二十三 出獄と開墾社

 萩の乱への連座容疑で捕縛された頭山たちについてはずっと裁判が行われない未決の状態のまま10ヶ月獄中に置かれ、西南戦争で西郷隆盛が戦死した9月24日に箱田六輔と宮川太一郎以外は“証拠不十分”で無罪放免となった。獄中にいて福岡の変にも西南戦争にも加わってないのは明らかであるし、宮川が素早く重要書類を隠したことが功を奏したか、留守中の家宅捜索でも斬奸状などのような容疑を確定する証拠は見つけられてなかったのかもしれない。

 釈放と西郷の戦死が同一の日であったことを「奇しくも」と表現する本もあったが、警察の側としても内乱の趨勢が決して釈放後に加担するようなタイミングが無くなったと確信できるまで外に出せなかったのだろう。

 萩の乱連座組として福岡の変より前に逮捕された者たちの中で箱田六輔と宮川太一郎だけは懲役1年余りの実刑判決を受けたという。武部たちがいなくなった後の同志たちの親分格として他の者の分まで罪を背負ったか、それとも逮捕前からの密偵による監視でこの2人がリーダー格だと報告が上がっていたのか……。

 充分に考えられることだし、“箱田が全ての責任を自分にあると主張して頭山たちの罪状を軽くした”と実際に記している書籍もあるが、ただ単に“別件逮捕の上に周囲の社員を率先して扇動していたことがわかっている奴”と“逮捕される前に責任を認めて自首してきた奴”の2人が他との扱いに差が出るのは当然と言えば当然な気もする。


 「責を負う」と言えば余談になるが、諸先輩の挙兵が次々に先手を打たれて失敗に終わった原因を、後の玄洋社の社員たちは「奈良原の声が割れ鐘みたいにでかいから、作戦が全部密偵に漏れたのだ」という笑い話にして伝えたらしい。

 どのみち“昼夜の別なく矯志社の全社員のすべての行動を監視する”と言うほど意気込んだ当局の監視網の中では、奈良原の声が大きかろうが小さかろうが大した違いではないだろう。しかし挙兵失敗の責を能力面の追及などから外れた、それも笑ってしまうほどどうしようもない部分に担わせたのは、敬愛する先輩や寝食を共にした同志の多くを失った激しい悔恨と拷問と不衛生に苛まれた厳しい獄中生活や、出獄後の再起の中で大きな慰めとなったに違いない。


 その出獄後の再起だが、十ヶ月ぶりに娑婆へ出た頭山たちは非常に世知辛い話ではあるが多くの同志や先輩たちを喪った故郷でまず食う当てを探さなければならなかった。大変革の後の四民平等の時代、多くの士族たちが苦労していた頃である。

「向浜の松林を貰おうか」

 士族の若者たちの食い扶持について相談していた頭山と進藤はそのように思い至った。福岡市の東から志賀島にかけては、全長約8キロメートル、最大幅約2.5キロメートルの長大な砂州が博多湾と玄界灘を区切るようにして島と九州本土とを繋いでいる。吹上の浜や奈多の浜、あるいは「海の中道」などと呼ばれたこの陸地にはあの加藤司書が伐採権を持つ松林があった。官林となっていたここの松林10万坪の伐採権を払い下げて貰おうと頭山たちは考えたのである。

「しかし県令の渡辺は許すだろうか」

「わしら二人が行って一睨みしてやれば否も応もあるものか」

「ワハハハハ。それも良策。では張り切って睨みに行こう」

 頭山の言葉に痛快そうに賛成した進藤は、いつもの彼らしい笑顔で県庁へと乗り込んでいった。


「いいよ。あげよう」

 進藤は 松林を 手に入れた!▽


 思った以上にあっさりと10万坪の土地が手に入った。反政府的な政治運動を行っていた若者たちが大人しく自活してくれるなら県庁としても願ったり叶ったりだったのかもしれない。危険分子とも言える不平士族たちが、陸続きとはいえ半ば海の向こうの離れ小島みたいになった向浜にまとまっていてくれるなら多少は安心できるという考えもあっただろう。

 また、内戦には勝利したとはいえ大久保利通と西郷隆盛の和睦は失敗に終わり、離れたままの大衆の人心を幾分かでも取り戻すために武断政治が和らいだのだと見る向きもある。


 当局の目論見はさておき明治10年11月7日、頭山たちは向浜に「開墾社」を発足した。かつての同志たちが十数人ばかり集まって社名の通りに松林を伐採し、薪を作って船で対岸の福岡市内に運び込むという作業を続けた。伐採した松を薪にするだけでなく、焼いて松炭として付加価値を高めようといった提案も上がり、企業化が試みられた。

 また、開国後しばらく経った当時の日本では牛乳の食品価値が広まりつつあったが、開墾社では国土の四分の三が山岳であるという日本の風土を鑑みて、牛より小型でその名も漢字で“山羊”と書かれるヤギこそが日本での畜産に適しているのではという説に基づき飼育や山羊乳の販売が実験された。


 頭山満は第2次世界大戦中の1944年に亡くなった人だが、戦時中で生活のための燃料が不足したり、ヤギの飼育奨励がなされた時、晩年の頭山は木炭の品質・産地・等級を正確に言い当てたり、ヤギの品種的特徴や乳質について専門レベルの知識を語ったことで周囲の人々を驚かせたという。これは記憶力に優れていた彼の中に開墾社運営の経験が昔取った杵柄としてしっかり残っていたものだろう。

 また頭山満の目利きについては他にも、「ここしばらく体の具合が悪いままだが、医師の診断では大した病気じゃないらしい」という人を一目見て「チフスにかかっておる」と断定し、別の医者に診察させてみたら本当にその通りだったという逸話がある。こちらはおそらく獄中に蔓延した感染症によって松浦愚などの同志が斃れていくのを見た経験によるものではないだろうか。


 だが「武家の商法」というのがこの時代の世相を表すキーワードになるように、開墾社の営業も全て順調とはいかなかった。皆サムライの家の子ばかりなので商売の勝手もわからない。「侍がそんな商売をやってはいかん」という者もいた。

 頭山については出獄直後、頭山家の生活費の足しにするため一日大根売りをして働いたこともあったという。しかし彼はひたすら無言で歩き回っていたために誰にも大根売りだと気づかれず、結局半日無駄歩きをした末に丸々売れ残った大量の大根は偶々近くにあった友人宅へ窓から全部放り込んでしまったという。

 その後の開墾社の薪売りでは他の者たちがなかなか声を上げられない中で最初から「薪いらんかー」と大きな声で売り歩いたそうなので、反省が活かされたのだろう。


 しかし経営が行き詰まる中で、同志たちの中でも特に気性の荒い奈良原至にとうとう我慢の限界が来たらしい。天下国家の行く末のために働くべき政治結社がなにゆえ県知事ごときに生活の糧を与えられて慰撫され恩義を被らねばならぬのか。真夜中、密かに起き上がった奈良原は大量の薪の山の間に枯れ松葉を突っ込んで火を放った。

 薪の量に加えて、松というのがそもそも油分を分泌する種類の樹木であるから猛烈な勢いで燃え上がり、突然の海上の猛火に対岸の市内まで大騒ぎになったという。開墾社の社員たちも大慌てで駆け付けたが、大量の松脂油を含んだ薪束の山に火がついたとなると彼らには消火のしようがなく、狂ったように快哉を叫ぶ奈良原を呆然と見つめるしかなかった。


 開墾社は組織の別名を「向浜塾」として、真言宗僧侶の和田玄順を教師に招き、『精献遺言』などを若き同志たちに講じているなど政治結社的な性格も残していた。そのうちにあの箱田六輔も「受刑者の中では学がありそうだから」ということで他の囚人たちに勉強を教える代わりに減刑を受けて幾らか早めに釈放されており、早くも明治11年5月10日には佐賀や熊本から集まって来た士族有志に「大臣や県令を暗殺して専制政府を転覆せよ」と熱弁を奮っていた。

 歴史の教科書では、西南戦争の終結以降大久保利通暗殺まで士族反乱について大きな動きは見えないが、人々の精神性がバッサリと切り替われたわけでもなかったのである。


 とはいえいくら奈良原や箱田らがくすぶっていても、不平士族はあまりに多くの人材が離散してしまっており、やれそうなことはほとんどない。頭山も彼らの気持ちには大いに共感できたが、“とりあえずは今後の食い扶持が大事だ。芋畑でも耕そう”と、鍬を振り上げた。

「頭山さーん!」

 そこへ何やら若い男が駆け寄って来る。開墾社の仲間であり、頭山も知っている人物だった。

「的野君か。どうした」

 慌てた様子でやって来た男は的野恒喜。生まれは「来島 (くるしま)」という名字の家だが的野家に養子に入っていた。高場乱の興志塾門下生で、堅志社から十一学舎に合流した若い士族たちの内の一人である。西暦で言うと1860年の生まれで、頭山よりも5歳ほど年少であるから、もしかすると若さを理由に福岡の変へ参加させてもらえなかった者たちの一人であるかもしれない。そんな的野恒喜はぜえぜえ息を切らせていたが、それでもなんとか少し呼吸を整えるとこう告げた。

「お、大久保利通が、……暗殺されましたッ」

 頭山は即座に鍬を放り捨てた。

「頭山さんっ、いったいどちらへ!?」

 突如駆けだした頭山に的野が追いすがろうとする。

「土佐じゃ。板垣と話してくる!」

「土佐の板垣ですか? しかし奴は……」

「大阪会議じゃ変節漢が如き振る舞いをしたかもしれんが、それでも在野に残る数少ない有力政治家。専制政府中枢として権力を振るっていた大久保が斃れたとあっては方針も変わるやもしれんっ」

「なるほど。しかしですね一旦止まっていただいて」

「いや、事は一刻を争う! 大久保喪失による新政府の動揺も長くは続かん。この機を逃すわけにはいかぬ」

「まあ、そうですけど、周りに何も言わぬまま一人で行くわけにもいきませんから、一度皆と相談して……」

「緊急の事態じゃっ!」

「あの、ちょっと……待ってください……いきなり動くんじゃなくて……まず皆と話し合いを…………頭山さん、…………止まって、…………頭山さん止まってください…………待って…………頭山……………………いや止まれ頭山ァ!!」


 度重なる内乱の中で西郷を含め多数の同志たちを喪った不平士族たち。胸の内に炎を燻らせながらも動きあぐねていた彼らだが、そんな状態も長くは続かなかった。大久保暗殺という一大事件により、志士たちは再び激動の歴史の流れへと飛び込んでいくこととなる。

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