2   幕開け

 九月二日。田辺千尋たなべ ちひろは、身動きする度にきしむパイプ椅子に座り、ぼんやりとくうを見つめていた。足を組み替える度に、「楽」だけがの黒いローヒールパンプスがコツンと音を立てる。


 車で連れて来られたのは、四角いだけの地味な建物だった。案内されるまま階段を上がると、壁には「薬物銃器対策課」のプレート。通されたこの部屋にも洒落っ気はない。奥の席に座って待つよう言われてから、十分ほどっている。


 まさか自分が警察の世話になるとは、夢にも思っていなかった。都内で一人暮らしをする国立大学二年生の千尋は、時にハメを外しはしても、あくまで自他ともに認める善良な市民だ。




 約一週間前のこと。見知らぬ女性が千尋のアパートを訪ねてきたのが全ての始まりだった。


 呼び鈴がピンポーンと鳴ったのは、朝十一時過ぎ。セールスだろうと決め込み、居留守を使おうとした。が、ピンポーンが間隔をけて二度、三度。


 こちらの在宅を確信してでもいるのか。実際、飲み会から一夜明けて目覚めた頃を見計らったようなタイミング。控え目に言って気味が悪い。


 足音を忍ばせてドアに近付いてみる。そっと覗き穴から覗くと、グレーのスーツ姿の女性がたたずんでいた。


 彼女の右腕が壁へと伸びるのが見え、四度目のピンポーンが鳴った。その直後、女性はコンコンコンコンとドアをノックし、少しこちらに顔を寄せたかと思うと、


「田辺さん、おはようございます。警察の者です」


と来た。


「はあ?」


 思わず声を上げ、千尋は慌てて口を押さえるが、時すでに遅し。相手は笑いを噛み殺すような素振りで、ジャケットの内側から二つ折りの手帳を取り出した。開いてのぞき穴越しに見せられたそれは、テレビドラマで見るのとそっくりの警察手帳だ。


(何これ……私、寝ぼけてる?)


 いや、昨晩はそんなに飲んでいないし、今朝は普通に起きて洗濯と掃除を済ませたところだ。清く正しいことこの上ない。


 先方は落ち着いた笑みを崩さず、所属と名前を名乗った上で、こう続けた。


「お忙しいところすみません。お話ししたいことがありますので、少々お時間よろしいですか?」


 女の一人暮らしに警戒心は必須。これは噂に聞く詐欺かもしれない、という咄嗟とっさの判断を自画自賛しながら千尋は答えた。


「あのー、恐れ入りますが、少々お待ちいただけますか?」


 素早くスマホを操作し、この自称警察を外で待たせたまま最寄りの警察署に電話。彼女が名乗っている肩書きと氏名を告げたところ、正真正銘の巡査だと判明した。


 待たせたことを丁重にあやまって部屋に上がってもらい、お茶を出して詳しく聞いてみると、全く予想し得なかった突飛とっぴな話が飛び出した。


 暴力団組織の間で近々麻薬取引がある。……という情報を警察がつかんだ。それだけならどうということはないが、その取引の日時と場所を千尋が知っているのではないかという。


 何の冗談かと耳を疑ったが、警察官を相手に笑い飛ばすわけにもいかない。何でも、ファックスで匿名の通報が入り、情報を握る人物として千尋の名前と、身元を特定する情報が書かれていたのだそうだ。そんな真っ赤な嘘を流しそうな人物に心当たりはないが、名簿か何かを使った無作為ないたずらかもしれない。


 結局、警察もこの件はデマと認識しているとのことで、千尋は安堵した。巡査は「参考人としての事情聴取」と断った上でいくつか質問をしてはきたが、千尋が何も知らないと正直に答えると、メモだけ取って帰っていった。




 ところが、今日になって再び警察からの電話。なんと、くだんの暴力団にも千尋が情報を手にしたという誤報が伝わっているという。取引日時が警察にバレてはたまらんと慌てた彼らが、千尋を「探している」という知らせ。


 それって、口封じのために始末しようってことですか、という質問に歯切れの良い答えが返ってこなかったところを見ると、おそらくその通りなのだろう。冗談じゃない。


 いずれにしても、取引が彼らの思惑おもわく通りに成立するか警察が現場を押さえるまで、千尋の身の安全を保護させてくれというのだった。


(まったく、いつからそんなドラマな人生に……)




 決して座り心地が良いとは言えないパイプ椅子に腰掛けたままあやうくうたた寝しかけた頃、よく通る明るい声が響いた。


「田辺さん、お待たせ」


 入口に現れたのは、ベージュのパンツスーツの女性。三十五、六といったところか。可愛らしい丸顔に眼鏡をかけ、親しみやすい雰囲気があった。


坂口さかぐちです」


 テーブルにぽんと置かれた名刺に「巡査部長」とある。


 これまでの経緯やら、千尋がこれから置かれる状況やらを彼女が平たく説明してくれている間、千尋は真面目に耳を傾けた。


 状況が状況だからそれなりに緊張はしているが、今ここにいること自体がどうも現実と思えずにいた。誰にも話せていないからなおさらかもしれない。今回のことは一切口外しないようにと言い渡されている。千尋はそういったことには元より律儀だから、母にも友人にも言っていないし、SNSにももちろん書き込んでいない。




 ふと、部屋の入口に人影を感じた。千尋は目だけ動かして何気なくそちらを見やる。


(えっ……)


 思わず視線が釘付けになった。


 いや、もちろん知り合いでも何でもない。ただ、こんな殺風景な場所で見かけるには、その男はあまりに美しすぎた。


「あ、今ひと通り説明したところです」


と、坂口がその人物に声をかけて立ち上がる。


 戸口にたたずんでいるのは、すらりと背の高いスーツ姿の男。身長は一八〇以上はあるだろう。手足も日本人離れした長さ。すっと通った鼻筋に、ごく自然に整った眉。引き締まった顎のライン。


 歳は見たところ三十代……後半だろうか。髪はあと少しでワイシャツのえりに当たりそうな長さだが、そういうスタイルというよりは、放っておいたら伸びてしまったという雰囲気。


 一般人の中に紛れ込んだ舞台俳優かのような圧倒的なインパクトの一方で、その身から放たれる緊張感には言い知れぬ魔力が宿っていた。アーモンド型の目は鋭くも深さを感じさせ、千尋を吸い込んでしまいそうだ。 


「じゃ、行ってらっしゃい」


という坂口の声で、千尋は我に返った。坂口はおどけるような敬礼をしてみせ、足早に出ていった。


 男は顔も体型も文句なしの美形だが、一体何が気に入らないのか、表情ははなはだ険しい。彼はつかつかと部屋に入ってくると、唐突に第一声を発した。


「田辺千尋か?」


 そのな口調に、私、犯罪者じゃないんですけど、と言い返したくなる。


「はい」


と答える声に、つい抗議のニュアンスがこもってしまう。


 長いこと黙って千尋をにらみつけた挙句に発されたのは、何の愛想もない短い言葉だった。


「よろしく」


(ほんとに「よろしく」と思ってます?)


とはもちろん口に出さず、千尋は何とか常識的な挨拶を返した。


「……あ、こちらこそ。よろしくお願いします」


 本人は名乗りもしなかったが、担当刑事が浅葉あさばという男であることは先ほど坂口から知らされていた。浅葉は、ダークグレーに細い白ストライプの入ったスーツの上着を脱ぐと、千尋の向かいの椅子の背にバサッと放った。かすかに煙草の匂いが上る。


(えっ、もしかして吸う人……?)


 狭い部屋で少なくとも数日間、浅葉とほぼ二人きりになると坂口から聞かされたばかりだ。そんな環境でスパスパ吸われたのではかなわない。千尋は早くも逃げ出したくなった。そこへ浅葉が告げる。


「トイレに行くなら今のうちに行ってこい。五分後に出るぞ」


 千尋は慌てて立ち上がりながら、


(だから犯罪者じゃないってのに……)


と心の中で反抗する。せっかく端正な顔をしていても、態度がこれでは台無しだ。千尋の脳内には「前途多難」の四文字が点灯していた。




 浅葉は、突き当たりの大部屋で上司の石山いしやまを呼び止めた。


「課長」


「ん、もう出るのか」


 振り向いた石山に、端的に告げる。


「部屋を変えます」


「何?」


 浅葉は一枚の紙を石山に手渡した。候補物件の一つに赤線が引いてある。


「随分急だな」


苑勇会えんゆうかいは、頭脳と戦力は大したことありませんが、耳の早い集団です。念には念を」


 石山は一瞬怪訝けげんな顔をしたが、もう一度その赤線の住所に目をやり、浅葉に返した。


「まあ、いいだろう。大勢に影響ない。しかし部屋の準備が……」


「できてます。それから」


「何だ」


「要員を増やしてもらえませんか」


 石山は眉間みけんしわを寄せた。


「何だと? お前も状況はわかってるだろう」


 このところ各所で急な動きが続き、課の人員は出払っていた。


「今じゃなくていいです。長期戦になった場合」


「まあ、その時の様子次第だな」


「可能でしたらお願いします」


と頭を下げると、先ほどの物件リストをシュレッダーにかけ、浅葉は再び廊下に出ていった。紙が粉砕ふんさいされる音を聞きながら、石山はその背中を見送った。


「相変わらずだな」


 時々よくわからない行動に出る。しかし好きにさせてみれば結果オーライ、という展開が常だ。昔から、どういうわけか鼻がく奴というのがいるものだ。そんな奴ほど岩のごとく頑固だと相場が決まっている。


「親父ゆずりか……」


 石山は冷めたコーヒーをすすり、デスクに戻った。


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