37  欲情

 五月十二日。ピンポーン、という呼び鈴に千尋ははっと目を覚ました。手を伸ばしてテーブルの上の携帯を開くと、午前二時。こんな時間に一体……。


 千尋は電気をけると、すぐさま番号をダイヤルして一一〇を表示させた。通話ボタンを押せばよいだけの状態にしておいて、足音を忍ばせ玄関に向かう。


 息をひそめて覗き穴に片目を寄せると、向こう側ではひどく疲れた様子の浅葉が廊下の柵にもたれていた。慌ててドアを開ける。


「ちょっと、どしたの!?」


 思わず裸足のまま駆け寄ろうとすると、浅葉は半ばもたれかかるようにして千尋を抱き締めた。その弾みでなだれ込むように部屋の中に押し戻される。どうも様子がおかしい。


「ねえ、大丈夫?」


 浅葉は何も言わずにキスを求めた。千尋も拒絶するつもりなどなかったが、その勢いに負けて後ろに倒れそうになる。きゃっと声を上げた瞬間、浅葉の手が千尋の背中に追い付き、そのままゆっくりと、しかしどこかいた様子で横たえた。


 浅葉はフローリングの床に仰向けになった千尋を膝でまたぎ、パジャマをめくり上げたかと思うと、いきなり乳首を吸った。千尋はただただ絶句していたが、体は既に熱く反応を返していた。


 床に手をついて身を起こした浅葉の影の中で、呼吸を整えながらその顔を見上げる。一体何があったというのか。ろくに寝ていないように見えるが、さかりがついたような振る舞いはそれでは説明がつかない。事前に千尋の意思をきっちり確かめるいつもの浅葉とは明らかに違っていた。


 ふとこちらを見てきゅっと目を閉じたその顔には、激しい罪悪感と、踏みとどまろうとする最後の葛藤かっとうが見て取れた。千尋はゴーサインのつもりで自ら上を脱ぎ捨て、浅葉の体を抱き寄せた。二人はあっという間に裸体を重ねていた。


 浅葉は、そばに脱ぎ捨てたジーパンのポケットから取り出したそれを、自分で着けずに千尋の手にゆだねた。千尋は荒くれたキスを交わしながらもぐり込むように手を伸ばし、何とか使命を全うする。


 浅葉は指を入れなかった。こんなことは初めてだが、幸い千尋は十分うるおっていた。先端が押し付けられて滑り、次の瞬間には体の中心に浅葉を迎え入れていた。


 千尋はいつもとはどこか違う汗を身にまといながら、浅葉の熱い肌を掌と唇で誠心誠意愛した。いつになく身悶みもだえる我が恋人がたまらなく愛しい。


 背骨が少し痛くなって、わずかに腰を浮かせた瞬間、中にとらわれたままの浅葉がはっと身を震わせた。低く甘いうめきが続く。それに気付いた千尋がたわむれに奥の方をきゅっと締め付けてやると、腹上の男はこらえるようにいよいよ身をよじった。


「イッちゃっていいかな……」


 観念したように浅葉がささやいてくる。本望ほんもうだと千尋は思った。いつも千尋のことばかりでている浅葉がおのれのためにこそ千尋を抱き、早くも耐え切れなくなっているのをの当たりにすることは、むしろ新しい幸福の形だった。


「うん。どうぞ」


 浅葉の歯の隙間から漏れる息がのたうち、喉の奥が絞り出す無声音の雄叫おたけびが丑三うしみつ時の静けさを渡っていく。お前の気持ちいい顔が好きなんだ、と言った浅葉の心理が、今やっとわかった気がした。


 浅葉は呼吸すらおさまらないうちにゆらりと半身を起こしたが、目は既にとろんとしていた。千尋は、朦朧もうろうとしつつある浅葉がかろうじて手渡したゴムの口を慣れない手付きで結び、とりあえず床に放置する。


「待って。こんなとこで寝ないで」


 千尋がペチペチと尻を叩いてやると、浅葉は腹を満たし終えて眠りにつこうとするけもののように地を這い、辿り着いたベッドにもぐり込んだ。


 千尋は行為の産物をごみ箱に捨て、玄関の鍵を掛け、電気を消した。隣に寄り添うと、浅葉は千尋の胸に鼻を擦り付けて甘え、じきに動かなくなった。


 千尋は、胸元に寄せては返す寝息を聞きながら、朝シャワーを浴びる時間を見越して、携帯のアラームの設定時刻を三十分早めた。




 翌朝、千尋はいつものアラーム音で目を覚ました。布団ふとんの中からそれを止めて振り返ると、浅葉は全裸のままベッドの上に座っていた。千尋が起きるのを待っていたらしい。昨夜の疲労はすっかり回復したような顔色だ。


「千尋」


 浅葉は両手で千尋の右手をそっと握った。しばらくそうしていたかと思うと、片手を自分の頭にやり、髪をぎゅっと握り締めた。そのまま大きく深呼吸し、再びその手を千尋の手に戻して言った。


「ごめん。本っ当にごめん」


 千尋はくすっと笑ってしまいそうになるのをこらえつつ、その手をきゅっと握り返した。浅葉はがっくりとうなだれていた。


「最低だな、俺。すげー勝手」


「いいよ。許してあげる」


 千尋はもう一方の手を浅葉の頬に添えた。そもそも怒ってなどいなかったが、こんなに深く反省した様子を見せられては、怒っていても許してしまったかもしれない。


「でも、心配したよ。何か変わったことでもあった?」


 浅葉は一瞬仕事の顔になりかけたが、すぐに思い直したように言った。


「いや……眠かった。すんごく」


「眠いとああなっちゃうんだ。手のかかる人ね」


とからかいながら、改めて付け足す。


「でも、来てくれて嬉しかった。ちゃんと私のところに」


 千尋は本当にそう思っていた。自分が寝ている時間だからといって、どこか手近なところではけ口を見付けたりなどされたくない。


 その言葉をしばし噛み締めた浅葉は、千尋の髪をひと房つまむと、くるくると指に絡めながら言った。


「シャワー浴びていい? ……一緒に」


「特別よ」


 千尋は微笑んで浅葉の手を引き、二人でベッドを抜け出した。




 五月二十九日。金曜の居酒屋の騒ぎの中、千尋は着信音を聞き逃さなかった。


 今日は学科のグループワークに一応真面目に取り組んだ後、他数名を呼び出して飲みに来ていた。座敷の隅に押しやられたバッグから携帯を取り出し、通話ボタンを押しながら外に出る。


「もしもし」


「おう」


 いつ聞いても愛しい、浅葉の声。


「どしたの? 休憩中?」


「うーん、ちょっと調べ物中で、行き詰まり中」


「それは大変」


「まあね。それよりさ、実は、久々に急じゃない休みが取れて」


「ほんと?」


「今度の木曜の晩、暇?」


 木曜の夜はバイトが入っていた。


「はい、暇です」


 バイトぐらいで断っていたら、会う機会などなくなってしまう。誰かにシフトを代わってもらうしかない。


「ちょっとさ、お洒落しゃれなとこ行ってみない?」


「お洒落な……?」


「高級ってわけじゃないけど、ムードがあるっていうか……カップル向けな感じのフランス料理。もちろん味もいい」


「へえ、素敵。なんか緊張しちゃいそうだけど」


「お前さ、友達の結婚式とか、行ったことある?」


「結婚式? 従姉いとこのなら……あとサークルのOBの時は二次会だけ行ったけど」


「その二次会の時の服って、着てこれたりする?」


「レストランに? あんまり格式高いお店とかじゃないでしょうね」


「大丈夫。結構小ぢんまりとしたとこで、わりとアットホームな感じ。俺もネクタイまではしないし、カジュアルでもいいぐらいなんだけど。まあせっかくだから、たまには」


 浅葉にそう言われると、何だか楽しみになってくる。


「うん、じゃあ、用意しときます」


 慣れない場所でも、浅葉に任せておけばたくみにリードしてくれるに違いない。千尋はほおが緩み切ったままテーブルに戻り、友人一同からの冷やかしをしばし楽しんだ。

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