第8話 うまい話には、馬がある 1

 信じられないほど狭苦しくみすぼらしいビヴァリーの住んでいるテラスハウスを後にして、テレンスを待たせていた馬車に戻ったハロルドは、床に落ちているハンチング帽に気が付いた。


 一瞬、引き返そうかと思ったが、また明日会うのだからかまわないだろうと思い直す。


 クタクタになってあちこち擦り切れた薄茶色のハンチング帽には、何となく見覚えがある。

 記憶を辿り、いつもビヴァリーの父ラッセルが被っていたものとそっくりなのだと気が付いた。


 ハロルドの基準では雑巾以下の代物だったが、ビヴァリーにとってはきっと大事なものだろう。


 優しく埃を払い、傷んでいる箇所を確かめて、手を入れればまだ当分は使えるだろうと判断した。王宮に出入りしている仕立て屋は仕事が早いから、急ぎで頼めば明日までには仕上げてくれるはずだ。


 ビヴァリーが座っていた場所に帽子を置いた拍子に、ふと潤んだアップルグリーンの瞳や柔らかな桃色の唇の感触を思い出し、思わず舌打ちした。


(馬車の中で襲いかかるなど、獣か? 俺は……)


 紳士らしく、女性には常に礼儀正しく優しく接するよう心掛けているハロルドは、所かまわず口説いたり、誘ったりしたことはない。


 社交界は、独身の爵位持ちにとっては、ある意味戦場よりも油断ならない場所だ。


 色仕掛けや脅迫により既成事実をつくるといった、目的のためならば手段を選ばない輩が巣食っている。軽はずみなことをすれば、あっという間に罠にかかって逃れられなくなる。


 それなのに、ビヴァリーを泣かせてしまったことにうろたえ、どうにかして慰めたいという気持ちのままにキスをし、途中で理性が吹き飛んだ。


 誰かに見られる危険性のある場所で女性を襲うなど、想像したことさえない恐ろしい失態であり、自分を絞め殺したくなる。


(ビリーが男じゃなく女だとわかって舞い上がったのか……それとも、ビヴァリーの手練手管に嵌められたのか)


 ハロルドは、迂闊すぎる自分に舌打ちしたくなった。

 

 手慣れた女性であれば、相手の欲望をかきたてるために何も知らない初々しいふりをすることもできる。ましてや、それを仕事としているなら、男を手玉に取る方法を知り尽くしていて当然だ。


(誘惑した相手の身分や財力を知って、後から口止め料を要求することもある……)


 ビヴァリーのような暮らしをしている若い女性が、一回きりの取引で客から貰う『報酬』で大金を稼ぐ方法は一つしか思い浮かばない。


 安い賃金で休みなく働かされる工場や店の従業員から、短時間で手っ取り早く稼げる娼婦へ鞍替えするのは珍しいことではなかった。金回りのいい固定の客を確保できれば、週に数日、ほんの一時相手をするだけで、それなりの暮らしができる。


(どんな人間にも欲はある。『ビリー』にはなくとも、『ビヴァリー』にはある)


 目を伏せてハンチング帽を視界から締め出し、ハロルドは再会したビヴァリーの様子を注意深く思い返した。


 馬に近付く時のように、まずは距離を取って慎重に相手の様子を窺う用心深さや相手の言葉を疑うことなく受け入れる素直な性格は、五年経っても変わっていないようだった。


 ただし、無邪気さや溌剌とした笑顔は失われている。


 十八歳くらいにはなっているはずだが、あきらかに痩せすぎで髪も肌も荒れていた。


 散らばった金貨を這いつくばって必死に拾い集めるビヴァリーの姿を思い出すと、理不尽だとわかっていても怒りを覚えずにはいられない。


 昔『ビリー』に抱いたような尊敬や友情といったものを『ビヴァリー』に抱くことはないだろうと思うと、ビヴァリーに、あの冬呑気に外遊していた自分に、今頃知らせて来たギデオンに腹が立った。


 どうすることできもない過去に対する膨れ上がった怒りは、持って行き場がないせいで余計に苛立ちを募らせる。


『ビヴァリー』に関われば関わるほど『ビリー』との思い出が汚される気がし、もう関わらないほうがいいと思う反面、ようやく再会できたのに手の届かない場所に置くのは嫌だとも思う。


 吐き気がするほどビヴァリーのことを軽蔑しているはずなのに、アップルグリーンの瞳を思い出すだけで、柔らかな唇に触れたくなる。


 どうするべきか決めあぐねて、取り敢えず明日まで結論は先延ばしにしようと短く息を吐いたとき、馬車が止まった。


「お疲れさまでした。少佐」


 テレンスが扉を開き、降り立ったハロルドは明かりが煌々と灯る豪華な王宮を見て、めまいを覚えた。


 汚れや染み一つない壁、ほのかに漂う花の香。どこかで晩餐会でも開かれているのだろう。優雅な音楽と談笑が聞こえて来る。


 つい先ほど、初めて足を踏み入れた王都で最も貧しい者たちが住む場所との違いに、あれは夢だったのではないかと思う。


「明日は、逃げ出す隙を与えぬよう、早朝から迎えに行ったほうがよろしいでしょう」


 テレンスの言葉に引っかかるものを感じて、ハロルドは王宮どころかブレントリー王国で最も信頼している部下を見上げた。


「……逃げ出す?」


「競馬場で危うく逃げられそうになりまして」


「競馬場だと?」


 何だってそんな場所にいたのだと訝しむハロルドに、テレンスも訝しげな顔をする。


「あの牝馬……ビヴァリーが何をしているか、お聞きになっていないのですか? 少佐」


「知り合いの厩舎を転々として働いているようだと聞いているし、おまえにもそう伝えたはずだが?」


「まぁ、大雑把にまとめれば、そうなりますが……」


 テレンスは首を捻ったものの、「そういうことなら、そうなのでしょう」とわけのわからないことを口走って一人で納得してしまった。


「ところで、少佐と『ビリー』とはずいぶん気安い関係のようですが、特別な理由でもあるのでしょうか? 面白いくらいに少佐が動揺していたので、興味をそそられまして……」


 ニヤリと笑うテレンスの興味津々の顔を見て、ハロルドは思わず呻いた。


 軍で初陣を踏んだときからの付き合いであるテレンスには、色々と情けない姿も見せてきたが、今日ほど目も当てられない失態をさらしたことはない。


「……昔の恩人だ」


「恩人、ですか?」


 大げさなと言わんばかりのテレンスに、ハロルドは「本当に恩人なんだ」と繰り返した。


「もしもビリーと出会っていなかったら、俺は二度と馬に乗れなくなっていた」



◇◆



 十五歳となった年の春。ブレントリー王国の貴族の嗜みの一つとして乗馬を習い、楽しんでもいたハロルドは、ある日を境にして、突然馬に乗れなくなった。


 競馬賭博で借金を重ねていた父親が何者かに刺された上、興奮しきった馬に引きずり回されてボロボロになって死んだ姿を目撃してから、馬そのものが恐ろしくなってしまったのだ。


 近付くだけでも冷汗が流れる有様で、乗るなどとんでもない。馬車ですら、馬の姿が目に入らないようにしなくては、乗れなくなってしまった。


 毎晩のように、父ではなく自分が馬に引きずり回される悪夢に襲われた。


 不名誉な父親の死の真相について、様々な噂が王都の社交界に広まると、スクールの同級生たちから遠巻きにされるようになり、馬だけではなく人と接するのも怖くなった。


 それまでは、学業はもちろん、乗馬を始めとする様々なスポーツでも優秀な成績を修め、貴族の子弟として常に完璧であるのは当たり前だと思っていたが、自分の中に父と同じ血が流れている以上、どんなに努力しても完璧になどなれないのではないかと思うようになった。


 王都では――貴族社会では、完璧でなければ排除され、認めてもらえない。

 ハロルドにとって、そこから追い出されることは、死刑宣告のように思われた。


 あの頃は、自分が属する貴族社会がすべてだったのだ。


 そんなハロルドにとって、自分とは違う世界に属していた『ビリー』との出会いは、まさに天恵だった。


 祖父ギデオンに、半ば強引にグラーフ侯爵領へ連れて来られた夏の休暇中、自分にはなかった視点や感想を素直な感情と共に話すビリーと過ごすことで、ハロルドの凝り固まった考えは解れ、世界は自分が知っているよりもっとずっと広くて、美しいものだと気付かされた。


 馬のことも、乗れなくなる前より、もっと好きになった。


 ビリーのおかげで立ち直ったハロルドは、それまで以上に様々なことに興味を持ち、視野を広げる努力をしようと決心した。


 冬の休暇中、ビリーに会いたいという気持ちはあったけれど、祖父と共に様々な国を訪れることで、さらに見識を広めることにした。


 しかし、その冬、ギデオンと共に外遊している間にビリーの父親が火事で亡くなり、二か月後に帰国したときにはすでに一家の行方はわからなくなってしまっていた。


 ギデオンはもちろん手を尽くして探したが、母親がどこかの商人と再婚して国外へ出たというところまでしか情報は得られなかった。


 それきり、ビリーとはもう二度と会うことはないかもしれないと諦めていたので、ギデオンが『ビリー』の名を手紙に書き綴ってきたときには目を疑った。



◇◆



「なるほど……確かに恩人ですね。そして、まさに『適任』でしょう。絶対に逃せませんな。経歴や出自云々は、この際王子殿下の権力を存分に使ってもみ消してもらうとして……むしろ、何のしがらみもない貴族ではない人物のほうが、妃殿下も気安く話せるかもしれません」


 何度も大きく頷くテレンスに、ハロルドも頷く。


 現在、ハロルドを含めたブレントリー王国の中枢を担う者たちは、第三王子ジェフリーの妃ブリギッドが、ここひと月ほどすっかり引き籠ってしまっていることに頭を抱えていた。


 約一年の婚約期間を経て、属国となったコルディアから嫁いできた元王女のブリギッドは、聡明で行動的な人物として知られていた。


 乗馬が趣味で、コルディアを競争馬の一大産地にしようと考えているブレントリー王国にとって、属国化は侵略ではないと示すのにうってつけの人材だった。


 海を渡ってブレントリーに到着するなり盛大な結婚式を挙げ、続いて国内各地を巡る新婚旅行へ出かけた後、ようやく王都に落ち着いたブリギッドは、毎晩のように夜会へ出かけながらも日課である朝の乗馬を欠かしたことはなかった。


 ところが、ブレントリーに来て三か月ほど経った頃。ブリギッドは突然乗馬をやめてしまった。


 馬に会いにいくこともせず引き籠り、最低限の公務や王家主催の行事には出席するが、国内の貴族たちが主催する晩餐会や舞踏会、狩猟などの招待をことごとく断るようになった。


 あっという間にジェフリーとの不仲説が広まり、しかも白い結婚ではないかという噂まで流れ出した。


 妻に関心を示すことのなかったジェフリーもさすがに慌て、あの手この手で心の内を何とか聞き出そうとしてみたが、新妻の心はすっかり閉ざされていた。


 ジェフリーは早々に白旗を揚げ、別の手を打った。


 常々引退したがっていたギデオンと結託して、グラーフ侯爵位の譲渡を理由に渋る陸軍大臣をつついて国外にいたハロルドを呼び戻し、コルディア担当大臣の補佐役に任命したのだ。


 強引なそのやり方に不満はあったが、ハロルドにはジェフリーの命令を断れない理由があった。


 ブリギッドとの結婚を渋るジェフリーを説き伏せたのは、ほかならぬハロルドだったからだ。


 国王からも、ブリギッドを軽んじている国内の有力貴族たちが、ジェフリーの元へ自分たちの娘を送り込もうと画策していると言われ、迷っている暇はなかった。


 とにかく、ブリギッドの心を解すには乗馬を再開させるのが一番だと考え、よき乗馬仲間、よき友人になれそうな人物を探すことにした。


 軍服を脱いで王宮務めを開始するなり、ハロルドは一週間で貴族や中流階級である資産家の娘など百人を超える年齢も、容姿も、性格も様々な女性たちの面接をした。


 しかし、残念ながら相応しい人物とは巡り合えなかった。


 ビヴァリーが指摘したように、教養や礼儀作法、乗馬の腕前も十分という人物は少なからずいたものの、一番肝心な最後ので全員不合格となってしまうのだ。


 じっくり時間を掛けて探す余裕はなかった。


 月末に予定されている、マクファーソン侯爵家主催のシーズン最後の狐狩りには、何としてもブリギッドに出席してもらわなくてはならない。

 マクファーソン侯爵は、ブリギッドを追い落とそうと考えている貴族の筆頭であり、ブリギッドの調を知りながら不躾にも送りつけて来た招待状は、いわば挑戦状だった。


 打つ手がなくなったハロルドは、ブリギッドへ馬を贈った祖父ギデオンならば心当たりがあるかもしれないと、藁にも縋る思いで尋ねてみたところ、ギデオンは『ビリー』の名前を挙げてきた。


 ビヴァリーとは五年間会っていないものの、ここ二年ほどは時々近況を知らせる手紙が届いていたらしく、ブレントリー国内にいて厩舎を転々としているようだと言う。


 さっそくテレンスに捜索を命じたところ、優秀有能な部下はものの一週間で『ビリー』を探し出した。


 もっとも、ハロルドが探していた『ビリー』とは、少々違っていたのだが……。


「どんな馬も乗りこなすのなら、コルディアの生意気な暴れ馬でも大丈夫でしょう」


「おい、テレンス。言葉に気を付けろ。生意気なんじゃない、誇り高いんだ」


 かつての敵国である異国に、たった一人で嫁いできた勇気ある王女の心の慰めを一つくらいは守ってやりたいとハロルドは思っていた。


「物は言いようですな」


「王宮では、一つの失言でクビが飛ぶこともある。十分気をつけろ」


「はい、少佐」


「ちなみに、もう軍人ではないんだ。少佐ではなく役職名か爵位に応じた敬称、または名で呼ぶように」


「はぁ……つまり、何とお呼びすればいいのでしょうか? 少佐」


 テレンスは、いかにも面倒だというように太い眉をしかめた。

 ハロルドとしても、あまり大仰な敬称で呼ばれたくない。


「そうだな……近々侯爵位も引き継ぐし、いちいち畏まるのも面倒だし……ハロルドでいい」 


 テレンスは、「ハロルドさまハロルドさまハロルドさま」と何度か繰り返しぶつぶつと呟いて練習した後、直立不動で敬礼した。


「はっ! 今後は『ハロルドさま』とお呼びいたします。少佐」


「…………」

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