十 ニンジン畑の豪傑塾

 なんで眼医者に“豪傑塾”なんてものがあるのか。それを説明するに当たってまずはそこの医者にして塾長でもある人のキャラの濃さから話していこう。

 高場乱(たかばおさむ)。天保2年(西暦1831年)生まれ。小柄で華奢な、少し体の弱い女性だったという。医者の不養生というわけでもないだろうが生まれつき病気などに悩まされやすい体質だったのかもしれない。

 代々眼科医の名門で福岡藩の藩医であった高場家に高場正山の末子として生まれた。なので高場乱もまた、医者であり、女性儒学者である。

 幼少期から男として育てられた。だが女だ。

 幼名は養命と言ったが、10歳の時に「乱と書いて“おさむ”と読む」名前を父親から新たに与えられて男として元服。藩に受理されて帯刀を許される。だが女だ。

 髪は茶筅髷のちょんまげにして、頭頂部は剃って月代の形にしていた。だが女だ。

 雨が降っても傘は差さず、筍の皮を材料にした編笠を被ったという。だが女だ。

 袴を穿いていた。だが女だ。

 牛や馬に乗って移動することもあった。だが女だ。

 女とは思えぬ大声で話したという。でも体は多分女だ。

 子(養子を取った)には「父」と呼ばせ、孫には「祖父」と呼ばせ、家人からは「おじいさま」と呼ばれた。


 16歳で一度男性と結婚したが、半ば当然のごとく異性愛者の男性同士で結婚した様になった為に離婚。20歳の時に身分性別を問わず入門者を歓迎していた亀井塾に入り、「亀門の三女傑」「亀井四天王」と呼ばれるほど勉学に打ち込んだという。

 漢学を修めたのは当時の医者の素養としてだったらしいが、『管子』の中にあった「一年の計は穀を植ゆるにあり、十年の計は樹を植ゆるにあり、万年の計は人を養うにあり」という言葉が彼女――いや、彼の心に深く響いた。幕末という歴史の動乱期でもあったし、福岡では蘭癖の藩主による最新の科学受け入れも勤皇派の壊滅も起きて色々思うところがあっただろう。

 塾を始めたきっかけは父である高場正山を亡くしたからとも博多の瓦町にあった家を火事で失ったからとも伝えられているが、彼が塾を始めた詳細な時期についての記録は残っておらず、資料によって明治元年とも4年とも6年とも、火事に遭う前の安政2年(西暦1855年)に瓦町で既に始めていたという説まであるがはっきりしない。


 ともかく彼は「興志塾」という私塾を開いた。そこは藩政時代に薬用の高麗人参を育てていた畑の跡地だったので「人参畑」や「人参畑跡」の呼び名を地名としていて塾も通称の一つとして「人参畑塾」という呼び名があった。

 そして身分を問わず塾生を迎え入れたわけだが、立地条件の他に明治維新直前の勤皇党の壊滅だとか廃藩置県直前の偽札事件による事実上の藩取り潰しだとかの出来事もあって、旧藩士の子弟で志が高い上に血気盛んな士族の若者たちが続々と集まる場所になっていったのである。



 既に書いた名前から並べていくと、まずは戊辰戦争の頃の福岡藩について語った際に挙げた「福岡藩兵隊就義隊」のメンバー、武部小四郎、平岡浩太郎、進藤喜平太、箱田六輔が高場の塾に所属している。

 武部小四郎は乙丑の獄で切腹した藩士・建部武彦の息子である。建部武彦は御用聞という藩の警察機構を担う役職についていて、勤皇運動では加藤司書の腹心として動いていた。七卿落ちや第一次長州征討の際に加藤司書らと共に薩長幕の周旋に努めたが勤皇党への弾圧で切腹。息子の小四郎は家督相続すらも認められず、父の名前から字を取って新たに「武部」家を興した。


 そんな武部が名誉挽回のために「就義隊」を組織するも上手くいかなかったのは既に語ったが、実は明治2年頃の福岡藩ではもう一つ「併心隊」という別の組織が宮川太一郎という人によって作られ、就義隊と激しく対立したことがあった。

 ある日街頭で起きた衝突をきっかけに両者が険悪になると、博多の妙楽寺に屯集していた併心隊は隣の承天寺を本拠地としていた就義隊になんと焼き討ちを企てたのである。計画は事前に露見し、併心隊の宮川ら3人と、就義隊からも箱田たち3人が逮捕され、博多の豪商大賀家の一室に6人まとめて禁錮されるという処分を受けた。


 心身にエネルギーが有り余る20歳前後の若者たちである。下手するとまた大喧嘩が起きそうな処置に見えるが、幸い彼らは部屋を共にして語り合ったことで互いを理解し合い、対立は解消された。

 就義隊と併心隊は共に解体され、両組織の隊士らはやがて血気盛んな若者たちを歓迎する高場乱の塾に集まった。この時、少なくとも箱田六輔は姫島流刑3年という罰を大賀家禁錮の後に命じられたらしいので、箱田が興志塾に来たのは明治5年以降のようだ。



 戊辰戦争で西郷に心酔した平岡浩太郎は福岡藩の藩校である修猷館の出身者。平岡仁三郎という人の息子で、兄の内田良五郎は様々な武芸流派の免許を受け、武芸の達人として福岡藩の武術師範にまでなったという。平岡浩太郎の号は「玄洋」で、少し後のことまで話すと平岡は玄洋社の初代社長であり、また黒龍会を創設した内田良平(良五郎の三男)の叔父である。


 越智彦四郎という人も平岡と同じ修猷館の出身者だった。庶民のための寺子屋や私塾と違って藩校はエリート藩士養成のための公営学校だ。


 江戸時代の寺子屋では「自ら勉強していく意欲を身につける」ことを目標として精神的・道徳的素養を重視し、基本的に先生が勉強しない生徒に体罰を振るうこともなく和やかな雰囲気だった。(勉強したがらないからと殴って勉強させるのでは「自ら勉強する」という理想に根底から反するため)

 藩校はそんな寺子屋とはまったく違う。武士のエリートを養成する学校というというのはつまり将来の高級官僚を育成する機関に軍隊の士官学校が合わさるようなものだ。在校生は入学した時から厳しい出世競争に晒され、同級生や先輩後輩の間の身分差別やいじめもあったという。福岡藩出身者では珍しく(?)明治期に大臣や伯爵にまで上り詰めた金子堅太郎という人は修猷館を出た人だが、父親が1代限りの生涯士分という低い身分であったために屈辱的な思いをしながら藩校に通っていたという。


 越智彦四郎は修猷館で学び、戊辰戦争でも功を上げて賞典禄という賞与まで得たというから相当な実力者だったようだ。高場乱の興志塾に来てからも武部小四郎や宮川太一郎と共に塾生たちの間で年長のリーダー格を担った。



 修猷館出身の平岡・越智とは別の学校から来たのが奈良原至と就義隊メンバーの進藤喜平太で、この2人は文武館という藩校の出身である。

 蘭癖の藩主黒田長溥は藩士の軍事訓練にも洋式の調練を取り入れた。当然ながら急進的な変革には反発が生まれるわけで、文部館はいわば不満解消・ガス抜きのために建てられた古武道鍛錬の施設だ。

 そんな学校を出た奈良原至・進藤喜平太の両名は、恐らく彼らの生来の気質なのだがどういうわけか揃って玄洋社の中でも特におっかない人物として知られる2人だった。


 高場乱先生は授業の中で塾生たちに『水滸伝』なども語り聞かせていたため、彼らは自分たちの溜まり場である興志塾を“梁山泊”などと呼んでいた。そんな興志塾の中でも若輩でありながら腕白・荒くれ者・暴れん坊として知られた奈良原は黒旋風李逵(こくせんぷう りき)のあだ名がつけられた。

 ちなみに黒旋風李逵で検索してみるとピクシブ百科事典のページが存在していて、関連タグの中に「バーサーカー」だの「トラブルメーカー」だのといったフレーズが並んでいる。多分そういうキャラと理解して良いのだろう。


 進藤喜平太は興志塾、あるいは後の玄洋社の豪傑たちの中ではとても丁寧な人物で、どんなつまらない人物でもさん付けか君付けで呼び、いつもニコニコしている人だったという。だが何せ興志塾の塾生である。別に穏やかな人物というわけではなく、この人は嬉しい時も気に入らないことがある時もニコニコしていて、放っておくと何をしでかすかわからない人物だから仲間たちは彼の笑顔に用心しなければならなかった。

 どんな恐ろしい相手もニコニコ顔で片付け、どんなに恐ろしい場所もお辞儀をしつつ平気で通り抜け、どんな先輩の末席でも平然と座って酒を飲んで騒ぐ。喧嘩の際も相手の強弱や人数の多い少ないなどは気にしないというとんでもない人物である。



 そんな豪傑揃いの塾はむしろ頭山満の気質に余程相性が良かったようで、彼はここにズカズカと踏み込んでいった。

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