第5話 兆し

橋本哲太の所で暮らすようになった、マルセルは、まず髪を切り、黒く染めた。

仕事の時は、黒いカラーコンタクトもする事にした。

真理絵はヘビーメタルミュージシャンにとって命より大事な長髪を、彼が自分で切るという行為を、必死で止めたのだが、サベージパンプキン時代の、あんなにも憧れたマルセルキスクの、流れるようなブロンドは見事に無くなってしまった。

それから、バイトも探した。

哲太が、一緒に働かないか?と、彼が働いているコンビニエンスストアを勧めてくれたのだが、マルセルは、迷惑になるからと自分でアルバイトを探してきた。

それはラーメン屋のアルバイトで、時給900円。

哲太のアパートから15分ほど歩いた所にあるラーメン店だった。

時間は17時~22時。

週4日と遅番の時間で、しかもそのラーメン屋は雇っている店員が全員外国人労働者だったので、彼にとってもやりやすい環境だったのだ。

 哲太が朝、アルバイトに行った後、マルセルがアルバイトに出かける。

そんな毎日が順調に始まっていった。

 また、マルセルと哲太は食生活も違っていた。

マルセルはいくら昔、日本で暮らしていたと言っても、ドイツで暮らした時代の方が長く、自然とそちらの生活の方に順応していったので、哲太が好んで食べる焼き魚や、納豆など、日本人が好んで食べるものを、極端に嫌がった。

それ以外なら、金銭の都合もあったので、哲太に合わせて食事をしていたのだが、とにかくその部類になると、吐き気がするほど嫌なのだ。

そこで、彼は安めのパン屋を探してきてはパンをよく買って来た。

それにハムや、チーズ、サラミ、ソーセージ、ツナ缶などを上手くパンに少しずつ乗せて、食べるのだ。

つまりドイツで言う、『カルテスエッセン』なる冷食を彼は食べていたのだ。

 因みに、なぜ彼にお金があったかというと、前もってバンドのマネージャーが、彼に給料を渡していたからだ、その金額は日本円に直して15万円。

しかし、日本の物価高はマルセルが思っていたより、かなり高く、これだけの金額ではとても日本では暮らしていけない。

しかし、マルセルはこんな状況に何度も遭遇した事があるので、あまり気にはしていなかった。

 最初の1週間くらいはその繰り返しだった。

が、ただでさえ貧しい経済状態だったのに、マルセルが入ったことで余計苦しくなった事に加えて、彼が勝手に食事を作ってしまうのに腹が立った哲太は、ついにマルセルと食べ物の事で大喧嘩をした。

マルセルも、いくら世話になっているとはいえ、食事まで我慢出来ないと、どうしても譲らない。

たちまち、二人の喧嘩は、言い争いからつかみ合いに発展していった。

 「キャー!二人とも何してるのよ!」

仕事を終えて、遅い時間に遊びに来た真理絵が、2人の喧嘩を止めに入る。

しかし、マルセルと哲太は止めようとしない。

納得がいくまでやるつもりなのだ。

真理絵の目の前ですさまじい光景が展開され、結局2人とも疲れ果てたのは1時間後であった。

 「ねえ?なんでこんなことするの?私、マルセルと喧嘩させる為に、哲ちゃんに頼んだんじゃないのよ?」

真理絵が心配そうな顔をしながら2人に言う。

 すると、マルセルが

「そんなに心配することないよ。年がら年中バンドの奴等とこんな事していたから。日常茶飯事ってやつさ。」

そう言いながら、部屋の中の散らかった物を片付ける。

すると哲太が、眼鏡を直し、髪をかき上げると、「へえー…。バンドの人達とも結構やってたんだ。」と聞いた。

 「ああ、ほぼ毎日だった。気に入らない事があると、言い合いが始まる。特に俺たちは(哲太が僕ではなく俺と言えと教えたからです)音楽を相手取った仕事をしているだろう?曲作りの段階になってくると殺気立ってくるんだよ。例えば誰かが曲を書き、メンバーに見せるとするだろ?すると気に入らなければ一発で、「NEIN』(だめ)っていうんだ。すると、「何が気に入らないんだ?」そいつは追及し始める。また、言い合いが始まるってわけさ。レコーディングに入るとそれ程でもないんだけど…。」

 「ドイツ人は頑固っていうから…。」

哲太が片付け終わって、コーヒーを用意しながらマルセルに言うと、彼は笑いながら、「俺も頑固だけれど、あんたも相当頑固だね。」と、ふざけたように言った。

 そんな2人を見ていた真理絵は、何とか上手く生活をしている彼らを見、ホッと安堵の胸を撫でおろした。

また、哲太も見かけより気さくなマルセルに、心を許す事が出来た。

 しかし、それは彼の表面上の姿であった。

本当のマルセルは自分の直面している現実の中で、堪らなく苦しんでいたのだ。

それは…白い息が見えるほどの寒い、ある雨の日、真理絵は仕事が休みだった為、早い時間から哲太のアパートへ遊びに行った。

すると、哲太の部屋のドアが少し開いている。

不審に思った真理絵は、そのドアをそっと開けて中に入った。

 すると…歌声が聞こえた。

 マルセルであった。

彼は自分でヴォイストレーニングをしていたのだ。

彼が持ってきたヘッドホンで音を確かめ、一音階づつ、ユックリと声を出している。

だが、1オクターブ上のミの音まで来ると、どうしても声が出てこないのだ。

それでも彼は諦めずに、必死になって声を出す。

彼の額には汗がにじんでいた。

こんなに外気は寒いのに、その空間だけが、物凄く熱さを感じた。

一体どの位の時間こんな事をしていたのだろう?彼女はマルセルの真剣な表情を見つめながら、そんな思いを巡らせていた。

 すると、突然マルセルがヘッドホンを投げつけた。

 「くそっ!!」

 ヘッドホンは、静寂な部屋の中で微かな音を出して倒れ、彼は頭をか掻きむしり、気持ちを噛み殺すかの如く泣き始めた。

 「一音だけ・・・一音だけでも出れば、触発されて他の声が出るかもしれないのに…!!一音も高い声が出ないなんて…ああっ!」

 マルセルは悲しかった。

「頼むから…もう一度俺に歌わせてくれ…。」

それは、彼の心からの哀願であった、自分を呪い殺したいほど彼は自分を憎んだ。

しかし、そんな事をしたところで、何も解決はしない事を、彼は痛いほど分かっていた。

現実に分かる事はただ一つ、声が出ないという事実だ。

やはり、マルセルが、母、ヘレナの死を知ったあの時、彼の声は確実に死んでしまったのだろうか?

 真理絵は見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず外へと出た。

そして、彼があそこまで苦しんでいた事実を目の当たりにして、何もできない自分に怒りを覚え、また悲しみの淵に沈んだ。

 「もしかしたら、マルセルは毎日トレーニングをしていたのかもしれない。その度に、あんな苦しい思いをしていたのだろうか。?」

 彼女の瞳からは、涙が後から後から際限なく溢れてきて、抑えることが出来なかった。

 どうすればいい?どうすれば、マルセルの手助けになれる?私は…彼の為に何が出来るだろう?

 篠突く雨のなか、真理絵は懸命に自分の出来ることを、探し続けていた。

 その日の翌日から、真理絵は仕事が終わると、近くのスーパーマーケットで野菜や肉を買い、二人の為に夕食を作ることにした。

哲太は彼女に、そんな事はしてくれなくていいよ、と、たしなめたが、彼女は止めようとしなかった。

マルセルが悲しい顔ではなく、本当の笑顔を取り戻してくれさえすれば…真理絵にはそれだけで満足だったのである。

 さらにその週の日曜日、真理絵にとって信じられない出来事が起きた。

なんと、マルセルとデートをしたのである。

デートと言っても、男と女が特別な気持ちを持って出掛けるデートのことではなく、マルセルのジーンズがここに来て、ボロボロに擦り切れてしまったので、あるカジュアル専門店で買い替える為に、真理絵が付き合った。

それだけの話であった。

実際には哲太が付き合うはずだったのだが、彼に突如、代理のバイトの話が入ったので彼女が行くことになったのだ。

それでも、真理絵は嬉しかった。

憧れのマルセルキスクと今、こうして肩を並べて歩いていると思うだけで…たまらない気分になった。

 電車に乗ると、車内で、サベージパンプキンのTシャツを着ている女性に出会った。

その女性は彼らの熱烈なファンらしく、Tシャツには、塵1つなく、大事に着ているような跡が見受けられた。

ふふっ…いいでしょう。私は今、あなたがそんなにも憧れている、サベージパンプキンのマルセルキスクと歩いているのよ。他の人達は、きっとだーれも気づかない。流れるような長いブロンドの髪は無くなってしまったけど、私は確かに彼と歩いているんだわ。

 真理絵は思わず、Tシャツを着ている女性に向かって、大きな声で叫んでしまいたい衝動にかられた。

優越感で一杯だった。

だが、当のマルセルは真理絵の気持ちとは裏腹に、そのTシャツを虚ろな目でジッと見つめていた。

 電車は池袋駅に着いた。

凄い人混みを通り抜け、カジュアルショップでジーンズを買った後2人はデート気分で、池袋の歩行者天国を歩いていた。

今日はいい天気であった。

真理絵はブラウンのニットに、赤のミニスカート。

黒のタイツに黒のミニブーツを履いておしゃれをしていた。

マルセルはというと、黒のニットに中に、カジュアルな模様のブラウス。

それをニットの下に出す格好をしていた。

下は買ったばかりのインディゴブルーのジーンズという出で立ちであった。

途中2人は、歩行者天国の中のアイスクリーム屋さんでアイスクリームを買い、食べながら歩いて行く。

マルセルは、ショーウィンドウにディスプレイされた物を見ては、珍しそうな顔をして真理絵に話した。

今日のマルセルは上機嫌だ。

私と歩くのが、そんなに楽しいのかなあ?そう思うと、自分まで夢心地の気分になってくるから不思議だ。

真理絵はマルセルの笑顔を見ながら、そんな気分に浸っていた。

 ところが、同じ頃・・・


「これで、忘れ物はないわね。」

「産着とオムツは買っただろ?それに…おい、もう一つくらい、何か買う物があったんじゃないか?」

「何かあったかしら?」

 「えーっと…。そうだ!哺乳瓶だよ!哺乳瓶!」

「ちょっと待って、哺乳瓶は赤ちゃんが生まれてから。お義母さんが買ってくれる事になっていたでしょう?」

「お前、もう忘れたのか?昨日あんなに話し合って、結局俺達が買う事になっただろ?」

 「ああ。そうだったわね。でも…子供が生まれてからでも遅くないと思うけど。」

「だが、早い方がいいんじゃないかな?一応揃えておくという事で。」

 「それもそうね…あ、ちょうどそこにドラッグストアがあるわ。私、ひとっ走りして買ってくる。」

 「おい…。大丈夫か、普通の体じゃないんだぞ。俺が買ってくるよ。」

「平気よ。9ヶ月になったら、運動する気持ちでよく動いた方がいいって、お医者さんも言ってたじゃない。」

 そう言うと、車の助手席のドアを開けた、『藤井純子』は身重の体を重そうに抱えながら、ドラッグストアへと、1歩1歩、歩き出した。

この女性、藤井純子とは、前の旧姓を浅野と言い、真理絵の姉にあたる人物であった。

 彼女は、一年前に夫、『藤井和己』と結婚し、東京の郊外にある八王子で幸せな生活を送っていた。

今日はたまたま、高田馬場に住んでいる和己の友達に用があり、その帰りに、もうすぐ生まれる2人の子供の為の諸々の品を買おうという話になり、この池袋に立ち寄ったのである。

 「危なっかしくて見てられないや。」

そう呟くと和己は、車を路上駐車させ横断歩道で信号待ちをしている純子の傍に駆け寄った。

 「1人で大丈夫だってば。」

「いや、お前のことは信用しているんだけど、遠くから見ると、まるで達磨さんだからさー。」

和己がニヤニヤしながら、純子をからかう。

「もうっ!!」悔しさのあまり、彼女は和己にとびかかったが、その時、「あっ!!」と驚きの声を上げた。

 「どうした?」

和己が純子に聞いたが、彼女は和己の声が聞こえなかったのか、大通りの方に駆け出した。

だが、信号はまだ赤だ!

 「純子!!」

右から物凄いスピードで走ってきた車に、もう少しでぶつかりそうになった彼女の腕を、和己は思いっきり引っ張った。

そして、自分の方に引き寄せる。

 「何やってんだよ!!バカ!!」

驚愕した表情で怒鳴る和己に純子が叫ぶ。

 「今、真理絵がそこに居たのよ!男の人と二人で!」

「えっ?何処に?」

そう言いながら、彼女の指さす方に目を向ける。

和己はキョロキョロと辺りを見回したが、二人の姿は何処にもなかった。

 「何処にも居ないじゃない。」

 「だって、確かに居たんだけどなー。」

横断歩道を渡り切って、純子も見回したが、人の波は無表情に語り掛けるだけであった。

純子が困惑したように首を傾げる。

 「似た子かなんかじゃないの?遠かったし。それに…仮にそうだったとしても、ここは池袋なんだから真理絵ちゃんだって、男の人と出掛けるだろうよ。あの子も年頃なんだし…。」

「それはそうなんだけど…。」

 「とにかく、店に寄って帰ろうぜ。どうも池袋は好きになれん。」

和己がブツブツ言いながら、店に入って行く。

純子はその姿を追いかけようとしたが、先程の事が気になって仕方がなかったのだ。

別に真理絵が男の人と歩いていた事を、彼女は気にしていたのではなく、その男性がどうも外国人だった様な気がしたからだ。

黒い髪だったけど、あの目は外人ぽっかったし…。

もし真理絵なら、外人と付き合っていることを、お母さんは知っているのだろうか?

 純子は悩んだ挙句、八王子の自宅に戻るとスマートフォンで、浅野家に電話を掛けた。

 

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