19  夜空

 廊下も全体に明かりを落としてあり、ところどころに丁寧ていねいに生けられた花がりんと立っている。突き当たりを静々と曲がる年配の女性らしき浴衣の後ろ姿を一度見かけたきり、すれ違う客もいない。


「さすがにいてるな」


「月曜ですもんね」


 エレベーターで一階に下り、「大浴場」の矢印を辿たどっていくと、すぐに紺とえんじの暖簾のれんが目に入った。


「お前どうせ長風呂だろ。あの辺で待ってる」


 浅葉が指差したのは、マッサージチェアや自動販売機が並ぶ休憩エリア。


「じゃ、気長にお待ちを」


と手を振り、千尋は女湯の暖簾をくぐる。脱いだスリッパをそろえようと振り返ると、その長身を折り曲げるようにしてこちらをのぞいている浅葉と目が合う。シッシッと手で追い払うと、ペロッと舌を出し、ひょいと首をすくめて逃げていった。


(修学旅行じゃあるまいし……)


 内心呟きながら、千尋はつい頬が緩むのを隠せなかった。男にこういう茶目っけを振りまかれるとめっぽう弱い。しかも、浅葉ほど仕事のできる人となればなおさらだ。




 奥へ進むと、脱衣籠が一つだけ使われている。大浴場といっても大きさは大したことはないが、この分ならゆっくりできそうだ。


 浴室の扉を開けると、硫黄臭のする湯気ゆげだけで肌がうるおってしまいそうだった。


(そういえば、温泉なんていつ以来だろ)


 長方形の湯船がL字型の洗い場に囲まれているだけの簡素な造りだが、端に地味ながら打たせ湯があるのが嬉しかった。


 露天風呂に出ると、八十に手が届きそうなにこやかな女性が一人、湯船の縁に腰掛けていた。こんばんは、と挨拶を交わし、千尋も湯に浸かる。


 十分な広さで少し熱め。千尋好みだ。頭上に張り出した半屋根にだいぶ隠されてしまってはいるが、星が綺麗きれいに見える。平たい湯口からつるつると落ちる柔らかな湯をおけで斜めに受けると、下の小川の低い音がそれに代わって耳に届いた。


「いいお風呂」


という彼女の一言が、千尋の思いを代弁していた。




 ぽかぽかと温まった千尋がいい気分で出てくると、浅葉は休憩エリアのソファーにすっかり根を下ろしている風だ。


「どう?」


「うん。いいお湯でした」


 浅葉はソファーから立ち上がり、湯上がりの千尋をしばし鑑賞した。すっぴんは既に一週間にわたってさらした仲だが、改めてまじまじと見られると照れ臭い。


「ちゃんとゆっくり入れました?」


 千尋は、浅葉のあまりに素早い行水ぶりを思い出す。


「うん。男湯貸し切り状態でさ。そっちは?」


「お婆さんが一人。孫トークにたっぷりお付き合いしちゃいました」


「お前、気に入られそうだもんな、婆さんに」


 そう言いながら傾けている瓶入りの飲み物は、どう見てもイチゴミルクだ。テーブルには既にからになったコーヒー牛乳の瓶が立っている。


「これ半分飲まない? メロンも気になってんだよね」


「もうその辺にしとかないと。もうすぐ八時だし」


「ああ、そういや腹減ったな」


 千尋はつい噴き出した。あれだけ次々と食べていた饅頭は一体どこの別腹に入ったというのか。


(何この人、手に負えないんですけど……)


 浅葉と一緒にいると、甘やかな苦笑が絶えない。コンビニのサンドイッチを一分で平らげ、それで一日の食事が終わりというあの部屋の浅葉は何だったのだろう。




 食事処には、おおむね四席ずつの半個室の座敷が並んでいた。間をへだてているのは、まばらに配された古竹。自然な傾きがのどやかなおもむきを添えている。


 ちょうど熟年の夫婦が一組、既に食事を終えて出ていくところだった。先ほどの仲居がすぐにやってきて、座敷に案内してくれた。


 幼い頃から椅子の生活が当たり前、居酒屋も掘りごたつが主流という時代だ。こうして浴衣で座布団に座るだけで、何だか特別な夜だという気がしてくる。


「浅葉さん、お酒は?」


「うん。まあ、たまに。お前は酒好きの顔だよな」


 それは当たっていた。千尋は特にこれということなく、何でもいける。何を飲むかはその時々で場に合わせることが多かったが、今日は純粋に気分に任せていいような気がした。


「じゃ、ビールからいきますか」


「からって……どこらへんまであるのか心配だな」


と笑い、浅葉は中瓶を一つ頼んだ。


「普段、お休みの日は何してるんですか?」


「うーん、引きこもってるうちに終わっちゃう、かな」


「趣味、とかは……まあ無理ですよね」


「趣味は……長尾」


 千尋は、あはは、と思わず声を上げてしまい、周囲の静けさに慌てて口を押さえる。


「すっかり連れっちゃってますもんね」


「やむを得ず、ね」


「長尾さん、褒めてましたよ、浅葉さんのこと」


「当たり前だろ。あんな奴にけなされてたまるか」


 言葉は辛辣ながら、どこか誇らしげなその物言いには、二人の強固な信頼関係がうかがえた。


 浅葉は運ばれてきた瓶ビールを手に取ると、浴衣の袖をひゅっと押さえて千尋のグラスに注ぎ、千尋がおぎしましょうかと手を出しかけた時にはもう自分のグラスにも美しい泡をこしらえていた。


 まずは乾杯? と思い、千尋がグラスを手に取ろうとすると、浅葉は自分のグラスをすぐ隣に置き、親指でそっと押した。テーブルの上で二つのグラスが触れ、白と黄金の境界がゆらりと揺れる。その瞬間、グラスにかけていた千尋の手を、浅葉の手がぱっと包んだ。


「乾杯」


と言うと、浅葉はグラスを持ち上げて半分ほどうまそうに飲んだ。千尋はまたしても一本取られた気分で、その快さにひたりながら自分のグラスを傾けた。ごくありふれた銘柄だったが、これほどおいしいビールは初めてだという気がした。


 浅葉は何気なく左に箸を持ち、山菜のお浸しをつまみ始める。千尋はやっぱりね、と思ったが敢えて何も言わず、自分の箸をいつも通り右手に取った。


 食事は川魚と山菜が中心の一見質素なものだったが、薄めの上品な味付けが美味で、意外にボリュームもあった。天ぷらが出てくる頃には千尋のお腹は既に十二分に満たされていた。


 気付けば、二人で瓶ビール二本に続いて地酒を二種類、二合ずつ空けていた。いつもの千尋ならまだまだこれから、というところだが、これ以上飲むと楽しくなりすぎてしまう、と自制した。


 最後に出てきたご飯までは食べられそうになかったが、その白い米のあまりのつやの良さに、つい二口、三口と箸を進める。いよいよ限界、と茶碗を置いて、


「ごちそうさま」


と息をつくと、浴衣の袖からにゅっと伸びた浅葉の手がその茶碗を取り上げた。千尋の残したご飯を難なく消化していく。


「こんだけ飲んでてよく食べれますね」


「何言ってんだ、ほとんどお前が飲んだろ」


 そんなことはない。半々よりは少し千尋の方が多かったかもしれないが……。浅葉も全く顔色が変わっていなかった。千尋は、ウーロン茶を飲みながらしばし胃を落ち着ける。




 二人で食事処を出て部屋に向かいかけたが、千尋はふと、露天風呂から半分だけ見えた星空を思い出した。


「ね、ちょっと外歩きません?」


「大丈夫か? 冷えない?」


「そのための部屋風呂ですから」


 酔った勢いもあってかそう言ってはみたものの、果たして入る勇気があるのかどうか自分でもわからない。


 茶羽織を羽織り、木のサンダルを突っかけて外に出ると、ほろ酔いの肌に夜風が心地良かった。浅葉はまるで当然とでもいうように、千尋の左手をさっと取って歩き出す。そういえば、一緒に温泉にまで来ていながら、手をつなぐことすら初めてだった。


 甘いものが好きだとは決して認めないくせに、肉体的な接触に関してはつくづくためらいがない。千尋は、そんな浅葉に一層かれていく自分を感じる。


 渓流けいりゅう沿いに坂を上ると、川の流れは勢いを増した。宿の明かりが遠ざかり街灯もまばらになる。


 千尋は浅葉の手に安心しきって、上ばかり見て歩いた。普段見るものよりもはるかにくっきりとした星空。見慣れた星座の周りにこんなにたくさん他の星があったなんて……。


 不意に、浅葉が足を止めた。


「ここが一番よく見える」


 道幅みちはばが広がり、川の上に少しせり出している。丸太を組んださくの先に細い滝が落ちていた。ちょっとした見晴らし台のつもりなのだろうが、そこだけ街灯の電球が切れている。なるほど、星を眺めるにはむしろちょうどいいというわけだ。


「あっ」


(流れ星……)


 なかなかお目にかかること自体がなく、やっと見付けたと思えばあっという間にいなくなってしまう。願い事など間に合った試しがなかった。でも……。


 今の自分にとって、願い事とは何だろう。


 幸せだ。この人の隣にいて。願うべきことなど何もないような気がした。そこにまた一つ、銀の筋がすっと流れた。今度のは尾が長い。


(痛っ)


 千尋の手を押しつぶさんばかりに、浅葉が固く握り締めていた。千尋はそこに自分の右手をそっと重ねた。星のまたたく音が聞こえるような気がしてくる。


 背伸びせんばかりに見上げた小さな輝きの一つひとつを数えるように、どれぐらいの時間目をらしていただろう。夜風に少し冷えたあご先に、ふと柔らかいぬくもりが触れた。確かに覚えのある感覚。あの日ひたいに受けたものよりも幾分熱を帯びている。


 はっと息をんだ時には、それは千尋の下顎をゆっくりと愛撫あいぶし始めていた。その奥で熱い舌が波打ち、冷酒の名残がほのかに香った。人一倍とがった浅葉の犬歯が、左の輪郭りんかくをなぞって甘く噛み付いてくる。お腹を空かせて母親に甘える子犬のような純粋でひたむきなこの求愛に、千尋は身動きひとつできずにいた。


 浅葉がすっと息を継いだ瞬間、千尋は弾かれたようにその浴衣の帯に両腕を回した。二人はいつの間にそうなったのか見失うほどごく自然に、重ねた唇の間から互いの奥深くを求め合っていた。繰り返しコクッと音を立てる浅葉の顎に耳を澄ます。木立を吹き抜ける風は初冬を思わせたが、千尋の胸の奥はヒリヒリするほど熱かった。


 肩に回った浅葉の腕はいつしか背中を包み、しだいにきつく千尋の体を抱き締めていた。これほど「好き」が詰まった抱擁ほうようをこの身に受けることがあろうとは……。


 千尋は、自分の心がこんなに高揚することがあるのだと初めて知った。いっそこの場で肌を合わせ一つになってしまいたいと感じ始めている自分に驚く。その時、冷たくなった千尋の耳をつまんで浅葉が言った。


「戻ろっか。さすがに夜は冷える」


「うん」


 再び浅葉に片手を預けて夜道を歩きながら、千尋は星空のことなどすっかり忘れていた。



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