水泳部:隣の海は (『あたらしい魔法e.p. -丙種魔法取扱者-』より)

 泳いでいるあいだ、魚になれるだとか、空を飛ぶ鳥のようになれるだとか、そういうたとえをわたしは信じない。

 わたしはわたし。

 水の中、筋肉、神経、からだ。しなやかに伸縮するわたしは、人間そのものだ。水の中にいるあいだだけ、は。

 気が済むまで泳いでプールから上がると、声をかけられた。

「まだいたの」

「そっちこそ」

 同じ部の、友達の、喉子(のどこ)。

「またあれ、『スイマーさん』待ってるわけ」

「うん」

 最近、うちのプールに幽霊が出る、という噂が広まった。水泳部の活動が終わった頃、夕方ごろに目撃された。というか。

 第一目撃者はわたしだ。

 他の部員はあまり真面目じゃなく、というかわたしだけが執着しているみたいで、部活動が終わってからも許可を取って泳いでいた。それは今も変わらないのだけど、とにかく。

 飛び込みの音が重なる。よほど集中していた、というより自分のことしか考えられなかったのだと思う、その瞬間はおかしいとも何とも思わず泳ぎ始めた。

 けれどやはり、違和感を覚えはじめる。どうして、こんな時間に、わたし以外が泳いでいるのだろう。いや、そもそも、わたしに付いてこられる人は、うちの部にはいなかった筈なのに。

「サメっちはほんと、泳ぐことしか考えてないんだから。今度の県大会でもぶっちぎりで優勝候補なんでしょ」

 喉子はわたしのことをサメちゃん、と呼ぶ。泳ぐ姿がサメみたいだから、だそうだ。軟骨魚類扱いされるのに抵抗がないわけでもなかったが、否定できずにいたら、いつの間にか定着してしまった。

「ほんと、幽霊相手に競泳だなんて」合宿の肝試しはおどかす側だな、と言って笑う。

 恥ずかしくなって、俯いてしまう。彼女が冗談で言っているのはわかってるのに。

「喉子は」

「今まで勉強。うちの図書室、すごいね。魔法関係の本ばっか。これ、むしろ他の勉強できるの、ってくらい」

 図書委員の人曰く、何代か前の先輩にそういう人がいて、すっかり揃えてしまったのだそうだ。

「ほんとはね、やめろって言われてるの。魔法なんか取っても就職の役に立たないわよ、って。母親とかさ。でも、なんか、取っとかなきゃいけない気がして」

「うん。わかる、よ」

 わたしだって。

 きっと、水泳で日本一だとか、世界一になれるかっていうと、そんなことない。そして、そんな特技なんて、きっと役には立たないのだろうと思う。

「でもさ、サメっちは推薦でしょ。大学行って水泳続けるんじゃないの」

「わからない」ただでさえ詰まりそうな言葉がしぼむ。

「えっ、まじ」

「うん」

「そっか」

 返事はそれだけで、あとは「先に玄関で待ってるから」とだけ言って行ってしまった。

 着替えてから合流する。

 制服を着ると、一気に重さがのしかかってくるように感じて、あまり好きじゃない。制服じゃなくたってそうだ。わたしは水の中にいるほうが生きている実感があるし、陸上ではほとんど死んでいるようなもの。それは、なんていうか重力だけじゃなくて、もっと、しがらみとか、目に見えない雰囲気だとか空気が含まれている気がする。

 わたしは喋るのが下手で、喋るのだけじゃなくてなんていうか、ひとと接する、っていうこと全般が苦手で、とにかく泳ぐことだけをしてきた。周りは最初、応援してくれたり褒めてくれたりしていたけれど、わたしが泳ぎ続けることしかできない人間だということがわかると、少しずつ気味悪がられていった。

 スポーツの世界がきれい事だけじゃないって、みんな気付いているのに見ないふりをしているんだと思う。だいたいの競技は、一線を越えると狂気が見えてくる。わたしはまだ高校生だけど、近い世代、下の選手にもちらほら見かけるし、上の年代になるとほとんどがそう。当事者、わたしもだけど、は気にせず浸かっているけれど、周りはそれにあてられて距離を取ってしまう。たしなみ、だとか、趣味、として消化するのが推奨されているから、そうじゃないひとには気味が悪い。

「お待たせ」

「よしよし。じゃ、帰ろう」

 並んで歩き出す。目的地は二人とも駅。

 歩きながら喉子は勉強だとか、そもそもの魔法のよくわからなさ、とかそういう愚痴をおもしろおかしく、あくまでわたしの重荷にならないように話してくれる。

 水泳のときも、そう。

 喉子は楽しそうに泳ぐ。

 わたしみたいに陸から逃げるんじゃなくて、全身で泳ぐことの楽しさを表現してるみたいに。

「水泳、続けないの」

 ふと、喉子の足が止まる。つられて立ち止まる。

「まだ、わからないけど」

 そっかあ、と呟いて、コンビニでも寄る、と何事もなかったように訊いてくる。無言で頷いて、二人でコンビニに寄った。ヨーグルト味のアイスバーを買って、店先で開ける。

「笑わないでね。わたし、サメが好きなの。あっサメっちも好きだけど、魚の、種類の。なんか、かっこよくて。もう、最初に見た時から一目惚れで」ときどき溶け出すアイスを舐めながら喋る。

「サメっちの泳ぎを初めて見たときも、おんなじ感じがした、っていうか」

 よく喋っているのに、喉子は食べるのが早い。わたしは彼女の話を聞きながら、思ったよりも早く溶けるアイスに戸惑っていた。

「ううん、なんか、恥ずかしいけど」

 わたし、サメっちの泳ぎ、好きだよ。

 ちょっと恥ずかしそうに、でも真っ直ぐにそう言う姿になんだか、告白でもされたみたいで、わたしまで照れ隠しをするはめになったし、そのせいで慌ててアイスをかじったら小さく頭痛がした。

「わたしも」

 もどかしい。どうして、わたしは喉子みたいに、軽やかに言葉を紡げないんだろう。

「喉子の泳ぎ、羨ましいよ」

「そんなこと言われたの、初めてだなあ。どんなとこ」

「楽しそうっていうか、見てるこっちまで、水泳っていいな、って思える気がするの」

 精一杯、伝えた。けれど、喉子の表情はあまり明るくない。

「サメっちは、泳ぐの、楽しくないの」

 一瞬、答えられなかった。それは会話のリズム感が悪いからじゃなくて、なんて返していいかわからなかったから。

「わたし、コーヒー買ってくる」

 食べ終えたアイスの棒をゴミ箱に捨てて、もう一度コンビニに入っていく。

 わたしもアイスの棒をゴミ箱に捨てる。どうしてコンビニのゴミ箱には燃えるゴミと燃えないゴミの分類がないんだろう。どうでもいいことを考える。

 これが、泳ぐのが好きか嫌いか、と訊かれたんだったら、嫌いじゃない、って答えた。でも。

 それでもやっぱり、好きとは言えなくて、そもそも、好きと楽しい、って何が違うんだろう、なんて考えたりして、こんがらがってしまう。

「ただいま。えと、帰ろっか」

 コンビニから出てきた喉子はアイスコーヒーのストローをひとすすりして歩き始める。わたしは何も言えずに付いていく。

 今すぐに水の中に入りたかった。そのまま溺れてもかまわなかった。どうして、人間は陸でしか生きられないのだろう。宇宙に住もうとする時代に、海の、水の中へと思考が向かう自分はやはりおかしいのだろうか。昔観た子供向けのアニメ映画で、車で海の中を走るシーンを思い出す。あれは二十二世紀の道具を使わなきゃならなかったんだっけ。

 正直に言ってしまうと、喉子の問いかけは重すぎたし、一刻も早く逃げたかった。行き先は水の中。だからやっぱり、わたしにとっての水泳っていうのは逃避の手段でしかない。好きだなんて、とても言えない。

「なんとなくね、気付いてはいたんだ」

 振り返らずに言う。

「きっと、あの部活の中で一番サメっちの泳ぎを見てるのは、わたしだから」

 本当は嬉しいはずの言葉も、今は逆効果。わたしは沈黙を守っている。

 気付いたら駅。別れ際に喉子は、「明日、部活でいいもの見せてあげる」と言った。

 その日の夜、夢を見た。サメになって海の中を自在に泳ぎ、自分より弱い魚を次々と補食していく。まわりの水に血が濁って紫にゆらいでいった。

 翌日。喉子は久しぶりに部活に顔を出して他の部員たちと喋っていた。泳ぐ気は無いらしくて、あくまでOGが顔を出しただけ、といった風。一方のわたしはといえば、とりあえず喉子がいる、ということだけ確認した後はいつも通り淡々と泳いだ。少しずつ部員が帰っていって、プール内が静かになっていく。気付いたらわたしと喉子、二人だけになっていた。

「サメっち」

「喉子」

 わたしの返事には何も返さず、喉子が目を閉じて腕の飾りを外す。確か、魔法の何かだったと思うけど、わたしにはわからない。

「サメっち、ちょっと、泳いでみて」

「わかった」

 よくわからないけど、言われたとおりに飛び込み台に立つ。隣に人の気配。思わず喉子の方に視線を向ける。苦いような、悲しいような表情でこちらを見ている。

 じゃあ、隣にいるのは。

 あえて正体を確かめずに、飛び込む。水の音が重なる。やっぱり、そうだ。

 スイマーさん。

 泳ぎながら考える。よくわからないけど、たぶん魔法で、喉子はスイマーさんを出現させた。初めて遭遇したときから、プレッシャーっていうか、存在感みたいなものは変わらない。

 速い。

 余計なことを考えるのを止める。自分も、自分が、速く。時々、水とからだの境目が曖昧になる。

 百メートルを泳ぎ終えたとき、既にスイマーさんはいなかった。きっと、負けたのだと思う。

「喉子、今の」

「そう。わたしが『スイマーさん』を作ったの」

「喉子が」

「作ったっていうか、勝手に出てきたっていうか」喉子はひとつ息を吐いて、続ける。

「わたし、まだ、競泳諦めたくなかった。でも、きっと、サメっちみたいにもなれないだろうな、ってのももうわかってた。それで、無理矢理振り切ろうと思って勉強を始めたの。魔法を選んだのは、たまたま。でも、なんか、魔法だったら、魔法だから、他の勉強よりも、自分を変えてくれるんじゃないか、って思ったのかもしれない。そうして、ある時」

 これ、と腕の輪っかを揺らす。

「魔力制御用キャップ、っていうんだけど。これを外したまま、魔法を使っちゃった。本当に、うっかりしてた」

 その時に浮かんだのが、泳いでるときの自分のイメージ、だったらしい。

「わたしの魔法はサメっちの隣で泳いだ。ただそれだけで消えてしまった。その時は思ったんだ。もっと勉強して、ちゃんと勉強に専念して、ちゃんと諦めをつけようって。でも」

 でも、諦められなかった。

「ときどき、自分の泳ぎたいっていう気持ちを発散させるためだけに、『スイマーさん』を呼び出した。サメっち以外にも見つかって、騒ぎになったけど、ちょっとだけわくわくした」

 ただ、黙って聞いていた。わたしに何が言えるっていうんだろう。

 喉子はいつの間にか裸足になっていて、プールサイドで足を遊ばせてる。

「でも、そんないたずらも終わり。勉強、しなきゃ」

「ねえ、喉子」

「とにかくまずは、魔法の資格取らなきゃ。ちゃんと、制御できるようにならないとね」

「喉子」

 思わず、大きな声を出してしまった。誰もいないから、っていうのもあるけど、自分でもびっくりするような。

「なに、サメっち」

「泳ごう」

「えっ」

「一緒に、泳ごう。水着、持ってきてるでしょ」

「無いよ。そんな気、無かったし」

「持ってきてる」

 確信を持って、言える。

 喉子の足下ではねていた水がおとなしくなる。

 静か。

「わかった。着替えてくるから、ちょっと待ってて」

 根負けしたように、プールから去って行く。

 待っている時間が長い。長く感じるのか、本当に長いのかもわからない。

「お待たせ」

 やっぱり喉子はどこか釈然としない表情だったけど、諦めたように準備運動を始めた。飛び込みから始めずに、ふたりでプールに入る。何本か軽く流すように泳ぐ。からだに熱が入る。いつの間にか本気で泳いでいて、喉子のことまで考えられなくなっていた。

 我に返る。

「喉子」

 水の中で、泳ぎを止めて立っていた。

「わたしは、まだ、泳ぐの、好きじゃないけど」

 いつも以上に、うまく言葉にできない。でも、言わなきゃいけない。

「泳いでる喉子を見るのは、好き。喉子は気付いてないかもしれないけど、泳いだあとの喉子、すごく、いい顔してる」

「そんなこと」

「だから、泳いで。わたし、いい子じゃないから、喉子の勉強、邪魔するよ」

 言い切ってわたしは、一度水中に潜った。すぐに顔を出して、続ける。

「喉子が泳いでてくれるなら。わたし、もうちょっと、競泳が好きでいられるかもしれない、から」

「サメっち」

 自分勝手を言った。きっと、怒られる。絶交なんて言われてしまう、かもしれなくて、それだけはいやだな、と思う。

「ずるい」

 喉子は泣いてなかった。でも、泣いてるみたいだった。涙だけプールに吸い込まれてしまったみたいだ。

「上がろう」

 急に恥ずかしくなって、でももうこれ以上泳ぐ気にはならなくて、プールから上がる。喉子もワンテンポ遅れてついてくる。

「サメっちはいじわるだな」

「性格、悪いと思うよ」

「そこまで言ってない」

「ごめん」

「あやまらなくていいよ。わたし、サメっちのこと、好きだし」

「あ、ありがと」

 色んな感情が混ざり合ってどきどきしてしまう。

「サメちゃんとこの大学、魔法学科あったっけ」

「どうだったかな」

「ま、いいけどね。大学が違っても。市民プールでも。泳ぐサメっちが見られれば、それでさ」

「わたしは、喉子と同じ大学行きたいな」

「やっぱりサメっち、ずるい。自分は推薦のくせしてさ」

「ごめん」

「だから、簡単にあやまらないの」

「だって」

 わたしはやっぱり、水の中で魚になることはできない。なりたいとも、あんまり思わなかった。けれど。

 喉子のサメになら、なってあげてもいいかな、と

思ったり、する。

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