三十 明治12年秋の向陽社

 さて、前回向陽社に集まった人々が正論党と正倫社の2グループに分かれたことを話したが、正倫社に属する側は愛国社大会のみに専念していたわけではなく、正論党側もまた勉強や演説以外に様々な活動を始めた。というわけで向陽社に関連する出来事を追っていこうとすると、特に明治12年の秋ごろから明治13年にかけてあちこちで色々起こって時系列を追うのが結構大変になる。


 まず第3回大会が開かれる予定だった明治12年9月の向陽社は佐賀県唐津の民権運動支援や日清戦争に備えた向陽社での義勇軍結成の呼びかけなど忙しく活動していた。

 民権政社の活動が盛んになった唐津では向陽社の社員7名か8名が常に出張滞在して指導を行った。向陽社員も参加した唐津演説会は初日の会場が聖持院というお寺だったが、超満員になって入れずにむなしく帰るしかなかったという人々が幾百人、さらに会場内で廊下の根太を踏み落として数十人が床下に転落したという大騒ぎ。2日目は千人舞台と称された大きな芝居小屋に会場を移したが、こちらも人が「充満」したというから当時の民権運動の熱気が伝わってくる。


 義勇軍について話すと、実際に日清戦争に至ったのは15年後の明治27年だが明治12年は日本政府による沖縄県設置の断行があり、これによって琉球藩は廃され琉球の王室はかつての旧藩主たちと同様に東京へ移住することを強要された。

 維新以来の西洋国際社会へのデビューに際して樺太千島や小笠原などでも行われてきた国境画定の一環であるが、東洋式に曖昧に重なり合った勢力圏が西洋式の国境線に改められるということは当然ながら中華皇帝の威光が狭まることになる。それに対して清国から抗議があり日清間の関係は悪化、東アジアにおける緊張が少しずつ高まっていた。


 そこで義勇軍の結成という話が出てくるのだが、これは別に民権運動の政治結社である彼らが軍に入って大陸へ出兵するということではない。

 募集の檄文に曰く、“……義勇兵を編制し、以って変に応ずるの予備をなし、(中略)社会の康福及び安寧を固くし英米に譲らざらんとするも亦今回の大成にあるなり”ということで、要は日本の軍事力の大部分が大陸進撃で国外へと出ていく際に自分たちは郷里の防衛隊として国内における治安維持と防衛・安全保障を政府軍に代わって担うことで地域社会の不安定化を防ぎ、他国に付け入る隙を与えない……というのがこの義勇軍の目的である。


 この義勇軍の訓練のために向陽社内でも武道熱が高まったらしく、従来からあった撃剣場に“有名剣客”だという人物を招いた他、柔術道場も新設された。この時期には向陽社の社長が箱田六輔から平岡浩太郎に代わったようだが、こうした道場の運営や義勇軍の募集もおそらく引き続き行われたのだろう。

 しかしながら、藩閥専制を批判する民権運動の政社が義勇軍として大々的に武装集団を保持することは政府から許可が下りなかっただろうと考えられる。


 向陽社の平常の活動に加えて県外の民権運動支援や義勇軍の募集、道場の運営、さらには社長の交代など1,2か月でなんとも慌ただしいが、社員によってはこれに加えて各々でまたさらに別の活動をも精力的に行っていた。まず正倫社グループでは愛国社大会への対応である。


 以前からの愛国社運営に対する非土佐派の様々な不満は第3回愛国社再興大会の突然の延期で爆発し、9月10日には筑紫新報で福井の杉田定一から頭山満への上阪要請の電報が掲載される。

 これを受けた正倫社のメンバーは大阪へ行く前の10月17日に九州の他の政社と共に久留米へと集まって会議を行い、第3回大会2日前の11月4日に大阪の宿でもう一度内会を開いた。この内会には正倫社の箱田・平岡ら4,5名と杉田定一に加えて豊津・中津などの委員や福島の河野広中らが集まり、共に結束して立志社に対抗していくことが申し合わされたという。

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