第5話


・ニッキー・ロビンソンの記憶を彼の口調で


 ネーティは食い入るように赤子を見つめる。そして時折、質問をした。

 俺は先ほど睡眠について語った。どれほど重要なものかを切実に。

 白い壁に映る赤子の姿。この宝のような安らかな寝顔を見れば落ち着くだろう――と言い出した本人は別室だったが。

 誰が落ち着くと? ネーティは延々と流れる映像を、二時間も見ていた。

 現在、午後十時十分三十秒。会食は七時三十分だった。あの流血事件から二時間経った部屋で、落ち着いたのはネーティだけだった。

 どうもネーティを含めたP・Cを、好きになれない。俺は子供に対して寛大だと自負しているが、こいつらを子供と思えなかった。

 それには理由があった。

 ニーディ・ブルックという上司を殺されたのが理由だった。

 マーヤーに言わせれば「ある意味、最大の功績」らしいが、人間様の生命が消されて功績も実績もないだろう。そもそも俺たちの未来がP・Cにあるというのに、そいつから死をもたらされて喜べるものか。俺は下戸だが、今日に限っては飲みたい気分だった。

 殺人機械と同じ部屋、同じ空気を吸い、喋べる。

 気が狂いそうだ。いや、もう狂っているかもしれなかった。

「赤ん坊の存在証明とは何ですか」

 こんなことを殺人機械に聞かれ、答えた。

「両親。産んだ者さ。創始者であり、神。自己証明というのは本人がするものだが、赤ん坊は両親に頼るしかない。弱いから強い者にすがるのではなく、単純にそれしかない」

 こんな回答をする俺は狂人でなくて、何なのだ。

 俺の存在証明は殺人機械に講釈することか? 仕事とはいえ辛かった。

 子供は人間ではない、ということを知ったのは、ひどく昔だが、それを今、実感している。ネーティを子供といえばこいつらを人間と思わないですむ。こいつらは、俺たちがすべてなのだから、俺たちしか在りえないのだから。

 ひどい世界だ。

 その愚痴に対してマーヤーはこういった。そういえる君には救いがある、と。今はそれについて考えよう。赤子の安らかな寝顔を見て。


 五時間後、マーヤーから呼び出された。アグニの改良版をテストしたいから、コンピューターを二台用意してくれ、ということだった。 

 インド神話の火神のごとくコンピューターを焼き尽くすアグニ・システムを簡単にいうと、コンピューターの冷却システムを破壊して熱暴走させるものだ。ワクチンを作ろうにも本体とデータが無くなれば無理だから究極と思えた。

 しかし人間は進歩する。半年でワクチンは完成し、全世界に普及された。マーヤーの手によって作られたウイルスを淘汰したのは、他ならぬマーヤーだった。

「やっぱり責任はとらないとね」そういって煙草をふかしながらマーヤーはワクチンを作った。その過程は稲妻のように一瞬だった。未成年とは思えぬ手際だった。

 

 マーヤーの私室に、ノートパソコンを二台かついで行った。もう日が変わって午前三時。眠りたい。赤子のように、安らかに。天才の部屋は、累々と築かれた本の巣窟だった。小説から哲学書まで多種多様。さらに煙草の吸殻、煙でむせかるような淀んだ空気。主人はベッドの上で新しい煙草の封をきっていた。

 そんなマーヤーが改良をくわえた、新しいアグニは、俺からみても駄作だった。ウイルスに感染したコンピューターが燃えずに、ウイルスを送りつけた方のコンピューターが発火した。サーバーを経由して転送されるデータも、逆に感染した方にすべてのデータが転送されて灰になってしまった。

「ブラック・ジョーク・ウイルスさ」子供のように喜々としてマーヤーは言った。

「三時間かけてやっと完成したよ」

「どうする気だ? こんなもの誰も欲しくない」俺の疑問は当然だろう。

「需要なんて最初から考えていない。僕の自己満足さ」

「楽しいか?」

「すごく」

 やれやれ、こいつも狂ったか。だが、今なら何とかなるとも考えた。

「ニーディの真似事か。くだらん人間になったもんだ」

 俺がけなすことで、マーヤーを思いとどませられると思った。

「行き着く果てはマーヤー、お前の体が発火するウイルスか?」

 そのときの、マーヤーの顔は忘れない。

 すべてを受け入れた者の表情だった。

 瞼が開いているのに、何も見ていない人間がつくる笑顔だった。

「ニッキーは正三角形を書ける?」

 呟く声は、澄みきった湖面のように静かだった。

「ペンがあればな」

 俺の声はかすかに荒れていた。

「僕は書けないのさ。そう気づいたときは、まいったよ……でもね」

 ゆらゆらと燃え盛るロウソクが、消える瞬間に、これ以上にない熱量を放った。心の中でくすぶっていた炎がマーヤーの瞳を、赤く燃やすようだった。

 マーヤーは笑い声を出している。小さい声で、啄木鳥のように、連鎖する笑い声。

「でもね、ニッキー。表現方法は人によって違う。僕は、横暴を許される立場にいるんだ。だったらやるよ」

 もう、こいつはわからない。クリニックに連れて行こうと真剣に思った。ローディのこともある。あいつも、こんな精神状態だったに違いなかった。

「死んで天国に行くなんてことは無い。あるのは意識の消滅だぞ」

 俺は、これしか言えない。休憩室に戻ろうと、マーヤーの私室を後にした。

 

 男性用休憩室に入ると、ネスが腕組みしてノートに向かっていた。俺は隣に腰を下ろした。ソファの柔らかいクッションが安堵感をもたらしてくれた。

「新しいネタでも浮かんだのか?」

 ネスは元スタンダップコメディアンだ。笑えないという致命的なトーク・センスをマーヤーにかわれた、哀れな子羊だった。

「聞いてやるよ。言ってみろ」あくびをして、俺は目を閉じた。

「ニッキー、正三角形って、なんだ?」

「またそれか。マーヤーに言われたのか?」

 ああ、とネスは頷く。ジュニア・ハイスクールのようだった。俺は二回目のあくびをして言った。

「頭の中で、三角形を思い描いてみろ。それが『正三角形』だ。誰にも否定できない究極の三角形だ」

「それが、なんだってんだ?」

「プラトンのイデア論……カビ臭い哲学さ。それより、ネーティはどうしている?」

「ジュンコが連れて行ったきりだ」

 俺はネスの顔を睨んだ。

「何故? 何処に?」

 ネスが困惑の表情を浮かべる。言っていいものか、頭の中で高速処理しているのだろう。俺は襟首を掴んで、問いただした。最悪の状況を想定し、回避するためにだった。


 俺は走った。基地内を全力で駆けた。

 五分で息が上がる。日ごろの運動不足を呪った。これが終わったら、ジムに通い体力を養ってやる。エクササイズではなく、アスリートを目指す意気で鍛えなおしてやるから、ジュンコとネーティを見つけるまで、へばるなと言い聞かせた。

 ネスは結局、喋らなかった。何かを隠している素振りはあった。

 ナシンにも問いただした。彼女には、内緒ですから、と扉越しに拒絶された。

 俺のあずかり知るところで、人間が狂っていく。マーヤーに続いてジュンコもどうかしてしまった。

 ニーディを思い出した。あいつの顔、言葉を。

「実験だよ。宇宙人に殺人衝動があるか、調べるのさ」

 そう言って三秒でミンチにされたニーディ。血、肉、内臓をぶちまかれてP・Cに殺人は可能という実験結果を残してあいつは死んだ。

 最悪の場合を想定し、基地指令官に報告すると、俺は走った。


 十人ほどの武装した兵士と合流した俺は、さらに走った。


 カフェテラスで人ごみに出くわした。こんな深夜に、なんて人数なんだ。

 今日のゲストは誰だ、と声が聞こえた。そうか、来週は基地内でパーティがある。余興の練習を見学しようと集まったのか。

「どいてくれ! P・C研究室の者だ!」俺が声を上げると、アラーのご加護がごとく道が現れた。俺たちはまっすぐ進む。

 テラスの中央で、五人の男女が楽器を持ち、俺を見た。正確には、武装兵に驚いていたのだろう。

「何をやっている」俺は、息を整えて、冷静に聞いた。

「ジュンコ、何を考えてやがる」

 白衣姿のジュンコが、ピアノの前にいた。

 後ろには、ネーティがいた。

「こんなところで、何をするつもりだ!」

 やはり、冷静にはなれない。こんな人の多いところでネーティが殺人衝動を起こせば、大惨事だ。ジュンコは口をぱくぱくさせて、ようやく言葉を発した。

「ネーティが、音楽に興味持ったから、ピアノを教えようと……マーヤーの許可はあるわよ? ニッキーこそ、どうしたの?」


 その後、基地司令官から説教を受けた俺は、ぐったりとしてカフェテラスで酒におぼれた。

 日が昇るころ、俺は二日酔いに対抗するべくバーボンを飲んだ。とっくにネーティのピアノは音楽を奏でていた。観客は少ないが、立派なコンサートだった。

 バーボンを二本開けて、人間の生活に反し、うとうととする。テラスに響く音楽は軽快だった。ネーティは驚くことにセッションしていた。ギターとドラム、ベースの三人は兵器開発のスタッフだった。

 古い曲だがボストンの〝More Than A Feeling〟――臨時ボーカルのナシンは音痴だったが、歌詞はネーティにぴったりだった。一部抜粋しておこう。


『考え込むことに疲れたら

 僕は音楽にのめり込み、現実を忘れる

 そしてかつて知った女の娘の夢を見るのさ

 目を閉じると彼女の面影は失せていった

 彼女は滑るように去っていった……』


『――それは知覚を超えたもの

 あの懐かしい曲を聞くと……

 そして僕は夢見はじめる

 マリーアンが出て行く姿だけが見える

 僕のマリーアンがゆっくりと消えていく』



「古い曲ね」そのときはジュンコも眠たそうに目をこすっていた。

「子守唄に聞こえる」この俺の言葉を聞いて、ジュンコは「そうね」と言った。


 さて俺が基地内を、最悪を回避するべく奔走している間、ノーマークだったやつがいる。あいつは俺に何をさせたかったのかと時々思い返すが、そこは、子供の考えに大人は勝てない、ということだ。

 子供を子供と証明する人間は、大人であることが条件だ。独立した個人の経験は得たものを正確に表す……といいたいが、俺にはあいつのような記憶はない。俺の子供時代はバスケットボールで埋め尽くされている。

 あいつの子供時代は、たぶんだが、今なんだ。


 永遠の子供、マーヤー・ガンディーに、幸あれ。


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