君の世界は単色で

 彼女の澄んだ声が地鳴りのように轟き、緑黄色のオーラが俺の全身に纏わり付いている。目を凝らすと、理解し難い文字の羅列が並んだ、奇妙な円形の波動が俺の足元から広がっていた。ティアが額から汗を流し、眉間に皺を寄せて手を翳している。


一瞬、得体の知れないものへの忌避感で怖気ずくが、すぐ俺の全身に広がった比べ物にならない多幸感によって霧散してしまっていた。


「これは……?」


「フェオさん! 行ってください!!」


 じんわりとした暖かさが、身体中を巡り、浸透していくのが分かる。あれだけ主張していた痛覚も、綺麗さっぱり消滅していた。今なら、やれる。倒せる。


「ウボァザァァァァァ!!!」


 オークが絞り出したような重低音を撒き散らし、こちらへと突進してくる。そんな姿も、俺の頭へ振り下ろされようとしている棍棒の形も、時が止まったようにはっきりと分かった。


 棍棒が勢いよく振り下ろされ、粉塵が舞い上がり砂埃が立ち込めた。オークの裂けた口角が僅かに上がる。その醜悪な笑みを貼り付けた顔目掛けて、握り締めた拳を振り抜いた。


 すぐさま驚愕へと表情が変貌し、巨体がぺたんと尻餅をついた。呆けたその顔に、前蹴りを叩き込む。もんどりうって仰向けに転がったオークの喉元目掛けて、右足を踏み抜いた。


 顔を歪めるオークの口から空気が漏れ、間抜けな音を立てる。続け様に二度、三度と踏み躙ると、青紫色の液体が口の端を伝って地面へと流れた。


「ア、アギャァァァァァ!!」


 掠れきった声を上げ、仰向けの姿そのままに丸太のような豪腕を無造作に薙ぎ払う。その手を残った腕で受け止め、捻り折った。オークの声にならない悲鳴を、その喉ごと踏み潰す。

 もう少しで、首も踏み折れる瀬戸際の所で、オークが釣られた魚のように上体を跳ねた。


 細く、薄い目は血走り、口から滴り落ちた粘液が小さな池を足元に作っている。


 どうして、確実に当たったと思っただろう、振り下ろした棍棒が当たらなかったのか、と言った表情だ。なんて事はない。普通に、躱して、懐に潜って、殴っただけだ。よく見ればこいつの動きは単調的だ。複雑な動きは何もなく、ただ力任せに力を振りまいているだけ。要するに筋肉バカ。対処なんて簡単なものだ。


「さあ、来いよ。最終局面だ」


「アギャァァァァァ!!!」


 歪な腕を振り回し、涎を垂らしながら突進してくる。まあ、芸が無い。今迄散々痛めつけられたんだ、それを返してあげようか。突き出された拳を皮一枚で躱し、カウンター気味に拳を弛んだ腹に差し込んだ。ぐじゅりと生暖かい感覚に手を突っ込み、搔きまわす。中にあった肉の塊を無理やり引きずり出すと、オークは糸が切れたように倒れた。ぴくりとも動かない。


「終わった……。勝った……!」


 言い知れない達成感が俺の全身を包む。あの、凶暴且つ残忍なオークを俺が倒した……。自分で自分を撫で回してやりたい。……そうだ。忘れてた。


「おい、大丈夫か?」


 ティアが門に体を預け、肩を揺らして苦しそうに息を吐いていた。ぐったりと首を垂れ、微かに頰が上気した彼女を、花弁を触るように、優しく抱き起す。


「はあ、はあ…………」


 目尻に涙が溜まり、赤みを帯びた頰と相まって非常に扇情的だ。


「………ごめんなさい……」


 小さくそう呟いた彼女の声を聞く前に、俺の唇が何かに覆われた。生暖かい吐息が口腔内に流れ込み、粘液を帯びた何かがゆっくり這いずるように侵入してきた。


 至近距離で、ティアの真紅の瞳に俺の瞳が反射する。彼女の舌が俺の舌を捉え、ちろちろと焦らすように舐め回してきた。目を白黒させて、逃げるように舌を喉の奥に逃すと、負けじと彼女も奥へ奥へと這い寄ってくる。


 必死に防戦していると、不意に彼女が小さく息を吸い込んだ。耐え忍んでいた俺の舌は、いとも容易く吸い出され、今度は彼女の口の中で弄ばれる事となった。


 巻き付くように舐められ、絞るように舐められる。背筋は常に総毛立ち、理性など崩壊寸前だった。


「ぷはっ……おい、ちょっと————」


 本能の衝動を押さえつけ、彼女を引き剥がす。唇と唇との間に、輝く粘液の橋が伝っていた。息を荒げ、ますます頰を上気させる彼女の姿を見て、勝手に喉が生唾を飲み込んだ。これは……危険だ。


 彼女の人差し指が軽く俺の肩を押す。それだけで容易く俺の上半身は地面に倒れ込んだ。彼女の暖かい体温が覆い被さってくる。額に彼女の銀白色の髪がかかり、少々こそばゆい。それ以上に、とても、良い香りがする。優しい匂いだ。


 抵抗しようとすれば簡単に出来る。しかし出来ない。しようとも思わない。これから起こるだろう出来事に、俺は期待していた。ゆっくりと彼女の瞳が俺に覆い被さり、鼓動が飛び出しそうなほど高鳴っていく。


  彼女の唇が俺と重なり、先程のように入ってくる。


「んっ……ふっ……あっ……うふ…………」


 まるで先ほどの事がお遊びだったかのように、彼女は俺を求めて来た。口の中で舌が暴れ周り、虐められていく。全神経が首から上に集まっていた。いくら口の中で暴れようが、彼女は真っ直ぐ俺と瞳を合わせて離さない。深く、物憂げなその瞳に、俺は吸い込まれるような気分だった。


 ♦︎


「ほんっとうにごめんなさい!!」


 ぱさぱさの唇を撫でながら、地面に手をついて謝罪する彼女を見下ろす。あの後、暫く解放してもらえなかった。獣にならなかった自分をまた褒めてやりたい。


「私……魔力が先程の符呪タラントで魔力が枯渇してしまい……どうも我を忘れて粘膜接触で補給しようとして……前まではこんな事なかったのですが……」


 三つ指をついたティアが頭を下げたまま静かに喋る。

 なんだ。ただの淫乱か。


「今……失礼な事を考えませんでした?」


「……気のせいだ」


 どうも彼女の顔が直視出来ない。ガキか、俺は。


「で、どうする? 中に入るんだろ?」


「いえ、今は私の魔力が充分ではありませんし、何より……その……左腕が……。その怪我は、私の所為でもあります。私が責任を持って治療しましょう。この中に入るのは、また後です」


 肘から忽然と消えている左腕に目をやる。何故だろう、惜しい事をしたとは思うが、残念には思わない。


「私の友人に、優秀な、回復キュアルを使う事の出来る魔導師が居ます。その方に頼んでみましょう」


 毅然とした口調で彼女が言う。


「……まあ仕方ない、か。良いだろう」


「良かった! それなら早速向かいましょう!」


「ちょっ、まさか今か————」


 先程の興奮冷めやらぬまま、満面の笑みの彼女に引き摺られて俺は街へ降りるのだった。

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