#5 神秘の都にタイフーン・ガール

 11月30日の正午前。つまりマリアンヌたちがルグラン通りでショッピングをしている頃、レグラーン港に二隻のディカルト船籍の船が寄港した。

 一方は全長135フィートの大型キャラック船で、大輪の薔薇を染め抜いたセイルと、金銀のモールをもやい、金をかぶせた船首像を取り付けた、きらびやかな装飾船だった。ニート海でインフィニティ号の後方にいた、例の宝船のような不審船である。この船の名前はロード=オブ=オーシャン号。この船に続いて係留された全長115フィートの武装船はブラッディ=ウルフ号という。

 ロード=オブ=オーシャン号からタラップがおろされ、黒服の男たちが整列して迎える中を、純白のスーツに身を包んだ若者が船から下りてきた。

 言うまでもなく、バニパル=シンジケート総帥のどら息子、アッシャー・バニパルである。

 ブラッディ=ウルフ号から降りてきた海賊ジュリアス・セザールがアッシャーの傍らに立った。取り巻きの黒服たちは彼らの後ろに整列した。そして、そのままの隊列で街のほうに向かって歩き出した。

「どうだい? ボクの航海術もなかなか堂に入ったものだっただろう」

 アッシャーはジュリアスを振り返って、得意そうに言いながら、オレンジ色のかったさらさらの髪を掻き上げた。

「ああ、そうだな」

「ふふん。これでもヨットや自家用クルーザーを操縦してたからね。パパからも『お前は船長の素質がある』って言われてたんだ」

 鼻高々に振る舞うアッシャーを、ジュリアスは不満そうな表情で見た。

「だが、航海知識や国際法についての知識はからきしだな。てめえのせいでいらない時間を食ったのを忘れたのか」

「だって、それは仕方ないじゃないか。ジュリアスが教えてくれなかったのが悪いよ」

 アッシャーは口をとがらせた。

 ニート海でマリアンヌたちがうまく利用した暴風の渦を、アッシャーの船団は回避して航行した。そして白ゼナガ川の河口にたどり着いたのだが、潮の向きが悪く、上げ潮が来るまで停船せざるを得なかった。そのときに、コスバイア海軍の警備船が現れ、追跡してきたのである。司令官旗を掲げていなかったため、不審船と見なされたからだ。

 その後一度公海上に出て、警備船の追尾を振り切ったものの、マリアンヌたちの艦隊より早く到着しようと言う最初のもくろみは失敗に終わった。

「もう司令官旗は作ったし、掲げたわけだからいいじゃないか」

「オレはあの旗もいやだぞ」

 ジュリアスはロード=オブ=オーシャン号のメーンマスト上に翻る司令官旗を指さした。即席で作った手書きの旗で、どうやら馬がデザインされているらしい。

「バニパル=シンジケートのエンブレムが『トロット・ブル(駆ける雄牛)』だから、ボクの旗はもっとかっこよく駿馬にしたよ。いいデザインだと思うけど、なにがいやなんだい」

「駿馬どころか馬にも見えねえよ。どう見てもカバじゃねえか」

 ジュリアスの言うとおり、胴回りの太さといい足の太さといい顔の大きさ形といい、紛れもなくカバの絵だった。強いていうなら、ちょっと脚の長いカバか。

「おまけに目が×だし、ヒョウ柄だし、あのしっぽは豚だろーが。すごい動物だな。もはや馬どころか実在の動物じゃねえよ。ありゃなんだオイ」

「駿馬だってば」

「どう見ても馬じゃねえっ言ってんだろ。絵心が無いどころの話じゃねえぞ」

「そうがみがみ言うなよ。誰も『このデザインの旗は世界中のどこにもありません』ってほめてたのに」

「ほめてないってことに気付けバカ。こんな旗掲げた船についていくのはいやだからな」

 ジュリアスは頭痛がしてきた。対してアッシャーは涼しい顔だ。

「それよりも、マリアンヌ・シャルマーニュが大麦を手に入れられないようにすることを考えないと。大麦をビール組合に持ち込まれるとボクの計画が台無しになってしまうからね」

「もう大麦を仕入れているかもしれねえぞ」

 そのとき、黒服の男二人が街のほうからやってきた。二隻の船が接岸するより前に、情報収集のために送り込んでいたアッシャーの部下たちだ。

「坊ちゃん、報告です。今日は交易所が休みでした」

「そうか。ご苦労」

「ご苦労じゃねえよ。マリアンヌ・シャルマーニュの動向や、大麦を仕入れたかどうかを確認しなきゃはじまらねえだろうが」

「はい。大麦はまだ仕入れていないようです。交易所の店員に聞いたところ、それらしい客は来ていないとのことでしたので」

「ふーん、とりあえず一安心だね。じゃあ、君たちはマリアンヌ・シャルマーニュの動向を探ってくれ」

 スパイ役の黒服は街に舞い戻っていった。

「さて、これからどうしようか」

「策はお前らで立てておいてくれ。オレはとりあえず、酒を飲みに行くか」

 ジュリアスはひとりですたすたと街に向かっていった。アッシャーは黒服の男たちを振り返って、指示を出した。

「先に街に言って、ホテルの手配と食事の手配をしてきなさい。ホテルは五つ星以上じゃなきゃいやだからね。あと、潮風で髪が傷んだから、美容院の手配も頼むよ」

 御曹司のわがまま指示に慣れてしまっている黒服たちは、顔色を変えずに街に散っていった。


 その日の夕方頃、レグラーン府城内を歩く三人組の男女がいた。もちろんマリアンヌたちの一行なのだが、様子ががらりと変わっている。

 マリアンヌはルグラン通りの衣装屋で購入したもえぎ色のドレスをまとい、金の細かな鎖を編み、翡翠の珠をあしらったネックレスと、同じデザインのブレスレットをつけている。耳にはランヌ広場で買った翡翠のイヤリングをつけている。髪を結い上げ、メークも施し、貴族の子女らしく変身していた。

 後に付いてきているカッサンドロスも、ボレロ風の上着にクラバットを巻き、下はブリーチズに白靴下に短靴。頭に巻き毛のウィッグをかぶっている。マリアンヌに傅く従者の役回りだろう。

 貴族の街に溶け込んでいる三人だったが、すれ違った通行人はこの一行を必ずと言っていいほど振り返って見送っている。先ほどオスカード凱旋門を通ったときも、衛兵がけげんな顔で振り返っていた。

「みんなこっちを見てるみたい。あたしの魅力がわかるのね」

「そうじゃなかろう。ご婦人方はわしの魅力に惹かれておるんじゃよ」

 注目を浴びていることに気をよくしているマリアンヌとカッサンドロスは、勝手なことを言い合っていたが、セレウコスは恥ずかしそうな顔でぼそりと言った。

「そうじゃないでしょう。みんな自分を見ているんですよ」

 セレウコスもカッサンドロスと同じような侍従風の衣装を着ている。背が高く、均整のとれた体格なので、このような衣装もよく似合う。

「そうよね。セル、背が高いし脚長いし、かっこいいもん」

「そうでなくて。お嬢ちゃん、どうしてもこれをかぶってないといけないのですか」

 セレウコスはそう言って、頭にのせたウィッグを指さした。

「不自然なものを乗せているとどうも気分が悪いのですが。それに、自分がかぶると滑稽以外のなにものでもないですよ」

 確かに、黒人のセレウコスが銀髪巻き毛のウィッグを乗せているのは不自然だ。

「貴族のお嬢様の侍従にスキンヘッドはないじゃろう。郷に入っては郷に従え、じゃ。かぶっておいた方がいいぞ」

「いや、はずさせてください」

 巨漢のセレウコスが身体を小さくしてマリアンヌに頼んだ。

「おもしろいんだけどなあ。仕方ないか。いいよ」

 彼女が許すと、セレウコスはウィッグをはずして、脇に畳み込んだ。衆目にさらされたせいか、それとも、ウィッグの通気性が悪かったのかスキンヘッドの頭に大粒の汗をかいている。彼は流れる汗をハンカチで拭った。

 夕闇が近づく街を歩いて、三人は目的の店、黄月楼に着いた。

 黄月楼の前には牛車や馬車が何台も止まり、着飾った紳士淑女たちが店内に入っていった。ここは貴族や金持ちたちの社交場なのだ。

 マリアンヌたちも黄月楼の店内に向かった。

「いらっしゃいませ。こちらにははじめてお越しですか?」

 ドアボーイが愛想のいい笑顔を浮かべながらマリアンヌに声を掛けてきた。

「ええ」

「当店はエントリー料をお支払いいただくことになっております。男性は15ターバル、女性は10ターバルになります」

 ドアの横にエントリー料を入れる箱が置いてあった。マリアンヌは40ターバルをその箱に入れると、ドアボーイは大扉を開けた。

「ごゆっくりお楽しみください」

「いらっしゃいませ。ご案内いたします。奥へどうぞ」

 ドアを入るとすぐにウェイターが待っていて、マリアンヌたちを店内に案内した。

「わあ、すてきなとこ。あ、あの料理すごくおいしそう」

「きらびやかなところですね。目がくらみそうですよ」

「これだけの店だときれい所も期待できそうじゃのう」

 店内に足を踏み入れて、三者三様の感想を言っているところに、別のウェイターがシャンパンの入ったグラスを盆に乗せて持ってきた。

「ウェルカムドリンクです。どうぞ」

「ありがとう」

 ちょっと気取ってグラスを取ったマリアンヌは、そのウェイターが立ち去ると、目をきらきら輝かせていった。

「ねえ、どうしよ。ここの男の人、みんなすごくかっこいいよぅ。どきどきしちゃう」

「いい男をそろえるのも結構じゃが、それよりきれい所はいないのかのう」

 カッサンドロスはきょろきょろと店内を見回し、美女を物色しだした。

「みっともないよ、じいさん。しょうがないなあ。すみません」

 マリアンヌは店内に案内してくれたウェイターに声を掛けた。

「いかが致しました」

「じいやが女性をつけてほしいと言っているの。お願いできるかしら」

「かしこまりました」

 ウェイターは三人を席に案内した。マリアンヌとセレウコスは、中庭に面した二人掛けのテーブル席に、カッサンドロスはさらに奥の方のソファに案内された。しばらくして、三人のきれいなコンパニオンが来て、彼の両サイドに座った。大衆酒場の酒場女とまた違い、上品な香りのする美女たちに囲まれ、カッサンドロスはすっかり上機嫌のようだ。

「今夜はじいさんを特別扱いしているようですが、いいんですか」

 椅子を引いてマリアンヌを座られながらセレウコスが尋ねた。ウェイターのする仕事だろうが、セレウコスは彼女の侍従という形なので、彼がすることになった。

「いいんじゃない。ああやって楽しませてあげないと、欲求不満がたまって夜這いかけられたら困るもん」

「じいさんもそこまではしないと思いますが」

 マリアンヌの向かいにセレウコスも座った。ウェイターがメニュー表を差し出した。

「ご注文を承ります」

 マリアンヌはメニューを開いたが、どの料理もどの酒も、高級すぎて味わった経験のないものが書いてあり、どれを注文していいのかわからなかった。選ぼうとすればするほど、目移りして決めることができない。

「あたしじゃ決められないよ。セルが注文して」

「わかりました。失礼。おすすめの物が何かありますか」

「飲み物でしたら、961年物デドラーワインの赤が入荷しております。料理のほうは子牛肉の赤ワイン煮がおすすめでございます」

「なら、ワインはそれを一杯ずつ。料理は三品ほど、見繕っていただきたい」

「かしこまりました」

 ウェイターが退くと、気取って振る舞っていたマリアンヌは緊張を解いて、物珍しそうに店内を眺めた。

 店内一階は全体が広いホールになっている。緩いループになった二本の階段が二階に続いていて、そこには個室がある。二階との吹き抜けになっている部屋の中央部は、一段掘り下げられていて、ダンスホールになっている。管弦四重奏の演奏に合わせて、二十人近くの紳士淑女が踊っていた。

 ティシュリの星の水鳥亭でも、ジャズコンボやフォークグループの生演奏を聴くことがあるが、クラシックの生演奏を聴く機会はほとんどない。楽団の演奏するロンドに耳を傾けながら、マリアンヌはゆったりと優雅な気分になった。

 ウェイターが料理を持って二人のところへやってきた。

「サーモンとラディッシュのマリネでございます」

「鴨肉の香草蒸しでございます」

「子牛肉の赤ワイン煮でございます」

 テーブルに料理が並べられた頃に、ソムリエがワインの瓶を持って現れた。

「デドラーの赤をお持ちしました。肉料理と合わせてどうぞ」

 ではごゆっくりと言ってソムリエとウェイターが退がっていった。料理のにおいに反応して先ほどからよだれが流れそうになるのを我慢していたマリアンヌは、おあずけから解放された犬よろしく料理にかじりついた。

「おいしーい。肉が軟らかいし、中から味がしみ出して来るみたい」

 子牛肉の赤ワイン煮を口に入れて、彼女は自然と満面の笑みになった。

「確かにうまいですね」

「船の中でもティシュリでも絶対に食べられないよ。なんか世界が変わっちゃうなあ」

 彼女はグラスを取ると、赤ワインをゆっくり味わってみた。

 デドラーワインは、ヴーレン山脈を挟んでコスバイアの南にある国、ラナウーク王国で作られる、世界最高級といわれる高級銘柄だ。その中でもヴィンテージとなると、一杯が6ターバルはする高価な物なので、当然マリアンヌはこれまで飲んだことがない。

 滑らかな口当たりで、芳醇な味があとから口一杯に広がってきた。

「これがデドラーワインの味なんだぁ。なんか……昔飲んだワインと全然味の質が違うね。飲み干すのがもったいないわ」

 ヴィンテージワインの味に感動して、彼女の目はひときわ輝いている。

「なんだかほかの連中に悪い気がしますね。自分たちだけ高級料理を味わっていると」

 いつもより柔らかめの表情になっているセレウコスが言った。

「みんなはみんなで楽しんでいるから気にしないでいいんじゃない? でも、機会があれば連れてきてあげたいわね」

 二人は料理に舌鼓を打ち、ワインを傾けながら、しばらく幸せな時間に浸っていた。

「おい、そこの黒い男」

 不意にセレウコスの後ろから男の声がした。彼はゆっくり振り向いた。

 貴族の子弟と思われる若い男が五、六人立っていた。先頭に立っている、軽いしつらえの服を着て、装飾を施された剣を提げた男が、声の主のようだ。

「黒い男とは自分のことか」

「お前以外に誰がいる。お前は従僕だろう。席を立ってもらおう。ここで席に着くにふさわしい身分ではない」

「ちょっと待って。セルは従僕じゃないわ」

 マリアンヌがあわてて間に入った。自分がセレウコスに侍従風の衣装を着せたから、地元の人間が勘違いしたのだと思った。

「あたしが彼に、ここに座って一緒に食べるように言ったのよ。だからいいじゃない」

「困るのだ、小娘。主人が従僕と同席するようでは身分秩序が乱れる。ましてや異民族の下僕であればなおさらだ」

 小娘と呼ばれてマリアンヌはむっとした表情になった。

「さっきも言ったけど、彼は従僕でも下僕でもないの。それに、異民族と同席してはいけないなんて決まりはディカルトにはないわ。だからとやかく言わないで」

 彼女の言葉を聞いて、男たちは笑い出した。

「はっ。辺境の田舎者か。道理で田舎臭いにおいがすると思ったぞ。辺境の者なら仕方があるまい。蛮族など珍しくないだろうからな」

「さっきから小娘とか田舎者とか、失礼な人ね」

 頭に来た彼女は席から立って男に詰め寄った。

「小娘って言うけど、あたしにはマリアンヌ・シャルマーニュって言う立派な名前があるんだからね。これでも艦隊を率いる提督なの。あんたたちが何者か知らないけど、ばかにされるいわれはこれっぽっちもないわ」

「これはお見それした。小娘で提督とは、海と船乗りをなめているとしか思えん。それとも、辺境の島はよほど人材が不足しているのか」

「なんですってぇ! ばかにするのもいい加減にしなさいよ!」

 彼女は男の顔をひっぱたいた。乾いた音が店内に響いた。

 男は向き直ると、服のポケットから革手袋を取り出して手にはめた。

「わたしはマヌエル・ドゥ・ムオイ男爵だ。名門ムオイ家の者に手を出すことがどういうことか、しかと思い知らせてやろう」

 ムオイという男は剣を引き抜いた。この事態に周囲の客はどよめき、ウェイターたちもおろおろして動けないでいる。

「お嬢ちゃん、ここは自分が」

 セレウコスが立ち上がり、マリアンヌとムオイの間に入った。ムオイやその取り巻きに比べてはるかに背の高い黒人の巨漢が立ちはだかったので、取り巻きたちはぎょっとして後ろに下がった。

「剣を収めろ。ほかの方々の迷惑になる」

「蛮族に指図される筋合いはない。そこをどけ」

 セレウコスの目つきがすわった。

「……やむをえん。自分が相手しよう」

「ふん。後悔するぞ」

 ムオイは剣で突いてきた。訓練を積んだ武官なのだろう、剣裁きは鋭かった。

 その刺突をかわし、セレウコスはムオイの利き手をつかんだ。その手を堅くつかんだまま懐深く入り込み、強烈な頭突きをムオイの脳天近くにたたき込んだ。

 ムオイは両膝をつき、そしてうつぶせにフロアに倒れた。

 取り巻きたちが抱き起こしてみると、彼は白目をむき、泡を吹いて失神していた。

「何者であろうと、自分たちの提督をこけにしたことと、自分の民族を蛮族と呼んだことは絶対に許さん。その男を連れて、立ち去れ」

 セレウコスは低い声で鋭く言い放った。彼の迫力に押されて、取り巻きたちは気絶したムオイを連れてすごすごと退散した。

「ふう。ありがとね、セル」

「なんの。しかし高級酒亭といえど、迷惑な者がいるものですね」

 店内の客はこの騒動でまだざわついていた。マリアンヌとセレウコスは客に向かって「ご迷惑をおかけしました」と頭を下げた。

「……帰ろっか」

「そうですね。長居は無用です」

「どうする? 宿屋近くで飲み直す?」

「自分は結構です。十分楽しみましたので」

 マリアンヌは、フロアの奥で飲んでいるカッサンドロスのところに行った。彼はコンパニオンたちのお酌を受けて、すっかり上機嫌でにやけ顔だった。口も滑らかでよくしゃべる。さっきマリアンヌたちのところで騒ぎがあったことなど、気付いてもいないようだ。

 そんな彼の腕を彼女は引っ張った。

「じいさん、もう帰るよ」

「え、なぜじゃ~。わしはまだおるぞ。これからがいいとこなのに」

「つべこべ言わないの」

 無理やり立ち上がらされた彼に、コンパニオンたちは「またいらしてくださいね」と、営業スマイルで手を振った。

 彼女は、それでも「わしはまだ帰らんぞい」とだだをこねるカッサンドロスを無理やり引っ張って、セレウコスと連れだって黄月楼をあとにした。


 翌日、11月1日。

 朝日も昇りきらない早朝から、交易所は人々が大勢集まっていた。交易商人たちや運び屋たちが運んでくる荷物を受ける作業が忙しく行われていたり、仲買人や小売商人が交易品を品定めしていたりする。とはいえ、朝の七時にならないと取引は始まらない。

 そのような時間帯に、アッシャーとジュリアス、そしてアッシャーの部下の黒服たちが交易所に姿を現した。

「ちょっと失礼。そこの君、ここの責任者を呼んでくれないか」

 アッシャーは交易所の店員を呼び止めて言った。店員は見知らぬ男たちに不審そうな表情を見せたが、責任者を呼びに交易所の奥に向かった。

「ちょっと、ジュリアス。起きたまえ」

 責任者が出てくるのを待つ間に、アッシャーは傍らにいるジュリアスの脇を肘でつついた。

 ジュリアスは立ったまま、鼻ちょうちんを膨らまして寝ていた。実際、ここまで寝ながら歩いてきた。

「……るせえな、まだ出番じゃねえだろ。それまで寝かしておいてくれよ」

 眠そうな目を開けてジュリアスが不平を言った。

「仕事中だろう。いい加減に起きたまえ」

「オレにはオレのやり方がある。つべこべ言うんじゃねえ」

 アッシャーは不機嫌な顔でジュリアスに詰め寄った。

「君は自分のやり方があるというけど、ただ寝たいときに寝てるだけじゃないか。ボクの言うことはちっとも聞かないし。ボクは君の雇い主なんだよ、海賊くずれ君」

「寝たいときに寝て起きたいときに起きるのがオレの生きる道だ。オレが決めた。それをとやかく言う奴は、雇い主でもぶちのめすぞ」

 二人の間に険悪な空気が流れたとき、交易所の奥から責任者らしき男が現れた。

「当交易所の支配人です。なんのご用件でございましょうか」

「酒造用の大麦を購入したいのだが」

 支配人は、そんなことで自分を呼んだのかと不満そうな顔をした。

「それでしたら、七時から取引がありますので、そのときに担当のものにお申し付け……」

「そうじゃない。ここにある酒造用の大麦をすべて購入したい。それも急いで、ね」

 アッシャーの言葉に支配人は驚き、そして不審そうな顔をした。

「買い占めですか。ここは公正な取引を行うところですので、買い占めには応じかねるのですが」

「ここにあるだけの酒造用大麦が必要なのだ。それを買いたいと言っているだけ。需要と供給は成り立っている。問題ないだろう」

「とはいえ、あなた方は初見の方。素性もわからない方の買い占めに協力することはできません」

 キィィン!!

 鋭い金属音が交易所内に響いた。ジュリアスが立てた鍔なりの音だ。ごねる支配人の言葉を失わせるのに効果的な威嚇音になった。

 ジュリアスはにたりと笑った。傷だらけの悪相なので、このような笑顔を浮かべるとかえって凄みが出る。

「支配人さんよ。こっちも事情があるんだ。そちらの事情を酌んでいる暇はねえ。取引に応じてくれねえか。さもないと」

 わざとらしくサーベルをじゃらつかせて前に出た彼は、支配人の鼻先でサーベルの鯉口を切った。

「刀で買うことになりかねんぜ」

「お、お、脅しですか。わ、わたしは暴力には屈しませんよ」

「そうだろうな。商人ってのはそうでなくちゃいけねえ。だけど、このたびは応じてもらわねえと、この中が血の海になるぜ」

「ひぃっ」

「おい、外に通報しようとするんじゃねえぞ。その場から動いたら、こいつの身体に一生消えない傷が残るぞ」

 事態を見て騒然となっている交易所内の人々に向かって、ジュリアスが脅しつけたとき、アッシャーが前に出て、彼を制した。

「よしたまえ、ジュリアス。ボクは暴力的なやり方は好きではない」

 ジュリアスが後ろに下がり、アッシャーが前に出た。

「ボクは紳士的な取引をしたいと思っているんだ。どうだろう。相場の倍の金額を払う。それで酒造用大麦を買い上げたいけど」

 支配人はしばらく考え、ここでごねるよりも取引に応じるほうが得策だと判断した。下手に渋ると、まだアッシャーの後方で、サーベルを引きつけたままこちらをにらんでいるジュリアスが暴れ出すかもしれない。

「わかりました」

「それじゃ取り引きしよう。大麦は一樽いくらで、全部で何樽ある?」

「はい。一樽4ターバルで、1500樽あります。これが当交易所の在庫すべてです」

「へえ、うわさ通り驚くほど安いね。その倍の金額となると、1万2千ターバルか」

 アッシャーは黒服のひとりにアタッシュケースを持ってこさせた。その中から、代金分の札束を取って、支配人に渡した。

「お買いあげありがとうございます」

「輸送する船を手配するまで荷物をここに止めておいてくれたまえ。今日明日のうちに引き取る」

「はい。ところで、あなた様のお名前はなんと申されますか。買い受け人の名前を伝票に記入せねばなりませんので」

「ボクはアッシャ……」

 名乗ろうとしたアッシャーの後ろ頭をジュリアスがはたいた。そして、顔をしかめて後ろから耳元にささやいた。

「バニパル=シンジケートの名前を出すとまずいんじゃなかったのか、バカ」

「そうそう、ボクの名前はね」

 そこまで行ってアッシャーは一瞬困った。変名を全く考えていなかったのだ。バニパル=シンジケートとの関わりを隠して行動すると言っていたのは本人のくせに、である。

「名前は・・・カマ・ドーマ」

 アッシャーは出任せで名乗った。

「カマ・ドーマ様ですね」

「うん、そう。カマ・ドーマでいいや」

「でいいや?」

「いやいやいやいや。なんでもない。あとのことはよろしく頼むよ」

 アッシャーたち一行は交易所から引き返した。

「買い占めはうまくいったね。これでマリアンヌ・シャルマーニュは大麦を手に入れられない。ビール組合の生き残り策は断たれたというわけだ」

 満足そうに笑みを浮かべるアッシャーの耳をジュリアスが引っぱり上げた。

「痛い痛い痛い痛い。やめてよ、なにするんだ」

「買い占めがうまくいったのは良しとするが、なんだよ、あのカマ・ドーマって変名は。あれだろ、土間の隅っこにいる丸っこくて黒っぽい虫だろ。便所こおろぎかよてめえは」

 かまどうま。体長は2センチメートル程度。かまどの裏など暗いところに棲息している。羽が無く、背中が丸く、よく飛び跳ねる。別名便所こおろぎ。

「だって、思いついたんだもん。仕方ないじゃないか」

「変名ぐらいあらかじめ考えておけよバカ。便所こおろぎみたいな野郎についていきたかねえよバカ。つーかお前とにかくバカ」

「バカバカうるさい。それより、次の手を打たないと」

 ジュリアスはやっとアッシャーの耳から手を離した。

「大麦をティシュリに回送する船を手配しないと。でも、どうすればいいのかな」

「航海者ギルドがあるはずだ。そこに行って、運び屋の船長を手配してもらえばいいだろう。ま、そこではオレの出番はねえな。あとはお前らでやっておいてくれ」

 そう言うとジュリアスは歓楽街のほうにさっさと歩いていった。朝の早いうちから酒場に潜り込んでおく気だろう。

 アッシャーと黒服たちは航海者ギルドのほうに向かった。


 朝八時を過ぎた頃、マリアンヌは仲間たちを引き連れて交易所へやってきた。

 交易所は競り市の真っ最中だった。コスバイア国内や海外からもたらされた商品がずらりと並べられ、競り人と仲買人のやりとりの音が元気よく聞こえてくる。この競りが交易品の相場を決める。だから競りが終わらないと実際の取引は始まらない。

「すごい人出。これじゃ中に入れないね」

 交易所の中は、商品を運んできた交易商人、交易商人から商品を買い取る仲買人、仲買人から商品を仕入れる小売りの商人でごった返し、とても中に入れる様子ではない。昨日が休みだったので、普段よりよけいに人出が増しているようだ。

 取引が始まり、人混みの後方に陣取っていたマリアンヌたちに順番が回ってきたのは九時を回った頃だった。

 応対したのは交易所の支配人だった。

「いらっしゃい」

「ティシュリ産のエメラルドを持ってきたわ。それを売りたいんだけど」

 インフィニティ号の積み荷であるエメラルドを10コンテナ、プトレマイオスが荷車に乗せて運んできていた。支配人がコンテナの一つをあけて、中身を確かめた。

「ほう、さすがはティシュリ産、質がいいね。これなら1コンテナあたり229ターバルで買い取りましょう」

 売上額は2290ターバル。ティシュリの交易所で購入したときは1コンテナあたり101ターバルだったので、倍以上の値で売れた。いい商売ができて、マリアンヌはにっこり笑顔になった。

「それから、大麦を200樽仕入れたいの」

 彼女がそう言うと、支配人は表情を曇らせた。

「大麦ですか。あいにく、大麦は品切れなのですが」

「うそー。なんでー。ここには穀物がたくさんあるって聞いたよ」

 彼女は驚いて大声になった。仲間たちも驚きを隠せない。

「実は、今朝方大量に仕入れていかれた方がおりまして」

「……買い占めか」

 セレウコスがつぶやいた。

「でも、ついさっきから取引が始まったんじゃないの? どうしてほかの人がそんなに多く買っていけるの?」

「取引が始まる前に来られた方でして。本来ならできないのですが、時間外取引ということでこちらもお受けしたところで」

「そんな。ずるいよ、もう。あーあ」

 マリアンヌは悔しさでいっぱいになった。

「一週間後にはまた定期の入荷がありますが」

「そんなに待てないよ。急いで仕入れてきてくれって依頼されているんだから」

 彼女は不機嫌な声で答えた。

「お嬢ちゃん、よその港にいけば仕入れられるかもしれません。失礼。この交易所以外で酒造用の大麦が仕入れられるところはないだろうか」

 セレウコスが尋ねると、支配人は首をひねった。

「国内の穀物はおおかたここレグラーンに集積しますからね。他港の交易所の規模から考えても、200樽の大麦が常に在庫しているところはないと思いますが」

「そうか……」

「すまんがの、誰がそんなに大麦を買っていったのか教えてくれないかの。よほどの理由がない限り、ここにある大麦をすべて買っていくなどありえん」

「それは教えられません。お客様の情報を流すとあっては当交易所の信用にかかわります」

 カッサンドロスの質問に支配人は首を振った。マリアンヌは金貨をいくつかつかむと、それを支配人の手の上に乗せた。

「カマ・ドーマと名乗る若い商人の方ですよ。このあたりの人間ではありませんね。三十分ほど前に、回送する船を手配したと連絡が入ったので、買い上げられた大麦を港に送ったところです」

「カマ・ドーマ? 聞いたことのない名前ね。セル、知ってる?」

「いえ」

 セレウコスは首を振った。カッサンドロスも「知らない名じゃわい」と言った。

「大麦をどこに送るって言ってたの?」

「くわしい場所は知りませんが、ディカルト諸島の方面だという話です」

 支配人はそこまで教え、あとのことはわからないと付け加えた。

 大麦を仕入れられないとあっては交易所にいても時間の無駄だ。マリアンヌたちは引き返すことにした。

「あーあ、最悪。大麦の在庫がないなんてあり得ないよ。ついてないなあ」

 彼女はどうしようもないほどがっかりして、道ばたに転がっている石を蹴飛ばした。

「嬢ちゃんや、これは意図的な買い占めじゃよ。わしらが大麦を仕入れるのを邪魔しようと言う輩の仕業に違いないじゃろう」

「自分もそう思います」

 カッサンドロスとセレウコスが難しい顔で彼女に言った。

「どこの誰でぇ。俺様たちの邪魔をしようって野郎は。俺様がぶっ飛ばしてやる」

 聞いたとたん、プトレマイオスが真っ赤になって怒りだした。

「でも、なんであたしたちが大麦を仕入れるのを邪魔するの?」

「おそらく、我々の妨害と言うより、ビール組合の操業を妨害する目的でしょう。ビール組合が操業中止になったのも、それが原因ではないですか」

「そういえば、今年は大麦を何者かに買い占められてしまって、ビールが作れなくなったって組合の人が言ってたっけ」

「星の水鳥のおやじの話では、政治問題やディカルト諸島全体が凶作だったことで仕入れができなかったという話じゃったが、本当のところはどうじゃろうな。もしかしたら、それも裏で糸を引いているものがおるかもしれんぞい」

 マリアンヌは考え深い顔つきになった。

「でも、それこそ目的がわかんないよ。ティシュリからビールがなくなってしまうだけじゃない。そんなことして得する人がいるの?」

 カッサンドロスが首を傾げながら答えた。

「ふむ……考えられるのは……ビール組合はティシュリのビール市場を独占しておるからの。その力を弱めてシェアを奪い取ろうとしておるのかもしれん。ただ、そこまで工作に金をかけて、なお得をするとは思えんのじゃが……」

「今は真相を知るのに情報が不足しています。調べてみないことには」

 セレウコスが眉間に深くしわを寄せた顔で言った。

「時間がかかりますが、この件、情報を集めてみますか?」

 セレウコスに尋ねられて。マリアンヌはすこし考えたが、首を横に振った。

「ううん、しないでいいわ。だって、あたしたちが頼まれたのは大麦を仕入れてくることだもの。これをどうするかを考えなきゃ」

「それもそうじゃの」

 カッサンドロスがうなずいた。

「とりあえず、港に行ってみる?大麦をもう港に送ったらしいから」

 彼女たちは港に足を運んだ。

 埠頭の一角に、大麦の樽を満載にした艀が30艘ばかり、隊列を作って固まっていた。その艀の一団を目の前にして、船乗りの男たちが輪になってなにやら談合していた。身なりからして、商船の船長たちのようだ。

「あれが買い占めた大麦に違いないようね。カマ・ドーマって言う人はどの人かしら」

 その一団からかなり離れたところに立って、彼女は観察してみた。支配人の言っていた、若い商人体の男の姿はないようだった。

「どうやらあの中にはいないようですね」

「お嬢、大麦を手に入れる方法を思いついたぜぇ」

 プトレマイオスが彼女の耳に口を近づけてきた。本人はささやいているつもりのようだが、全然音量が落ちていない。その上鼻息が荒い。

「あの中に暴れ込んで、大麦の樽を奪ってやろうぜぇ。俺様たちの船に乗せちまえばこっちのもんよ」

「駄目に決まっている。お前は本当に力任せの方法しか知らないのか。お嬢ちゃんに海賊をさせるわけにいかない」

 当然ながらプトレマイオスの強攻手段にセレウコスが反対した。

「向こうはティシュリの酒飲みの楽しみを奪いやがったうえに、俺様たちの仕事の邪魔もしてきやがるんだ。ちっとは思い知らせてやらなきゃいけねえだろうが。それに、俺様もちっと暴れねえと気がすまねえ」

「……そうよね。その手もありかも」

 マリアンヌがうなずいたので、セレウコスは驚き、プトレマイオスは喜んだ。

「じゃあ、お嬢。一暴れしてくらあ」

「待って。運び屋の船長さんに罪はないから暴力的なのはなしよ。じいさん、ちょっと来て」

 彼女はカッサンドロスを呼んで、ごにょごにょと耳打ちした。二人は顔を見合わせて、ウシシシと笑った。

「じゃあ、あとはじいさんに任せて、あたしたちは街に戻ろ」

 彼女はセレウコスとプトレマイオスを連れて、港から出ていった。

「お嬢、じいさんひとりで大丈夫か? じいさんは弱いぜぇ」

 プトレマイオスが言った。暴れる機会がなくなったので少し不満そうだ。

「でも、じいさんは頭がいいし、お調子者だけどやるときはやるから」

 彼女はそう答えて笑顔を見せた。

「いったいじいさんになにを指示したんですか」

 セレウコスが尋ねたが、彼女は答えなかった。

「ひみつ。それより、あしたの早いうちに出航したいから、その段取りをつけなきゃね。セルは今日のうちに食糧と水の補給ができるように手配して。プットは、あした出航だって船員のみんなに伝えておいてね」

 港湾施設に隣接する広場でしばらく待っていると、カッサンドロスが戻ってきた。彼はマリアンヌに向かって、両腕で○をつくって見せた。

「うまくいったわい。大麦200樽、インフィニティ号に積み込ませたぞい」

「ほんと。やったね」

「カマ・ドーマの知り合いだと言ったら素直に信用しての。向こうとしても、積み荷が船のキャパシティを越えて困っていたところだったで、渡りに船だと言っておったわい」

「荷物をだまし取ったんですか」

 セレウコスが眉をひそめた。

「だまし取ったなんて人聞きの悪いこと言わないでよ。ね、じいさん」

「うむ。ただ、ディカルト方面の荷物なら、わしらもそっちに帰るところだから運ぶのを手伝ってやると言っただけじゃよ。嘘じゃないわい」

「十分だましていると思うが」

「こちらとしても仕事を果たさねばならんでの、そううるさく言うでない。それとの嬢ちゃん。あの船団は明日の朝に出航予定と言っておったぞ」

「そう。こっちも明日の朝に出航予定だから、今手配をしてたとこなの。さ、仕事もできたし、みんなで街に帰ろ」

 マリアンヌたちは街へと引き返した。

「お嬢、この街とも今夜でお別れだし、派手に酒盛りしようぜぇ」

「だーめっ。おとといの宴会でたくさんお金使っちゃたんだから。今夜はおとなしくしてなさい」        

「ちぇ」

 プトレマイオスはがっかりした顔になり、懐からネルソンズブラッドのボトルを取り出してぐびりと飲んだ。船の上だけでなく、いつでもどこでも懐にしまい込んでいるものらしい。

「みんなも今日はおとなしく過ごしてね」

「いやじゃ。今夜こそきれいなねーちゃんのいる店に潜り込んでやるわい」

 カッサンドロスが変なところで意気込んでいた。


 翌日の11月2日。旅宿銀鯉屋をチェックアウトして、マリアンヌたちの一行が街と港地区を結ぶ橋を渡ろうとしたときだった。

「そこの異国人ども、待て!」

 急に声がしたかと思うと、同じデザインのマントを着た15人ほどの剣士たちが彼女らの行く手を遮った。

 剣士たちの先頭に立っていたのは、黄月楼で出会ったムオイ男爵だった。

「あのときの男か。何か用があるのか」

 セレウコスが前に立って、ムオイと対峙した。

「この前はよくもやってくれたな。わたしは皇族と縁続きのもの。そのわたしに対する狼藉は許されるものではない。ここで成敗してやろう」

 ムオイの口上にマリアンヌはあきれ顔になった。

「なにそれ。あのときはそっちがばかにしてきたのが悪いでしょ。それで、仕返しに今度は兵隊を連れてきたってわけ? あきれた」

「なんとでも言うがよい。わたしが市中警備の任を受けていたことが災いだったな。名門ムオイ家の者として、受けた屈辱はすすがねばならん。覚悟」

「言っとくけど、いかれた貴族の坊ちゃんにかかわっている暇ないの」

 マリアンヌたちは無視して先に進もうとしたが、行く手をふさいだ剣士たちがいっせいにレイピアを抜いて構えたので、逃げることはできなかった。

「やむをえん。相手するしかあるまい」

 セレウコスも提げていたロングソードに手をかけた。

「おい、お嬢、セル。こいつら一体何なんでえ」

 プトレマイオスは事情が飲み込めていないようで、目をぱちくりさせている。それでも険悪な雰囲気はわかるので、戦闘態勢になっていた。

「このあいだセルとじいさん連れて高級酒場に行って来たの。そのときにあたしたちにけんか売ってきて、セルにのされたあの人が仕返しに来たのよ」

「ちぇ、なんでえなんでえ。お嬢たちだけでうまい酒飲みに行きやがって。俺様も連れて行けよな」

 プトレマイオスは不満そうにつぶやきながら、ムオイの手下の剣士たちに立ち向かって前に出た。

「お嬢には手を出させねえぞ。このプトレマイオス・ラゴス様が相手だ」

「何者だ、その豚は」

 豚と呼ばれたプトレマイオスは顔を真っ赤にして激怒し、ブヒッと吼えた。

「なにおぅ! 豚とはなんでぇ豚とは! この豪傑プットことプトレマイオス・ラゴス様をしらねえとは、てめえらがバカだ! バカ、カバ、豚のけつ、お前の母ちゃんでべそ……」

「プット、低レベルな悪口はもういいわ。頭悪いのばれるよ」

 マリアンヌは彼の背中をぽんぽんと叩いた。短気、単純、単細胞の彼は、頭に来ると子ども並みの悪口をまくし立てるか、さもなくば即暴れる。それがなければ高級酒場にもすぐ連れていってあげたのにと彼女は思った。

「知らんな、そんな田舎の豚のことなど。貴様はかまどに入って丸焼きになるほうがお似合いだな」

 ムオイがそう言うと、彼の手下の剣士たちがいっせいに笑い出した。プトレマイオスは赤鬼のような形相になった。

「てめえらぁ、絶対生きてかえさねえぞぉ。ぶっ殺~す!!」

 彼は雄叫びをあげながら敵に突っ込んでいき、手近な敵に強烈な突き押しを見舞った。突っ張りを受けた剣士は吹っ飛んで、堀川に背面から飛び込んだ。続いて別の剣士の襟をつかむと、彼の身体を持ち上げて投げ飛ばした。投げられた剣士は橋の欄干にバウンドして 堀川に飛び込んだ。

「こちらも相手になろう。さあ来い」

 セレウコスもロングソードを抜きはなった。

「セル、殺しちゃだめよ。あとが面倒になるから」

 マリアンヌが言うとセレウコスはうなずいた。

「あまり我々をなめるなよっ!」

 剣士のひとりがセレウコスに襲いかかってきた。セレウコスは落ち着き払ってその男のレイピアをロングソードの切っ先で払った。二合ほど打ち合わせたあと、彼は踏み込んで男の頬げたを殴り飛ばした。別の剣士が二人同時にレイピアでつきかかってきたが、セレウコスは二人の剣をまとめてはねとばした。

「プットとセルに任せておけば安心ね」

「そうじゃの、二人は四海に名の知れた強者じゃから……嬢ちゃん、新手じゃ!」

 カッサンドロスが警告を発した。マリアンヌは振り向くと、彼女の背中の方角、街のほうから兵士の一隊が駆けつけてきた。十人ほどの剣士たちで、ムオイ率いる市中警備隊と同じマントを着ている。

「ムオイ殿。マクシミリアン・ドゥ・ペロシュ男爵、加勢いたしますぞ」

 新手の剣士隊を率いてきた男が言い、剣を抜いた。マリアンヌはその男が、ムオイの取り巻きのひとりだったのを思い出した。

「援軍が来るなんて聞いてないよ。でも、やるしかないわ」

 彼女は短刀を抜こうと手をかけた。

「じいさんは逃げてたら? あまりけんか強くないんだから」

「まあ、わしは天下の優男じゃから戦うのは不得手だがの、これでも若い頃より拳法の修練を積んでおるでな。嬢ちゃんの後ろを守ることくらいはできるわい」

 カッサンドロスはマリアンヌの傍らで、蟷螂拳の構えをした。

「……でも、ちと腰が重いのう。ゆうべ色街でがんばりすぎたかのう……」

「……やっぱり下がってたら? 腰がピキッていっても助けないよ」

 新手の剣士隊は街の方角の道をふさぐように散開し、マリアンヌたちを囲むように迫ってくる。彼女は短刀を抜いて、腰を沈めて身構えた。

「待った。オレが助太刀してやる」

 そのとき、剣士隊とマリアンヌたちの間に男がすっと割って入った。洗い晒しのくたびれたフロックコートを着た、顔に傷を持つ男は、海賊ジュリアス・セザールだった。

「あんたは?」

「通りがかりの海賊よ。別にあんたらを助ける義理はねえが、数にまかせて襲ってくる奴を見ると、虫酸が走るんでね」

 ジュリアスはゆっくりとサーベルを抜いた。抜き身の刀を握った、いかつい悪相の大男の立ち姿は迫力がある。ペロシュ率いる剣士隊は一瞬たじろいだ。

「貴様は何者だ。関係ない者なら去れ」

「関係者じゃないが去る気はねえぜ。さっきから見てたが、どう考えてもおめえらのほうが悪りぃぜ。その上、道理を引っ込めてこの人たちを始末しようなんてなぁ、お天道様が許してもオレが許さねえぜ」

 ジュリアスは数で勝る剣士たちに向けて、にやりと不敵に笑った。

「ちょっとあんた」

「なんだ? 手出しは無用ってか」

「ううん、助かるけど。でも、斬っちゃだめよ。あとが面倒になるから」

 マリアンヌの言葉にジュリアスはフンと鼻で笑った。

「甘いことを言うね。ま、言うとおりにしてやるよ」

 彼は剣を握った手を下げたまま、ペロシュ隊に向かって歩を進めた。ペロシュ隊の剣士たちは気圧されて動けなかったが、我に返った剣士が三人、ジュリアスに向かって躍りかかってきた。

「はあっ!」

 ジュリアスの口から気合いが上がり、サーベルが閃いた。一瞬の後、剣士たちは剣を取り落とし、腕や肩を押さえてうずくまった。

「す、すごい。剣が全然見えなかったわ」

「むう、大した腕じゃのう。あれは相当な手練れじゃ」

 ジュリアスの剣技にマリアンヌとカッサンドロスは息をのんだ。

 さらに襲いかかってきた剣士を二人、ジュリアスは簡単に一撃で片づけ、ペロシュに向かって剣を突きつけた。

「兵卒に用はねえよ。隊長、あんたがかかって来な」

「うぬぬ、乞食海賊が調子に乗りおって。マクシミリアン・ドゥ・ペロシュ、参る!」

 ペロシュは宝石で装飾されたレイピアを振るってジュリアスに突きかかった。さすがに隊長だけあって剣裁きが堂に入っている。鋭い刺突がジュリアスめがけて繰り出される。

 ジュリアスは何度かその突きをかわし、一瞬の踏み込みでサーベルを交え、次の瞬間にはペロシュの剣をはじき飛ばした。

「んなっ!」

「甘い、甘すぎるぜ。そんな剣術じゃ百年かかってもオレに勝てねえよ」

 ジュリアスは剣を失ったペロシュにサーベルを突きつけた。ペロシュは後方に飛び下がると、マントの中に手を入れ、ピストルボウガンを握った。ペロシュのボウガンは矢が装填されていて、ジュリアスの身体に照準を向けている。

「なにを言う、勝つのは常に正義、つまり我らコスバイア騎士だ。さあ、剣を捨てろ。捨てなければ撃つ。捨てても撃つ……はうっ!」

 ペロシュは背中を大きくのけぞらせ、ひざをがっくりとついた。同時に手からボウガンを取り落とした。

 彼の背後にマリアンヌが素早く回り込み、後ろから股ぐらを蹴り上げたのだ。急所は外したが、彼女の蹴りはペロシュの尻に突き刺さった。

「あ、あかん……おいどに穴開いてもた……退却」

 ペロシュは力無く言い、街の方角に向かって退却した。中腰姿勢で尻を押さえながら、情けない格好でよたよた歩く隊長を、手下の剣士たちが追いかけて退却した。

 橋の側では、セレウコスとプトレマイオスが大暴れして、ムオイ隊はほぼ潰滅していた。プトレマイオスの突っ張りを食らったり、投げ飛ばされたりした剣士たちが折り重なるように地面にのびている。

 セレウコスはムオイと対峙していた。ムオイは刃渡りが4フィート近くある大型のフランベルジュを両手で握り、八双に構えた。

「異国の蛮族風情が図に乗るな。名門ムオイ家の名にかけて、貴様を葬ってやる!」

 彼は前屈みに身体を滑らせ、セレウコスに撃ちかかった。

 手下の剣士たちに比べてムオイははるかに使い手だった。もう一方の隊長ペロシュよりも腕が勝る。力もスピードもある剣裁きでセレウコスに襲いかかる。

 だが、セレウコスの剣術はそれよりも勝っていた。落ち着いて剣を払いつつ、彼はムオイの剣を巻き上げた。ムオイの剣はくるくると宙を舞い、橋の上につきたった。

 セレウコスは剣を失ってたじろぐムオイの懐に入ると、彼の脳天近くに強烈な頭突きを見舞った。

 彼はがっくりとひざをつき、そして地面にうつぶせに倒れた。

「勝負はついた。ここから立ち去れ」

 のびずに残っている三人ほどの剣士に向かってセレウコスが低い声で言い放った。剣士たちは剣を収め、まずムオイを抱き起こし、彼を抱えて退却した。

 ムオイは白目をむいて、泡を吹いて失神していた。

「全く、とんだ迷惑者だ」

「ふん、他愛ねえ。俺様はまだ暴れたりないぜぇ」

 十分すぎるほど暴れまくり、剣士たちのおおかたをひとりでぶっ飛ばしたにもかかわらず、プトレマイオスは鼻息荒く言い放った。

「ありがとうね、助けてくれて」

 マリアンヌはジュリアスに礼を言った。ジュリアスは彼女に背を向けたまま、港のほうに向かって歩き出した。

「礼なんかいらねえよ」

「そういうわけにいかないわ。ねえ、あんたなんて名前? 名前くらい教えてよ」

「名乗る名なんかねえ、しけた海賊よ。今度あんたたちと会うときは敵同士かもしれねえぜ。じゃあな」

 そう言い残して、彼は振り返らずにすたすたと港に向かって去っていった。

「お嬢、あいつは何者なんでえ」

「わかんないけど、さっきあたしたちを助けてくれたの。もう目にもとまらないほどの剣裁きで敵を倒していったのよ」

 マリアンヌはジュリアスの姿が消えたほうをじっと見た。

「海賊って言ってたけど、きっとディカルトの人よ。あの服、だいぶんくたびれてたけど、ディカルト海軍の士官服だったもの」

「ようそこまで見ておったのう。と言うことは、元軍人なのかのう。まあ、味方にすると頼もしいが、敵には回したくないのう」

 カッサンドロスはジュリアスの剣裁きを思い出して、あごひげをなでつつ言った。

「あの男……」

 セレウコスは首をひねってつぶやいた。

「どうしたの、セル。もしかして、さっきの人知ってるの?」

「いえ、そういうわけでは」

 そうは答えたものの、セレウコスには何か頭の片隅に引っかかるものがあった。

「まあいいわ。それよりも……」

 マリアンヌは改めてあたりを見渡した。周囲には昏倒した剣士たちが死屍累々横たわっている。堀川に落とされて濡れネズミになった剣士たちが、やっとの思いで陸にはい上がろうとしている。

「ちょっとやり過ぎちゃったかな? これじゃ、当分この街に来れそうにないわね」

 彼女は仲間たちの先頭を歩き出した。

「さ、早く帰ろ。船員のみんなも船で待ってるし、ティシュリのみんなも待ってるよ」

「そうですね」

「さあ、ティシュリに帰って、また酒盛りしようぜぇ。わははは」

「ゆうべはねえちゃんとよろしくしたし、わしも思い残しはないわい。さて、帰って今度こそリディアを口説き落とそうかのう。むふぉふぉふぉ」

 マリアンヌたち一行は港に向かう街道を意気揚々と歩いていった。

 薄もやに浮かぶ千年皇都は、今日も落ち着いた活気が流れている。

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