Fergus-E

不知火白夜

1章

第1話 喪失

 とある集合住宅の殺風景な一室。

 棚に綺麗に仕舞われた様々な靴や日用品からこの家の主の生真面目だろう性格が伺えそうな部屋。しかし床などに積もるホコリからあまり掃除は行き届いていないのだろう。そんな家に、数週間振りに家主が戻ってきた。

 茶を基調とした軍服を筋骨隆々としたその身に纏い、深く赤い短髪と青い海のような色合いの瞳に浅黒い肌。更にやけに悪い顔色と目の下の黒い隈という嫌なものを携えた男が、徐に扉を開け、篭りに篭った熱気に顔を顰める。

 うわ、と一言零し足を踏み入れる。玄関マットで土を落とし、肩にかけた鞄を適当に部屋の隅に置いた。そして部屋の窓を全開にし、生暖かいながらも新鮮な風を部屋に呼び込み、空気を入れ替えながら、所々にホコリが溜まった部屋を見てぼんやりと呟く。


「まずは、掃除からじゃのぅ……」


 年寄りくさい言葉遣いで呆れたように零した彼は、額を強く押さえて小さく息を吐いた。


 この家に住む彼の名はブルーノ・イングルビー。南半球の島国アオテアロア出身で、様々な事情で現在は遠く離れた北半球のエマリオンで暮らす陸軍軍人である。

 普段は基地で長期的な勤務に就いていたり、場合によっては街の外や州外どころか国外への任務もある多忙な身ではあるが、たまたま取得できた数日の休みを使って一先ず家へと戻ってきた。

 といっても、ただ家でのんびりする気は殆どない。掃除などを済ませた後は病院へと向かう予定であった。

 理由は、自分自身の慢性的な頭痛や倦怠感といった不調を診てもらうため――ではなく、長らく入院している次兄アルフレッドの見舞いのためであった。



 数年前、アルフレッドは街中で交通事故に遭い生死を彷徨った。

 なんとか一命は取り留めたものの、頭部への大きな損傷が原因となり意識不明の状態が長期間続いた。

 漸く目を覚まし回復した際は心の底から安堵し喜んだが、事故を境に彼には様々な変化が起きていた。

 まず物忘れが激しくなった。家族や友人のことが分からないこともあった。物事に対する理解力判断力があからさまに落ち、今までできていたはずのことが急にできなくなった。

 初めは小さな変化だったが、それらは時が経つにつれて日常生活に支障を来すほど深刻なものになっていた。心身共に深刻な怪我を負った彼は、それでも穏やかな様子で、絶望を口にせず、懸命に治療にもリハビリにも取り組んだ。


「大事な家族や、友達を、忘れたくないし、ちゃんと、まえみたいに、自分で、いろいろできるようになる、から」


 下手くそな笑みを浮かべて決意を露わにした彼を、両親とブルーノは家族として支えないわけがなかった。ブルーノ本人は仕事が忙しく、毎日病院を訪問できるわけではなかったが、可能な限り治療やリハビリに付き添い、介護もし、医師からの話も聞いていた。それは両親も同じであり、仕事で忙しい父も可能な限り病院に訪れ、母はほぼ毎日のように訪れて、皆で支えていた。

 このような形での病院通いは決して楽ではなかったが、一番辛いのはアルフレッド本人であることを思い出して、気合を入れ直した。

 アルフレッドは努力している。だからきっとこのまま改善して以前のように生活ができるはずだとブルーノは強く信じていたのだが、しかし、そう簡単にはいかないのだと実感する。


 ある日、久し振りの休暇を利用して見舞いのために母と共に病院を訪れたブルーノは、すぐさま異様さに体を強ばらせた。

 ベッドの上にいたアルフレッドは、ただ死んだような目で無気力に虚空を見つめていた。上に何かがあるわけでもない。ただ白の天井があるのみ。時折行動を起こそうと体を動かすが、それでも直ぐに取り消し、ベッドへと横たわる。何かの気配を察知し、ブルーノ達の方を見ても、誰なのか分かっていないようにぼんやりとしている。

 これは異様だ。まずい。なにも聞かずとも理解できた。そこにいたアルフレッドは、今までとは明らかに違う。病状が悪化しているとすぐさま判断した。

 目の前の彼の姿が信じられない。大きな衝撃に襲われて全身から血の気が引いていくような感覚がした。母はどうして、と泣きそうな表情になり、ブルーノの心もザワつく。

 ほんの少し前まで、回復に向けての治療やリハビリに取り組んでいたのに、アルフレッドはあんなにも頑張っていたのに何故こんなことになったのか。疑問が頭の中でぐるぐると渦巻き落ち着かないままに医師に説明を求めると、彼は冷静さを保ちながら口にする。


「ブルーノさんが病院を訪れられなかった間に、病状はどんどん進行していました。それはもうこちらも驚く程に」

「え、ブルーノが、ですか?」

「えぇ……」


 母はその言葉に動揺し、ちらりとブルーノを見た。母はほぼ毎日のように見舞いに来ているのに、何故ブルーノのせいでそのような変化があるのかと信じられないのだろう。母からの視線に居心地の悪さを感じながら、ブルーノは医師の話に耳を傾ける。

 医師は複雑な面持ちでブルーノ達を見て少々悩む素振りをしたあと、一旦閉ざした口をひらく。


「アルフレッドさんは、思うに、ブルーノさんのことをとても大事に思っていたのでしょう。なので、彼が居なくて相当不安だった可能性があります。それがひとつの原因かもしれません」

「……えっ」

「そんな、そんなことが……?」


 不安の色に顔を染める母と、目を見開くブルーノに更に医師は続ける。

 母は頻繁に見舞いに来てくれるが、ブルーノはそれより頻度は低い。アルフレッドにとっては、母とはまた別の意味で大事な存在であるブルーノに会えないことは、かなり辛いことだったのではないか――と。

 確かにアルフレッドが目を覚ました直後の時期は上手く休暇が取得できたこともあって、見舞いの回数も多かった。しかしそう休んでいる訳にもいかず、必然的に見舞いの回数は減り、ある程度時間が取れる母の方が多くなる。


「アルフレッドさんは、普段から弟さんのことをよく話す方で、弟さんがが訪れている日は、アルフレッドさんもかなり落ち着いていました。逆に、彼が居ない時は不安定なことも多いのです」

「……確かに、見舞いに来た私にブルーノはいないのかと聞いたことは何度もありますね……」


 医師の言葉を肯定した母の言葉に衝撃を受ける。そんなことを言われては、まるでブルーノのせいでアルフレッドの症状が悪化したように聞こえるではないか。

 猛烈な不安に駆られながら、ブルーノは、そんな、と一言零して視線を床に落とす。

 愕然とするブルーノを置いて、医師の話は進む。


「例えば、そうですね……事故を思い出し恐れて暴れる、喚くというのは、貴方が来ない日ばかりでした。アルフレッドさんの症状悪化には、ブルーノさんが大きく関係しているでしょう」

「なっ、そんな言い方しなくてもいいんじゃないですか。別にブルーノのせいじゃ――」

「っ、す……すみません……わしの、せいで」


 冷静な物言いの医師の言葉が、ブルーノには責められているように聞こえた。淡々とした言葉が鋭い刃物のように変換され、深々と胸に突き刺さり、思わず謝罪が口をついて出た。母の言葉を遮ったことに気づかなかった。

 ブルーノの反応と、母の反論に慌てて医師は言い直す。


「失礼しました。いえ、私は貴方のせいと言いたいわけではありません。アルフレッドさんは他にも多くのストレスや恐怖に苦しめられていたと思われます、貴方のせいではありません」



 覚えていたことをどんどん忘れていっていく、周りの人やものが分からなくなっていくといった症状は、恐怖やストレスとして大きな負担をかける。それらがアルフレッドの精神に強い負荷をかけた結果、身を守るためにこうなってしまったのではないかともいう。

 しかしどうしても己が責められているような痛みや突き刺さった刃物は消えず、医師の説明が頭に入らない。自分のせいだともいえる絶望感に襲われ、頭がくらくらする感覚を覚えながら、足に力を込めて声を絞り出した。


「……なおるん、ですよね」

「……断定はできません。アルフレッドさんの症状をすぐさま改善出来る治療薬はありません。長期的な対処療法や本人やご家族次第になります」

「……そう、ですか」


 アルフレッドの努力次第。今ただベッドに横たわるだけの彼にはそれも難しく感じられるだろう。それでも、ブルーノ達は家族でアルフレッドを支え続けた。自分のせいだなんて言葉に精神を蝕まれそうになったが、両親の協力もありなんとか屈することなくここまでこれた。当時医師から共に話を聞いた母も、ブルーノののせいじゃないと言い切ってくれた。

 そんな母に感謝しながら、ブルーノは極力見舞いの回数を増やし現状を把握し、両親と共に支えることに努めた。様々な苦労はあったが、両親と共に協力すればなんとかなると思っていた。

 しかし、それからまたも悲劇が起こる。


 今からおよそ数ヶ月前の春頃。両親は自宅で死因不明の謎の死を遂げた。他殺か自殺か、それとも病死なのか何もわからず、『まるで魂だけが抜かれたようだ』と表現され、医師や警察もお手上げ状態となった。

 悲しみにくれる中葬儀も無事に終えたが、両親の突然死はブルーノに大きな傷を残していった。己にとって、両親は良き親である。最近は結婚について小言をいうことが多く疲れることもあったが、それ以外は特に不満もない良き親であっただけに、葬儀の時ですら涙が止まらなかった。


 日常的に己を苦しめる慢性的な頭痛などの持病やハードな仕事に加え、アルフレッドの事故に両親の死。そして自分が見舞いに来られなかったことを理由に悪化したともいえる事実が、じわじわとブルーノの精神を追い詰める。

 アルフレッド本人や治療にあたる医師や看護婦に比べれば、自分への負担なんて大したのもかもしれないとブルーノは考えていたが、それでも本人の自覚の有無にかかわらず、様々なストレスはゆっくりとブルーノを蝕んでいた。



 そんな芳しくない状態でも、折角取得した休暇だ。この機に行かずにいつ行くのかと言わんばかりに、ラフな服装で部屋を掃除した彼は、予定の時刻に間に合うように家を出る。

 最寄りの停留所からバスに乗車し、周囲の会話をできるだけ聞かないように、窓の外も殆ど見ずに目を閉じて、病院の最寄り停留所で降りた。

 季節は夏から秋へと移りつつある今日この頃だが、まだ正直暑い。正直きつい襟元を少しだけ緩めて病室へと向かった。


 受付を済ませて、以前と同じ病室へ向かう。清掃が行き届いた廊下を歩きとある病室の前で足を止める。

『“Alfred Zachariah Ingleby”』――彼を含み数名の名が記されたプレートがかけられているドアを数回ノックする。返事はあるがアルフレッドではない別の患者だ。ゆっくりとドアを開けて、返事をしたらしい他の患者に会釈をして、ベッドへと向かう。


「……アルフレッド」


 天井から吊るされたカーテンを開けた先のベッドで、横たわる男性がにぶい動きでこちらを見やる。名前に反応しているのかただ音に気づいただけか、それは不明だ。

青い坊主頭に、ぼんやりと虚ろな赤の瞳。優しげな顔つきだったのだろうにすっかりやせこけてしまったアルフレッドは、ゆっくりと瞬き唇を動かす。


「う……あ……?」

「あんたの弟のブルーノじゃ。久し振り、どうじゃ調子は」

「……あー……んー……」


 ゆっくりと声をかけると彼は呼応するように呻き声を漏らす。まともな答えが返ってくるわけはないが、それでも反応があると少しだけほっとする。

 拙くともうまくコミュニケーションがとれるようになればいいのだが、少しずつ改善しているとはいえ先は遠い。

 病室の片隅に置かれていた椅子に腰かけ、こうしてアルフレッドの病室にいると、ブルーノは決まって自分を責めたくなるような気持ちになる。


 あの話を聞いてから何ヶ月も経ったが、未だに突き刺さった刃物は抜けない。

 仕事が忙しかったのだから仕方ないだろうと自分に言い聞かせても、それはただの言い訳だろうと誰に言われた訳でもないのに声がする。

 声は響いて脳内を掻き乱し、後悔となって押し寄せる。もっと長期的な休暇を申請して付きっきりでいたらよかっただろう、長兄や妹達にになんとか頼み込んでいればよかっただろう。音信不通の前者はともかく連絡先を知る後者に対しては、それこそ頭を下げてでも頼むべきではなかったのか。そんな考えが、とめどなく溢れて抑えが効かない。

 しかし、葬儀前後の彼女達が姉妹同士で愚痴を零していたのを覚えていただけに気が引けた。

 だからこれでいいのだと自分の中で何度目かの解を出して、ベッドの上で何やら声を上げるアルフレッドを見つめ、どうしたんだなんて声をかける。


 そんな時だった。短いノックの音が響いてゆっくりと扉が開く。医師や看護婦だろうか、それとも他の見舞いか。なんて考えつつ目を向けた先にいたのは、車椅子に座った病院着の青年と、彼を補助する茶の軍服を纏った少年だった。

 彼等の姿にブルーノはぽつりと名前を口にする。


「あぁフェリクスくん、パーシー、久しぶりじゃのう」

「ご無沙汰しております、ブルーノさん」

「元気にしてましたか?」

「……まぁまぁじゃの」


 幼い顔つきの車椅子の青年、フェリクスにそう問われ、緩く口角を上げてみせた。

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