16  約束

 浅葉は千尋にたずねることもなく最短ルートでの乗り換えをリードし、二人は千尋の自宅最寄駅に着いた。こんなことでもたもたしていたら、きっと刑事など務まらないのだろう。


 駅からの道を歩きながら、千尋は肝心なことを聞いておこうと思い立った。


「で?」


「……で?」


「今度はいつ頃会えますか?」


「うーん、今ちょうどひと区切り付いて落ち着いてきたとこだけど、先のことはちょっと、転がってみるまでわかんないんだよね」


 その程度の困難は千尋も想定済みだった。公務員といえどもお役所勤めとは違うのだし、まして学生同士のようになどいくはずはない。相当の忍耐がるだろうと覚悟していた。


「俺とどこに行きたいとか、何したいとか、そういうのあんの?」


「そりゃあ、ありますよ。いろいろ」


 浅葉とのデートを思い浮かべることは、何だか照れ臭かった。


「でも、まずは浅葉さんの色に染まってみたい気もします」


「マジか。そいつはプレッシャーだな」


大袈裟おおげさに腕を組んだ浅葉は、そのアイデアを突如とつじょ口にした。


「じゃあ、温泉とか、どう?」


「温……泉?」


(いきなり?)


 さっとほおが紅潮するのがわかった。まさかそう来るとは。


「それって、お泊まりってこと……ですか?」


「そうだね」


と、浅葉はあっさり応じる。


「狙って連休取るのは難しいけど、夕方から午前中までとか。来週辺りなら何とかなりそうだし。大学の方はどう? 平日休めたりする?」


と、千尋の反応を求めるように首をかしげる。


 大学の休みがどうこうという問題ではない。千尋は浅葉の意図をはかりかねていた。あの浅葉が、千尋と早速まじわりたがっているというのか。そのつもりで来てくれ、という意味なのだろうか。


(でも、そういうのって普通、もうちょっとデート的なものが何度かあってからじゃ……)


 いや、今比較的落ち着いているというのだから、余計な事件が起きる前にゆっくりと会っておくのが正解かもしれない。とはいっても……。


 黙っている千尋を気遣きづかうように、


「もしくは……」


虚空こくうを見つめた浅葉の代案が自分の声でかき消されるのを千尋は聞いていた。


「行きましょう、温泉。私、行きたいです。浅葉さんと」


 それを聞いて安心したのか、浅葉の本音らしきものがこぼれる。


「今さら他人のふりしてもしょうがないしな」


 これ以上ないほどストレートな誘いだった。そんな風に考えていたのか、この人は。出会いが特殊だっただけに、どちらかが距離を保とうとするとしたら、それは浅葉の方だろうとばかり思っていた。


 今さら、と言えるのは、あの一週間の業務上の「お泊まり」も彼の中ではカウントされているということか。それとも、互いの気持ちを告白し合ったのだから何の遠慮が要るのか、という意味だろうか。


 いずれにしても、一度腹を決めたらそこからはブレない。その点は仕事を離れても変わらない浅葉らしさだった。


「いつがいいですか?」


と言いながら、千尋には一つ気になることが浮上していた。


「あ、ちょっと、待ってください」


と手帳を取り出し、街灯の下でページを繰る。来週か……。週の後半には「その危険」があった。


「あの、できれば早めの方が助かるんですけど。その、どうせ行くならやっぱり、お湯にかれるコンディションの時の方が……」


「ああ」


とすぐに理解した浅葉は、


「じゃ、月火でどう? 俺も近いうちの方が確実だし」


と、千尋の方を見る。


「はい。じゃ、月火で」


 ふっと微笑ほほえんだ浅葉にドキッとする。


「いいとこがあるんだ」


「あら、どこですか?」


「それは、当日のお楽しみ」


「大丈夫ですか? そんなにハードル上げちゃって」


と冷やかしながらも、浅葉さんなら大丈夫、という安心感があった。


「いいですか? 車で迎えに来ちゃって」


と、千尋の言い回しを真似まねる浅葉の肩をグーで小突こづく。


 既に長い間こうして二人で過ごしてきたかのような錯覚と、恋人として夜道を歩きながらこんな会話をしていることが何だか信じられないという思いが入り混じり、千尋はぼんやりと頭上の月を見上げた。


 もう一つ角を曲がれば千尋のアパート、というところまで来ていた。もう少し一緒にいたくて、つい歩調をゆるめながら千尋は考えた。


 この人はいつから、どの時点から私に思いを寄せてくれていたのだろう。


 あくまで事務的で、二言目には「早く寝ろ」。かと思えば妙に配慮が行き届き、命懸けで千尋を守る姿は真摯しんしそのもの。そして電話ごと千尋の手を握った温かい指先……。


「一つ言い忘れたけど」


と浅葉が突然切り出した。


「はい?」


「万一どっかでたまたま俺を見かけた場合」


「はい」


「無視してね」


「えっ?」


「いろんな状況が考えられる。問題ない時は必ず俺から声かけるから」


「あ、そういえば、坂口さんから……」


「言われたろ? 長尾もそう。とにかく知らないふりしてくれればいい」


 千尋が今回接した刑事たちの中で、浅葉と長尾のことは知らないことにしておいてくれと言われたのをすっかり忘れていた。問題になるような状況で遭遇そうぐうすることはまずないとは思うが、万一見かけた場合、という話だった。


「はい、気を付けます」


「それから、周りには警察の人間と付き合ってるとは言わない方がいい」


(周りに……)


 今日の今日で、まだそこまで考えていなかった。千尋はもともと、自分の恋愛相手についてぺらぺらしゃべるタイプではない。いわゆる公認の仲になることには憧れるが、あまり他人に多くを語ると関係が軽くなってしまう気がするのだ。今日新しくできた彼氏のプロフィールも、特に誰かに知らせたいとは思わなかった。


「余計なリスクが増える」


と、浅葉は付け足した。まるで身におぼえでもあるような口ぶりだった。何かを危惧きぐするように、じっと千尋を見ていた。どうにかして安心させてやりたいという気にさせられる。


「わかりました。その方が楽です、私も」


 それを聞いてふっと緩んだ浅葉の視線を笑顔で受け止め、角を曲がる。アパートの前で浅葉が足を止めた。


「そういえばあの日、どうしてわかったんですか? 私がここで……」


 浅葉は答える代わりに、不意に千尋の真正面に回った。千尋は、ぐいと引き寄せられたのを自覚するかしないかのうちに、前髪に男の吐息を感じていた。思いがけず柔らかく、ほのかにうるおった浅葉の唇がひたいに触れるのを、千尋はどこか遠くから傍観ぼうかんしているような気分だった。


 が、そんな感覚を覚えたのもつかの間、その温もりは気まぐれに離れていきそうになる。好みの花を選んでとまったちょうを思わせた。


(待って)


 引き留めたい衝動に駆られた時、千尋のまゆのすぐ上で、思い直したように距離が詰められた。何かささやこうとするように開いた唇が再び幾分強く押し当てられ、千尋の眉間みけんを味わうかのようにゆっくりと閉じていったかと思うと、しむようにそっと飛び立った。


(なんて優しいキス。こんな人がいたの……)


 それは、数えるほどとはいえこれまでに受けたどんな口づけよりも愛情に満ちあふれ、とうとく思われた。夢と現実の境目を見失ったような気がした。ただただ胸が震えていた。


「おやすみ」


という声に我に返ると、目の前には、照れるでも気取るでもなく、ただ去り難い様子で千尋を見つめる浅葉がいた。


「中入るまで待ってる」


と彼が目で示したアパートの二階。一番奥が千尋の自宅だ。


 おやすみなさい、と答えたのかどうかさだかでないまま、一歩一歩夢から覚めてゆくように鉄の階段を上る。いつもの風景がまるで違って見えるとはこのことか。


 上り切ったところから見下ろすと、街灯に照らされた愛しい人がひょいと手を上げた。千尋はかろうじて手を振り返し、後ろ髪引かれつつぼんやりと薄暗い廊下を進む。


 自宅前にうずくまっていた野良猫が千尋に尻尾を踏まれかけてニャアと鳴き、のそりのそりと歩いていった。


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