第33話 満期リレー

満期リレー




役をもって懲らしめる…つまり、何らかの役目を与え懲らしめるのが懲役だ。


働く事が嫌いで、悪事に依って生計を立てて来た者が大多数の刑務所の中、出所が近づけば誰もが何もする気が起きず、更には面倒な人間関係の中でほとほと受刑生活と言う立場に嫌気がさして来る。


それもまた法務省の狙いだと言うなら、刑務所と言うシステムを考え出した人はよほど人の心の動きに精通した人だったに違いない。


御多分に洩れず、近頃の僕は工場に出て来ることさえ大義に思えていた。


その他大勢の者達と大差なく、僕が仮釈放になる為の委員面接は、準備面接が終わってから15週目に行われた。


準備面接の後、出所の準備が始まった事を直ぐに翠に伝えたが、3ヶ月間、やはり僕は無視されたままだ。


翠にとって、僕は既に過去の人間に成っているのだろう…。


それにしても…10年と言う年月を共に過ごしてきた者同士、自分勝手で一方的な別れを告げに来るだけでは無く、この2年で一度でも僕の送った手紙に返事をくれたなら、この先友達で居る事だって出来たはずだ。


僕が翔太に会いたいように、翔太だって時には僕に会いたい事だって有るだろう。


でも…僕はもうウンザリだ…。


あんなに好きだった翠が、今は得体の知れない怪物の様にさえ思える。


それが韓国人特有の火病の為せる技なのか、それとも翠と言う女そのものの本性なのかは分からないが、僕に対する翠の冷酷さに2年間も晒され続け、僕は翠との思い出さえも忌々しく思えるのだった。


二度と顔も見たくない…?


笑わせるな…それはこっちのセリフだ…。


「健ちゃんが悪い事を始めたきっかけ…翔太の進学のお金の為?」


ああ、その通りだよ…そんな事はいちいち口にしなくたって分かっていると思うから、翠の問い掛けにも否定して見せるんだよ。


俺の浮気が悪いって?


だったら、俺が女を抱きたい時にいちいち断るなよ!


断られりゃ男だもの、出すもの出さなきゃ治りが付かないのは当たり前じゃないか!


今回懲役に来た事も、女を作って遊び呆けていた事も、俺一人が全部悪かったと言えるのか?


翠に対する愛情が強かったからこそ、本当に翠には済まない事をした…と反省する事も出来たが、愛情の消え掛けた今、問答無用で別れを告げられる程の何を僕がしたのだ…と開き直る気持ちしか生まれては来ない。


「待ってて上げるから行って来なよ…刑務所…」


そんな優しい言葉で僕を言いくるめ、邪魔な人間を排除したに等しいとしか言い様が無いじゃ無いか…。


もしかしたら僕の他に男が…僕が貴子と言うポン中女に惚けていただけに、翠にだって新しい男の影が無かったとは絶対に言えないはずだ。


真実など何も見えない刑務所の中、僕はただ自分の思い付く可能性の間だけで揺れ動いていた。


そして悩み、苦しみ、哀しみに暮れていたのだ。


そうなって尚…僕の本心は翠とやり直す事ばかりを模索しても居た。


僕に出来る唯一の手段と言えば…それは手紙を書いて送る事だけ。


僕は最後にもう一度だけ、翠に手紙を書いて送る事に決めた。



翠へ


この手紙が、この中から出す最後の手紙です。


いよいよ出所の日が近づいて居ます。

この2年間、一度くらいは面会に来てくれるかな…と、首を長くして待って居ましたが、とうとう翠は一度も来てくれなかったね。

それはつまり、静岡の最後の面会に来た時の翠の言葉が、本心だったと言う事なんだろうか…。


俺はね…少し考えが捻くれてるから、俺と別れるなら俺の友達とも翠は連絡を取るべきでは無かったと思うんだよ。

誰だって別れた女の消息を、自分の親友から度々耳にするのは気分のいいものでは無いだろう?

女の立場から言っても、それは同じじゃ無いのかな?


確かに浮気もしたし、二度と刑務所には入らないと言う約束を、俺は守れなかった。

でもそれは二人の間で解決した話だし、だからこそ俺は警察からも逃げずにこの2年の収容生活にも耐え続けたんだ。

翠との将来が有ると信じたからこそ…。


整備士の資格だって翠に褒めてもらいたい一心で頑張ったし、今目の前にある仮釈放だって、一日も早く翠や翔太の元に帰って、二人の為に真面目に働いて家族になりたいと思えばこその仮釈放なんだよ。


前回の手紙にも書いたけど、俺の将来に翠が居ないなら…何も無理して真面目に生きようとも俺は思わない。

自分の好きな事を好きなだけやって、また刑務所に入れられたって俺にはなんの悔いもないんだ。

本当に翠との縁が切れて仕舞えば、俺はもっともっと悪くなると自分でもそう思う。

俺の中に有る血がそうさせるんだと思う。


だからって、俺がそれを望んでいるかと言えばそれも違う。

俺だってまともな人生を歩んでみたいって願望は人並みに有るんだよ。

それには、翠や翔太の存在が必要不可欠で、自分の為じゃなく、翠や翔太の為に自分を変えてみたいと思うからなんだ。


ねえ翠…10年…二人で楽しくやって来れたんだ…俺の勝手な言い分なのかも知れないけど、もう一度やり直す道を二人で探せば…それは針の穴を通すほどの狭い道かも知れないけど…何処かに答えは見つかるんじゃ無いのかな?


最後の最後にもう一度だけ言うよ。


あと二週間…長くても三週間後には俺は娑婆に帰ります。


「もう一度だけ、俺にチャンスを下さい」


二度と翠や翔太に悲しい想いはさせないし、頑張って、努力していい夫、いい父親になるから、だから、もう一度だけ俺とやり直して欲しい。


仮釈放が近いから、今更手紙を貰っても俺の手に届かない事も有るかも知れないから、この手紙に返事は要りません。


俺の出所日は大沢社長から連絡が行くのだろうから、出所の朝、大沢社長と一緒に俺を迎えに来てくれたら嬉しく思います。

そしてもしその時、翠の姿が無かったら、俺もきっぱりと諦めて、二度と翠に、そして翔太にも連絡はしません。

だからその時は、翠も大沢社長や吉川和也には連絡をするのをやめて欲しいと思います。

他人になると言うことは、そう言うことだと俺は思うから。


最後に一つ…図々しいと思うかも知れないけど、出所の時に着る服と下着、靴を一揃え送って貰えませんか?

気持ちを新たにここから出て行く以上、せめて身に付ける物だけでも新しいものを着て出たいんだ。

お金が必要なら、大沢社長にでも言ってください。

今からでは送金の手続きも間に合わないので、大沢社長に立て替えてくれる様に手紙を書いて頼んで置くから。




恨み言…そう取れる様な言葉を織り交ぜた手紙を、この二年間で初めて書いた。


書かずには居られなかった。


そうしなければ…僕の翠に対する愛情は、確実に憎しみに変わって居たはずだ。


僕はもう一歩の所で踏み止まり、罵声ばかりの恨みの手紙を送りつける事はせず、翠との将来に爪の先ほどの希望を残したのだった。




「イガさん、今日の運動の時間ちょっと良いですか」


板金塗装班の班長をやっている上野望が、午前中の休憩時間に僕に耳打ちをした。


仮釈放での出所が近付くに従い、人間関係に於いて無益な争いを避けたいこちら側の思惑に反し、矢鱈と近付いて来る連中も少なくは無い。


大抵はどこどこの誰々に手紙をくれる様に伝えて欲しいとか、女から連絡が無いので様子を見に行って欲しいなど、凡そ面倒な用事ばかりを頼まれる。


なかには「幾らでも良いから金を送ってくれませんか」などと言う、図々しい事を平気で頼んで来る輩さえ居る。


上野はどんな面倒な用事を頼んで来るのだろう。


一瞬身構える気持ちになったが、断ればそこから人間関係が破状し、揉め事にでもなれば目の前の仮釈放も泡と消える。


今日の運動は3時10分から…それまでの時間を、僕は憂鬱な気持ちで過ごして居た。




仕事が終わり、自動車整備工場の収容者30名で隊列を組み、グラウンドまで行進をする。


グラウンドに着くと体育委員を兼任している上野が前に出て、屈伸や伸脚などの音頭を取った。


最後に「手首足首」と上野が号令を掛け「体操終わりました」と担当に報告すると、直ぐに「別れ」の号令が担当から発せられる。


その号令で新聞を読んだり、軽くランニングをしたり中には将棋や囲碁をする者など各々が好きな事をするのだが、その日は少し様子が違った。


上野が午前中の休憩で耳打ちした様に、ニコニコとした顔で僕の方へ歩いて来た。


他の連中はグラウンドの真ん中へと移動して行く。


「イガさん、これから満期リレーをやりますから来て下さい」


そう僕に告げた上野は満面の笑みだ。


満期リレー…それは本人がいくら真面目に頑張っても仮釈放が貰えず、満期で社会に出て行く仲間の為に、全力でグラウンドを一周し、頑張れよ…もう帰って来るなよと送り出す応援のエールだ。


通常の運動時間なら、二人以上で歩くな、一つに固まるなと煩い事を言う担当も、満期リレーの時だけは文句を言わない。


ジャンケンの勝ち負けでチームを分け、ふたチームでリレーをする。


出所する者が居るチームがどんなに負けていようと、アンカーとなって走る出所予定者が最後は勝つルールになっている。


勝者となってゴールを駆け抜けると、待っているのは全員のハイタッチだ。


時には泣き出す奴さえ居る。


しかし…名前の通りこれは満期で社会に出て行く者の儀式だ。


「のんちゃん、俺仮釈だよ」


「仮釈だって良いじゃないですか。皆んながイガさんの満期リレーをやりたいって」


「そうは言っても今週上がれるかどうかも分からないし…」


仮釈放で工場から出て行くのは週に一度、木曜日と決まっている。


刑務所は受刑者に仮釈放の日を絶対に教えない。


自分が果たして何時出られるのか煮詰まった気持ちで繰り込みの日を待ち続けるのだ。


「イガさん面接から4週目でしょ?間違い有りませんよ。今週無かったら来週もやりますから、取り敢えず今日は走りましょう」


相変わらず満面の笑みで上野が僕を説得している。


「だけど…なんか悪いよ…」


僕はまだ尻込みをしていた。


「皆んなイガさんに感謝してるんですよ。イガさんが居なかったら整備の資格も取れなかったって。俺たち犯罪者が、国から許された国家資格の整備士って座布団を貰えたのはイガさんのお陰だって…だからやりましょ、満期リレー」


もう断る理由は無かった。


有り難かった。


たった30人…されど30人…自分勝手でしかも凶悪な犯罪者が集まる伏魔殿の様な刑務所の中で、誰からも嫌われる事なく2年の月日を務められた事に、僕は言葉に出来ない感動を覚えていた。


満期リレーは仲の良かった者だけの自由参加。


工場の全員が参加する事は無いと言ってもいい。


それが…最年長の62歳の柴山のおっさんまでが運動靴の紐を結び直して居る。


15人ふたチームのリレーが上野の号令で始まった。


次から次と手の平でタッチをし、走者は繋がれて行く。


僕のチームが段々と遅れ出す。


周りの者が大声で囃し立てる。


誰もが本気で誰もが夢中になっていた。


僕の順番が来た時、僕のチームは相手チームからグラウンド半周は遅れていた。


相手チームのアンカーはもちろん上野だ。


運動会で名だたる外国人を抑え一番になった上野…普通に走っても勝てる相手ではない。


それでも僕は全力で走った。


息を止め、大きく手を振り、顔を真っ赤にしながら僕は走る。


先頭を走っていた上野が直線でわざと足をもつれさせ、よろける様に転んで笑いを取っている。


上野は直ぐに立ち上がり、痛そうに足を引きずって走る。


それが演技である事は誰もが知っている。


僕はその横を全速力で駆け抜け、勝者となってゴールを駆け抜けた。


同じ部屋の松崎が、最初は小憎らしいと思っていた李が、これ以上無い笑顔で汗だくの僕に駆け寄って来る。


次々と皆が僕にハイタッチをして行く。


上野が僕の腰にしがみつき、僕の体を持ち上げた。


僕は笑いながらされるがままだ。


担当のオヤジまでが笑っていた。


「イガさん、帰って来ちゃダメですよ。娑婆で待っててくださいよ」


そう言って上野は僕の体を振り回しながら笑った。


2年間…受刑生活で一番難しく、一番面倒くさいと言われる人間関係をどうにか拗らせる事もなく、今まさに刑期の終わりを迎えようとしている。


その2年間で、僕と翠は拗れるに良いだけ拗れてしまった。


二級整備士の資格を取り、手に職をつけ、沢山の本を読み、対人関係の中で人との交わりを学んだ。


刑務所と言う不毛の地に居ながら、僕にとってのこの二年は意義の深い時間だった様に思う。


何もかもがプラスに働く事ばかりだったと言うのに、ただひとつ、翠の事だけが僕の気持ちをマイナスに導いてしまった。


僕の人生で…僕が今まで生きて来た中で、一番長かった2年が…もうすぐ終わろうとしていた。

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