4/21 林檎

 病院生活はさぞ暇だろうと思って、わたしは足繁く親父のところへ通った。毎週水曜日は、明日の朝刊を飾る仕事をなるべくはやく片づけて、駅郊外のさびれた病院にフルーツを運んだ。


 親父はすこぶる元気になった。入院当初は常に苛立って、平静の人がいい笑顔は消えていた。代わりにしわと小言、それに白髪ばかりが増えて、一向によくなる兆しはなかった。


 しかしあるときから急激に、ひん曲がった歩き方ではなく、背筋も気持ちも伸びた歩きになった。もちろん素人目には治療やリハビリのおかげのように思えて、先生方にはこぼれてしまうくらいの礼を伝えた。


 彼らは口を揃えてこう口にする。


「わたしのおかげなんかじゃないですよ。本人が話してくれるでしょう」


 首をかしげながらその話を飲みこんでいた。今日もそんな会話を交わしながら親父の病室へ赴こうとした。


 しかしデイルームである少女の姿を目に留めて、立ち尽くしてしまった。


 その少女は黒の長髪で、オリーブの葉のように艶めいていた。全体として生命の美しさを讃えたオブジェのようで、唯一そうだと思えないのは口の動きだけだった。常に咀嚼するように口を動かしている。その人が身じろぎひとつせず、車椅子に座って、高い病院から見える街並みをながめていた。


 窓に映ったわたしを見つけると、突然不穏になり、ううああと唸りはじめた。心配が半分、職業柄の興味半分で彼女に近づくと、オブジェのようだった腕がフルーツバスケットに伸びて林檎を掴んだ。


 奪いとったそれをながめながらもぐもぐと口を動かし、涙を流した。唖然としてかけつけた看護師もしばらく固まっていたが、林檎をその固く結ばれた手から引きはがしてバスケットに戻してくれた。


「すみません。普段ならこんなこと絶対にないんですけど、どうしちゃったのかしら」


 林檎を奪い返された彼女はまたううああと唸り、ナースステーションの方へと連れていかれた。わたしは林檎を見つめ直して、常ならぬものを見つけようとした。しかしあるのは赤く丸い果実で、それ以上でもそれ以下でもなかった。


 曇りの空を胸にたたえながら親父の病室に入ってみると驚くことに、手芸をしていた。どうやら林檎の柄をあしらったランチョンマットを作ろうとしているらしい。

 酒に煙草、ゴルフに車という趣味の親父がよりにもよって手芸だ。わたしは入るや否や吹きだして背中を叩いた。


「どうしたんだよ親父、ままごとが趣味ってわけかい。すっころんだときに性格もひねくり曲がってどうにかしちまったんだな。ひい、涙がでてくるよ」


 しかし親父はわたしの手を振り払って、燃えたぎるたきぎのような眼光をこちらに向けた。


「黙ってろ」


 不意を突かれ、たじろいだ。手に持ったフルーツの重さに気づいて、テーブルに置いてから足を直した。


「なあ、一体全体どうしたってんだ。医者にもいわれたぜ、よくなったのはわたしらのおかげじゃない、親父の努力の成果だって。リハビリする気も退院する気も、どこに行く気だってないような口の利き方してたくせに、なんだって」


 彼はいかめしい、眉間にしわの寄った顔をあげてため息をついた。フルーツのかごに目を向けると、薪がぼうと燃えたように思えた。


「人類が意思を持って、自殺することを選ぶってのはよ、皮肉めいてると思わんか」


「なんだよ、自殺でも考えたってのか」


 親父はわたしの目の前に指を突きだして、ずいと顔を近づけた。恐怖に固まった、しかし燃えたぎる瞳だった。わたしは思いきり手を振り払ってのけぞった。


「わかっててやったな、くそったれ。尖端恐怖症なんだよ」


「それとおなじだ。突きつけられた。林檎をくれ」


 そういって彼は切り分けもせずかじりついた。滴り落ちた汁は清潔なシーツにしみをつくり、広がっていった。まるで真水のなかに毒を一滴たらして、それが馴染んでいくようだった。


 一息つくと彼は、さきほどの顔のまま頭をもたげ、話しだした。


「デイルームにいる少女を見たか」


「ああ、さっきその林檎を無理やり持ってかれたさ」


 それを聞くと親父はびくりとし、林檎をテーブルに置いた。


「はじめから不気味だと思ってたんだ。それでも他人だ、興味も湧かなかった。もし零れ落ちんくらいの美人なら別だったがな」


 はあ、とため息をついた。かすかに震えだして、あごひげを撫でだした。


「聞きたくはなかったがな、入院の理由が聞こえてきちまったんだ。ああ、クソ。首をくくって低酸素脳症だってよ」


 震えが激しくなってきた。本能的に、根源的に震えているようだった。わたしの好奇心は最高潮に達していたが、少女の無気力で無機質なオブジェの姿を思いだして、親父とおなじように身震いした。


「それで?」


「それで、だと? ああ、そうだな」


「その子のために頑張ろうなんて、あんたが思うわけはないよな」


「夢を追っかけてたらしい。服のデザイン関係のな。頭がよすぎた。知識を求めた果てに、自分の手腕を見つめるだけの知恵を手にしてしまったんだ。齢十八だぞ」


「それが関係あると思えんけどな」


「俺はなユウジ、自分が不幸でしかたないんだと思ってた。同世代のダチはまだみんなピンピンしてる。なのに俺だけ半身不随だってな。でも本当の不幸は違う。それをまじまじと見つめてしまって、俺は恐ろしくて眠れなかった」


「本当の不幸は、知恵を得てしまうことってか」


「意思の力は本当に恐ろしい。それに殺されたくないんだ。ああなる前に、な」


 とうとう冷汗を流しはじめたから、親父を寝かせてしばらく看病した。その瞳にはやはり、燃えたぎる炎が灯っていた。親父が一口食べた林檎は迷惑だろうから持ち帰ることにして廊下にでた。外はもう夜闇がにじみだし、弱々しい街灯やヘッドライトがせめてもと抗っていた。


 デイルームをのぞくと、またも少女が車椅子に座って夜の世界をながめていた。どこまでも深淵を、どこまでも苦しみを見つめているような気がして、感じたことのない恐怖に足がすくんだ。なるほど親父の感じている恐怖はこういうことらしい。彼女は生命を讃えるオブジェなのに、生命を裏切ってその姿を手にいれた。知恵という意思を手にいれようとして、それゆえに意思を失った。その矛盾こそが恐怖の根源だ。


 窓ガラスの鏡は闇という裏紙で完成されていた。そしてまたわたしの姿、いや、林檎を目にして唸りはじめた。ううああと言いながら精一杯手を伸ばしていた。それはさながら餌を前にしたハイエナのように醜悪で、最初に抱いた印象は煙に巻かれていった。


 わたしは目の前で起こっていることを正しく理解できていないのをわかっていた。しかしこう考えたくなってしまう。知恵という意思を失ったものが、知恵の果実を求めているのではないか、と。


 窓に映る彼女の懸命な醜悪さを見つめた。震える足をなんとか前にだし、彼女が明らかに欲しているものを渡してやった。すると唸ることはなくなって、動きもほとんどなくなった。


 そう、ひっきりなしに動かしていた口で、林檎をむさぼりはじめたのだ。そしてその瞳に弱々しくも、薪の炎が灯った。最小限の腕の動きで、最小限の咀嚼で芯まで食べつくし、汁だらけの口回りと手だけが残った。


 もう見ていられなかった。その光景が恐怖として刻まれたのは間違いない。逃げたいのに、足が動かなかった。食べ終わった彼女を窓越しに見ていると、こちらを見て満足そうに笑った。あまりに美しく、醜悪で、現実離れして夜に浮かんでいた。


 その笑顔が薄らいでいくとともに、目に燃えていた火が次第に弱くなっていくのがわかった。自らの歯がかちかちと音を立てている。車のヘッドライトが遠くで輝いたかと見えると、まばたきした瞬間に、彼女の瞳にあったかすかな炎が静かに消えて、彼女はとうとう咀嚼するような口の動きをやめてしまった。そこにあるのはどうやら、有機物でできた、ただのオブジェのようだった。



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