論点三、クラタは正気ではないのか。

 二つの西瓜を空き家に準備していたというクラタの異様な行動を、どこまで掘り下げて解釈するべきだろうか。最初の僕の解釈は、クラタのほうがむしろ“狂気”であり、自分のあつらえた二つの西瓜を本当に妹と母親の首だと信じているというものだった。クラタはスオウさんに再会するずっと前から、尾花沢の空き家で西瓜を崇めていた。また、逗子で銀の盆に載った西瓜をスオウさんに見せられたことも、それをスオウさんが妹の首だと言ったことも、すべてクラタの幻想だった。クラタもまた、スオウさんに自分の姿を見ていたために、そうした幻想を抱いたのではないだろうか――。こうした論理で、三つ目の論点には決着を付けようと思っていた。

 しかし、この解釈は、これまでの二回にわたる議論と大きく矛盾している。改めて、これまで導いてきた仮説を復習してみよう。


▼論点一から導いた仮説

 スオウさんは、妹を独占するとともに、その妹をも包摂する存在として、母親を独占しようとした。実の赤い西瓜は女性(器)の象徴である。落窪さんは、自分でも制御できない(エディプスコンプレックス的な)欲望の世界を、自ら脚本化し、演出することでコントロールしようと試みている。

 さらに、落窪さんの夢が脚本と同じように展開されていたとするならば、その夢は僕と落窪さんが鏡映しの関係であることを示唆している。それを表現するため、落窪さんは劇中で同じく鏡映しであるクラタとスオウさんを登場させ、僕と落窪さんがちょうど入れ替わったような配役を決めた。


▼論点二から導いた仮説

 スオウさんの脳の損傷は高次機能障害を引き起こしてはおらず、スオウさんは両親と妹が交通事故で死んだことは正確に認識したうえで“狂人”を演じ、西瓜を銀の盆に載せて妹として崇めているように見せている。その理由は、クラタをそそのかし、クラタがどんな反応を見せるかを楽しむためである。スオウさんは鏡映しの関係であるクラタを貶めることで自らを傷つけている。家族を失った絶望のなかで命をつなぐとともに、彼なりの宗教儀式=葬儀を行うことが自傷行為の動機である。


 これらはあくまで仮説だから、本来であれば正しいかどうかを検証していく必要があるが、仮に正しいとするならば「スオウさんが自宅で銀の盆に載せた西瓜を妹として愛でている」ことは、クラタの幻想だとは考えられない。そもそも、脚本にあるスオウさんの台詞を見ただけでも、スオウさんは実際に西瓜を妹に見立てて崇め(るふりをし)てきたことがわかる。


スオウさん「俺に勝ったつもりか。首が二つあれば、俺に勝てるとでも思ったか」


 と、僕はある重大なことに思い至った。二人が鏡映しの関係であるなら、なぜ西瓜の数が違うのだ。たとえスオウさんが、クラタも同じように西瓜を見せてくることを予想していたとしても、その西瓜の数が自分のものより多いということは想像できていただろうか。鏡にまつわるあらゆる怪談を思い起こして、僕はぞっと背筋を震わせた。鏡の向こうにはパラレルワールドが広がっていて、実体がそこに引きずり込まれてしまう。鏡に映された虚像が意思を持ち、実体と異なる動きをする……。

 そのとき、僕は自明の前提に初めて気づかされた。鏡に映された姿と鏡の前に立つ事物は、そもそも対等ではない。鏡の前に立つ実体が、鏡に映された虚像に対する主導権を握っているのは明らかだ。ひょっとすると、クラタとスオウさんは鏡を挟んで、どちらかが実体として優位に立とうとしているということなのではないだろうか。

 スオウさんは、自分を傷つけることで自分の生を確証しようとしたのではなく、鏡の向こうにいるクラタを貶めることで、自分が実体であり、クラタが虚像であることを確かめたかったのだ。自分の言動がどんなに奇怪なものであっても、クラタが否応なくそれを真似てくることを立証する。さらに、自分をまねるクラタの振る舞いがどれだけ滑稽なものかをあざ笑う。そのことで、自分が優位である事実を改めて強固にする。それが、スオウさんの試みだったのではないだろうか。

 対するクラタは、そのスオウさんの企みに完全には抗うことができない。その理由は、おそらく、何か普遍的な理論で説明できるものというよりも、むしろこの二人の関係性特有のものだろう。人の一対一の関係性は、当然のことながらすべて普遍化できるものではない。クラタとスオウさんの関係性の場合には、普遍化できない範囲で、クラタがどうしても後手に回ってしまうということだ。そんな中、クラタは少しでも自分の主体性を保っておきたいと思っている。だから可能な限り最大限の、しかしほんのささやかな反抗として、西瓜の数を二つに増やした。しかし、そうしたクラタの心理を読み取ったスオウさんは「勝ったつもりか」と言い放つ。クラタの反抗は、余計にスオウさんの嘲笑を誘うことになってしまった。

 二人の言動は常識的な感覚では理解できない“狂気的”なものだ。だが、二人はあくまで正気である。そのことがいっそう、二人を“狂気的”に見せている。二回目の議論と同じだ。

 二人の関係性は、一見すると完全にスオウさんに主導権があるように思われる。しかし、本当にそうであるなら、スオウさんはこのように相手を試すようなことはしないはずだ。とすると、劇中で描かれている範囲を超えたところで、スオウさんの主導権は絶えずクラタに脅かされているということになる。劇の外の世界、それはすなわち、僕と落窪さんの関係性だ。相手より優位に立ちたい。相手は自分を真似ているだけだと思いたい。その心理が僕にはとてもよくわかった。なぜなら僕自身が、いつもどこかで落窪さんを出し抜きたいと思っているからだ。

 鏡映しの関係には主従関係はあるものの、その鏡を挟んだ事物と像はある程度「互角」なものだと僕は思っている。もちろん、落窪さんと僕は完全に互角ではない。前にも言ったように、僕にはないものを多く持ち合わせる落窪さんに感服することは多いし、何なら尊敬していると言ってもいい。また、頑固で決して他人に忖度しないその人格には、むしろ恐れているところすらある。

 それでも僕は、落窪さんのことを「自分より上位の存在」とは思えない。僕たちは同郷で、同じ小学校で六年間学んだ。今は同じ大学に通い、同じ劇団に所属している。いや、そんな目に見える共通点を列挙するまでもないほどに、僕と落窪さんは共通の価値観をベースとしている感覚を強烈に持っているのだ。

 ある意味では、僕は落窪さんに依存しているのかもしれない。僕のあらゆる判断基準が、気づかぬ間に落窪さんに影響されているようにも感じられる。現に、落窪さんが薦めてきた音楽や映画、本などから、思考や嗜好の枠組みが規定されることは多い。でもそれはおそらく、落窪さんも同じであるはずだ。具体的に例示することはできないけれど、僕たちは確かに共依存の関係にある。鏡の前に立つ実体だって、そこに映された虚像を「自分の真の姿」だと信じているという意味では、その虚像に依存しているといえるだろう。

 だからこそ、僕は落窪さんより上に立ちたいと思う。落窪さんが少し自分の先を走り始めたら、そこに並び、そしてリードしてやりたいと思う。ただし、僕は自分が落窪さんより上位にいることを周りに見せつけたいわけではない。極端にいえば、劇団のメンバーから見た僕たちは「いつも一緒にいる一番の親友同士」でもかまわないし、むしろそう見えていたほうが好都合であるとすら思う。だが、二人だけの関係性においては、僕が虚像を支配する実体でありたいのだ。たとえ落窪さんがわけのわからない言動をし、難解な芝居を書いたとしても、僕はそれを理解したいと思う。理解できれば、そう“理解してやる”ことができれば、僕は落窪さんより優位に立てるとどこかで信じている。

 そして、そんな僕の信念を、鏡越しの落窪さんは知っている。知っているからこそ、このような脚本が書けるのだ。さらに、落窪さんはこの芝居を通じて「お前の悪あがきは無謀だ」と主張しているに違いない。主導権を握るのは、脚本を書き、演出し、舞台を支配しているこの俺だ。俺の表現力をすべて動員した劇作で、俺が優位にあることをお前に見せつけてやる。それが俺にとっての「卒業」なのだ、と。

 かっと頭に血が上ったが、次の瞬間に僕を襲ったのは、言いようもない恐怖だった。今一度、スオウさんとクラタの姿が、落窪さんと僕に重なった。クラタをからかうために膨大な手間と時間をかけて狂人を演じるスオウさんと、プロジェクト公演をひとつ立ち上げてまで僕を出し抜こうとする落窪さん。一つの西瓜を愛でるスオウさんより上位に立つために二つの西瓜を用意したクラタと、芝居を通じた支配に抗うためにその解釈と考察に没頭し、必死に役作りをする僕。狂っているのは、西瓜に取り憑かれた芝居の登場人物たちではない。鏡を挟んで正気でいがみ合う僕たちこそが“狂気”なのではないだろうか。

 だが、その事実さえも、落窪さんは知っていたとしたら?

 僕は独り取り残された部室で頭を抱えた。僕はスオウさんを演じ、スオウさんとクラタは鏡映しであり、クラタのモデルは僕であり、その僕がスオウさんを演じる。演じ演じられる者たちによるメビウスの輪。落窪さんは正気で狂気的ないがみ合いをする青年を描き、その狂気的な行為によって正気で僕といがみ合い、そのいがみ合いが狂気的であることを正気で認識している。狂気と正気の無限のメタ化、あるいは入れ子構造。これらは鏡映しというより、むしろ合わせ鏡を想起させた。鏡に挟まれ、鏡を挟む僕たちは、自分たち自身に終わりなく翻弄される。

 不毛だ。

 そのとき僕は、ごく自然な感覚で、この舞台を降りたいと思った。僕ができること、それは「僕たちは鏡映しなんかではない」と宣言することだ。そして、僕たちの間にある偽りの鏡を割ってしまうことだ。僕たちは互いの存在に縛られる必要などない。鏡を割ったとしても、どちらか片方が消えてしまうことはない。なぜなら、その鏡は偽りに過ぎないからだ。だが、そう強く思う一方で、僕にはそれがとても恐ろしいことのように感じられた。極度に依存しているものから自らを引き離してしまったとき、拠り所のなくなった僕はどうなるのだろう。鏡を失くした僕は何を見て生きていけばいいのだろうか。鏡を割ってしまっても、本当に僕は消えてしまうことなく、存在し続けることができるのだろうか。

 僕は自分に猶予を与えることにした。この芝居を最後に、僕は落窪さんとのレースをやめる。トラックを出る。そして文字どおり、舞台を降りる。劇団をやめて、新しい生活をスタートさせる。就職活動も始めよう。その代わり、この芝居では同じ舞台の上で落窪さんと全力で戦う。

僕は唇を噛みしめて覚悟を決めた。張り詰めていたものがみぞおちあたりで凝縮して、こみ上げるような吐き気がした。

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