第34話 馬は追いかけるもの、花嫁は逃げるもの 4

 想定外の動きにボロボロになりながらも、何とか見られる程度には原型を留めていた花嫁衣装を再び着たビヴァリーは、馬に揺られながら日が昇るにつれ晴れていく空を見上げていた。


 ハロルドがビヴァリーを追いかけるために使った馬は、馬車馬ではなくテレンスの軍馬だったので、二人を乗せていても悠々と走る。


(とりあえず……なんとかなってよかった……)


 一昨日からの失態や誤解、攻防などを思い返し、ハロルドは心の中で安堵の溜息を吐いた。


 ビヴァリーが素直に従うとは思っていなかったが、まさか教会の祭壇の前であんなとんでもないことを言い出すとは予想もしていなかった。


 度々、ビヴァリーの思考回路が理解できないハロルドだったが、どこをどうやったらあんな突拍子もない話を捻り出せるのか不思議でならない。


「久しぶりに見るけど……本当にすごくいい景色……」


 楢の木が聳える丘の上まで登り切ると、地平線まで続く緑の丘陵の合間を黒く塗りつぶす森が点々と見えた。


「子どもの頃も大きいと思っていたけれど、こんな立派な木はあんまり王都にはないよね?」


 ビヴァリーの言う通り、王都では滅多に見かけない堂々たる楢の木は、その根元にある小さな灰色の墓標を匿うように枝を伸ばしている。


「そうだな。王都の中心は建物で埋めつくされているから……」


 馬を降りたハロルドは、靴を履いていないビヴァリーを抱いて、ラッセルの墓標の前に立った。


 雨風にさらされた墓標は少しずつ風化し、やがてそこに刻まれた文字も、墓標であったこともわからなくなってしまうかもしれないが、ラッセルはそんなことは気にしないだろう。


 名前と生きた年月、馬蹄が刻まれた素っ気ない墓標は、飾らない人柄だったラッセルらしいものだ。


「父さんはここから見る景色がとても好きで、ここで時々昼寝してたの」


 父のお気に入りの場所に墓標を建ててもらったのだと言うビヴァリーは、もう泣いてはいなかったが、辛い思い出が完全になくなったわけではないだろう。


 五年前の火事の記憶について、ギデオンにも話していなかったのは、あまりにも深い傷の痛みに、触れることさえできなかったからだ。


 ビヴァリーは、あの場所にもう一度厩舎を建てるつもりだと言っていたが、ギデオンの援助を断っていたのは、そこに残る辛い思い出と向き合うのにまだ時間が必要だと感じていたからではないかと、ハロルドには思えた。


「侯爵家のお屋敷は、あの辺り。王都はあっち。そっちの方、海まで行けばコルディアでしょう?」


 次々と指さして、目に見えない先にあるものを当てる無邪気なビヴァリーの様子にほっとする。 


(とりあえず……怯えたり、怖がったりはしなかったな)


 かつて住んでいた場所に――ラッセルが亡くなった場所に、ビヴァリーを連れて行こうと思っていると話すと、ギデオンには性急すぎると言われた。


 だが、五年も無駄にしてしまった今、待っているだけでは十分とは言えないと思った。


 自然と傷が癒えるまで時間を掛けて待つのが、穏便なやり方かもしれないが、辛い思い出の傷を塞ぐには幸せな思い出でその傷を覆ってしまったほうが、癒えるのは早いのではないかと思った。


(言うべきことは言ったし、ビヴァリーも受け入れてくれた。何より、痛い思いはさせなかった。本当は、三日間くらいはベッドから離れたくないが……)


「ハルとよく遊びにいった小川はあの辺り。まだ魚は釣れる?」


「ああ。俺の餌以外には、食いつく」


 どうにも魚が釣れないので、釣りはあまり好きではないと答えると、ビヴァリーは呆れたように苦笑した。


「魚が餌に食いつくより、ハルが痺れを切らして針を上げるほうが早いから……」


「待つのは苦手だ」


「でも、焦ると途中で失速するかも」


「逃げ切ればいい」


「そうなんだけど、ハルは先行には向かないと思う。先頭を走っていると、競り合ったり、追いかけたりしないから、気を抜きそう……」


「いったい、何の話だ? ビヴァリー」


 ビヴァリーは、アップルグリーンの瞳を見開き、まさかわからなかったのかと言いたそうな眼差しをハロルドへ向けた。


「レースの話。父さんは、レースの話をするのが好きだったから」


「俺は、結婚の報告をするために寄ったつもりなんだが」


 ハッとしたように墓標を見遣り、ビヴァリーはたった今思い出したというように呟いた。


「そうだった。でも、私……まだ教会で誓っていない……」


 結婚の成立には、誓いの言葉よりもむしろビヴァリーの署名が必要なのだが、ハロルドはようやく納得させたことを再び蒸し返したくなかった。


(あとで、それらしき理由をつけて署名させればいい。一番重要なことは、ビヴァリーが結婚する気になったことだ)


「今、誓えばいい」


「司祭さまがいないけど」


「誓う相手は、司祭じゃない。神だ。神はどこにでもいるから、問題ない」


 ビヴァリーは、納得しかねると言うような顔をしたものの、結局は頷いた。


 頷いてから、何か重大な間違いにでも気が付いたのか、気まずそうな表情でハロルドに囁く。


「ハル……誓いの言葉って何て言うの? 教会でハルと司祭様が言ってたこと、ほとんど聞いてなかった」


「…………」


(神は試練を与えるものだと言うが、果たして乗り越えられのか……?)


 馬の場合は結婚式などしないのだから、ビヴァリーは興味がなくとも仕方がないと、ハロルドは無理やり自分を納得させた。


「健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、夫を愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを誓います」


 ビヴァリーは、昨夜ハロルドが告げたのと同じ言葉でいいのだと聞くと、恥ずかしそうに頬を赤くしながらぼそぼそと呟き、ハロルドを見上げた。


「キスも、するの?」


 しなくてもよかったが、しないという選択肢はハロルドの中にはない。


 返事の代わりに、ラッセルの前でも許される程度の慎ましいキスをする。


 ビヴァリーは、薄っすらと涙ぐみながら、ラッセルの墓標に向かって宣言した。


「父さん……五年も寂しい思いをさせて、ごめんね。でも、もう一度厩舎を建てて、ドルトンとその子どもたちと一緒に頑張って、いつかブレント競馬場で優勝するからね!」


 ビヴァリーなら、必ず夢を叶えられるだろうとハロルドは思っていた。


 名馬の血を引いていても、名馬になるとは限らない。

 潜在的な可能性は秘めていても、それだけではレースで勝利することはできない。


 ビヴァリーに見い出された馬たちには、勝利と幸福が約束されている。


 ハロルドにも同じように、ビヴァリーは幸福を約束してくれた。


 ラッセルがいなければ、『ビリー』との出会いはなかった。


 そのラッセルの命を不当に奪った人間には、それ相応の報いがあるべきだ。


「ビヴァリー」


 首を傾げるビヴァリーを見下ろし、ハロルドは端的に告げた。


「五年前の火事は、ただの事故ではない可能性が高い。直接ではないかもしれないが、おまえの母親も関係していると思われる」


「…………」


 ビヴァリーは大きく目を見開いて、声もなくじっとハロルドを見つめた。


 一昨夜、ギデオンと長い時間話し合った結果、ビヴァリーに話すべきかどうかは、ハロルドが決めるように言われた。


 ビヴァリーから厩舎を持つ夢を聞かされたハロルドは、誰かが捻じ曲げた事実をビヴァリーに話すくらいなら自分の口から話したほうがいいと判断した。


 ただ、いつ話すべきか迷っていたのだが、今ここで、ラッセルの前で話すのが一番相応しい気がした。


「火事が起きた当時、侯爵家で働いていた者や司祭、付き合いのあった町や村の商人や職人など、様々な人物に話を聞いた。火事が事故ではなかったと証明できるような話は聞けなかったが、事故だったと決めつけるには疑問が残る話を複数人から得られた」


「疑問って……?」


 小さな声で問い返すビヴァリーに、ハロルドはまだ裏付けは取っていないと断った上で、耳にしたことを伝えた。


 ラッセルが取引を拒んでいた商人のこと。同業者から度々嫌がらせを受けていたこと。デボラがラッセルの収入ではとても手に入れられないような宝飾品を身に着けていたこと。ある有力貴族がラッセルを自分の厩舎に雇い入れようとしていたことなど、ビヴァリーはまったく知らされていなかったらしく、アップルグリーンの瞳はますます大きく見開かれた。


 五年前の話であり、記憶が定かではない場合がほとんどだったが、誰もが「ラッセルは、馬を危ない目に遭わせるようなことは絶対にしない」と口を揃えて言った。


 ハロルドもギデオンも、同感だった。


「そんなこと、全然……父さんも母さんも何も言わなかった」


「まだ子どもだったのだから、知らなくて当たり前だ。だが……おまえの母親の場合は、おまえを思って言わなかったのではなく、自分の保身のために黙っていたのかもしれない」


 ビヴァリーは青ざめたものの、取り乱したりはしなかった。


 ラッセルの死後、デボラの取った行動を目の当りしていたのだから、その時から母親に対する信頼は失われていたのだろう。


「今の段階では、事実を繋ぎ合わせた推測にすぎないが、まるっきり無関係とも思えない。おまえの母親と再婚相手のことは、別件を調べていて偶然わかったことだが、今後の状況次第では巻き込まれる可能性がある。できるだけ、そうならないようにしたいと思っているが、警戒は怠らないでほしい」


 一つ一つを取れば何の繋がりもないように見える話も、デボラとその再婚相手の先にマクファーソン侯爵の名があるという事実から逆にたどっていくと、何らかの繋がりがあるように思われる。


 理由なく人を疑うことはすべきでないが、間違った行いは正すべきだし、ビヴァリーを脅かすものは排除すべきだ。


「グラーフ侯爵家の名はビヴァリーを守る盾になるはずだ。だが……」


 声もなくじっとラッセルの墓標を見つめるビヴァリーに、ハロルドは絶対に忘れてほしくないことを告げた。


「ビリーがレースで負けたことがないように、俺も戦場で敗北したことはない。敵が仕掛けてきても、必ず返り討ちにしてやる」

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