33  誤解

 三月十一日。浅葉からの電話は二週間ほど途絶とだえていた。


 今回は何の前置きもなかった分、千尋は苛立いらだち始めた。向こうから連絡がない限り安否あんぴすらもわからないというのが困りもの。


 そんな中、気をまぎらわそうと今日少し遠出した帰り道、千尋は立ち寄ったコンビニで思いがけぬ人物に出くわした。食料を買い込んでいるらしき長尾だ。


 挨拶しようとしたその時、見かけても知らないふりをするという約束を思い出した。仕方なく見て見ぬふりを決め込んでいると、


「あれ? 千尋ちゃん?」


と、長尾の方から声がかかった。これ幸いとばかりに、千尋は二言三言挨拶をわした後、最も気になっていることを聞いてみた。




 帰宅してから、千尋は着替えもせずベッドに転がったまま、かれこれ一時間以上悶々もんもんとしていた。


(聞かなきゃよかった……)


 知ったからといって何かの助けになるわけでもないし、誰かに愚痴ぐちれるような話でもない。千尋は結局そのままふてくされるようにして眠ってしまった。




 三月十三日。ついに千尋の携帯が鳴った。発信元は公衆電話。……間違いない。


「もしもし」


「千尋、元気?」


「ええ、まあ」


「今から二時間いたんだけどさ」


「ふーん」


 わざと冷たく返した。


「時間ある?」


「ないです」


 こんなことを言ってやったらさぞかし慌てるだろうと思ったが、浅葉は間髪かんぱつ入れずに、


「そうか。残念だ」


と来た。千尋はかえってイライラをつのらせ、


「私もいろいろあるんです。急に言われても、都合良くぱっとなんか合わせられません」


とぶちまけた。浅葉は、


「そりゃそうだ。ごめんな、忙しい時に」


 あくまで落ち着いている。


 浅葉が高圧的な態度に出たならすぐさまねじ伏せてやろうと待ち構えていた千尋だったが、こうもあっさり引き下がられては打つ手がない。完敗だった。苛立ちはたちまち、悔しさと罪悪感の入り混じった涙に変わった。


「また電話する」


という浅葉の声に、思わずすがりついた。


「待って……」


 浅葉は言われるままに待った。電話口ですすり泣く千尋に、ただ耳を傾けている。千尋は大きく息を吸い込むと、つぶやくように言った。


「嘘です。暇です」


 怒って電話を切られるのではないか、と今さら不安になる。しかし浅葉はそのままの調子で言った。


「会って話したい。今どこ?」


琴家町ことやちょう


 今日はゆっくり本を探したくて、自宅から電車で三十分ほどの大型書店に来ていた。


「そしたらさ、中洲台なかすだいの駅前まで来れる?」


「はい」


「じゃあ、改札で。俺も四十分ぐらいかかるけど」


「はい」


 なるほど。あまりに時間がないから中間地点で会おうということだ。千尋はすぐに本屋を出て駅に向かった。


 中洲台駅の改札を出ると、目に見えてやつれた浅葉が待っていた。それでも、千尋の姿を見付けるとその顔に笑みが広がる。千尋は、困らせてやりたかった気持ちも忘れて駆け寄った。


 浅葉はいつものようにぎゅっと千尋を抱き締めると、


「車の中で話そう。すぐそこ」


と千尋の手を引いた。路上に停めてあった黒い乗用車の後部座席に乗り込むと、奥へ詰めて千尋を隣に座らせる。浅葉は、


「どう、最近?」


と無難なところから切り出したが、時間がないのは千尋にもわかっている。千尋は思い切ってみずから本題のふたを開けた。


「長尾さんに会ったの。コンビニでばったり」


「へえ」


「浅葉さんがどうしてるか、聞きました」


「うん」


「教えてくれました。また護衛の仕事で、しばらく缶詰め状態だって」


 まだ続きがあることを、浅葉は察しているようだった。


「それで?」


 千尋は、あの時の長尾の口調をはっきりとおぼえていた。


「でも、今度の女の子はすっごくエッチだから、あいつきっと今頃楽しんでる、って……」


 浅葉は深々とため息をついた。


「信じるのか、そんなくだらない冗談を」


「信じません」


 自分でも驚くほど鋭い声が車内に響いた。


「浅葉さんはそんなことしないってわかってます。でも……」


 いつの間にか涙が頬を伝っていた。


「あなたが……誰かと一日中、毎日狭い部屋に一緒にいて、同じ……一つのベッドで寝たりしてるのかと思ったら……」


 最後はもう声にならなかった。両手で顔をおおった千尋の肩に、浅葉の手がそっと置かれた。


 ひとしきり泣いて少しすっきりすると、千尋は呼吸を整えて浅葉の顔を見た。その目に千尋のシルエットが映っていた。


 浅葉はおもむろに口を開いた。


「狭い部屋で二人きりってのは、お前の時と同じだ。俺の権限では変えられない。ただ……」


 浅葉は千尋の顔にかかった髪をそっとかき上げてささやく。


「一つのベッドで寝たりだって? 警察がそんなことしていいわけないだろ」


「えっ? だって、私の時……」


「半分貸してくれって言っただけだ。お前があんまり頑固がんこだから」


(言っただけ……?)


 そう言われてみれば、あの翌朝、携帯の画面をチェックしていた浅葉の足下には、いつも通りモスグリーンの寝袋が口を開けていたような気がしないでもない。


「でも、私は本気にしてたわけだから、坂口さんにチクらないって保証もないのに……」


 坂口から、何か困ったことはなかったか、と聞かれた時に千尋がベッドの件を報告していたら、浅葉はやってもいないことでとがめられていたはずだ。


「保証はないけど、確信があったからな。お前は絶対チクらないって」


「どうしてそんなこと言い切れるの?」


 浅葉の眉がきゅっと上がった。


「俺がそんなににぶい人間だと思うか?」


(あ……)


 そうか。千尋には、浅葉の「違反行為」を告げ口しないだけの十分な動機があった。もちろん、それに気付かない浅葉ではない。


「ま、俺だって隣で寝たいのはやまやまだったけどな」


(え?)


 浅葉は、疲労をたたえた視線をどこか遠くに投げた。


「実際にやらなきゃいいってもんじゃない。仕事に個人的な感情を持ち込むこと自体、本来あってはならないんだ」


 千尋はその言葉を信じられない思いで聞いていた。浅葉はただの一度も、感情に流されているようには見えなかった。浅葉が見ている遠くの何かを捉えたくて、無駄とは知りつつ、千尋はその視線を追ってみる。


「少しでもお前のそばにいたかった。できることなら……触れていたかった」


 千尋は、無性むしょうに切なくなった。


(あの時の浅葉さんにそんな気持ちがあったなんて……)


 浅葉の目が、千尋に戻ってくる。


「正直しんどかった。俺の刑事人生の中の、辛い仕事第二位だ」


「そんなに……?」


と驚きながら、では一位は一体どんな仕事だったのだろうと千尋はしばし想像をめぐらせた。


 浅葉はひたいをこすってため息をつくと、覚悟を決めたようにまっすぐ千尋の目を見つめた。


「エッチな女の護衛というのは当たってる。風俗の女性は珍しくないけど、この人は仕事と関係なくやたら手が早いって有名らしい。毎日下着姿でうろうろされて、さすがに最初は気が散ったけどな。こっちは仕事だ。もう慣れた。脱皮したザリガニにしか見えない」


 千尋はそれを聞いてつい笑い出した。不思議と安心感を覚えていた。見えない敵が姿を現してみると、大した脅威ではなかった。そんな感覚だった。


「千尋」


「はい」


「俺のこと、信じられるか?」


 浅葉の両手が、千尋の肩をぎゅっとつかんでいた。


「大事なことなんだ」


 真剣な目だった。確かに大事なことだと、千尋も思う。これからの自分たちにとって。


 この人は、自分のことを信じられなくなった女性をこれまでに何度こうしてなだめてきたのだろう。それでも結局理解されずに失った恋だって、きっとあったに違いない。


「信じます……信じてます」


 急にいた二時間というのは、貴重な睡眠を取るためのものだったはず。そんな時にわざわざ外に出て千尋に電話をかけ、つれない対応に怒りもせず、こうして四十分も車を走らせて誤解を解きに来るというのは並大抵のことではない。


「さっき……ごめんなさい、変なこと言って」


 浅葉は力ない笑顔を浮かべた。


「そりゃ、変なことも言いたくなるよな」


 千尋はいたたまれなかった。自分の仕事の特性ゆえ千尋に我慢を強いていることは、浅葉も重々承知なのだ。千尋はそんな浅葉を力一杯抱き締めた。


 その時、アラームが鳴った。浅葉は片腕で千尋を引き留めながらその音を止め、千尋の背中をさすりながら言った。


「いいか。ほんとに時間がない時は、無理するな。お前にも都合ってもんがある。俺はチャンスがあれば電話するけど、お前がたまたま出れなくてもそれはしょうがない。俺が会いたいと言っても、お前が忙しくて無理だったら、そう言ってくれればいい」


 千尋は、浅葉の真摯しんしな思いを受け止め、その疲れた目をまっすぐに見据みすえて言った。


「待ってますから」


 ほんの一瞬唇を重ね、ほんの一瞬見つめ合って、それぞれ右と左に車を降りた。浅葉はそのまま運転席に移った。


 ちょうど夕方のラッシュの時間帯に差しかかっていた。千尋は改札から溢れ出てくる人通りを避け、郵便ポストの脇から、浅葉の車の後ろ姿を見守る。


 浅葉は、後ろから直線を飛ばしてくる車の流れが途切れるのを待っている。右のウィンカーがしばらく点滅し続け、ハンドルを握った左手のそでを右手がぐいと押し下げると、シルバーの腕時計がきらっと光った。


 その直後、窓が開き、スーツの袖がにゅっと突き出したかと思うと、その手が屋根にちょんと乗せた赤色灯がけたたましくうなり始める。途端に行く手が開け、ほこりにまみれた車体は飛ぶように滑り出していった。


 職権濫用ってやつだ、というあの日の浅葉の声が再び聞こえてくるような気がして、千尋は一人苦笑した。




 四月八日。春休みが終わり、新学期が始まった。千尋は大学三年に進級し、キャンパスは昨年と同様、新歓ムードで満たされている。


 浅葉からはその後、例の護衛の仕事が終わったと電話があり、それからしばらくったある日、またちょっと「こもり系」の仕事に捕まってる、と手短に連絡をもらっていた。


 会えないのは辛い。それでも、浅葉が精一杯示してくれた誠意を信じ、千尋は何とか持ちこたえていた。




 二限の最中、頬杖ほおづえついでにうとうとしかけた時、バッグの中で携帯が振動する音にはっと目が覚めた。取り出してみると「公衆電話」とある。


 千尋は机の上に広げていたノートと筆記用具をまとめてざばっとバッグに放り込み、通話ボタンを押しながら極力静かに教室を抜け出した。


「もしもし」


「あ、もしかして、授業中?」


「うん。外出たから、もう大丈夫。今、休憩?」


「三時間もらった。長尾様様だ」


 その言葉と声で、千尋は今から浅葉に会えると確信した。


「でも……寝なくていいの?」


「どうせ寝るなら、お前のそばで寝たいな」


 千尋は生唾なまつばを飲み込んでいた。高鳴る胸を抑えながら尋ねる。


「今、どこ?」


 浅葉は、どこかもったいぶるように間を置いて言った。


「お前んちまで……三十分」


 なるほど。そういうつもりなら、反対する理由はどこにもない。


「私、一時間ぐらいかかるけど……そうだ、鍵は?」


「うん、肌身離さず」


 それを聞いた千尋の口元がついゆるむ。やっぱり渡しておいて正解だった。


「じゃ、中入って待ってて。私が着くまで、ちゃんと寝ててね」


 言いながら、千尋の足はもうキャンパスの出口に向かって駆け出していた。

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