んだ目で男の方を見た。男はベッドの横に腰掛け、煙草を吸っていた。セヴンスターの渋い香りが、鼻に少し痛い。


「今日は早いのね。何時もなら、まだ寝ている時間でしょう。」


 伊万里が乾いた声で男にそう言うと、男は天井を仰ぎながら、大きく息を吐いた。


「唐突に思い出したんだ。小説を書き始めた頃を。」


 そう言うと、男は煙草の火を消し、再びベッドに横たわった。


「伊万里ちゃん、似ているんだ。あの頃の僕に。特に不自由があったわけではない。だけど、何か足りない。この隙間にはまるはずのピースが、どこを探しても見当たらない感覚。伊万里ちゃんからは、あの頃の自分と何処か同じ匂いを感じるんだ。」


 伊万里は何とも思わない顔で頷いた。


「でも、伊万里ちゃんは大丈夫だよ。無責任に聞こえるかもしれないけれど、本当にそう思うんだ。僕のように右往左往したりしない強さを持っている。もっとも、伊万里ちゃんはきちんとを知っているから。」


 そう言うと、男は起き上がり、今朝の支度を始めた。今日から新著の打ち合わせが始まる。十分もしないうちに支度を整えた男は、行ってきますと伊万里に告げて、部屋を出た。




 大学院に進学してからの伊万里は、修士論文のための研究活動と居酒屋のアルバイト、後輩選手の指導など、至って普通の学生生活を送っていた。

 その日も午後から大学院の授業とアルバイトの予定があった。少し早めに男の部屋を出た伊万里は、一人暮らしの自宅に帰ってシャワーを浴び、大学へと向かった。

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