四十七 諸政党の萌芽と板垣退助の遭難

 明治14年(西暦1882年)10月に政変を受けて急遽結成された自由党は日本で最初の近代政党である。その結党と前後して、この自由党の“別働隊”として「大阪立憲政党」なるものが結成されたという。


 明治14年8月末から政変のあった10月まで板垣退助は神戸、大阪、横浜、東京、新潟と各地を遊説したのだが、この時に板垣の来阪を受けて明治14年9月にまず「近畿自由党」が結成されたらしい。結党に向ける動きが進んでいた来たるべき自由党の地方支部を志したものだろうか。


 ちょっとマイナーな団体であるからか資料によって時期にバラつきがあるのだが、国会開設の詔勅とそれを受けた自由党懇親会の後、自由党結成大会に前後して10月25日、あるいは翌11月に小島忠里と古沢滋によって近畿自由党は大阪立憲政党に変わったのだという。


 名前は変わったものの自由党の中枢である土佐派との関係は保たれた。大阪立憲政党は当初自由党の板垣退助総理を迎え入れて自分たちの党の総裁も兼任してもらおうとしたようだが上手く行かなかったらしく、自由党副総理に就任した中島信行が大阪立憲政党の総理を兼任することになった。



 明治15年2月には大阪日報を買収し、古沢滋を主筆として機関紙『日本立憲政党新聞』を創刊。同年10月になると大阪、京都、兵庫、福井といった近畿周辺の府県を中心に641名の党員を組織するまでに至る。


 中心メンバーは古沢滋、小島忠里、小室信介、永田一二ら関西の民権家に加えてなんと東京から嚶鳴社員の河津祐之と、あの草間時福までも迎え入れていたという。さらには植木枝盛の私擬憲法「東洋大日本国憲按」までもこの大阪立憲政党の国憲案であるとする人までいるらしいが、自由党や土佐派への心証がかなり悪そうな嚶鳴社の人々と他の党員は上手く共存できていたのだろうか?


 大阪立憲政党は集会条例などの影響で明治16年3月15日に解党してしまったが、九州改進党と同様に近畿各地で解党後も活動が引き継がれていたらしい。


 大阪立憲政党のような地方政党は当時各地で結成されたと思われるが、流石に把握しきれないので既に名前を出しているものを中心に取り上げていく。

 明治15年3月12日に九州改進党が結成され、その翌日に結党したのが東京の方の立憲帝政党である。(我ながら妙な区別の仕方になってしまったが)



 そして「来年の末までに議員選挙を行い、再来年の初めには国会を開け」と無茶な主張をしていた大隈重信は九州改進党と立憲帝政党の翌月4月16日にようやく立憲改進党の結党式にこぎ着け、かつて自身が主張していた選挙期間にまだ結党できてないというような醜態はさすがに避けられた。


 大隈の下で立憲改進党に合流したのは明治14年政変で下野した尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄ら元慶應義塾生のグループである東洋議政会と、同様に明治14年政変で大隈と共に下野した河野敏鎌、牟田口元学、春木義彰など元官僚の修進会、大隈の東京専門学校(早稲田大学の前身)創立に加わる小野梓、高田早苗、天野為之ら鷗渡会、そして自由党結党で土佐派と袂を分かった嚶鳴社の沼間守一、島田三郎、肥塚龍などがここに合流した。


 草間時福らは別行動をとったということだろうか。




 そしてこの立憲改進党結党の少し前にもう一つ、日本史の教科書に載る事件が発生する。


 明治15年4月6日、岐阜県で遊説を行っていた板垣退助が刃物を持った小学校の教員に襲撃されたのだ。岐阜事件、あるいは板垣退助遭難事件といわれる暗殺未遂事件である。



 板垣は3月10日に竹内綱らと共に東海道へ遊説旅行に出発し、3月中は静岡、浜松、名古屋などで演説を行い、4月5日に岐阜の旅館へ到着。神道の布教所を演説会場にして翌日午後1時から6時まで板垣退助と、自由党の幹事にして愛知交親社の創設者である内藤魯一らが演説を行ったという。



 そして午後6時半、演説会場玄関の階段を下りてきた板垣に対し相原尚褧(あいはら なおふみ)という男が「将来の賊!」という何やらすごい罵声と共に襲い掛かり、刃渡り27センチ程の刃物で板垣の左胸を突き刺した。


 この時、土佐士族として呑敵流小具足と呼ばれる柔術の流派を会得していた板垣は相手の腹部に肘打ちの当身によって反撃し相原を一瞬ひるませたという。




 余談だが、とある対戦格闘ゲームには“当身してきた相手を躱した上で投げ技によって反撃する”という「当て身投げ」なる技が登場し、一部格闘ゲーム界隈において「当て身」という語そのものがカウンター技のような物と誤解されたなんて話があるらしい。


 岐阜事件の板垣は奇しくもカウンターのような形で「当身」を使っているが、柔術における「当身」とは字面の通りパンチやキック、エルボー、タックルなどといった打撃技を指した呼称なのだそうだ。




 さて、板垣の当身を受けた相原は一旦ひるんだものの再び襲い掛かり、そのまま板垣ともみ合いの格闘になったところをようやく駆けつけた内藤魯一によって取り押さえられた。


 ここで板垣が声高々に宣言したといわれる言葉があの「板垣死すとも自由は死せず」である。


 この名台詞(?)には当時から「実は痛みでそんなこと喋るどころではなかったりして……」「近くにいた内藤魯一が勝手に言った説」等の疑いが噂されていたが、報告書毎に細かい文言のバラつきはあるものの、板垣がそのような趣旨の言葉を口にしたという内容では警察の報告書や新聞の報道も一致しており、目撃者たちもそれを否定しなかったので似たようなことはその場で喋っていたのだろう。


 “刺客がもう一度板垣を突き刺そうとして相手と一緒に倒れ、その時素早くはね起きた板垣は、刺客を見下ろすように睨みつけて「板垣は死すとも自由の精神は決して死せざるぞ」と怒鳴りつけたものの、その言葉が言い終わらないうちに相手は再び切り掛ってきた”とか、“襲われたあとに竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言った”とか、“刺客に対して、自分が死ぬことがあったとしても「自由ハ永世不滅ナルベキ」と笑った”とか、“大野宰次郎氏が駆け寄って血塗れの板垣に抱きつき、「嗚呼残念なるかな」と叫んで泣くので板垣は頭を廻らして静かに「嘆きたまふな板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と語りかけた”等々、表現も状況も妙にバリエーション豊かである。


 ひょっとするとこの言葉は“実際には言ってなかった疑惑”どころか、襲ってきた刺客の相原と駆けつけてきた自由党の部下たちとに対して同じような内容のセリフを事件中に何度も繰り返し言っていたのかもしれない。




 ところで以前、北陸での立志社員と向陽社員たちの対立についてのところで“明治13年5月に後藤新平は公立愛知病院長兼医学校長心得という職に就き、月給が60円になった”というのを話題に出したが、岐阜から隣の県というのもあってか愛知を拠点とする内藤魯一と何かのツテがあったのか、板垣が襲撃された岐阜事件で後藤新平は内藤魯一に呼ばれ、事件の翌日には板垣の許に到着し治療に参加している。


 隣の県の公立病院からわざわざ馳せ参じてくれた後藤を板垣は当初政府からの刺客と思い込み治療を断りかけたらしいが、最終的には後藤について「彼を政治家にできないのが残念」と言うほどに通じ合うところがあったようである。




 県外の反応についてであるが、板垣遭難事件の報告は当然ながら日本各地に衝撃を与えた。特に東京の自由党本部では当初「板垣総理が殺害された」という誤報が入り、後藤象二郎がぶち切れかけるという混乱があったらしいが、より正確な連絡が届いたことでとりあえず自由党本部からは立志社の重鎮でもあった谷重喜一名を総代表として岐阜に送るという対応にまで落ち着いた。


 しかし自由党本部はそのように落ち着いたものの、日本全国を駆け巡ったニュースに高知から植木枝盛や片岡健吉その他の自由党員が岐阜に向かい、事件現場の隣県である愛知の自由党員らも同様の行動をし、近畿の自由党系列である大阪立憲政党からは中島信行ら幹部党員十数名が岐阜に出て来て、さらに立憲改進党結成を目前に控えている大隈重信からも岐阜へと使者が送られ、興奮した民権運動家たちの集結で近隣地域はだいぶ物々しい空気になってしまったという。




 事件の翌日に政府首脳にも板垣遭難の報せが届くと閣議が中断され、山県有朋から事件についての上奏が行われると直ちに勅使の派遣が決定されるなど政府も敏感に反応した。


 事件から5日ほど経って11日の正午過ぎには“明日、明治天皇勅使来訪”という電報が板垣たちのところに届く。


 興奮する一部の自由党員は襲撃の裏側で政府が手を引いているものと思い込み、“勅使を断ったらよいではないか”と話す者もいたが、板垣はむしろ“陛下の「聖恩」が「臣退助」の身に及ぶ”と述べて涙を浮かべるほど喜び、この様子を見た党員たちは随分と白けてしまったようで無言のまま次々に帰っていってしまった……というのを後藤新平が目撃している。


 この温度差は元参議である板垣に“岩倉使節団が外遊している間、自分たちは天皇陛下と一緒に東京で留守政府を担っていた”という感覚もあったであろう一方で、自由党員の中にはもしかすると“天皇陛下が薩長藩閥政府の傀儡にされているかもしれない”というレベルまで帝室と政府を一体視していた者が少なからずいたのかもしれない。


 とにもかくにも勅使は到着し、板垣は見舞いとして300円という金額(つまり公立愛知病院長兼医学校長心得だった時の後藤新平の月給の5倍)を下賜された。




 この勅使は別に政府の中で“薩長土肥”という共に維新を成し遂げた仲間としての板垣に対する敬意があったとか、あるいは在野の政治家の中で重要な地位にいる板垣への暗殺未遂は近代化途上の明治政府にとっても社会の秩序を脅かす重大な脅威と映ったとかそういうのとはちょっと違い、この時すでに板垣退助遭難事件に対し政府として民権運動高揚の鎮静化を図らなければならない事態に向かっていたのも大きな理由だったらしい。



 板垣遭難の報に各地から興奮した(もしくは殺気立った)民権運動家たちが岐阜に集結しているのも地域ないしは国家の治安的に非常によろしくないのだが、それに加えて事件直後の「板垣死すとも自由は死せず」報道が一般大衆の板垣人気に火をつけていたのである。


 遭難直後から板垣の許には見舞状やら見舞客やらが殺到し、巷では板垣の写真が飛ぶように売れ、それが売り切れると撮影・現像に失敗した写し損じの写真にまで値が付き売り出され、各地の書店や出版社も商機を逃さず板垣に関する多数の伝記や演説集の刊行が決められるなど、もはや社会現象レベルの板垣ブームが沸き起こっていた。


 勅使の派遣と見舞金の下賜にはこういった大衆の精神や民権思想の高揚をいくらかでも和らげたいという意図があったとみられ、実際岐阜に集まっていた民権運動家たちは勅使の派遣によってある程度落ち着かせることに成功したようだ。



 板垣の傷はそこまで深手でもなかったらしく、勅使到着から2日後の14日には“傷が癒えた”として遊説旅行の再開を決めた。出発前に自由党幹部らが岐阜で演説会を開くと板垣人気の効果で3000人ほどが集まったとか。




 板垣退助を襲撃した相原尚褧の人となりについても少し語る。彼の実家は名古屋藩主・徳川慶勝に副家知事として仕えていた家禄200石取りの士族だというからなかなか立派な家である。

 この名古屋藩と尾張徳川家は戊辰戦争で官軍側に忠義を示したというが、著名な元勲も出せず世間に埋没し、他の似たような境遇の地域と同様に不満を募らせていたらしい。


 しかし尚褧個人は福地源一郎が主筆として活躍する東京日日新聞の漸進主義に傾倒していたとのことで、薩長閥よりむしろ民権派に反感を抱いていたという。


 この民権派への反発は国会開設の詔勅が出されて以降も急進的活動が続いたことでさらに強められ、民権派の中心人物である板垣退助を排除すればその勢力を弱体化できるのではないかとの考えが脳裏に浮かぶようになり、板垣の東海道遊説を知って明治15年3月31日にとうとう彼は犯行を決意する。

 その日の夜に家族や仕事先に宛てた遺書を用意し、翌4月1日に名古屋の古道具屋で犯行に用いる短刀を購入。4日に岐阜へと出発した。




 結局板垣の柔術の腕前もあってか軽傷しか与えられずに取り押さえられるのだが、殺人未遂事件で極刑が下されそうなところ、加熱する板垣ブームの中でも相原の助命嘆願書を提出してくれた人物がいて裁判では無期懲役という判決になった。


 この文章を読んでくださっている読者の中にも知っている方は結構いらっしゃるかもしれないが、相原の助命嘆願書を出したのは事件の被害者である板垣退助本人である。


 さらに、この相原による板垣襲撃事件は板垣が公職を辞し在野の政治家として活動していた時期の出来事であり、よって相原は国事犯にあたらない……つまり、国事犯を想定していた恩赦の対象にならないと見做されていたのだが、板垣はこれについても2つの点を根拠に反論。


 1つは民権運動による逮捕者が国事犯として恩赦を受けたこと、2つ目に事件後の勅使派遣で明治天皇自らが「板垣は国家の元勲なり」とのコメントを出してくれたこと。


 これらのことから相原は「国事犯」相当の者として板垣は相原の恩赦歎願書までも明治天皇へ奉呈。これが受け入れられ明治22年3月29日に相原尚褧は恩赦の対象として釈放される。




 釈放された相原が板垣の許を事件の謝罪とその後の助命や恩赦歎願の礼を述べに訪れれば「国を思うが故の事なのだから陳謝するに及ばない。男子一念、ただ国を思うに斯くの如き心を持たずして何事をや成せん」と返す。その上さらに「もしもまた、私が国の行く末を誤らせようとして見えたならもう一度白刃によって私を殺しに来なさい」などと続けられるに至っては相原も恐縮し通しだったという。 「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」とは言うが殺そうとした相手本人が自分の助命や恩赦の歎願までしてくれた上に本当にそこまで言われてはそりゃ恐縮するほかあるまい。



 もしかするともはやそんなことができる様子ではないと分かったうえで言った言葉かもしれないが頭山や奈良原が板垣を信用したことについて“人を見る目があった”と評してもいいのではないか。


 ……まあ、岐阜事件での負傷から半年ちょっとでヨーロッパ外遊の誘いに乗って日本を出て行ってしまい、党内からの評価を乱高下させるのが板垣退助という人なのだが。




 一先ずここらで岐阜事件後の明治15年4月に話を戻すと、相原が東京日日新聞の読者だったというのはすぐさま世間に知れ渡り、自由党系の新聞と東京日日新聞との間で激しい論戦が繰り広げられた。


 自由党系の『愛岐日報』は4月12日号で「自由は死せず」発言を刺客をにらみつけた際の台詞として扱い、板垣を「東洋の一人傑」と称えつつ、板垣を襲撃した犯人は反対党の一員だとして批判した上で、板垣の言葉をもう一度引用して自由は滅びずと論じたという。

 大阪日報が近畿自由党に買収されて創刊した『日本立憲政党新聞』も4月29日号で相原を福地源一郎らが起こした漸進党派の立憲帝政党系に属する人物とし、『東京日日新聞』の讒言を信じて犯行に及んだのだと批判した。


 当然ながら『東京日日新聞』側も論戦に応じて社説で反論していたのだが、そんな中で日日新聞の社説欄に主筆の福地源一郎によって「名実の弁」と呼ばれる文章が掲載される。




 福地は文中で“東山道の某地にてとある政党の領袖が演説を行った際に天皇陛下を「日本人民代理○○君」と呼んだ”と語り、これは暗に臣民を主人として君民の上下をひっくり返す言葉であり、日本の国体を傾けると批判した。


 このタイミングで福地が語ったとある政党の領袖とはいかにも板垣のことを想像させるもので、『日本立憲政党新聞』は日日新聞の社説が再び板垣への凶行を教唆するものであると厳しく非難する。

 自由党本部もこれには敏感に反応し、5月9日に谷重喜らが抗議を行った。




 するとなんと、『東京日日新聞』は自由党からの抗議に対して社説で自社の記事が事実無根であると謝罪し、謝罪状と社説の取り消し広告を5月12日の紙面に掲載する羽目になってしまったのである。


 天皇を国民統合の象徴と明言する現代ならいざ知らず、「名実の弁」の内容はこの時代にソースもエビデンスもなしで公の論壇に出すにはあまりにも不穏当な内容だった。


 明治の一時期は福沢諭吉と共に「双福」と並び称され、“才においては福地が勝る”とまで言われたにも関わらず福地の存在感や影響力は次第に世間から失われていくのだが、もしかしてこの事件で見られたような一面も何か影響したのだろうか。



 一方、福地源一郎の自滅によって論戦の勝利を掴むのに成功した自由党だが、28年も経った後に『東京日日新聞』に対してさらに追い打ちをかけた。あの『自由党史』によってである。


 『自由党史』が途轍もなく歴史改竄の多い書物であるのは散々言及してきたことだが、この本は「名実の弁」が事件1月後の5月5日の公開であったのを文中2ヶ所で1ヶ月早い“4月5日”と書き換え、“唯だ僅に凶変に先つこと一日”と事実に反する論調で犯行と日日新聞の記事との結びつきが強まるように印象付けている。

 単純な記憶違いとか、長い年月が経つうちに時系列の記憶が混ざり合ったというわけではあるまい。




 そこまでやらなくても相原が『東京日日新聞』の読者であったのは事実である一方、犯行の決意は前日どころか1週間近く前と知ることのできる後世の人間としてはこの追い打ちは丸っきり蛇足だったように思えるが、そこまで強調したのにはどうやら岐阜事件より後に起こった福島事件等の民権運動家たちの蜂起と関係があるらしい。


 つまり、藩閥政府側を支持して「御用政党」と呼ばれた立憲帝政党とそれに関係する『東京日日新聞』は藩閥政府と直接的に結びついて事件を教唆したとし、板垣の遭難と福島事件等の激化事件を結びつけることで“先に政府側が暴力を用いて来たのに対して正当防衛的にやむを得ない形で武力行使へと追い込まれたのだ”という構図を作りたかったようだ。


 だとしても事実関係そのままで“日日新聞は板垣への讒言を繰り返して岐阜事件の原因となった上に、事件後も反省せず「名実の弁」のような文書を掲載した”みたいな論調で充分な気もするがわかりやすさとかの都合なのだろうか。


 ともかく『自由党史』は身内の汚点のフォローと対立相手を貶めることについて徹底した本だということだろう。




 最後に、冒頭でやっていた政党結成の話に戻って今回の締めに入らせていただこうと思う。


 明治15年4月に立憲改進党が形成された後で印象に残るのは、5月に長崎で結党した東洋社会党と、10月にまず政治結社として東京で発足した「車会党」である。



 東洋社会党を起こしたのは大和国(奈良)出身の樽井藤吉という人物で、明治7年には岩倉具視に社会主義的な政策を提言するも受け入れられず、明治10年には西南の役で西郷側に参加するも敗北して潜伏する羽目になり、無人島に理想の村をつくろうと植民に取り組んでみたが上手く行かず……と失敗続きな人だったそうだ。


 そして長崎に出てきたときに、外国帰りの人物から「貴方の主張は西洋の社会主義思想に近いのではないか」との指摘を初めて受け、佐賀の武富時敏という人(九州改進党結成にも参加した人物だという)に助言を請うなどして西洋の社会主義を研究。これに東洋の老荘思想などを合わせて明治15年5月25日「道徳の確立」「自他平等」「社会公衆の最大福利」等を掲げる東洋社会党を長崎県の島原で結成した。これが“社会党”の名を掲げる日本最初の政党である。


 佐賀に拠点を移すと農民を中心に3000余名の支持を集め、後には幸徳秋水などからも高い評価を得たというが、当然ながらその党名や主張内容によって福地源一郎などの保守派文人や政府当局の反発を受け、早くも7月7日には内務卿山田顕義から結社禁止を命じられ、それに違反したとして翌明治16年1月25日に樽井は1年の禁固刑を言い渡され東洋社会党は消滅した。


 出獄後、樽井は平岡浩太郎ら玄洋社の知遇を得て共にアジア主義者として活動を行う。およそ10年後の明治26年に『大東合邦論』を刊行した著者としても樽井藤吉の名は知られる。




 「車会党」の方は自由党左派の人脈から起こった。奥宮健之と桜田百衛は無産大衆の組織化に着手した際、当時新橋~日本橋間を馬車鉄道(馬に牽引される車両がレールの上を走る交通機関)が開通したことで失業の危機に追いやられた人力車の車夫たちに注目する。


 竹ノ内綱お抱えの人力車夫親方三浦亀吉を説得した上で神田明神境内にて懇親会を開催し「開催前に集まった者にはいくらでも酒を飲ませる」という謳い文句で300余名の車夫を集めることに成功。


 各地で懇親会と宣伝活動を繰り返し、11月24日には政党としての結党式も兼ねた演説会で一般人を含めて2000余名を集めたものの、4日後28日には演説を止めようとした巡査に暴行したかどで奥宮と三浦が捕まり、翌明治16年1月18日には桜田が数え25歳の若さで病死。車会党は自然消滅したという。


 東洋社会党ではなくこちらの車会党を日本初の無産政党と見る人もいるとか。




 日本で近代政党と呼ばれるものが発生するのとほぼ同時期に、社会主義やアジア主義といった近代日本の動向に大きな影響を与える思想もまた、その顔を現し始めていたのである。

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