13  電話

 一人帰宅し、残り物で簡単に夕食を済ませる。


(なんかなあ……)


 レポートを言い訳にはしたものの、本当は何となくみんなでわいわい過ごす気分ではなかったのだ。「あさって」に向けて、やはりいろいろ考えてしまう。


 約束はしたものの、少なくとも今のところ、自分には義則よしのりと特別親しくなる気はない。現実逃避に彼を利用するようで申し訳なかった。


 浅葉からもらった電話番号には先週かけてみたが、延々と鳴り続けるばかりで留守電にもならなかった。もっとも、留守電になったところで、誰なのかもわからない相手にメッセージを残すつもりはなかったが……。


 そんなことをぼんやりと考えながら明日の持ち物をそろえていると、ちょうど電話が鳴った。カバーを開くと、「例の」と表示されている。今さら、と若干あきれつつも、本当に折り返しかかってきたことに少々驚きながら通話ボタンを押す。


「はい、もしもし」


 沈黙の向こうに、相手の気配があった。もう一度呼びかけてみる。


「あの、もしもし?」


「……田辺千尋か?」


 千尋は耳を疑った。


(まさか。そんなはず……)


「あ、はい。あの……?」


「久しぶりだな」


 あの時のない態度からは想像もつかないほど、ほがらかといってもよいぐらいに表情を帯びた声音こわねだったが、そのぬしは間違いようがなかった。


「浅葉さん……」


 思ってもみなかった事態に、声がかすれた。


「どうして……えっ、この番号って……」


「田辺千尋のかかりつけ相談係、浅葉のプライベートの携帯だ」


 その冗談めかした調子が、クールな浅葉のイメージとなかなか結びつかない。


(プライベートの……)


 あの日……護衛の任務が終わった日、周囲の目を気にしながら、担当刑事としての最後の責任を果たす風を装って、なんと自分の番号を入れていたというのか。でも、なぜ? 


 戸惑う千尋をよそに、なつかしいその声は世にも温かく響き続けた。


「電話もらったの五日前だよな。ごめんな、遅くなって」


「いえ……」


 まるで友達とでも話しているかのようにくつろいだそのトーンが、千尋の記憶の中の浅葉像にじわりじわりとけ込もうとしていた。


 千尋を守ることだけを目的として一週間そばに付き添い、実際二度も危険から救ってくれたあの人に、この電話が繋がっている。千尋の鼓動がひそかに駆け出した。


「ちょっと立て込んでて、しばらく帰れなかったんだ」


「そう……ですか。お疲れ様です」


 自分でも何を言っているのかよくわからない。会話の内容などどうでもいいから、その声にずっと耳を傾けていたかった。


「それで? どうだ、調子は?」


「はい。お陰様で、元気です」


「けど?」


「けど……」


から、この番号にかけてきたんだろ?」


 その問いかけを聞きながら、吐く息が震えた。同じ部屋で一週間も過ごした相手だというのに、ほんの一ヶ月前と何が違うのだろう。電話を通して聞くから、耳元でささやかれているように錯覚してしまうのだろうか。


「そう……ですね」


と答えながら、千尋は気付いてしまった。あの一週間の浅葉との決定的な違いに。


 これがプライベートの携帯であり、折り返し連絡をくれるまでに五日もかかったということは、今は業務時間外なのだ。非番の浅葉と個人的に会話をしているというくすぐったさが、この違和感の正体に違いない。


 千尋が何とか冷静さを装う一方で、浅葉は急に深刻な口調になる。


「眠れないか?」


「いえ、眠れてはいるんですけど……」


 千尋は、今ようやくはっきりと自覚した。この一週間の情緒不安定の原因は、銃撃よりも強姦ごうかん未遂よりも、今電話の向こうにいるこの男にあったのだと。


(会いたい……)


 もう一度あなたに会いたい。一体どうしてそんな大それたセリフが言えるだろうか。


 何かいい口実はと探しかけたが、深く考えるまでもなく、格好の材料が目の前に転がっていた。


「あの……眠れないってほどじゃないんですけど……」


 我ながらずるいような気はしたが、口がひとりでに言葉をつむいでいた。


「やっぱり何となく思い出すっていうか……」


 嘘ではない。特に暗いところで、突然あの時の恐怖がよみがえるのは治っていなかった。


 ただ、実際のところ、街で殺されかけたことや公園での猥褻わいせつ行為を思い出して不安に駆られるのは、一人で夜道を歩く時と、自宅での寝入りばなぐらいだ。部屋を真っ暗にしていると何となく気分が落ち着かず、足元に置いた電気スタンドを点けたまま寝ることにしていた。


 千尋は、再会に期待をかけながらも、実際には何か一般的な処置についてのアドバイスなり、よくあることだという気休めの言葉なりが返ってくるものと想像していた。しかし、浅葉の返答はそのどちらでもなかった。


「すまなかった。あんな目にわせて」


「えっ?」


 まさかあやまられるとは思ってもみなかった千尋は、深いいを含んだその声にうろたえた。


「いえ、浅葉さんが助けてくださったから……」


 大事をまぬがれて感謝していると伝えようとした時、陰鬱いんうつなため息にさえぎられた。


「許してもらおうとは思ってない」


(どうしてそんなこと……)


 だますつもりだったわけではないが、余計な心配をかけてしまったと急に罪悪感がき、千尋は慌ててフォローする。


「あの……大丈夫ですから、私。普通にバイトもできてますし、サークルの方も……」


 千尋が言い終えぬうちに、浅葉がたずねた。


「水曜の夕方、会えるか?」


(会える……か?)


 密かに期待したとはいえ思いがけない展開に、千尋は一瞬ぽかんとして目の前の壁を見つめた。努めて気持ちを落ち着かせ、頭の中を整理する。


 浅葉はどうやら、千尋がわずかながらまだショックを引きずっていることに責任を感じているらしい。そして、回復を手伝うためにわざわざ会ってくれるつもりらしい。ならば、千尋にとっては願ったり叶ったりではないか。しかし……。


「水曜って……あさって、ですか?」


「そうだな」


 水曜ならバイトはないし、サークル活動だけならいくらでも欠席できる。しかし、あさっては練習の後、飲みに行く約束をしていた。高遠義則たかとお よしのりと二人で。


 夏休みの初めに映画に誘ってくれたのを断ったきりになっていたのだが、八月の合宿や、後期の活動が始まってからの様子では、彼がまだ完全にはあきらめていないことが手に取るようにわかった。


 そこで、「サシ飲み」という名目なら必ずしもデートにカウントする必要はないと思い、先日千尋の方から声をかけたのだった。決して義則に気持ちが傾いたわけではない。自分に好意を寄せてくれている男性と二人で出かけることで、何かが吹っ切れて楽になれるような気がしたのだ。何かが。


 浅葉は、千尋の沈黙の意味を察したように言った。


「もし先約があるなら……」


 無理にとは言わない、と貴重なオファーを撤回される前に、いえ、いてます、と答えようとした時だった。


「そっちを断ってくれないか」


(えっ……?)


 丁重ていちょうながら、一歩も引く気はないといった一言。まるで千尋に先約があることを、そしてそれが何であるかを知ってでもいるかのような……。


「お前の経過観察の方が大事だ」


(経過観察……)


 私、別にどこも悪くありません、と言いそうになるところをぐっとこらえる。いや、恋のやまいじゃないか、という第二の自分の声が、頭上から聞こえたような気がした。


「あの、夕方って……」


結乃山ゆいのやままで出てこれるか?」


「結乃山……」


 てっきり警察署に来いという話だと思い込んでいた。しかし結乃山なら、行ったことはないが大体の見当は付く。


「はい」


と答え、バッグから手帳を取り出す。


「改札を出て左に行くと、坂を上がったところに風香和ふかわ会館ってのがある」


「フカワ……?」


「風の香りに和風の和。そこの南側の庭園に……五時でいいかな?」


「風香和会館の南側の庭園に五時、ですね。わかりました」


 あの浅葉と待ち合わせの約束をしていることが不思議でならなかった。夢ではないのだと確かめるように、たった今手帳に書き込んだ自分の字をもう一度ペンでなぞった。


「じゃ、水曜に」


「あ、はい。あの……」


 そのまま電話を切られてしまうかと思ったが、浅葉は千尋の言葉を待っていた。


「ありがとうございました。お電話くださって」


 返事がなかったが、電話が繋がっていることだけは、なぜかはっきりとわかった。やがて浅葉は、


「ああ」


と小さくつぶやき、


「おやすみ」


と付け足した。


「あ、はい。おやすみなさい」


 しかし浅葉は一向に電話を切る様子がない。千尋は手帳の文字をもう一度確認し、大きく息を吸い込むと、思い切って通話終了のボタンを押した。その息を吐き出しながら、頭の中にはまだ浅葉の声が響いている。


 今夜はおよそ眠れる気がしなかった。

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