第25話 待ちに待った

待ちに待った




作業開始の号令で僕は洗車場に移動し、ボロボロのライトバンに凍り付くような冷たい水を掛け、洗車を始めた。


洗車班の班長だった香山の予言通り、僕が洗車班に配属された事で、今まで班長だった香山が板金塗装班に移動し、この晴見自動車整備工場で一番の新米で有る僕が洗車班の班長に任命された。


班長と言っても、一般の会社で言う所の正社員は僕一人で、後は三級自動車整備士科の訓練生が一人と小型建設機械科の訓練生が4人、授業の合間に応援で洗車の手伝いをしてくれているに過ぎない。


僕に与えられた仕事は洗車をする事はもちろん、応援で洗車の手伝いをしてくれている、誰にどの車を洗って貰うかを振り分ける事も含まれている。


誰だって新しくて綺麗で、更に言えば高級な車を洗車したい。


同部屋で仲のいい小型建設機械科の篠崎も洗車班に居るため、無意識に綺麗で洗車の楽な車を篠崎に回してしまう。


洗車班の班長なって僅かに一週間。


特に意識をしてそうしている訳でも無く、結果的にそうなっただけだと言うのに、その事でクレームが出ていると、洗車班の前班長だった香山が言いに来た。


まったく刑務所と言うのは、こうるさい姑ババァの集まりの様な所だ。


何でもかんでも人のやる事に口を出したがる奴が多くて困る。


そのクレームも洗車班の人間から出ているならまだしも、よかたの車検整備班や板金塗装班の人間が言っていると言うのだから始末に置けない。


結果、その日入庫してくる一番ボロい、誰も洗車したがらない様な車を僕が洗車する事で帳尻を合わせるようになった。


ポルシェのカイエンや真っ白いクラウンの221型が並ぶ横で、僕はサビの浮いた泥だらけのライトバンを溜息の出る様な思いを抱きながら洗っていた。


「五十嵐ぃ」


担当台で古山のオヤジが僕を呼んでいる。


しかし、車検整備班から聞こえるインパクトの音や、板金塗装班が使うオービタルサンダーの音が飽和する整備工場の中、オヤジが呼ぶ声は僕の耳には届かなかった。


「566番、五十嵐ぃ、担当台!」


先にその声に気付いたのは篠崎だ。


「イガさん、オヤジ!」


タイヤハウスの中にホースを突っ込んで、夢中になって泥を落としていた僕は、篠崎の呼びかけに怪訝な顔を向けただけだ。


「イガさん、オヤジが呼んでるよ。面会だよ、面会!」


我が事の様に破顔した篠崎が、僕の腕を引いて立ち上がらせようとする。


振り返って担当台を見ると、それが面会連行の職員で有る証の、白いブリーフケースを抱えている。


確かに面会の呼び出しだ。


何故か僕は一瞬で赤面し、ついに翠が面会に来てくれた事に、踊り出したい程の高揚を覚えた。


「ちょっと水道の水を止めて来る」


僕が言うと


「そんなの自分がやりますって、早く行って下さいよ」


と篠崎が僕の背中を押した。


僕は直ぐさま担当台に向かって右手を上げ


「担当台へ移動お願いします」


と声を張り上げた。


「よしっ!」


と言う古山のオヤジの発する許可の声が、間髪いれずに届いた。


こうなれば、ニヤニヤするなと言っても無理な話だ。


僕は満面の笑みを浮かべ、担当台の前まで小走りで移動した。


「566番五十嵐、来ました」


僕は担当台に来た事を、古山のオヤジに報告した。


古山のオヤジは「んっ」と返事をした後「面会が来てるからヘルメットを帽子に変えて準備をしろ」と言った。


作業中にニヤけている事についてはお目こぼしの様だ。


僕がヘルメットを帽子に変えて戻ると、既に面会連行の職員が白いブリーケースの中から一枚の書類を取り出し、僕を待ち構えている。


古山のオヤジの号令で僕は面会連行の職員に「キヲツケ、礼」をし、自分の証拠番号と名前を告げた。


間違いのない事を確かめた面会連行の職員が「面会1名」と声に出し、古山のオヤジに敬礼をした。


古山のオヤジも合わせるように「1名」と言って敬礼を返した。


その後、面会連行の職員が僕に書類を見せ、面会者の名前を確認する様に言った。


その名前を見て僕の顔は一瞬で曇る。


「大沢敏夫」


僕の身元引受け人だ。


そうだ…府中刑務所は親族以外に身元引受け人も面会が出来るのを僕は忘れていた。


殆どの場合、親族しか面会の出来ない刑務所の中、「面会」と聞いて僕はてっきり翠以外に面会など来るはずがないと思い込んでいたのだ。


僕の表情の変化に、古山のオヤジが直ぐに気がつき


「どうした、会いたくない相手なら面会は拒否することも出来るんだぞ」


と言った。


「いえ、てっきり女房が来たもんだと思ったので」


先ほどとは明らかにテンションの違う僕が答えた。


「そうか、この人とはどう言う関係だ」


「柄受けです」


「まあ良いじゃないか、久し振りに娑婆の人と話しをして来い。それから一応言っておくけどな、柄受けの人とは仕事の話し、帰住地の話し、家族の事、それ以外は話せないからな。誰がどうしてる、彼がどうしてると言う人の噂話をしてると、注意の対象になるから気を付ける様に」


僕は面会時の注意事項を古山のオヤジにレクチャーされ、すっかり肩を落としながら面会室までの長い道のりを行進して行った。




面会室の有る建屋に入ると直ぐにびっくり箱に入れられる。


朝一番の面会所は閑散とし、面会を待っている受刑者も僕一人しか居なかった。


「3番の番号札をお持ちの方、一番面会室にお入り下さい」


と言うアナウンスが聞こえた後、ドアの開閉する音が何度か聞こえ、直ぐに僕の入れられているびっくり箱の扉が開けられた。


3番の番号札と言う事は、約2000人ほどの受刑者が暮らす府中刑務所で、朝一番の面会とは言え、たった3人しか面会に訪れる人が無い事に、僕はもの悲しい何かを感じた。


受刑者側の面会室の扉には、タテ5センチ、ヨコ10センチほどの開閉式の小窓が設えてあり、その小窓から中を確認する様に言われた。


僕が言われた通りに確認すると


「間違いないか」


と面会立会いの職員に聞かれた。


「間違い有りません」


僕が答えると始めて面会室のドアが開けられた。


間も無く70歳に届くはずの大沢社長は、歳に似合わず健康的に日焼けした顔で笑っていた。


「御無沙汰しています。今日はわざわざすみません」


僕が頭を下げると


「なに、俺のとっからここは訳ねぇからよ」


と、砕けた江戸弁で言ってくれた。


最後に会ってから、まだ半年くらい過ぎたばかりと言うのに、ひどく懐かしい。


確かに大沢社長の会社は八王子に有り、この府中刑務所が有る府中市とは同じ東京都下に位置し、近いと言えば近い。


その八王子市の街中で、大沢社長は古くから自動車整備工場を営んでいる。


今でこそ好々爺と成りはしたが、若かりし頃は違法改造やペーパー車検の第一人者で、僕は初めて自分の車を持った時から、この大沢社長のお世話になりながら違法改造を繰り返し、通らないはずの車検を通して貰っていた。


当時は、僕が所属していた走り屋チームの溜まり場にも成っていたが、20年近い年月が経つ内に一人二人と足が遠のき、今となっては当時のメンバーで大沢自動車整備工場に出入りしているのは、僕と部品商をしている吉川和也くらいのものだ。


「中で車の整備をやってるんだって?」


大沢社長が話しを切り出した。


「いや、自動車整備工場で働いてはいるんだけど、まだ洗車しかやらせて貰えないんですよ」


愚痴としか聞こえない言葉を僕は漏らす。


「お前ほど車に詳しい奴もいないのに、刑務所も勿体無い事するな」


大沢社長が言う通り、僕は若い頃から車の改造に凝っていたので、車の構造には多少の自信は有る。


「まあ、そうは言っても僕の持ってるのは三級の資格ですから」


一応は謙遜をしてみた。


「なんだ、中にはそんなに腕のいい整備士が揃っているのか?」


「いや、有資格者は数える程しか居なくて、後はこれから整備士の資格を取る人達です」


「なんだい、それなら尚更お前が出張って行かなきゃ話しにならんだろ。お前の場合は整備も板金塗装も両方出来るんだから」


「大沢社長だからそう言ってくれますけど、中では工場担当が絶対で、どうも僕の場合、副担当に嫌われてるようなので…」


「だから何だ…嫌われてるから嫌がらせに洗車なんて誰でもやれる様な仕事をさせられているのか?」


大沢社長の鼻息が荒くなった。


「それだけが理由では無いんですけど、それも理由の一つなのは間違いありませんね」


「つまんねぇ所だなぁ、刑務所って所はよ」


「おっしゃる通りです」


僕はそう言って下を向くしかなかった。


「所で健二よ、翠ちゃんの事なんだけどな」


そう言った大沢社長の言葉に、僕は弾かれたように顔を上げた。


「翠がどうかしたんですか?」


急に早口になった僕を見て、大沢社長がおかしそうに笑った。


「ちょっと待ってください。翠さんと言うのは誰の事ですか?」


僕と大沢社長の会話に口を挟んだのは、面会立会いの職員で、袖口に金線を巻いているところを見ると、恐らく役職は専門官だろう。


「自分の内妻です」


僕は答えた。


気の短い大沢社長はすぐさま気分の悪い顔をし、鋭い目を専門官に向けている。


「内妻の許可は下りてるんだね」


専門官が僕に確認をした。


「もちろん下りてますよ」


「ならば結構です。話しを続けて下さい」


専門官が大沢社長に話しを続ける様に促した。


「しゃらくせぇ」


大沢社長は一言口の中で唸った後、僕の顔を見て不器用なウインクを送りながら笑った。


「何だい、そんなに翠ちゃんが恋しいのかい」


揶揄う様な口調で言う大沢社長が恨めしい。


「そりゃ恋しく無いとは言いませんけど、ずっと連絡がないもんで」


「まあ、そうだろうな」


「何ですか、まあそうだろうって」


「いやな、年末に毎年恒例のキムチを送って来てくれてよ、お礼の電話を入れた時、健二はどんな感じだって聞いたんだよ」


「それで、それで翠は何て答えたんですか?」


咳つく様に僕は聞いた。


「慌てるない、健二よぉ」


わざと焦らしているのか、大沢社長が可笑しそうに笑っている。


僕は焦れったい気持ちになって来た。


「だから何て言ってたか教えて下さいよ」


「今度ばかりは少しお灸を据える積もりで懲らしめてるってよ」


「翠がそう言ったんですか」


「おうよ」


「だから面会も手紙も来ないんですか?」


「他に何が有るんだよ」


そう言う事なら確かに大沢社長の言う通りかもしれない。


「まあ、健坊も真面目にやってる様だし、2月って言やぁ翠ちゃんも車検で車を持って来るだろうから、手紙くらいは書いてやる様に言っておくよ」


何と言う有り難い言葉だろうか。


「ありがとうございます。翠の妹の葵さんが亡くなった様なんですけど、その事の経緯だけでも知らせて欲しいと言って貰えますか」


「お安い御用だ」


今の僕の一番の懸念事項を、二つ返事で請け負ってくれた大沢社長に、僕は何度もお礼を言い、そして何度も頭を下げた。


「また来るからよ」


そう言って面会室を出て行く大沢社長の背中に、僕はもう一度深々と頭を下げた。

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