第14話 亀裂

「すまないが、真理絵さん。俺とマルセルの二人っきりにしてもらえないだろうか?」

 ジミーが、真理絵に言う。

それを司が通訳し、彼女は言われた通りに、マルセルとジミーを2人残して部屋を出た。

ジミーの目は冷たく、怒りに満ち溢れている様であった。

 『パタン』とドアを閉めた後、司は左の手だけに白と黒のストライプの手袋を羽目ながら、真理絵に言った。

 「今回の騒ぎを帰国した後、直接聞いたジミーは思わず傍に合った椅子を投げ飛ばしたそうだ。あの冷静沈着なジミーがそんな事をするなんて…と、メンバーはビックリして居たそうだよ。俺もその話を聞いた時は思わずのけ反ったよ。よっぽどショックだったんだろうね…。」

 真理絵は何も言えずに居た。

彼はやっぱり苦しんでいたのだ。

 「それにしても…。」

と、司が手袋を羽目ていない右の手で、煙草に火をつけながら言った。

 「なんか、あの雰囲気、殺気立ってなかった?」

 「殺気!?」

真理絵が、心配そうにドアを見つめた。

 

 「…俺はずっと、お前の事をホテルで待って居た。他のメンバーもそうだ!それほど俺達にはお前が必要だったんだ…。」

 ジミーと、マルセルはドイツ語で話をしていた。

ジミーはマルセルに訴える様に話、マルセルはその話を無言のままジッと聞いて居た。

 「それなのに…お前は来なかった…それが悔しいんだよ!俺は!俺は、お前の気持ちが聞きたい。此処まではるばる来たのも、その真相が知りたかったからだ。何故来なかったマルセル!?母親の死の悲しみからか?それとも…歌を歌えなくなったからか!?」

 彼の言葉にマルセルは、突然ジミーの方を振り向いた。

 「何故!?それを!?」

マルセルの問いに、ジミーは少し開き直ったように話し始める。

 「真理絵が教えてくれた。正直に言うけど、俺はツアーが終わったその後、もう一度日本を訪れていたんだ。ある筋から、マルセルを見つけたという連絡が入ったものでね。その時に真理絵に会って…全てを教えてもらったよ。どうして、お前が日本を離れなかったかをね。」

 「彼女が…話したのか?」

驚いた様にマルセルが訪ねる。

 「ああ。その時、あの子は、お前に会わずに帰ってくれないかと、俺に頼んだ。わざわざ、お前を探しにやってきた俺に対してだよ?俺は何故?ともちろん聞いたさ。するとあの子は、マルセルは今、自分の中の蟠りと必死になって戦っていて、それは、この日本で解決しなければならない事だからだ。と、言った。そして、必ずマルセルは自分からドイツに帰ります。と、断言までしたんだ。」

 無言のまま、マルセルはジミーの話を聞いて居た。

しかし手には汗が滲んでいる。

 「ところがどうだ!お前からは一向に連絡は無いし、驚いた事に帰ってみれば、バーナードが新メンバーをアメリカから入れると勝手に決めてしまったし。俺はもうとても我慢が出来なくなってしまって遂にお前の前に姿を表したというわけさ。」

 ジミーはマルセルの方を見た。

その途端、マルセルがジミーから目を反らし、そして言った。

 「新メンバーの話は知っている。…なかなか上手いじゃないか。お前も、いいシンガーを中に入れたな。」

 「言う事は…それだけか?マルセル…?」

 ジミーの話をはぐらかしたマルセルに彼は激怒し、いきなりマルセルの胸倉を掴んだ。

驚くマルセル。

こんなジミーは今まで見た事がない。

 「サベージパンプキンに別の奴が入るんだぞ!?お前の後釜として!悔しくないのかマルセル!?俺は、お前が入るまで、あのバンドのヴォーカリストだったよ。だが、お前がサベージパンプキンに入った時、俺はこいつなら俺の後を受け継がせてもいいと思った。それは、お前の声に惚れたから、あまりの素晴らしさに感動したからだ。他の奴に譲るくらいなら、サベージパンプキンを自らの手で解散してやる!その気持ちは今だって変わる事はない!」

 「離せよジミー…。」

マルセルが遠い目をしながら言う。

しかし、ジミーは言葉を続けた。

 「それなのに…こんな情けない…結果になっちまうなんて…認めねえぞ!俺は!断じて!こんな…こんな事!!」

 彼はマルセルの胸倉を掴みながら大きく揺らした。

 「止めろ!!ジミー!!」

その拍子にマルセルが彼の体を、大きく突き飛ばした。

『ダーン!』とジミーがドアに背中をぶつける。

 「俺だって苦しいんだ!お前ばかりが苦しいと思ったら大間違いだ!だけど…これが現実なんだ!現実なんだよ!!どんな事したって逃げられやしない…現実のマルセルキスクは歌を歌えなくなったヴォーカリストなんだよ!認めるしかないんだよ!!」

 荒い息をしながら、マルセルが叫んだ。

それは彼の心の叫びだった。

悲しみのドン底に生きている男の、そのままの姿だった。

ジミーはマルセルの言葉を聞いた瞬間、彼の心の中にくすぶり続けていたものが一気に爆発し、まるで火が付いたように号泣をした。


「ジミー!!」

マルセルは彼の号泣を聞きながら、その場にうずくまった。

自分も泣きたかった。

しかし、そんな事をしても、もう俺の声はもとには戻らないのだ。

そんな気持ちを幾度味わった事か!彼は、至極冷静に今の状況を受け止める事が出来た。

 5分程経った頃だろうか、ジミーの泣く声が段々と薄れていき冷静さを取り戻し始めていた。

すると、マルセルは彼に向かって、ポツッと「俺を解雇してくれ…。」と言ったのだ。

 「解…雇…!?それって…サベージパンプキンを辞めるって事か!?」

ジミーが驚く。

 「ヴォーカリストが歌を歌えないんじゃ、居ても仕方がないもんな。」

マルセルが、おどけた様に言う。

 「結論を出すのはまだ早いよマルセル。まだ一生そうなったとは限らないんだし…そうだ!病院へ行くんだよ!ドイツへ戻って治療して…もし、万が一、歌える様にまでなったら…そうだよ!1からやり直そう。マルセル!」

 ジミーはマルセルの両方の手を握って懸命に説得した。

しかし、彼は悲しそうにフッと笑いジミーの手を離した。

 「ダメなんだよ…それは無理なんだよ…。」

ジミーに背を向けて、彼は話した。

 「無理って…何故そう言い切れるんだ?」

 「俺だって、ジミーと同じ事を考えたさ!病院に行って治療を受ければもしかしたら…歌える可能性が見つかるかもしれない…そんな小さな願いを込めて近くの総合病院に行った。ツアーで持っていた金でね。だけど結果はやっぱり同じだった。声帯機関には全く異常がなくて、科学的には歌は歌えるはずだと医者に言われた。でも、現実には歌は歌えない。医者は言ったよ。これは、貴方の精神の問題じゃないかってね。所謂、『現実喪失症』という、精神病の一種なのではないか?と言った。(または離人症候群ともいう)つまり、何か特別なショックがあったとする。すると人間は自我の同一性(アイデンティティ)が失われてしまう事があるんだ。自分が自分ではないような感覚。俺はそれから必死になって逃げようとした。その結果がこれだ。声が出なくなってしまったんだとよ。ハハッ…だからジミー、俺に歌を歌わせようとしても無駄さ。俺は無意識に、その何かから逃れる為、声を出なくさせているそうだよ。自分では逃げようなんて気持ち、全く無いのに、心が体が勝手に逆らってしまう。俺は自分さえもコントロール出来ない人間になっちまったんだよ。」

 衝撃的な彼の言葉に、ジミーは何も言う事が出来ずに居た。

 「普通の声なら出るのに…。」

マルセルがポツリと言う。

「もう、1オクターブ上のレの音から先は全然出なくなっちまったんだ。可笑しいだろ?」

 マルセルは、ハハッと笑ったが、その瞳には涙が光っていた。

 「そんな…それじゃあ、もうサベージパンプキンの歌は…!」

「全部ダメさ。あのバンドの曲の大部分は、1オクターブ上のミの音から始まるように構成されている。」

 ジミーはガックリと腰を落とした。

もう…完全に破滅であった。

一部先の針ほどの希望も彼等に与えられる事はもはやなかったのだ。

それは、2人にとって死を選ぶよりも悲痛な告白であった。

 全てが灰になった。

これから世界進出を夢見ていた事も、一緒にバンド活動をあのメンバーで続ける事も、ジミーにとっては遠い遠い遥かな思いに変わってしまったのだ。

 これ以上彼を苦しませない為には、もう解雇しかないのか…そして、バーナードが決めた新しいヴォーカリストを入れるしか、サベージパンプキンに残された道はないのか。

こんな選択をする日が来るなんて…!悪い夢であってくれれば…!しかしこれが現実だった。

直視できない今なのだ!ジミーは今という時を呪った。

しかし、いくら呪っても何も解決はしない。

彼の為に最期に出来る事は、もう解雇しかないのだ。

ジミーの心の中で、叫びにも似た声が木霊した。

 「マルセル…。」

ジミーが決心した様に言う。

 「分かった…良く分かったよ…お前の気持ちは…望み通り、マルセルキスクを解雇しよう…。」

 マルセルは、何も言わなかった。

ジミーは彼の肩に『ポン』と手を置くと涙を一生懸命堪えながら、微笑して言った。

 「だが、バーナードが指定した日までは、お前はまだマルセルキスクなんだ。その指定の日が来たら、お前からは自動的にサベージパンプキンに関する一切の権利、権限は無くなり、正式な解雇となる。」

 マルセルは黙って、ジミーの言葉に、『コクッ』と頷いた。

 「その時が来たら…すべて…終わりだ…!」

 ジミーは、『ダッ』!とマルセルの許から走り去り『バンッ!』と部屋のドアを開けた。

その拍子に驚く司と真理絵。

2人は先程から聞こえていたマルセルとジミーの話し合いを、ずっと心配してドアの外に居たのだ。

 ジミーは司に「話は済んだから…。」と言うと勢いよく階段を駆け下りて行った。

 「ジミー…シュミーア!!」

思わず、ジミーの本当の名前が出てしまった。

それほど、司は緊迫していた。

あの気丈なジミーが、ここまでするとは、ただ事ではないと司はジミーを追いかけた。

 後に残された真理絵は、唖然としていた。

中で何が起きたのだろう…ジミーは泣いて居た。

何故?

 真理絵は、何かとんでもない事が起きたと思いながら部屋の中へと入った。


「マルセル!」

真理絵が部屋の中に入り、ドアを閉める。

「どうかしたの?…ジミー泣いていたけれど…一体何を話していたの?」

 「俺、サベージパンプキン辞めた…」

一言、マルセルが真理絵に背中を向けながら言った。

 「今日。正式に解雇されたんだ…。」

 「か…解雇って…!?」

真理絵が、目を見開く。

 「ちょっと待ってよ!どうしてそんな悲しい事を言うの…!?第一貴方が歌を辞めたら何が残るのよ…ねえ!?」

真理絵がマルセルの傍まで行き、彼の体を揺らす。

しかし、マルセルは黙ったままだ。

 「残されたファンはどうするのよ!貴方を待っているファンは!?どれだけの思いを込めて貴方の事を待って居ると思うのよ!?ただ、サベージパンプキンのヴォーカリストが変わりましたじゃ、ファンは納得しないわ。それとも…貴方はファンを裏切るの?」

 「裏切る?」

 マルセルが彼女の言葉を繰り返した。

 「そうよ!何の謝罪もなしで、ジミーと解雇の約束をしただけで、貴方は何十万というファンから姿を消す事になるのよ!どうして、ファンの前で謝ろうとしないの?歌が歌えなくなってしまった事を世間に言わないのよ!?貴方は…自分からも逃げるの?逃げてしまうの?本当にそれでいいの?」

 真理絵はマルセルに問い続けた。

すると彼は急に、クルッときびすを返し真理絵の方を見た。

 「謝罪なんかしなくったって…どうせ、皆すぐ忘れるさ。俺の存在なんて。俺のこと本気で考えているファンなんて居るわけないよ。皆、俺が格好良かったから一時的に寄って来ただけで、次のヴォーカルが入ればそっちの方に目移りするのさ。そんなもんだよ。ファンなんて…。」

 マルセルの意外な言葉に、彼女は驚きを覚えた。

「マ…マルセルがそんな事言うなんて…だって!貴方は、雑誌のインタビューで言ってたじゃない?俺はファンが居るからヴォーカリストでいられる。本当に感謝しているんだって…お願い、一時的な事で投げやりな態度をとるのは止めてよ。」

 「へえー。あれ、本気にしたの?」

マルセルがとぼけた様な口調で言う。

 「あれは、レコード会社側に言えって言われて言ったんだよ。ファンがどうのって、さっきから真理絵は言ってるけど、本当に俺の事が好きなら少しは俺の事も心配してほしいものだね。真理絵に分かるか!俺の気持ちが!」

 マルセルは、語気を荒くして続けた。

 「俺は、ただ歌を歌いたかったんだ。歌を歌いたいが為にミュージシャンになったんだよ!それがどうだい?プロになってからレコード会社に追い立てられ、自分で作曲した楽譜はボツになる。やっとOKの返事が来たと思って、さあレコーディングだと思ったら、一つ売れ線を狙ったバラードを入れろと言われるし、挙句の果てに、毎日がツアー!ツアー!ツアー!毎日毎日バスに乗って、ファンのご機嫌取り!!ファンを大事にしろだの、サインは書いてあげろだの…もうたくさんだったんだ!!だから本当は…正直言って声が出なくなったのだって、少し嬉しかったんだよ。これで、この地獄のような苦しみから逃れることが出来る。そんな気持ちが心の中に潜んでいて最低だと自分で思ってても、あまりの苦しさに、どうする事も出来なかったんだ。」

それは、彼の本心からの心の叫びだった。

 マルセルに、こんな一面があったなんて…いつものマルセルとは今は雰囲気が違う。

 初めて、マルセルキスクの裏側の部分に足を踏み入れた真理絵は少し怖さを覚えた。

 「で…でも…それを覚悟してこの世界に入ったんじゃない?どのアーティストだって、皆それぞれに耐えなければならない事はあると思うし…むしろ、それに耐えられなければプロを名乗っている資格はないと、私は思う。…それに例え貴方がここで、…サベージパンプキンを辞める結果になったとしても…けじめはしっかりつけた方がいいと思う。絶対に貴方が後悔すると思うし、また今まで応援してくれたファンだってきっと、…嫌だと思うわ。」

 真理絵は、マルセルに必死になって説得したが、そんな彼女の言葉を彼は無残にはねのけた。

 「それが余計なお節介だって言うんだよ!俺はもう歌が歌えないから、サベージパンプキンのヴォーカルを降りるってジミーと話をつけたんだ!俺がそれでいいって言うんだからそれでいいじゃないか!?後悔なんて決してしないさ!第一…世の中ってものを、まだ見たことがない家で働いているお嬢さん育ちの真理絵に、いくら世話になっていると言っても、そこまで言われたくないよ!」

マルセルは、一瞬しまった!と思ったが、その瞬間…

 『パシッ!!』

 という、凄まじい音と共にマルセルの右頬が赤く腫れあがった。

ついに真理絵はマルセルに手を出してしまったのだ。

彼は驚きのあまり何も言うことが出来なかった。

しかし、真理絵の瞳には涙が光っている。

 「世の中ですって…!?じゃあ、あんたは一体何が世の中だって言うのよ!?私が世間知らずだって言うのなら、今この場で!その、あんたが体験してきた世の中というものを一つ残らず全部説明してみなさいよ!聞いてあげるから!!」

身振り手振りを大袈裟にし、怒りの表現を体全体で表す彼女にマルセルは圧倒されていた。

先程とは、ガラリと真理絵は変わっていた。

戸惑ったマルセルは何とか、この場を漕ぎ抜けようと適当な言葉を口にする。


「だ…だから…、それはさっき、説明しただろ?あれが世の中だよ…。」

 「ふざけるな!!さっきあんたが言った事は、今まで滞っていた、鬱憤じゃないの!?私が言っているのは、あんたにとって何が世の中か?って事よ!?それを証明してみろって言ってるのよ!?」

 「何!?」

マルセルはあまりの怒りに自分の母国の言葉を使ってしまい、彼女に向かって思わず拳を振り上げた。

この女!俺に意見なんかしやがって…!彼の心に初めて真理絵に対しての憎しみが生まれた。

 「…やっと本性を出したわね…いいわよ。殴りなさいよ!!でも、今のあんたに殴られたって、私は痛くも痒くもないわ!!物事から逃げようとして周りの気持ちも考えない。周りがどれだけ、あんたの事を心配しているか…そんな苦しみも分からない、自分だけの奴に殴られたって、私はびくともしないわ!!早く殴りなさいよ!!」

 そう言いながら、真理絵はマルセルの目を見据える。

彼の拳は…体は小刻みに震えている。

しかし、怒りの表情は変わる事はなく、マルセルは右の拳をユックリ更に上にあげる。

ああ。打たれる!彼女は思わず目を瞑った。

だが…

 「ちっくしょう!!」

彼はドイツ語でそう言ったかと思うと、拳を勢いよく床に打ち付け、その場へ崩れるように座り込んだ、彼の取った行動に、彼女は驚愕したまま立っていたが、ハッと一息ついた途端、安心したかの様にその場へ、ヘナヘナと座り込む。

 「俺の何が悪いんだよー!一体何が原因でこうなっちまったんだよ…声さえ出れば、こんな事にはならなかった、畜生…どうして俺だけ、こんな目に合わなきゃならないんだよ!」

マルセルが、泣きながら呟く。

 「みんな苦しんでいるのよ。貴方だけじゃないの。ジミーだって、マルセルの声が出なくなった事でどれだけ泣いたか!私だって…辛かった。」

 真理絵が首をうな垂れる。

 「そうだよな。全部俺のせいなんだよな。俺の声が出なくなってしまったから…くそっ!それもこれもヘレナさえ死ななければ、そうさ、あの時あの人さえ死ななきゃあ、こんな事にはならなかったのさ。あいつさえ居なければ今頃はアメリカツアーの真っ最中だったのに…なんで俺の肉親はみんな疫病神が揃って居るんだよ!!」

 「マルセル!どうして、そんな悲しい事を言うのよ。貴方を産んだお母さんじゃない!?貴方をこの世に生かしてくれた、たった一人のお母さんなのよ。」

真理絵が叫んだ。

しかし、マルセルは聞き入れようとしない。

 「真理絵は、実の母親に小さな時から大切に大切に育てられたから、そんな事が言えるのさ!俺は…とかく両親にはどれだけ痛めつけられたか!俺をこの世に出してくれたことには、凄く感謝しているよ。だけど、そいつは俺が4歳の時、男と不倫して挙句の果てに俺と父さんを捨てたんだぜ!それでもこいつを許せと言うのかい!?俺は出来ない!絶対に一番可愛がって欲しい時に、親の愛情を一身に受けて、ああ。俺は愛されているんだと実感したい時に、俺には母親が居なかった。父さんだって居ないのと同じだったさ!俺はただ、可愛がって欲しかっただけなのに…!ああいつもそうさ!俺が欲しいと思ったものは、全部遠くへ行ってしまう!歌を歌う事も、母親への愛情も!みんな俺から離れて行ってしまうんだ!!」

そう言って、マルセルは泣き叫んだ。

 しかし真理絵は、そんな彼を可笑しいと思い、ひたすら語尾を荒くし彼に訴え続ける。

 「どうして離れて行くなんて思うのよ!自分の世界に浸ってないで現実を見たらどうなの?貴方には実のお母さんがいるじゃない?貴方の事を心配してくれるルーザという名の母親が!」

 しかし、マルセルは黙って首を振った。

 「ダメなんだよ…俺にとても優しくしてくれる素敵な人なんだけど、やっぱり根本的に合わないんだよ。本当の母親じゃなきゃダメなんだ。血の繋がりの方がやっぱり強いんだよ…。」

彼は弱弱しくそう答えた。

しかし真理絵はそんなマルセルに、真面目な顔をして意外な事を口走る。

 「へえー。…じゃあマルセルって、早く言えばマザコンだったのね。」

 「マザ…コン!?」

彼がその言葉に驚く。

 「マザコン。マザーコンプレックスの事よ。それなりの良い年になっているのに、いつまでもお母さんのオッパイから離れられない大人の事を言うのよ。どう?当てはまるでしょ?」

平気な顔をして答える彼女に、マルセルは激怒した。

 「ちっくしょう!!真理絵!!俺のどこがマザーコンプレックスなんだよ!!」

「そこよ!」

彼女は冷静にマルセルの顔を指さして言った。

 「その今出している貴方の態度よ。ちょっとマザコンと言われた位で、いきり立って怒る。それは貴方が、まだお母さんから離れて居ない甘えの姿なのよ。」

「甘え!?」

 「そう今の貴方からは、私はどうしても自立したという姿は見えない。何もかも両親のせいにして挙句の果てには、ルーザと話し合って見もしないのに今の母親とは、血の繋がりがないから会わない。ただ、逃げてるだけの駄々っ子にしか見えないわ。」

 「両親が揃って居るからそんな事言えるのさ。」

マルセルが吐き捨てる様に言う。

 「そうね。そうかもしれない…。」

真理絵が簡単に受け止めた。

そして続けた。

 「でも今の貴方に両親が揃って居たとしても。…果たして幸せな生活が送れたかしら。?余計悲しませるだけかもしれない。だって貴方、ただ両親に甘えているだけなんだもの。それで、ぶつかってみようとしなかったんだもの。それじゃあ、今の母親が可哀そうよ。あの人の立場がないんだもの。」

 「言いたい事、言いやがって!」

またもやマルセルは真理絵を叩こうとする。

だが彼女は先程とは打って変わり、至極冷静にマルセルを見つめた。

 「また同じ手を使うの?でもねマルセル。これだけはハッキリ言っておく。叩いたって何したって、貴方が考えようとしなければダメなのよ…だってこれが、貴方の直面している現実なんだもの。これに勝たなきゃ、貴方の声は戻らないと私は思う…。」

 真理絵は悲しい目でマルセルを見つめると、「帰るわ…。」と言いバッグを持った。

そして、帰り際ドアを開ける時こう言った。

 「マルセル…。私の願いはたった一つ。それは貴方がサベージパンプキンに戻って、またヴォーカリストとして歌を歌う事。…もし、貴方がどうしても嫌だと言うのなら、これは仕方のない事だけど、でも、そうなったら私、凄く悲しい…だって、私の憧れたマルセルキスクは、もう居なくなっちゃうんだもの…。」

 わあっ!!と大粒の涙を流しながら、真理絵は勢いよくドアを開けて外へと出た。

その姿をマルセルは追いかけようとしたが、足が動かなかった。

 だが2人の会話を外で聞いていた、橋本哲太が持っていた缶ビールの袋を部屋の傍に置き、すぐさま彼女の後を追いかけた。

哲太は、アルバイト先のコンビニで煙草を買った後、20分位店長と話し込んでいて2人の為にビールを買って来たところ、部屋の中で2人が争っている声が聞こえたので暫く中に入らず聞いていたのだ。

だが、哲太は驚いていた。

あの温和な争いを好まない真理絵が、マルセルの為にあれ程言うとは…言い様のない何かが彼の内に込みあがって止まらなかった。

その何かとは…嫉妬だった。

 「真理絵!!」

『カンカンカンカン』というアパートの階段を降りる音が、夜の静寂に木霊する。

しかし、彼女の姿を哲太は捕まえる事が出来ない。

外は所々に電柱の蛍光灯の灯りが見えるだけで、あとは真っ暗闇の世界だった。

それでも哲太は真理絵の姿を必死で追ったが、とうとう四つ辻の角を曲がったところで、彼女の姿は暗闇に消えた。

 「真理絵ぇーーーーーーーっ!!」

夜遅い時間という事も気にせず哲太は、大声を出して彼女を呼んだ。

 しかしその声は木霊するだけで、真理絵の返事は聞こえなかった。

 「真理絵。お前があんなに怒るなんて…よっぽど、マルセルのことが好きなんだな…」

近くの小石を蹴りながら、哲太がそう呟く。

 「何故?何故なんだ?俺の方がずっと早くからお前のことを見てきたのに…俺は真理絵、ずっとお前のことが好きだったんだ!強引に言ったら嫌われると思って、ずっと隠し通してきたのに…ずっと抑えてきたのに…苦しいよ。真理絵。」

哲太は今にも泣きそうになる自分を懸命に殺しながら、一人アパートへと帰って行った。


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