第45話 馬に乗るのは、勝つためです 3

「ビヴァリー! 目覚めの気分はどう? ここの朝の空気は素晴らしいと思わない?」


 朝の散歩を終えて戻って来たブリギッドは、厩舎の前で待っていたビヴァリーの前まで来ると、ひらりとアルウィンから飛び降りた。


「はい。王都と違って、空気が澄んでいますね」


「アルウィンも広々とした場所で過ごせるのを喜んでいるわ。そうでしょ?」


 アルウィンは大きく頷くと、主と一緒に過ごせることが嬉しいと言うようにブリギッドに頭を擦り寄せる。


「もうずっとここで暮らしたいくらいよ。王宮は騒がしくって……」


 大きく伸びをしたブリギッドは、ストロベリーブロンドの髪も結わずに長く垂らしたまま、帽子も被っていない。


 しかも、シャツにテイルコートとズボンという男装だ。


 鞍はもちろん、横乗り用ではない。


「王宮にいると、毎晩のようにお喋り、ダンス、お喋り、料理、お喋り、デザートの繰り返しで飽き飽きしていたの。歌劇や音楽会へ行っても、着飾った紳士淑女が見ているのは、舞台の上の役者や演奏家じゃなくて客席。いっそのこと、私とジェフが舞台に立とうかしらと思ったくらいよ」


 王宮でも王都でも、ブリギッドはどこに居ても人目に晒される。


 誰にも見られずに行動するなんて不可能に近いし、たとえ自分の部屋の中にいても、ドアの外や廊下を色んな人が行き来していると思えば、落ち着かないだろう。


 長年独り暮らしをしていたビヴァリーも、タウンハウスで大勢の人たちにすべての行動を把握されるという生活にはなかなか慣れることができなかった。


「どう? 体調が大丈夫そうなら、アルウィンに乗ってみない?」


「……もう少し……様子を見ます」


 こめかみの傷はまだ完全に癒えてはいないが表面は塞がっているし、散歩する程度なら問題ない。だが、手綱を渡そうとするブリギッドに、ビヴァリーは断った。


「そう? まぁ、調教中のもう一頭の馬が騒ぎ出すかもしれないから、乗るときは監視付きがいいかもしれないけれど……」


 厩舎で火事が起きてから三日後の昨夜、ビヴァリーはハロルドと共に離宮――グレートパークへ移った。


 ブリギッドとジェフリーは一足先に離宮生活を始めており、アルウィンの調教はビヴァリーの立てた計画に沿って、様子を見ながらブリギッドが行ってくれていた。


 レースまであと十日。そろそろ最後の仕上げに取り掛からなくてはならない。


「今日はゆっくり休んで、明日から少しずつ始めればいいわ。アルウィンの状態もいいし、他の馬たちも元気にしているから、そのうちお義兄さまたちの馬と併走させてみてもいいかもしれないわね」


「そうですね」


 離宮に引っ越したのは、アルウィンだけではない。


 レースに出走させる予定だった王家所有の馬たち全部が、離宮暮らしを強いられていた。


 第二王子は自身で騎乗するが、王太子、国王と王妃は騎兵隊や陸軍の士官、近衛兵などから乗馬の達者な人物を騎手に選んでおり、彼らは調教のために毎日通って来るらしい。


「幸い、アルウィンと同じレースに出る馬はいないし、格上の馬とやり合うのはいい経験になると思うわ」 


 ブリギッドは、他の馬たちにも乗せてもらったが、どれも素晴らしい馬だったと白い頬を薔薇色に染めて興奮気味に話す。


 そんな主の様子に嫉妬したのか、アルウィンがストロベリーブロンドの髪をむしゃむしゃと食べ始めた。


「アルウィンっ!?」


「他の馬を褒めたのが気に食わないんでしょう? アルウィン?」


 ビヴァリーが指摘すると、その通りだと言うようにアルウィンがブリギッドの肩を噛む。


「もうっ! 言うまでもなく、アルウィンが一番だってわかってるでしょうっ!?」


 ブリギッドとじゃれ合うアルウィンの姿を見たビヴァリーは、もう一度自分に気を許してもらえるだろうかと思った。


 先ほど覗いた厩舎の中には、まだ微睡んでいる馬たちがいたけれど、声を掛けることも、手を伸ばして撫でてやることもできなかった。


 今も、アルウィンに触れるのが怖い。


 正確に言えば、怖いと思っているのを覚られるのが怖かった。


 騎手の恐怖を感じ取れば馬は怯え、騎手の不安を感じ取れば馬は迷う。

 強引に命令しながら、自信がない態度を見せれば、馬は混乱し、言うことを聞いてくれなくなる。


 大事なレースの前に、そんな状態で乗ってはいけない。


 アルウィンは大丈夫かもしれないが、馬たちの頭の中で火事とビヴァリーの姿が結びついたら、乗るどころか蹴られるかもしれない。

 そう思えば、迂闊に近寄ることもためらわれる。


 でも、そんなことを考えているなんて、自分を信じて大事なアルウィンを任せてくれているブリギッドにはとても言えなかった。


(レースに出なくちゃいけないんだから、このままじゃいけないのに……)


 ビヴァリーは、生まれて初めて、馬に乗るのが怖いと思った。

 乗りたい気持ちより、乗りたくない気持ちのほうが大きくなるなんて、考えたこともなかった。


 時間が経てば解決するのかもしれないけれど、レースまであと十日しかない。


(どうにか乗ることはできたとしても、勝てなかったら……?)


 ビヴァリーがそんなことを考えているとは思ってもいないブリギッドは、馬丁が用意してくれた桶で水に浸した布を使ってアルウィンの身体をまんべんなく拭い、ブラッシングしながら尾の先まで注意深く状態を観察し、蹄の具合も確かめる。


「ビヴァリー。ブレント競馬場のレースの倍率は、もう見たかしら?」


「はい。なかなか、興味深い数字でした」


 王宮のベッドでじっと寝ている間、テレンスが新聞を差し入れてくれていたのだが、ブレント競馬場で開かれるレースの賞金総額や賭け屋の予想などが細々と載っていた。


 レースは出走馬の馬主が賭け金を出し合うステークス方式で行われ、馬主がほぼ貴族ということもあり、賞金は地方で開催されるものの二倍以上と高額だ。


 貴族以外の馬主も参加可能なレースはあるが、昨年のレース成績上位のもののみで、国王の承認が必要とされる。

 こちらの賞金額はやや低くなるものの、国王から優勝賞品が下賜されるので、挑戦する馬主は少なくない。

 また、馬主が貴族限定ではないレースでは、貴族への対抗心からか意外な馬に人気が集まり、予想外の倍率となるのが常だ。

 普段は金儲け第一主義の競馬狂も、ちょっとしたお祭り気分で、いつもとは違った楽しみ方をする。


 アルウィンは、三歳馬以上が出走可能な十六ハロン(約三千二百メートル)の『ヴァーズステークス』に参戦する予定だ。


 馬主は貴族限定の由緒あるレースで、優勝賞品として黄金の花器が国王から下賜されることになっている。


 十五頭の出走が予定されており、レース初挑戦となるのはアルウィンを含めて二頭。三歳馬以上なら何歳でも参加可能だが、四歳馬以上のレースのほうが賞金額が高いために、三歳馬のみで競い合う。


 ナサニエルは、優勝経験こそないものの、昨年のレースで常に上位につけていたマクファーソン侯爵所有の牡馬に騎乗予定で、一番人気だ。


 アルウィンは、ブリギッドの馬でビヴァリーが女性騎手ということもあって話題性はあるが、厩舎の火事の影響もあり、今のところ五から八番人気の間を行ったり来たりしている。


「ビヴァリー、賞金の使い道はもう考えてある?」


「いえ……あの、私は貰わなくとも……」


 騎手も馬主が儲けた分の一部を貰うのが普通ではあるけれど、今回ビヴァリーにそんなつもりはまったくなかった。


「何言ってるのよっ!」


 馬丁が持ってきてくれた飼い葉桶をアルウィンに差し出そうとしていたブリギッドが勢いよく振り返る。


「当然、ビヴァリーが全額貰うに決まっているでしょうっ!?」


「ぜ、全額? あの、でもそれは……」


 それはちょっと違うんじゃないかと思ったけれど、話の途中でアルウィンが行儀悪く背後からぬっと首を伸ばし、ブリギッドが抱えていた飼い葉桶に顔を突っ込んだ。


「きゃっ! もう、アルウィンったらっ!」


 ブリギッドがよろめきながら飼い葉桶を地面に置くと、ガツガツと物凄い勢いで食べ始める。


「時々、アルウィンは私のことを主だと見なしていないんじゃないかと思うわ」


 ゆらゆらと尻尾を揺らすアルウィンは、耳をピクリピクリと動かして聞いているようだが、無視だ。 


「主というより、友人だと思っているんじゃないかと思います」


「そうかしら……」


「主従ではなく友人であるからこそ、同じ言葉を理解し、話すことができるんだって、父が言っていました」


「つまり、馬と付き合うときは、馬になれってことかしら?」


 いたずらっ子のような笑みを浮かべるブリギッドに、ビヴァリーもくすりと笑う。


「そうですね」


「そうすれば……もう一頭の、なかなか言うことを聞かない馬の気持ちもわかるかもしれないわね。頑張ってみるわ」


 アルウィンは何か言いたげに飼い葉桶から顔を上げたものの、「無駄だ」と言うように軽く頭を振って、空になった桶をブリギッドのほうへ押しやった。

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