第3話 危険な馬には、近づかないで 2

「元気でね。向こうには、世界で一番カッコイイ馬がいるから、楽しみにしておいで」


 レースが終わり、馬も人も興奮冷めやらぬ中、競馬場の裏手側に自分のものとなった馬を連れ出したビヴァリーは、あらかじめ呼びつけてあった馬運車の御者へ、短い手紙と共に引き渡した。


 大勝利を収めた牝馬は、今後は競争に明け暮れることも、横暴な馬主に怯えることもなく、優秀な子孫を残すという仕事に励むことになる。


 もう、血がにじむほど鞭で打たれることはない。


「行き先は、いつもと同じ。グラーフ侯爵が所有する厩舎にお願い」


 二年ほど前から、ビヴァリーは今日のように自身の目で選び抜いた優秀ではあるが不運な競走馬たちを馬主から引き取り、グラーフ侯爵ギデオンに預けていた。


 亡き父が世話になった大恩人に少しでも恩を返したいと思うのと同時に、いずれはその子どもたちを自身の厩舎に引き取りたいと考えてのことだ。


 今回のレースで得たポケットにぎっしり詰まっている金貨は、食費と家賃を除いて全部銀行に預ける予定だ。


 自前の厩舎を持つためにはまだまだ資金は足りないが、ビヴァリー自身が選び抜いた馬を親に持つ馬たちが、主要なレースを総なめにする未来を想像するだけで、路地裏の狭い屋根裏部屋で固いパンを齧る日々も耐えられる。


「へぇ。侯爵さまにもよろしくお伝えしておきまさぁ」


 人のいい笑みを浮かべる顔なじみの御者に手を振って、勝っても負けても酔っ払って騒ぐ人々であふれる通りを俯きがちに歩き出した。


(そうだ、マーゴットにお礼をしなくちゃ。なにか美味しいものでも買って帰ろう)


 隣人のマーゴットが穴の開いていたポケットを急いで繕ってくれたおかげで、金貨を詰められたのだ。

 いつかお姫様のドレスを縫うというのが口癖のお針子であるマーゴットは、甘い物に目がない。パイやケーキがいいだろう。


 どの店で何を買おうか悩みながら、王都へ向かう乗合馬車の順番を待つ人の列に並ぼうとしたとき、トンと軽く肩を叩かれた。


「おい、小僧。ちょっとこっちへ来い」


 振り返れば、首を折って見上げなくてはならないほど大柄な男が、いかめしい顔つきでビヴァリーを見下ろしていた。


 トップハットにテイルコート、足にピッタリフィットしたズボンと蝶ネクタイという恰好からして上流階級の人間なのだろうが、蝶ネクタイがはち切れそうなほど首が太い。


 太い眉とがっしりした顎を包む髭も整えられていて卑しい感じはしないが、優雅にアフタヌーンティーを楽しむような人間には見えない。どちらかというと、力ずくで相手に言うことを聞かせるのに慣れていそうな……。


 つまり、あまり関わり合いになりたくない相手だ。


 ビヴァリーは愛想笑いを浮かべて軽く首を傾げてみせた。


「あるお人が、おまえに会いたいと仰せだ」


 男は、いかめしい顔に似合いの野太い声で言う。


「あるお人って?」


「さる高貴なお方だ」


 全然回答になっていないと思いつつ、「光栄です」なんて言ってみる。


 男はにこりともせず、顎をしゃくって付いて来いとくるりと背を向けた。

 付いて来て当たり前という態度に、基本的な人の好さが滲み出ているようだ。


 ビヴァリーは「わかりました」と返事をするなり、男とは反対方向へ向かって駆けだした。


「何も、怯えることはない。理不尽なことを要求する鼻もちならない貴族たちとは違って、立派な……おいっ!? 待てっ!」


 待てと言われて待つ人間はいないだろうと思いながら、人ごみをすり抜け、ぎゅうぎゅうに人を詰め込んでノロノロと走る箱馬車を追いかける。


「乗せてーっ!」


 馬車の外側に掴まっていた男が追いかけるビヴァリーに気付いて手を差し伸べてくれようとしたが、何故か恐怖に引きつった顔で手を引っ込めた。


「ちょっ……うわぁっ!」


 薄情者と叫ぼうとしたビヴァリーは、いきなり身体がふわりと浮き上がったことに驚いた。焦って腰に絡みつく鋼鉄の輪のようなものを引き剥がそうとして、それが人間の腕だと気付く。


「小僧……逃げ出すとは、いい度胸だな?」


 野太い声はそのままだが、やけに落ち着いた口調が余計に恐ろしい。 


「え、えっと……知らない人に付いていっちゃいけないって、死んだ父さんが」


「確かにそのとおりだが、怪しい人間かどうか見ればわかるだろうがっ」


「うん。わかるから逃げたんだけど」


「…………」


 後ろ向きに広い肩に担がれたビヴァリーは、厚い胸板が膨らむのを感じると同時に、「ブチッ」という憐れな蝶ネクタイの悲鳴を聞いた。


 同じ運命を辿らぬためにも、これ以上余計なことは言わないほうがいいと悟り、口をつぐむ。


「とにかく……怪しい人物ではない。会えばわかる」


 怪しい人こそ怪しくないと言い張るもののような気がしたが、大勢の人間が目撃しているのだ。たとえバラバラにされて王都ルドカールを流れるイシス河に浮かぶ運命になったとしても、この男が人殺しの犯人だとすぐにわかるに違いない。


 男は、すぐそこに待たせていた幌で覆った黒いキャリッジにビヴァリーを放り込むと、大きな体を押し込めるようにして無理やり乗り込んで来た。


 憐れな蝶ネクタイがぷらーんとぶらさがり、シルクハットをなくして露になった黒髪は炎のように逆立ってもしゃもしゃだ。


 貴族の皮を被った野獣という表現が、ビヴァリーの脳裏に浮かんだ。


「どう考えても、狭いと思うんだけど……」


「油断ならない小僧さえいなければ、自分で馬に乗っている」


 野獣と共に、息苦しいというより暑苦しい狭い車内に閉じ込められること、数十分。


 馬車は何かに追い立てられるかのように物凄い勢いで走っており、馬が心配になるほどだったが、そのうちお尻が痛くなりそうな振動が治まり、石畳を滑らかに走り出す。どうやら王都に入ったらしい。


 乗り心地は各段にマシになったが、そろそろ酸欠で死にそうだと思い始めた頃、ようやく馬車が止まった。


 絶対につかえるに違いない男が降りるより先に、新鮮な空気を求めて自ら馬車を飛び出したビヴァリーは、文字通りの大邸宅を前に目を見開いた。


 まるで王様の住む宮殿のようだと思って見上げた屋根の上には、見覚えのある紋章が描かれた旗が翻っている。


(もしかして本物の宮殿……?)


「勝手に走り回れば、衛兵に捕まって牢へ放り込まれるぞ」


 ごくりと唾を飲み込んだビヴァリーは、襟首を掴まれて操り人形のように爪先立ちで歩くはめになった。


 きょろきょろと辺りを見回し、天使や女神やらが描かれた天井や埃ひとつ落ちていないピカピカの床、壁に据えられた黄金の燭台の輝きに目を奪われていると男が立ち止まり、淡い水色の扉をノックした。


「テレンスです」


「入れ」 


 テレンスというらしい男は、優雅とは程遠い仕草で素早く扉を開き、ビヴァリーを引き摺るようにして部屋へ足を踏み入れると、素早く扉を閉めて鍵までかけた。


「お探しの人物『ビリー』を見つけましたので、お連れしました」


 テレンスは、ビヴァリーを突き出すように引っ立てると、直立不動で敬礼した。


 つんのめったビヴァリーの頭から帽子がずり落ち、目いっぱい金貨の入った革袋を詰めていたポケットの底が抜けた。


 床に落ちた拍子に革袋からあふれ出た金貨が床に散らばり、凝った模様の絨毯の上でくるくると華麗な踊りを披露する。


 恥ずかしさのあまり顔から火が出そうになったが、一枚足りとも見逃せない。


 這いつくばって素早く拾い集め、袋に入れてもう一方のポケットに詰め込むと、最後に帽子を拾って立ち上がった。


「ずいぶんと大金を持っているな?」


 低くて艶やかな、しかし冷たい声に顔を上げたビヴァリーは、予想もしていなかった人物をそこに見つけて茫然とした。


 窓を背にした大きな机に向かい、書類らしきものを手にしてこちらを見つめていたのは、永遠に色あせることなどなさそうな黄金の髪と鳶色の瞳をした青年だった。


 名前は、訊かなくとも知っている。


 リングフィールド伯爵ハロルド・レノックス。


 海を挟んで西に位置する隣国コルディア王国との戦いで、ブレントリー王国軍を勝利に導き、長年の仇敵を属国とするのに多大なる貢献をした英雄だ。


 コルディアで華々しい活躍を見せた後も、ブレントリーが抱える紛争が絶えない他の属国を転々とし、各国各地で目覚ましい戦果を上げていることは聞いていたが、帰国したなんて知らなかった。


(すっかり大人になっているけど……)


 歪みのないほっそりした輪郭を持つ顔には、すっきりと通った鼻筋や精悍な頬。男性らしく直線的な眉や意志の強さを表す引き締まった口元が、絶妙なバランスで配置されている。


 五年ぶりに見るハロルドは、相変わらず教会の壁画に描かれる天使のように、完璧な創造物だった。

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