第31話 花嫁は、馬に乗って逃走中 2

(言わなければよかったとは思わないけれど……でも、正直に言ったのにどうして?)


 ようやく小部屋での監禁を解かれたビヴァリーは、案内役の侍女に言われるままに教会の礼拝堂へ向かった。


 逃げ出そうかとちらりと思ったけれど、タウンハウスで、執事と家政婦長が言っていた言葉が頭を過ぎり、ビヴァリーが逃げ出した場合、侍女やお針子たちが怒られるかもしれないと思い止まった。


(こんなの……間違ってる……)


 人気のない薄暗い教会の礼拝堂に足を踏み入れ、ひんやりとした空気に身震いする。


 今にもひっくり返りそうな胃を押さえるように白い手袋に覆われた手を押し当ててきつく握り締めた。


 身廊の左右にずらりと並ぶ長椅子は、最前列の一列を除いて空っぽだ。


 その一列を埋めるのは、ギデオンとテレンスの二人だけ。他には、結婚式を執り行う司祭と花婿――ハロルド以外、誰もいない。


 ハロルドの姿を目にした途端、ビヴァリーの足は凍りついたように動かなくなった。


 ステンドグラスを通して注ぐわずかな光にも輝く金の髪。些細なことでも見逃すことなどない、鋭い鳶色の瞳。すっきりと通った鼻筋や男性らしい直線的な眉と引き締まった口元で形づくられた顔立ちは、貴族らしい品の良さとわずかばかりの尊大さを滲ませている。


 黒いフロックコートにグレーのズボン、淡いグリーンのアスコットタイを身に纏い、背筋がピンと伸びた美しい立ち姿は、そのまま額に入れて飾れるくらい様になっている。


 ただし、その表情は硬く、胸元に飾られた白い薔薇さえなければ誰も花婿だなんて思わないだろう。


(喜べなくて、当然よね……)


 昨夜のハロルドの様子と思い合わせて、ビヴァリーは心の中で呟いた。


(結婚する必要はないって言ったのに)


 ビヴァリーは、平らなお腹を見下ろして、唇を噛み締めた。


 ハロルドが、いくばくかの金と堕胎薬を握らせて素知らぬフリを決め込む卑劣な人間ではなく、責任を果たそうとしてくれたことには感謝している。


 結婚前に男性とそういう行為をするのはふしだらだと言う人もいるだろうけれど、身分も家族もいないビヴァリーには、守るべき家名も体面もないのだから、大した影響はない。


 妊娠さえしなければ働けるし、身の破滅ということにはならない。


 それなのに、ハロルドは義務と責任を果たすためだけに、結婚しようとしている。


 愛情も尊敬も抱いていない、むしろ軽蔑している女と――。


(本当に、これでいいの……?)


 ビヴァリーは、自分がとてつもない間違いを犯そうとしているのではないかと思った。


 歩きなさいと命じる声と、ダメだと引き止める声が頭の中で交互に繰り返される。


 極度の緊張と葛藤にどんどん気持ち悪くなってきて、必死に吐き気を堪えていると、聞き覚えのある優しい声がした。


『ビリー』


 俯いていた顔を上げると、目の前にいるはずのない父ラッセルがいた。


(父さん……!)


 勢いよく抱きついても、いつもちゃんと受け止めてくれたがっしりした身体つき。お気に入りのツイードのハンチング帽からは、ビヴァリーと同じチョコレート色の髮がはみ出ている。穏やかな光を浮かべる琥珀の瞳と優しい笑みを求めて伸ばした手は、虚しく空を切った。


 心細さが見せる幻影だと知って、ビヴァリーは涙ぐんだ。


 幻のラッセルは、まるで本物のように優しい笑みを浮かべてビヴァリーに問いかける。


『このまま、神様の前で嘘を誓うのかい?』


 早鐘を打っていた鼓動が止まり、ビヴァリーは目を見開いて息苦しさに喘いだ。


『後悔するとわかっていることは、してはいけないよ』


 ラッセルの一言で、さまよっていたビヴァリーの心は行くべき道を見出したように、ぴたりと鎮まった。 


「ビヴァリー」


 咎めるような声を耳にして、瞬きする。


 顔を上げると、ハロルドが眉をひそめ、早く来いと言うように睨んでいた。


 少しも幸せな花婿には見えないその様子に、ビヴァリーは決心した。


(馬も、人も一緒。嫌なことを無理強いしてはいけない)


 震える足を一歩ずつ前へ出し、ビヴァリーがようやくその隣に辿り着くと、ハロルドは短く息を吐いて司祭へと向き直った。


 司祭が何か大事なことを話しているのはわかっていたけれど、これから言わなくてはならないことを考えるのに忙しくて、ほとんど耳に入ってこない。


「……誓います」


 ハロルドが呟いた言葉にハッとして、ビヴァリーは顔を上げた。


「ビヴァリー。汝、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、ハロルドを愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを誓いますか」


 穏やかな表情の初老の司祭を見つめ、ビヴァリーは震える唇を開いた。


「……ません」


 大きな声を上げたつもりだったが、実際には震え、かすれていた。


 司祭はやや驚いたように榛色の瞳を見開いたが、優しく微笑んだ。


「ビヴァリー? どうかしましたか?」


「あの……わた、私っ……あのっ……」


 震える手を胸の前で固く組み、ビヴァリーはつかえそうになりながらも必死に訴えた。


「わ、わたし……誓えませんっ!」


 傍らのハロルドが息を呑んだような気がしたが、ビヴァリーは先ほど急場しのぎの言い訳に拵えた、まるっきり嘘でもなくまるっきり真実でもない話を必死にまくしたてた。


「本当は、結婚なんかしなくていいんです。この結婚は、誰にも必要じゃなくてっ……ハロルドさまは、私と結婚する必要などぜんぜんないんですっ!」


 ただでさえ静かな礼拝堂が、時が止まったかのような静寂に包まれた。


「何を言い出すかと思えば……」


 ようやく傍らのハロルドが呻くように呟いた。


 ビヴァリーは、ハロルドが何か言う前にと、先を急いだ。


「ハロルドさまは、その、わ、私と……同衾したと思い込んでいますが、本当は何もなかったんです。寝入ってしまったハロルドさまの横に、自分で服を脱いで横たわっただけです。ハロルドさまはものすごく酔っていて、自分では何をしたか覚えているって言っていましたけれど、本当は覚えていないと思いますっ! 普通は、百回くらい懺悔しなきゃならないくらいの罪悪感に襲われてのた打ち回るはずだってジェフリー殿下が言っていたので。でも……ハロルドさまはそんなことはしませんでした」


「ジェフリーのやつ……絞め殺す」


 ぼそっとハロルドが呟くの聞いて、ビヴァリーはあらぬところに飛び火しそうだと気が付き、慌てて言い足した。


「いえ、あの、だからというわけではないんですが……ハロルドさまが責任を取らなくちゃならないようなことは、起きるはずがなかったんですっ」


 司祭は驚愕の表情を浮かべて固まっていたが、予想もつかない告白を聞き慣れているのだろう。素晴らしい自制心により、落ち着いた声で問い返した。


「……なぜ、そのようなことを?」


「そ、それはっ……」


 正直に答えようとしたビヴァリーの視界が、急に明るくなった。


 正体を暴くように、勢いよくヴェールを跳ね上げたハロルドは、乱れた金の髪の合間から射るような眼差しでビヴァリーを睨んでいた。


 まさに、手にした剣で邪悪なものをなぎ払う大天使そのものの迫力に喉が干上がり、しゃくりあげそうになったが、決着がつくまで手を抜くわけにはいかない。


 レースと同じ。最後のコーナーを曲がって、ゴールまでの直線が勝負を決める。


 くじけそうになる自分に鞭を入れ、ビヴァリーは一気にまくし立てた。


「それは……伯爵夫人……未来の侯爵夫人になりたかったからです。王宮でブリギッド妃殿下の乗馬のお相手をし続けても、結局ぜいたくな暮らしは望めないし、伯爵夫人になればドレスも宝石も自由に買えるし、好きなことを好きなだけしていられる。二度と明日のパンを買うために、寒い夜に薄着をして凍えながら男の人にすり寄ったりしなくてもいい。最高に楽な暮らしを送れるんです。誰だって、そんな生活を望まないわけがないでしょう?」


 ハロルドは、ビヴァリーが矢継ぎ早に並べた理由を聞くなり、顔を歪めた。


 ビヴァリーが口にした理由は、すべてハロルドが言ったことなのだから、その通りだったと認めればいいはずだ。


 こんなことになるきっかけとなった出来事をちらりと思い出しかけたビヴァリーは、頬が熱くなるのを感じてハロルドから視線を逸らした。


 激しい嵐を乗り越えて訪れた、あの罪深い楽園は、ビヴァリー一人では辿り着けないから、もう二度と目にすることはないだろう。


「……は、まだ先だ」


 ハロルドが何か呟き、怪訝に思って顔を上げたビヴァリーの唇に、何か柔らかいものが押し当てられた。


「……っ!」


 立っていられなくなりそうで、思わず手近にあったハロルドの胸元を握りしめ、身体を押し付けそうになったところで、ようやく解放された。


 ハロルドの胸に飾られていた白薔薇は、ビヴァリーに握りつぶされて、無残に散り落ちている。


「誓いのキスも済んだことだし、これで式は終わりにしよう。司祭殿」


 ハロルドが不遜な態度で告げれば、司祭は咳払いしながら不承不承頷いた。


「え……」


 誓いの言葉も交わしていないのに、とビヴァリーが縋るように見つめると、司祭は訳知り顔で頷いた。


「大丈夫ですよ、ビヴァリー。花嫁は、時々不安になるものです」


(そ、そうじゃないっ!)


「でもっ」


 どうにかして婚姻の成立を阻止しようとするビヴァリーの手をハロルドが取り上げる。


「ああ……もう一つ、忘れていた」


 ハロルドは、ポケットから取り出したエメラルドの指輪をビヴァリーの手袋をしたままの中指へ嵌めると「言っておくが、売り払ってもすぐに足がつく」と歪んだ笑みを浮かべて吐き捨てた。


「キスもしたし、指輪も渡した。立会人もいる。婚姻は成立だ」


 逃げ場を求めて後退りしながら首を振るビヴァリーに、ハロルドはずっと堪えていたに違いない苛立ちをぶつけた。


「いい加減にしろっ! すでに陛下にもご報告しているんだ。いまさら、なかったことになどできるわけがないだろうっ!?」


「でも…………してないのに」


 さすがに大声で叫べずに、ビヴァリーは小さな声で呟いた。


 そもそも、ハロルドがビヴァリーと結婚すると決めたのは、ビヴァリーを妊娠させてしまったかもしれないと思ったからだろう。


 でも、その可能性はないとわかった。


 何もなかった、狂言だったとビヴァリーが言っているのだから、喜んでなかったことにすればいい。嫌々、渋々、結婚なんかしなくていいのだ。


 それなのに、ハロルドは冷ややかな眼差しでビヴァリーを追い詰めた。


「本当に何もなかったのか、確かめればわかる」


 伸びてきた大きな手に捕らえられたらおしまいだと、とっさにビヴァリーは身を翻し、長いドレスの裾を抱え上げて走り出した。


「なっ……ビヴァリーっ!」


 全速力で身廊を逆戻りし、体当たりするようにして礼拝堂から外へと続く扉を押し開く。


 ヴェールがどこかに引っ掛かり、無残に引き裂かれたようだが、立ち止まってなどいられない。


 歩き難くするためだけに造られたような華奢な靴が脱げたのをいいことに、四段の石段を飛び降りると、目の前には幌を畳んだグラーフ侯爵家の紋章入りの馬車が出番を待っていた。


 仁王立ちになっていた侍女たちは、見目のよい御者とお喋りを楽しんでいて、すっかり油断している。


 おあつらえ向きに、優しい主を持った馬車馬は、ハーネスなどを外されて、休むことを許されていた。


「借りますっ!」


 両手に花の状態を満喫していた御者と女同士の闘いを繰り広げていた侍女たちは、いきなり現れたビヴァリーに目を丸くした。


 ドレスのあちこちから聞こえて来た不吉な悲鳴には耳を塞ぎ、馬に乗り上げるようにしてよじ登って跨ると、走り出す。


 とにかく教会から――ハロルドからできるだけ遠くへ行ければいいと思っていたが、すぐに後ろから迫る馬蹄の音に気が付いた。


「ビヴァリーっ!」


 振り返るまでもなく、あっという間にハロルドが横に並び、馬体を寄せてくる。


「止まれ、ビヴァリー!」


 幸いにして、教会は丘の上に建っていて町からは離れているので、人通りはない。

 誰かを踏みつぶす心配はしなくてよかったが、大きな森もなくどこまでも見渡せる野原が広がる場所では隠れることなど不可能だ。


(逃げおおせる方法があるとすれば、ターンして……)


「馬鹿っ! そんな恰好で、落馬したらっ……」


 ビヴァリーが馬を方向転換させようとしたとき、右手の茂みから野兎が突然飛び出してきた。


「あっ」


 驚き、立ち上がった馬の上で踏みとどまるための鐙も手綱もなく、色んなものを仕込まれたドレスのせいで思うように動けない身体がふわりと浮く。


(落ちる……っ)


 落馬の衝撃を覚悟したビヴァリーだったが、何かが腰に巻き付いて、強い力で引っ張り上げられた。


 かっさらわれるようにして馬上へ引き上げられたビヴァリーは、ほっとしながら、森の中にいるような、爽やかな香りを吸い込んだ。


(自分から逃げ出したくせに、捕まえられると安心するなんて、どうかしてる……)


 頬を寄せた広い胸からは乱れた鼓動が伝わってきたが、ハロルドは怒鳴ることも罵ることもしなかった。


 その代わり、やけに落ち着いた声でひと言告げた。


「確かめる」


「…………?」


 顔を上げ、何を確かめるのかと問い返そうとしたビヴァリーは、怒りと憎しみとそれだけではない何かを浮かべた鳶色の瞳に捕らわれた。


「本当に何もなかったのか、抱いてみればわかるだろう」

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