第4話 取引

 思わぬ形で疑問に対する明確な答えを得たその日の帰宅後、自宅ではちょっとした騒ぎとなった。祖母や母は顔にガーゼを貼って帰ってきたフェリクスに驚き、父親は誰にされたのかを問うてきた。

 長兄や弟に対しては『男子なのだから喧嘩もするだろう』と言っていた父親も、言わば弱者であるフェリクスの場合となると事情が違ったようだ。

 そんな中で、特にフェリクスの怪我に狼狽したのは他ならぬパーシヴァルだった。

 帰宅後家の者より話を聞いたらしいパーシヴァルは、血相を変えてフェリクスの部屋へと飛び込んできた。


「フェリクス! 殴られたと聞いたが本当か!?」


 制服から着替えることもなく慌てた様子で飛び込んできた声に、机に向かって勉学に励んでいたフェリクスは手を止めて振り返る。


「あぁパーシー、おかえり。大丈夫だよそんな大したことないから」

「たっ、ただいま……いや、大したことある! 痛かっただろ、こんなガーゼなんて貼って……」


 呼吸を落ち着かせながら大股で傍へとやって来たパーシヴァルは心配そうに眉を下げながら患部を見やる。

 随分と気を揉んでいる弟を安心させようと気丈に振る舞い笑ってみせるが、彼の表情は晴れない。殴られた理由を問われて誤魔化しもなく正直に話すと表情が一変する。どうやら忌諱に触れてしまったようだ。

 目を吊り上げたパーシヴァルがフェリクスの肩を掴む。


「フェリクス。加害者の名前を教えてくれ」


 真っ直ぐなブラウンの瞳が一瞬だけ赤く光る。その目にあるのは当然加害者への怒りだ。

 パーシヴァルは幼少期よりフェリクスを非常に慕っていることもあってか、彼が関連すると過激な面を顕にすることが多い。それをよく理解しているフェリクスは、肩に置かれた片方の手を払って短く言い切った。


「それは絶対に教えない」

「どうして!」

「教えたら君は絶対報復に行くでしょう。それはよくない。相手と同じ短絡的な人間にならないで」


 僅かに鋭くした目と真剣味を帯びた口調にパーシヴァルは一瞬怯む。フェリクスの答えにも押されたのか、暫し黙り目を泳がせた後、朧気な謝罪と共にゆっくりと手を下ろした。


「……ごめんなさい……」


 強めの言い方に委縮したのか、小動物のように縮こまる彼に妙な庇護欲を刺激されるが、それを面には出さず手を招く。素直に顔を寄せたパーシヴァルの頭や頬を優しく撫で、怒っている訳ではないことを伝ゆっくりと伝える。

 優しい言葉を受けてパーシヴァルは安堵したように頬を緩めたが、それでもどこか不安げに続ける。


「分った。もう報復なんてしない。でも、少し気になることがあるんだ。答えてくれるか?」

「何?」

「……もしかして、今日、殴られた以外になにかあったのではないかと思うんだが……どうだろうか」


――勘がいいなあ、パーシーは。


 前述のようにフェリクスを深く慕い、当時から現在に至るまで率先して世話をするパーシヴァルは、フェリクスの細かな変化によく気づくようになった。

 普段ならば褒めるところだが今回はそうはいかない。適当に誤魔化してもパーシヴァルに通じるとは思えないが正直に言うのは避けるべきだ。

 だがうまい言い逃れもなにも思いつかず、結局適当な返答をする。


「別に、何も無いよ?」

「……本当か?」

「うん、本当だよ」


 笑顔で返した言葉にパーシヴァルは僅かに眉を顰める。確実に誤魔化しが露呈していることは明らかだったが、それ以上は何も言わない。

 胸の内では、これ以上探りを入れられることに対する不安が渦巻く。だがパーシヴァルがそれ以上聞いてくることは無かった。


「なら、いい。もし何かあったら……そうだな、悩みでもあれば教えてくれ。自分に出来ることがあれば全力を尽くそう」

「うん、ありがとう。その時はまたパーシーにも伝えるよ」

「あぁ」


 兄からの言葉に目を輝かせたパーシヴァルは力強く返事をして部屋を後にした。

 晴れ晴れとした笑顔の彼を見送り手を振って、一人になったフェリクスははあ、と脱力し机に突っ伏す。


「あー……絶対これ勘づかれてるよ……」


 大なり小なり秘密を抱え、誰にも伝えず平然としていることは存外心苦しいものであるのに、更にパーシヴァルに対して隠すという行為は理由はどうあれ辛く、心労は計り知れない。しかしこれは必要なことなのだと自らに言い聞かせる。

 愛する弟が本当の家業を知る機会が減らすためにも、せめて自分は彼にこの話をしてはいけない。表向きの家業はあるのだからそれのみ知っていればいいと考え、何があってもフェリクスは真実を伝えずに過ごした。

 その甲斐あってかパーシヴァルは家業の話もせず、知った素振りも見せずに成長し学業に励み、やがて立派な士官へと成長した。

 そんなパーシヴァルをフェリクスに誇りに思っている。家業とは異なる真っ当な道を歩んで行って欲しいと真に願う。



 だからこそ目の前の清武の話に乗るべきではないと強く考えていた。自分が下手に関われば、それはパーシヴァルに繋がるきっかけとなる。

 一方で清武は、『ヤクザみたいなもの』そう評したフェリクスの言葉に納得した様子で言葉を続ける。


「そういうのを知ってたからこそ、尚幸なんて呼ばれたくないって思ったわけね。でもこっちは混乱もんよ。せめて理由くらい説明してくれないと」

「そっちの混乱なんて知りませんよ」


 目を合わせることもしないフェリクスに苦い笑みを浮かべたまま清武は肩を落とす。素っ気ないなあ、と素直な感想を口にしながら本を片手にフラフラと病室内を歩き回る。


「そんなにうちに戻るの嫌か?」

「えぇ、嫌です。あなた達の手を借りるくらいならミサキの家にお世話になりたいくらいには」


 唐突に飛び出した家名に、適当に壁に凭れた清武が、家名を復唱し目を丸くした。直後、鼻で笑い呆れたように肩を竦める。

 岬家。それは一言で言えば祖父の生家なのだが、もう縁などとっくに切れているところであった。


「冗談だろうがやめておけ。お前が働き手になれるとは思えない。それに、向こうからすれば誰だお前は状態だぞ?」

「勿論冗談ですよ。でもそれほどにあなた達の所に行くのは嫌だと言っているのです」

「うちにいる方が後ろ盾があって楽だぞ? 病だってすぐに治してやれるし」

「後ろ盾については重々理解してます。僕が蔑むその道が、お祖父様が異国の地で生き抜くために選んだ道であることも。……ですが、この病をどう治す予定なのですか? 治してやるなんて豪語するなら、せめてそれを教えてください」


 冷めた目つきで吐いたフェリクスに、清武は独りごちる。目線を斜め上に向けて数秒悩む素振りをし、困ったように眉を下げ唇を軽く噛む。薄い笑みが漸く崩れた瞬間でもあった。

 そして数秒後、真剣な面持ちで口を開いた。


「悪い、それは今ここで説明できない」

「……何故?」

「そうだな、この本に出てきそうなくらい現実味がない方法だから、かな」

「それでも多少の説明はできるのでは?」

「他人がいつ来るかわからん状況で話したくないんだ」


 彼の言う『現実味がない』とは、一体どんな方法なのか。少々気になることではあるが、彼の言葉からして信用ならないものであろうことは安易に予想できた。

 また、人目を気にすることも怪しさを増幅させる。入院病棟であるここには、確かに予期せぬタイミングで看護婦や医者が来ることもある。しかし真っ当な治療法であるならそれを気にする必要は特にないはずだ。

 異なる治療法を勧めるのだから現在の主治医に申し訳ないなんて思考が出たのか? そんな仮説も一瞬立てたが、そんなものを気にしているだけならば『現実味がない』なんて表現はしないだろうと考える。

 清武が差し出すメリットに惹かれない訳ではないが、治る治らない以前の問題だと冷静に判断を下して、鋭く言い切った。


「東さん。やはり、お断りします。僕はあなたの手はお借りしません。あぁ勿論岬家のお世話にもなりませんよ。あれは冗談ですから」


 きっぱりと言い切った言葉に、清武は虚をつかれたように瞠目した後、再び考え込む仕草をしながら短く唸る。

 彼にとってはフェリクスが話に乗らないことは非常に不都合なのだろう。しかしこちらとてあからさまに怪しい話にホイホイ乗るほど愚かではない。

 フェリクスの鋭い目付きから、意志は固く取り入る隙はないと感じ取ったらしい清武、は諦めたように緩く首を振ってベッドへと近寄る。


「それもそっか。じゃあ今回は引き下がろう。よく考えたらこんな説明でお前が乗ってくる訳はなかったか」

「当たり前です。僕をなんだと思っているのですか。それよりも早く本を返してください。まだ読んでる途中なんですよ!」

「仕方ねぇなあ、ほらよ」


 強い催促に呆れながら、清武は本を渡す。

 自身の懐に戻った愛読書を手にしたフェリクスは、異変がないかを確かめるように用心深く見定める。装丁を撫で、内側のページをぱらぱらと捲り特に変化もないことを確認したフェリクスは、短く安堵の息をつく。


「いやいや、今俺が普通に持ってたの見てただろ? そんななにもしてないって」

「それでもです」

「信用ねぇなあ。別にそんな本返すくらい普通にやるって」


 眉を下げながらも妙に楽しそうに笑う清武は、何気ないふうにフェリクスの頭を触ろうとしたが、行動を察知したフェリクスが嫌悪感を顕に払い除ける。

 それを受けてもなお触るほどではなかったのだろう。不満げに表情を歪めたが、清武は素直に手を引き、突如手帳を取り出す。


「気が変わったら連絡くれよ」


 そのように前置きし、サラサラと軽やかにペン先を走らせ文をしたためると、ベッド傍の台に置き素直に背を向けた。


「それじゃ、また」

「二度と来ないでください」


 清武は、敵意を向けた冷ややかな目に動じることなく、ひらひらと手を振って扉の向こうへと姿を消した。それを機に、漸く部屋に静けさが訪れる。

 息を長く長く吐いて脱力のままにフェリクスは一旦ベッドへと沈んだ。部屋に響く時計の針音や扉の奥から聞こえる声、外からの雨音を背景に、体勢を整えつつ本を開く。

 気を張っていたこともあってか疲労感がフェリクスを襲うが、清武が言っていたことの一切を忘れる為にも、佳境を迎えていた物語へと意識を向けることにした。これ以上不必要に頭を働かせたくはなかった。


 そこから暫くして、フェリクスは突如響いたノックの音に我に返る。

 物語は終盤に差し掛かっている。そんな時に邪魔されるなど――と内心苛立ったが、時計に目を向ければもう夕食の時間。ならば無視する訳にはいかないと再び栞を挟んで係の女性に笑みを向ける。

 謝辞を述べながら配膳を待っているとふと女性が台の上の何かに気づいた。

 それは帰り際に清武が置いていった折り畳まれたメモ用紙。すっかり忘れていたメモだが、恐らく連絡先等が書かれたものだろう。大したものではないと切り捨て処分もらおうと口を開きかけたが、メモを開いた女性の言葉に揺さぶられた。


「あの、これ、『カンジ』っていうものではありませんか?」

「…………え?」


 途端に、ぞくりとなにか嫌なものを感じ取った。ただの連絡先のメモならブリタニア語でなにも問題は無いだろう。しかしわざわざ大和語にしたのは、単純にフェリクスへの何かしらのメッセージがあるのではないか? と邪推する。

 意を決してフェリクスはメモを受け取り、彼女を見送ってから小さなメモ2枚のうち、1枚を開いた。

 そこにはなかなかの達筆で記された大和語の文章があった。


『実家ニ戻ルツモリガ無イナラ強制ハシナイ。ダガ、代ワリニ、尚武ニ協力ヲ依頼スル』

「……は?」


 思わず素っ頓狂な声と共に顔を顰める。尚武という名に心当たりがないから? いや違う。その名はパーシヴァルの東洋人としての名だとしっかり認識していた。

 だが何故その名が出るのか。もしやパーシヴァルを使ってフェリクスを実家に連れて来ようと考えているというのか。下手にパーシヴァルを関わらせたくないだけにそれは避けるべき自体ではあるが、だからといって素直に清武の思惑に従う気はなく、悩ましさを抱えながらもう1枚のメモを開く。

 その瞬間、全身から血の気が引き頭が揺れた感覚がフェリクスを襲った。

 メモに書かれていたこと、それは、清武が何故治療の説明を濁したのかを裏付けるものであり、同時にパーシヴァルへの『協力』のなんたるかを意味する、実に悍ましい『取引』だった。

 何度見間違いや誤読であってほしいと思ったか。しかし何度読み返せども流麗な字に変化はない。

 正常に回らない重い頭を左手で支えながら、メモをもう片方の手で握り潰す。くしゃくしゃになったメモにこれでもかとまだ力を込めて、力の限り床へと投げ捨てた。惨めに潰されたメモが力なく横たわる。


「……っ、あの、外道……ッ!」


 恨みを込めた掠れ声はフェリクスのものとは思えぬ忌々しさを孕んでいた。

 しかしここで幾ら恨みを吐き出そうと意味は無い。下手に荒ぶって騒ぎを起こすのは避けたかった。

 だからこそフェリクスは、本当は吐き出したい恨み節を全てぐっと飲み込み、苦虫を噛み潰したような顔つきで詰まった喉の奥から震える声を絞り出した。


「そんなのっ、どこが取引だ……選択肢なんて、有って無いようなものじゃないか……!」


 いつの間にか溢れ出した涙は頬を濡らし、手の甲へと流れ落ちる。突如突きつけられた暗い闇のような異物を味わったフェリクスは、食事にも愛読書にも手をつけることなくベッドに体を沈めた。




 風が冷ややかな宵の頃。とある建物内に甲高いベルの音が鳴り響く。

 その音に近くにいた男が顔を顰め立ち上がる。鋭い目付きに褐色の肌、そして全身を覆う入れ墨と左頬に刻まれた羊を模した刺青が特徴の彼は、徐に立ち上がり受話器を取って低い声で応答した。声の主を特定した男はあぁ、と淡く呟いく。


「なんだ、キヨか。首尾は? ……ふぅん、そう、何とかなってるならいいんだ。だけど、あんたもなかなか変わってるよね」

『変わってる? なんでですか』


 電話機本体をトントンと人差し指で叩きながら、男は清武の言葉に耳を傾け個人的な感想を述べる。不思議そうな声を上げた清武に対し、面倒くさそうに男は続けた。


「僕みたいに、親も弟妹きょうだいも嫌いで、手をかけることに抵抗がないって訳でもないのに、よくやるなあと。……あんた、弟達のこと相当好きなんでしょ」

『あぁ、そういうことですか』


 男の問いの意図を理解した清武は、実にあっさりと言いきった。


『そりゃ俺、二人のことすごく好きですよだからこそ、俺のものにしたいんです』

「……そう」


 お互いに『ものにする』の意味を分かっているからこそ、彼の言葉が異様であることは確かだ。

 しかしそれに異を唱えることも無く、男はまた別の、今夜の仕事の話を伝えて電話を切った。

 静まりかえった部屋で、男は感情の読めない表情で電話機から離れると、暗く冷たい廊下に出て、とあるドアの前で立ち止まった。

 ドアの奥から聞こえるのは妙な呻き声となにかに苦しむような声だ。そんな声にも大した反応を見せることなく男は軽くドアを叩き、返事を待つことも無く部屋に入る。

 薄暗い部屋の片隅にいたのは、呻き声の発生源である眼帯をつけた痩身の、長髪の男だった。彼は青白い顔を晒しながらなにかに怯えるように頭を抱えて身を震わせる。袖から覗く白い手首には掻きむしったような跡がいくつも存在している。

 冷めた表情でその様子を見下ろした刺青の男は、その塊の前に立つ。


「イグナーツ、仕事だ。病院に行くぞ」


 淡々とした言い方に、イグナーツと呼ばれた男は、微かに頷いて立ち上がった。

 

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