第24話 花嫁は、逃げ出す準備をする 1

「ハロルド! 生きてるか?」


 執務室のソファに転がっていたハロルドは、扉が開く音ではなく、閉まる音で飛び起きた。


「……?」


 一瞬、自分がどこで何をしていたのかわからずに辺りを見回し、呆れ顔のジェフリーを見つけて舌打ちする。


「おい……不敬罪でクビにするぞ」


「ぜひ、そうしてくれ……」


 我ながら酷い声だと顔をしかめると、ジェフリーがテーブルの上に用意されていた水差しから水を注いだグラスを目の前に掲げる。


 礼を言って一息に飲むと、ようやく目が覚めた。


 机の上の書類は綺麗さっぱりなくなっている。


 夜明けと共に、コルディア担当大臣の机の上に積み上げて来るようテレンスに命じたところで、記憶が途切れている。


「王子の私に水を注がせるなんて、おまえくらいのものだ」


「……妃殿下には注がないのか?」


「ブリギッドは、私が差し出すものには何か入っているのではないかと疑っている。おまえのせいだ」


「どういう言いがかりだ、それは」


 ジェフリーの恨みがましい視線にむっとして問い返すと、こんな早朝に目撃するには清々しすぎる笑みが返ってきた。


「ビヴァリーは、馬車の中でまともに座っていられなかったそうだ」


「…………」


「ブリギッドには、少しだけ痛かったと言ったようだが……少しだけなわけがない。馬のを見慣れていても、人間のを自分が受け入れるとなれば話は別だ。この、獣がっ!」


 まったくもって返す言葉もなく項垂れるハロルドに、ジェフリーは床に置いた大きな箱を押し付けた。


「何だ、これは?」


「花嫁衣装だ。仕立屋が寝ずに仕上げてくれた。採寸通りのはずだが、あとは向こうで侍女なり針子なりに、着るとき少し手直ししてもらえ。靴とヴェールも入っている。指輪は? 用意しただろうな?」


「あ、ああ……母の形見が……」


 父から母へ贈られた代々侯爵家に伝わるエメラルドの指輪を思い出したハロルドは、最後にどこで見たのか記憶がないことに気付いた。


(どこにある……?)


 母が亡くなったとき、ハロルドは既にパブリック・スクールの寄宿舎で生活していたため、葬儀の際にグラーフ侯爵領で棺に納められた母と対面したのが最後だ。


 酒と賭け事に溺れていた父は、母が持っていたかなりの宝飾品を売り飛ばしていたが、代々伝わっているものは祖父が保管している……はずだ。


 そうだと思いたい。 


「その様子じゃ、直しもしていないな?」


「後でやる」


「知らせてはあるんだろうな?」


 他人のこととなると妙に鋭いジェフリーに、ハロルドは頷いた。


「ビヴァリーを連れて帰ることは、話してある」


「結婚は?」


「直接話したほうがいいと思って……」


 ジェフリーは「なってない」と言うように頭を振って、窓辺へ歩み寄ると厚いカーテンを引き開けた。

 窓からは、見事に晴れ渡った空が見える。


「で、肝心の花嫁は?」


「たぶん、大丈夫だ」


「たぶん……?」


「会ってない」


 ハロルドは、乱れた髪をかき上げて深々と溜息を吐いた。


 十日の休みをもぎ取るのはそう簡単ではないと覚悟していたが、不運にも王宮へ戻り、上司である大臣に結婚することを報告しに行ったその足で、何も起きないでくれという願いが虚しく打ち砕かれたことを知らされた。


 その後も、大臣共々国王に呼びつけられ、結婚の報告はもちろんだが、場合によっては再びコルディアに派遣される可能性があると告げられた。


「どういうことだ? 振られたのか?」


「違うっ!」


 不吉なことを言うなと思わず怒鳴りそうになったが、何とか堪えて声を落として原因を説明する。


「マクファーソン侯爵が、コルディアに手を出しているという噂がある」


「何だと……?」


「先日、狐狩りの日にちょっとした小競り合いがあったことは聞いているだろう?」


「ああ」


 テレンスが報告したちょっとした小競り合いが、単なる反ブレントリー派の挑発ではないということがわかったのは、直後にもたらされたコルディア側からの情報のおかげだった。


「今回騒ぎがあったのは、一部の生産者たちが厩舎を構える地区だったんだが、詳しく調べたところ反ブレントリー派というのは金を握らされたよそ者がほとんどだったらしい。どうやら、担当官が特定の生産者に融通を利かせているらしくて、その他の生産者たちは不運な事故や事件に度々、巻き込まれているようだ」


 ブレントリーは、疲弊したコルディア経済の立て直しを図るために、様々な投資を行っているが、競走馬の生産には最も力を入れている。


 現在、コルディアで生産された馬はブレントリーにのみ供給しているが、そのうち近隣諸国にも輸出するつもりだった。


 ある程度基盤がしっかりするまでは、生産者たちを個々に競争させるのではなく全体的な底上げをする計画で、ブレントリーから派遣されている担当官が統括していた。 


「まぁ……種牡馬は共有できたとしても、牝馬のほうはそうはいかないからな。どんなに横並びにしようとしても、差は生まれるが……」


「偶然も、三度続けば必然だ」


 今のところ、ブレントリー国王も、瀕死の状態である土地と民を回復させるのに必死であるコルディアの元宰相も、一部のブレントリー貴族が好き勝手にコルディアを荒らすことを許すつもりはない。


「担当官と懇意にしている生産者の取引先に、マクファーソン侯爵の名が挙がっている。もちろん、直接の取引相手ではない。間に商会を挟んでいるが……」


 ハロルドは、いつもどこからか貴重な情報を探り当ててくるテレンスが告げた言葉を口にするのをためらった。


 ジェフリーを信頼していないわけではないが、今このタイミングで、ブリギッドからビヴァリーに伝わるのは避けたい。


 しかし、長い付き合いの悪友に隠し通せるはずもなかった。


「ビヴァリーに関わりがあるのか?」


「ビヴァリーの母親の再婚相手が、マクファーソン侯爵と取引のある商会にいる」


 ラッセルの死後、ビヴァリーの母デボラがひと月も経たずに再婚したことは、ハロルドも知っていた。


 ラッセルの所有していた馬たちは、火事で厩舎を焼け出された後、デボラの再婚相手の男が二束三文で売りさばき、唯一残ったのはビヴァリーがグラーフ侯爵家の館まで預けに来たドルトンだけだ。


 ギデオンが探ったビヴァリーの消息は、母親たちと共に港で国外へ向かう船に乗ったところで途切れていたため、ハロルドはずっと『ビリー』はブレントリーにはいないのだと思っていた。


「なかなか興味深い偶然だな?」


「ああ」


 ハロルドは、テレンスと共にビヴァリーの母親と再婚相手について情報をかき集めた。


 しかし、既に五年が過ぎており手掛かりは少なかった。

 

 ラッセルと付き合いのあった幾人かの馬主を当たったところ、当時ラッセルは執拗に取引を求める『ある商人』をあしらうのに苦心していたらしいことだけは、わかった。


「ビヴァリーは、五年前のことを何と言っているんだ?」


 ジェフリーが、当時のことを一番よく知っているのはビヴァリーだろうともっともなことを言うが、ハロルドはついこの前ジェフリーに向けた言葉が返って来ることを予想して顔を覆った。


「……聞いていない。五年前から……再会するまでのことを、まだ詳しく聞けていない」


 聞かなくてはと思っていたのに、結局酔って、襲って、どこで働いていたかを尋ねただけ。何も知らないままだった。


「おまえ……ヘタレ以下だな」


「わかっている……」


「遅くとも、何もしないよりはマシだ。旅の間にちゃんと話をしろ。さもないと、逃げられるぞ」


 ハロルドは、数々の失態を思い返し、ビヴァリーのような心優しい騎手でなければ、言うことを聞かせるために容赦なく鞭で打たれていたかもしれないと思った。


 ジェフリーは、まずは迎えに行くときから花を用意すべきだとか、馬車の中で食べられる菓子を買い求めるべきだとか、細々した注意事項を並べ立てたが、寝不足とこれ以上の失態は犯せないという緊張からハロルドが青ざめているのを見ると「詳しい指示は、テレンスに伝えておく」と言った。


「……助かる」


「王都へ戻ったら、ブリギッドがささやかながらお祝いしたいと言っているから、ビヴァリーにもよろしく伝えてくれ」


「わかった」


 いい加減身支度を整えて、グラーフ侯爵家のタウンハウスに置いているビヴァリーを迎えに行かなくては、日が暮れる前に宿へ入れない。


(そう言えば、ビヴァリーはあの擦り切れたジャケットを着て行く気か……?)


 タウンハウスにいる執事なら、気を利かせてくれるはずだがビヴァリーが固辞する可能性がある。


 何を着ていても、ビヴァリーの中身は変わらないとは思うが、あの恰好でギデオンの前に立たせる勇気はなかった。


「心配いらない。おまえがちゃんとビヴァリーのことを気遣っていると偽装できるよう、花嫁衣装とあわせてひと通りそろえさせた」


「……ジェフ。おまえ、人のこととなると手際がいいな?」


 驚くハロルドに、ジェフリーは苦々しい表情になる。


「ブリギッドに気に入られるために、私はあらゆる手を尽くしたんだぞ。おまえよりは女性の扱いを心得ているつもりだ」


 悪友には、さんざん迷惑をかけていることを思い「努力のわりに効果はなかったのではないか」と指摘するのはやめておいた。 


 ジェフリーは、テレンスへの指示を手早く紙に記すと、ハロルドを浴室まで引きずって行った。


「当分の間、酒は控えるんだな。今のおまえの顔は……テレンスより、酷い」


 ドアが閉ざされ、鏡に映る目の下に隈を作った自分の顔を見たハロルドは、まだ人間に見えるだけ自分のほうがマシだと思った。

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