#1 ビールのためならえんやこら

 百年に一度ともいえるような大不作だった。

 この年、聖皇歴990年の春先にティシュリ島を襲った季節はずれのタイフーンは島の南部に水害をもたらし、とりわけ農作物に甚大な被害をもたらした。特に、この島の主要農作物である大麦は、例年の65%の出来という悲惨な結果だった。

 初夏のある晴れた日、大麦の取り入れが終わり、倉に集められた大麦を見渡しながら、青年は農民たちに話しかけた。

「大麦はこれで全部ですか」

「そげだがね」

「そうですか……参ったな。これではビールを一年分にも足りないかもしれない」

 この島で生産される大麦は、そのほとんどがビール醸造用に買い上げられる。青年は大麦を運搬する荷馬車隊の隊長である。

「そぎゃんこと言われても、ないものはだせんがね」

「そうですね。じゃあ、この大麦は我々が買い上げます。代金はいつも通りでいいですか」

「その話じゃけど……」

 農民の代表者が青年に言った。

「こんだけしか大麦がとれんで、それで去年と値が変わらんかったら、わしらは首をくくらにゃならん。だけん、銭をもうちょんぼでも増やしてごせ」

「うーん」

 青年は考え込んだ。農民の言うこともわかるが、なるべく安く買い上げることが交渉役には求められる。

 彼は考えた末、農民の要求を聞き入れることにした。

「わかりました。例年は大麦一樽12ターバルで買い上げましたが、今年は特別に18ターバルで買い上げましょう」

「ほんとはもっと上げてもらいたいけど、……それでええがね」

 青年は代金を農民たちに払うと、大麦を倉からに馬車に積み込みはじめた。何十両もの荷馬車に大麦が積み込まれ、馬車隊は村から出ていった。

 村の農民たちは、去っていく馬車隊を見送った。だが、その顔は決して明るくなかった。大凶作のおかげで、これから冬を越すのが大変だ。水害で破壊された耕地の復興もしなければならない。これも大きな負担になる。

 もろもろの心配が、そこにいた者全員の胸の内にあった。

「今年は正月を越せるだーか」

「だめかもせん。村の男は今年はみな出稼ぎじゃ」

「だども、また麦を植えにゃならん。それはどげすーかね」

「畑を直さにゃ麦捲きはできんがね。直すのにも銭がいるが」

「町にでて銭をかせがにゃ、今年はやれんが」

「来年は豊作だとええがねぇ」

 暗い面もちで話し合う農民たちのところに、村の組合長が走ってきた。

「さっき来たのはビール醸造組合の荷馬車か?」

「そげだが。たった今、大麦を買い取っていったがね」

 農民たちが答えると、組合長は首をかしげた。

「わしのところに来た手紙だと、買い取りに来るのは五日後だったはずだったがね……急に変更があったのかもせんのう」

 それを聞いて、農民たちも不思議そうに顔を見合わせた。

 この、言ってみれば何気ない出来事が、後に大事件に発展しようとは、このとき、誰一人として考えつかなかった。


 ディカルト諸島共和国連邦(URD、ディカルト連邦とも)という国がある。

 世界の中心に座する中央大陸のはるか東方、東大洋上に浮かぶ島国で、合わせて16の小国で構成される連邦国家だ。

 そのディカルト連邦のもっとも西に位置する島がティシュリ島だ。台湾島くらいの大きさの島で、北部と中部は山地、南部は平野と丘陵になっている、山がちな地形の島だ。

 連邦構成国のひとつであるティシュリ共和国の領土で、首都ティシュリは島の南に位置する、繁栄した港町である。ディカルト諸島と中央大陸を結ぶ航路の中継点に位置しており、ディカルト諸島の玄関口の役割を果たしている。

 この日もまた、港は停泊する船でにぎわっていた。ディカルト連邦船籍の商船、外国船籍の商船、その他の船、様々だ。

 多くの交易商人は、この島の特産品であるエメラルドを目当てにはるばるやってくる。島の山岳地帯にエメラルドの鉱山があり、そこから産出されるエメラルドは高級品として世界各地に流通している。

 エメラルド以外にも、島の特産物である鉄鉱石、木材、魚肉などが交易品として取り扱われている。

 逆に交易商人たちが他の地から持ってくる交易品は、小麦などの穀類、陶磁器、鉄鋼などの工業製品などが多い。

 また、この島にやってくる船乗りたちには別の楽しみがある。酒と女だ。

 ティシュリ島に限らず、酒好きの多いディカルト諸島は全般的に酒造りが盛んである。ティシュリは特産のビールが安く手に入る。それを酒場で飲んで騒いでぱーっとやるのが船乗りたちの楽しみだ。

 また、移民国家で多民族国家のディカルト連邦は混血が盛んな故、美人の宝庫と言われている。とりわけこのティシュリは格別とも言われている。遠くの土地から男臭い船に揺られてやってきた男たちは、この町の遊郭に行き、垢を落とし、疲れをいやす。それがなによりの楽しみだという船乗りも少なくない。

 ただ、これのおかげで、ティシュリが「淋病の宝庫」なんて言うありがたくない名前を付けられているのもまた事実だ。

 さて、この繁栄したティシュリも、問題を抱えていた。中でも大きいのは、連邦構成国内での政治問題だった。

 先にも述べたように、ディカルト連邦は16カ国の加盟する連邦国家だ。だが、連邦と言うよりも連合に近く、構成国家間の衝突や係争は多々ある。その中の大きな火種を、ティシュリ共和国が抱えたのだ。

 ティシュリ島の南に、バーンシュルツ島という小さな無人島がある。そこはちょうど航路の接点に位置するため、ティシュリ共和国はそこに共和国防衛軍(ディカルト連邦には、連邦政府に属する連邦軍と、各共和国に属する共和国防衛軍の二種類の軍隊機構がある)の基地を建設する計画を立て、着工しようとした。それに対して、南洋方面の小共和国が「服属もまだ決していない島に勝手に基地を作るとはけしからん」と、こぞって猛反対したのである。

 これらの南洋の島々の本音は「基地を作るほどの金の余裕があるなら、俺たちの国に援助しろ」と言うことなのだが、それはさておき。

 ティシュリ共和国政府は「貧乏国家の分際でなにを言う」と言わんばかりの態度で基地建設計画を進めたので、小共和国側は制裁行動に出た。

 ティシュリはディカルト連邦でも一番の、いや、東大洋沿岸の大国にも引けを取らない海運国である。ティシュリ共和国に船籍をおく船はとても多い。そこから上がる収入は共和国政府の主要な財源なのだ。

 小共和国はティシュリ船籍の船舶の封鎖令を発令した。つまり、それらの島々にティシュリ共和国船籍の船は寄港できなくなったのである。

 この対立の解決は未だ糸口が見えず、事態によってはディカルト連邦全体に内乱を引き起こすことになりかねない。小さな国家の大きな問題である。


 夕凪のティシュリ港。

 太陽はもうじき、西の水平線にその姿を沈めようとしていた。

 山や街が秋色に染まる十月。

 空が夕焼け色に染まっていこうとしているころ、ティシュリ港の防波堤の先に人影が見えた。一人、二人。どうやら、少年と少女のようだ。

「本当なの? 南洋諸島六カ国がティシュリ船封鎖を発表したって言うのは。ねえ、アーサー」

 先ほどまで海をじっと見つめていた少女は、アーサーと呼んだ少年の襟元をつかんでぐらぐら揺すりながらきいた。

「く、苦しいよ、マリアンヌ」

「あ、ごめん」

 マリアンヌと呼ばれた少女はアーサーの襟元から手を離した。

「本当だよ。ロンバレン、ディラクーバ、ドヴァーニ、ルードランド、ナイベリア、タムノーの六カ国がティシュリ船封鎖令を出したんだ。パパが言っていたんだから間違いないよ。それとも、ぼくを信用していないのかい」

 アーサーの父親は共和国政府の高官だ。そのためか、彼の持ってくる国家間情報はいつも正確だ。マリアンヌはそれを十分知っていた。

「そりゃ、信用しているわよ。でも、そうなったら胡椒、ゴム、カカオ、砂糖、珊瑚、バナナみたいな交易品が二度と手に入らなくなるってことだもの。あたしたちティシュリの船乗りにとっては大問題よ」

 彼女はため息をついた。

「パパもそう言ってたよ」

「それに、これからの季節は暖かい熱帯に行きたいって思っていたのに」

 彼女は視線を南の彼方に向けた。そろそろ夕凪のころから、山風がおろす時間に変わったらしく、風が山地から吹き下ろしてきた。

 マリアンヌ・シャルマーニュ。十四歳。生まれも育ちもこのティシュリ島という生粋のディカルト娘だ。私設艦隊を率いる提督で、現在交易を生業としている、海の女である。

 海という男の世界では女船長でさえ珍しい。ましてや女で、それもローティーンで一艦隊を率いる提督などというのは、世界広しといえ、彼女くらいなものだろう。

 身長は163センチくらい。大きく、澄んだ瞳をした、顔立ちの整った、ハンサムでチャーミングな女の子だ。髪の色はしょうが色(つまり赤毛)で、長く伸ばした髪をリボンで結んでまとめている。肌も程良く日焼けしていて、健康的美少女という印象を受ける。

 でも、船にさえ乗っていなければ、ディカルトのどこにでもいるようなふつうの女の子だ。

 ちなみに、彼女と一緒にいる少年アーサー・ウェズリーは、彼女の初等学校のころの同級生。共和国政府の高級官僚のボンボンで、今は街の有名私立中等学校に通っている。なお、彼の成績は凡の凡だ。

「南洋に行けないとなったら、次の航海はどこに行こうかしら?またグリフに行って、陶磁器を仕入れてこようかな……」

「グリフヘッドは相変わらず物価が高騰してるようだね。最近はあそこの国の入港税も高くなったって聞くし。それはこの間大陸に行って来たばかりのきみがよく知っているんだろうけど」

「うん、確かにそうよ。でも、半日くらいしかあそこの街にいなかったから、詳しいことはよくわからなかったわ」

 夕日はもう半ばまで姿を消していた。空はますます鮮やかな茜色に染まっていった。

 二人はその夕焼けをじっと見つめていた。

「マリアンヌ、きみは船で夕日を追いかけてみたことがあるかい?」

「ううん。でも、いつかはやってみたいと思ってるの」

 マリアンヌは髪からリボンを外した。長い髪が風になびいた。


 夜。

 日が落ちて暗くなった町の街道の各所に取り付けられた街灯に、町の夜灯番が火をつけて歩いていった。

 ランプの光で淡く照らされた港近くの酒場街は、船乗りや労働者などでにぎわっていた。

 その酒場街を、男は歩いていた。

 190センチをゆうに越える長身。がっしりとした体つき。ネイティブの血が入っているのか、肌の色は黒い。狩りに挑むライオンのような精悍な顔立ち、黒光りするスキンヘッド。

 歩いている男の背中を、突然誰かがたたいた。

「やっほー、セル」

 男はゆっくり振り向いた。

「なんだ、お嬢ちゃんですか」

「今から星の水鳥亭?」

「ええ。お嬢ちゃんもそうでしょう」

「うん」

 マリアンヌはうなずいてから、

「それから、セル。あたしのことをお嬢ちゃんって呼ぶのはやめてってもうずっと言ってるわよ。あたしは提督なんだから、提督って呼んでよ」

「わかりました、お嬢ちゃん」

「あらら。言った先からこれだもん」

「申し訳ない。自分はお嬢ちゃんの方が呼びなれてるもので、つい」

「ま、いっか」

 マリアンヌはセルと呼んだ男と一緒に、行きつけの酒場、星の水鳥亭に向かった。

 男はセルことセレウコス・ニカトール。歳は36。マリアンヌの航海仲間で、彼女の旗艦インフィニティ号の船長を務める、熟練の航海士である。肌の色が黒いのは、彼が黒人系ディカルト原住民の血を受けているからだ。

 酒場街の一角に、少し大きめの大衆酒場がある。星の水鳥亭という名前の酒場だ。

 彼女はそこの扉を開けて、中に入った。

「いらっしゃい。やあ、お嬢ちゃんか」

「あら、いらっしゃいマリアンヌ。セルさんも一緒なの。ゆっくりしていってね」

 カウンターのほうから壮年のおやじと18歳前後の女性が声をかけてきた。

「おやじさん、プットとじいさんは来てる?」

「ああ、来てるよ。リディア、あの二人を呼んできてくれ」

「はーい」

 カウンターに座っていた酒場女のリディアが、酒場の奥の方に行った。しばらくして、さっきまでラム酒を飲みながら豚の丸焼きを一人で食べていた太った男と、さっきまで酒場の踊り娘と一緒に踊っていた老人がマリアンヌのところにやってきた。

「おう、お嬢。今夜はたっぷり飲もうぜぇ」

「嬢ちゃん、いつきとったんじゃね?」

「ついさっきよ、じいさん。さあ、あたしとセルで仲間がそろったんだから、今日も楽しく飲もうよ」

 四人はカウンターから少ししか離れていないテーブルに席を取った。

 太った男の名前はプトレマイオス・ラゴス。通称プット。歳は41。身長180センチ、体重144キロ、ウエスト122センチという立派な体格をした男で、怪力が自慢の豪傑である。剛毅、豪快、酒豪、単純、単細胞といういかにも豪傑らしい人物だ。

 もう一人、年かさの男は名前をカッサンドロス・リベールという。通称じいさん。歳は66。マリアンヌの艦隊で船医兼水先案内人をつとめる。学者であり、航海術、天文学、地理学、生物学、歴史学、医学薬学、その他の多彩な学識でマリアンヌを支える知恵袋だ。老年だがそれなりの美形で、本人はロマンスグレーを気取っている。伸ばした灰色の髪をうなじのところで束ねている。

 マリアンヌの仲間三人は、三人とも、彼女の父親の部下だった者たちだ。

 マリアンヌの父親は、今世紀最大の航海者にして冒険家と言われたジョゼフ・シャルマーニュ提督だ。二十歳前にして航海に乗り出した彼は、世界各地を探検してまわり、数々の珍物件を発見し、数々の秘宝を探し当てた。多くの未発見の島や土地を発見し、新航路の開拓に大きく貢献した。また、彼は「海賊殺しのジョゼフ」と呼ばれた強者で、なみいる海賊たちを次々と撃破した。彼が活躍していた間しばらく、東大洋は平穏だった。

 ジョゼフはマリアンヌが12歳の時、聖皇歴988年の秋、バーンシュルツ島沖合で、東大洋海賊の総元締めだったグレゴリオ・ラルグの大艦隊と交戦し、これを葬り去った。だが、その戦い以降、ジョゼフは彼の旗艦ブレイザー号と共に消息を絶った。戦いから数日後、バーンシュルツ島の浜に彼の部下たちの遺体と、ブレイザー号の「炎龍を従えた女神」の船首像が打ち上げられ、ジョゼフは戦死したものと断定された。人々は彼を英雄と奉り、ティシュリの港広場に彼の銅像と記念碑を建立した。

 マリアンヌが航海に出るようになったのは、父親が消息を絶ってからだ。小さいころから父親の冒険談を聞いて育った彼女は、いつしか自分も航海者になりたいと思うようになり、父親の跡を継ぐようなかたちで船乗りになったのだ。

 そして、彼女の目標、それは偉大な父親ジョゼフに負けない冒険家になることである。そして、仲間たちと共に、その目標に向かってがんばっているのだ。

 話を戻して。

「さて、ここに来たからにはやっぱりあれを飲まないとね。おやじさん、ビールを五本こっちにまわして」

 マリアンヌはカウンターにいるおやじに大声で注文した。

 すると、おやじはとたんに曇った顔をした。

「? おやじさん、どうしたの?」

 彼女は席を立つと、カウンターのほうに近づいた。

「言いにくいんだがね、実は、もうここにビールがないんだよ。ここだけじゃない。もうティシュリの街からビールがなくなってしまったんだ。キャンベル村のビール醸造組合がビール生産をストップしてしまったんだよ」

「ええーっ! どうして? あたしはここでビールを飲むのが楽しみなのに」

 彼女は驚いて叫んでしまった。

「今年の三月頃に起きた大嵐で水害が起きたろう。あのせいで麦畑が水浸しになって、大麦の穫れががた落ちしたらしい。このぶんじゃ、次の大麦の取り入れまでビールはお預けになりかねんよ」

「そんなぁ。がっかり」

 大のビール党である彼女は本当にがっかりして肩を落とした。

「しかし、凶作が原因とはいえ、それでビールが全部なくなってしまうと言うのも、今ひとつ腑に落ちない話じゃのう」

 カッサンドロスがおやじのほうを向いて言った。

「だが、現にそういう状況だからねえ。ついこの間ビール組合の関係者がうちにきててな、ホップはたくさんあるのに大麦がなくなってしまってもうビールが造れないと言って嘆いていたからな。四方八方手を尽くしているが、どうしても大麦を手に入れられない。八方塞がりだってね」

「そうかぁ……。大麦がないんじゃあね……」

 マリアンヌはしばらくカウンターに顔をうつぶせていたが、何かひらめいたのか、すっと顔を上げた。

「大麦がなくてビールが造れないんでしょ。てことは、大麦さえあればまたビールを造れるようになるってことよね」

「まあ、そうだろうな」

「だったら、仕入れてくればいいじゃない」

「ビール組合もそうしようとしたらしいよ。この町の航海者ギルドや商会に依頼したらしいが、失敗したらしい。ディカルト連邦は軒並み凶作だったし、おまけに政治問題が絡んじゃって、仕入れさせてくれなかったそうだよ。それでビール組合も困っているのさ」

「ふーん……」

 それを聞いて彼女はしばらく腕を組んで考えていた。彼女としてはどうしてもティシュリビールが飲みたいのだ。

「そうだわ。だったら外国から仕入れればいいのよ。中央大陸だったら、きっと大麦をたくさん作っているところがあるわ」

 おやじはしばらく黙っていたが、にっと笑った。

「なるほど、大陸になら大麦もあるはずだな」

「お嬢ちゃん、大麦仕入れを引き受けるつもりですか?」

 グラスに入っていたワインを飲みながら、セレウコスがマリアンヌに尋ねた。

「とーぜんよ。ビールのためだったら、仕入れでも何でもするわ」

 彼女は勢い込んで答えた。大のビール党だけに、ビールがかかれば意気込みが違う。

「とりあえず、明日にでもキャンベル村のビール組合に行って、大麦仕入れの仕事をもらってくるわ。そしたら中央大陸方面に出航よ。セルは明日のうちに補給と出航準備を済ませておいて。みんな、それでいい?」

「かまいませんが、大陸のどこに行くんですか?」

 セレウコスに質問をふられて、彼女は少し答えに詰まった。彼女は中央大陸の地理に精通しているわけではない。だから、具体的に場所を挙げろと言われても、すぐに答えが出てこない。

「う~ん。じいさん、大麦を仕入れるんだったらどこの港に行ったらいいと思う?」

 彼女は老航海士の顔を見た。

「ふむ……。大陸で農業が特に発達している国はゲイマージ王国、コスバイア皇国、ラナウーク王国の三つが挙げられるわい。そのうちラナウークはゲレイ大陸南端のキプレス岬を越えねばならんから除外じゃな。一番近いのはゲイマージの首都バリャドリッドで、これは東大洋に面した港町じゃ。じゃが、ここは大麦より甜菜から穫れる砂糖が特産品じゃな。穀物が特産品と言えば……」

「コスバイアなんかどうかね。コスバイアは大陸有数の農業国だし、穀物が特産品だと聞く。コスバイアの首都レグラーンは大きな街だし、きっと大麦もあると思うよ」

 おやじが横から口を挟んだ。

「わしもそう言おうと思っとったんじゃ。あの街は大麦小麦が山ほどあるからの」

 カッサンドロスはそう言ってから、付け加えた。

「じゃが、あそこのねーちゃんはお高くとまっておって、わしゃ好かんわい」

「そんなことはきいてないわよ」

 彼女は仲間たちのほうを向いた。

「じゃあ、コスバイアのレグラーンに行くことでいいわね」

「承知」

「俺様はうまい酒が飲めりゃあ、どこだってついていくぜぇ」

「あそこの街のねーちゃんはあまり好かんが、まあいいじゃろ」

 仲間たちの同意を得て、彼女はにっこりほほえんだ。

「お嬢ちゃん、ビールはないが、ランシェルワインの上等のものがあるよ。それをあげようか」

「うん、じゃあいただくわ。それから、七面鳥の丸焼きとフライドポテト、それと小エビのフライをちょうだい」

「はいはい。それと、ビールを切らしてるお詫びだ、ワイン一瓶サービスしてあげよう」

「ほんと?わーい、やったぁ」

「おやじ!ラムの大瓶を十本回してくれ!」

 プトレマイオスの大声が酒場に響いた。

 こうして、ディカルトの夜は更けていくのだった。


 次の日、マリアンヌはキャンベル村にあるビール醸造組合に向かった。

 キャンベル村はティシュリの街から北に向かった、山間の小さな農村だ。ティシュリから北に伸びる街道を行き、峠を四つばかり越えたところにある。一見、なにもない小さな村だが、村はずれに銘水として知られた泉があり、その水を使ってビールの醸造をしているのだ。

 彼女は島の奥にある鉱山の町マジェンダに羊毛を運ぶ荷馬車に便乗させてもらい、村に向かうことにした。

 よく晴れた空から太陽が照りつけているが、高い山を登っていく峠道の空気は、ティシュリに比べてだいぶん涼しかった。

 二頭立ての荷馬車に揺られながら、マリアンヌは荷台に積まれた羊毛の束の上で横になっていた。

 ふわふわした柔らかい羊毛の束の上にいると、まるでクッションの上に寝ころんでいるように心地よい。彼女は荷馬車の揺れをゆりかごのように感じながら、うとうとし始めた。

 朝方までは小雨が少々ちらついていた峠道だが、今は抜けるような薄水色の空が広がっている。道ばたの杉林が、風に吹かれてざわめいている。

「どう、どう」

 馬車に揺られて二時間あまり、ティシュリを出発したところから数えて四つ目の峠にある分かれ道で、御者は馬車を止めた。そして、御者台から降りて、荷台のほうにまわった。

「ついたよ、お嬢さん」

 居眠りをしていたマリアンヌは御者の声で目を覚まし、目をこすりながら起きあがった。

「村に着いたの?」

「いや、おいらが送れるのはここまでだ。キャンベル村はこっちの道を降りたところにあるから。歩いて二十分くらいのところだよ」

 彼女は荷台から道路に降りた。ひんやりした高地の風に当たって、彼女は寝起きのぼーっとした状態からさめた。

「うん、じゃあここから歩いて行くわ」

 彼女は御者に金貨を三枚渡した。

「ありがとよ。じゃあ、気をつけて行きな。帰りは村からティシュリに行く馬車にでも乗って帰ったらいい」

 そう言うと、御者は馬車を走らせて、一路北へと向かった。馬車の目指す先のマジェンダは、ここからさらに馬車を四時間走らせたところにあるのだ。

 マリアンヌは、峠の分かれ道からキャンベル村へと続く細い道を歩いて降りていった。

 十五分ばかり歩いていくと、峠のふもとに小さな村があった。彼女はそこから坂道を駆け足で降りていき、キャンベル村に入った。

 村人に道を聞いて、彼女はビール醸造組合の建物に向かった。

 ビール醸造組合は、木造二階建ての事務所棟と、それに続いた工場、十棟くらいある倉庫などで構成されている。小さな村の中で、一番大きな建物だ。

 マリアンヌは事務所棟の扉を開けて、中に呼びかけた。

「こんにちわぁ。誰かいますか?」

 彼女が呼びかけると、事務机に頬杖をついていた若者が、起きあがって彼女のほうを向いた。

「なんのご用ですか?」

「大麦の仕入れのことで話があったんで来たんですけど」

「……ちょっと待ってください」

 若者は事務所棟の奥に入っていった。そして、一人の壮年の男を連れてきた。

「わしがビール醸造組合の組合長だが、あんたかい、話があるってのは」

 いかめしい面構えの男は、太いがよく通る声で彼女に話しかけた。

「あんたは誰だい」

「あたしはマリアンヌ・シャルマーニュと言います」

「ああ、最近ちっとばかしうわさに聞く小娘提督ってのはあんたのことかい。大麦の仕入れのことで話があるって聞いたが……立ち話もなんだから入りな」

 彼女は組合長に案内されて、事務所の応接セットのソファに座った。

「ここで大麦がなくなってしまって、ビールが造れなくなったって聞いたんですけど」

 彼女がそう言うと、組合長は曇った表情でうなずいた。

「そうなんだ。この春はなぜか大麦が一粒も入ってこなくてね。おかげでこっちは操業停止になってしまったんだよ」

「大麦が一粒も? 凶作のせいかしら……?」

 いくら例年にない凶作とはいえ、一粒たりともビール醸造組合に入ってこないというのはおかしな話だ。彼女は首をかしげた。

「違うんです。大麦を何者かに買い占められてしまって、それで仕入れられなくなってしまったんですよ」

 二人分のお茶を入れてきた若者がマリアンヌに言った。

「あっしは大麦の仕入れを担当してたんですが、あっしが村々をまわって大麦を仕入れにいったときには、もう大麦を洗いざらい買い占められていたんです。おかげで今年は大麦が手に入らなかったんですよ」

「どこの誰が買い占めなんかやったかは知らんが、おかげでこっちは大いに困っているんだ。うちは大勢の人間を抱えているから、それを養っていかなきゃならん。そのためにはビール醸造を再開させなきゃいけないんだが、大麦が入らんことにはなにもできん」

 組合長は本当に困ったと言いたそうな顔をした。

「それで、あたしが大麦の仕入れを引き受けようと思うんですけど」

 マリアンヌの申し出に、組合長は目を上げて彼女の顔を見た。

「ほう、あんたが引き受けてくれるのか。で、どこの大麦を仕入れに行くつもりだい」

「コスバイア皇国のレグラーン産の大麦を仕入れようと思ってます」

「コスバイア産か……」

 組合長は難しい顔をして腕を組んだ。

「うちは基本的に外国産の原料は使わないことにしている。特に主原料の大麦は、このティシュリ島産に限ってきた。百歩譲っても連邦内の大麦の仕入れに限っていた。原料を変えると味が変わりかねんからな。外国産大麦の仕入れをティシュリ航海者ギルドやローキッド商会に依頼しなかったのもそのためだ」

『あちゃあ。じゃあ、ダメってこと……』

 彼女はそう思って、がっかりしてうつむいた。

「だが、今は緊急事態だ。せっかく船乗りのお嬢ちゃんが出向いてくれたことだし、ここは試しにコスバイア産の大麦を使うことにしよう。だから、お嬢ちゃん。大麦の仕入れを依頼させてもらうよ」

 組合長の言葉に、マリアンヌの顔がぱっと輝いた。

「はい! まかせてください!」

「ははは、頼もしいな。だったら、とりあえずレグラーン産大麦を200樽仕入れてきてくれ。期限は一応二ヶ月にするが、なるべく急いでほしい。報酬は、そうだな……前金2000ターバル、仕入れてきてくれたらさらに2000ターバル、計4000ターバルでどうだろう」

 彼女は組合長の出した条件を頭の中で何度も繰り返し、

「レグラーン産大麦を二ヶ月以内に200樽仕入れて、報酬は4000ターバル……わかりました。それで引き受けます」

「よし、じゃあ頼んだよ。前金を渡そう」

 組合長は金庫を開けて、10ターバル紙幣100枚の札束を二つ取りだし、それをマリアンヌに渡した。

「それから、これはお礼だ」

 そう言って、組合長は彼女に、金貨の入った小袋を差し出した。

「ちょっと、それをもらうわけには……」

「いや、いいんだよ。船乗りのお嬢ちゃんがわざわざこんな山奥にまでやってきて大麦の仕入れを申し出てくれたお礼だ。わしからの小遣いだと思って、もらっときな。遠慮なんかいらんよ」

 もらうのを躊躇していた彼女だったが、そこまで言われて受け取らないのはかえって失礼なんじゃないかと思い直し、金貨の入った袋をありがたく受け取った。

「それじゃあ、必ず仕入れてくるので、期待しててください」

「頼んだよ。おい、お嬢ちゃんを街まで送ってやんな」

「へい」

 組合長がそばのいすに座っていた若者に言うと、若者は外にでて馬車の支度をはじめた。

 組合長に見送られてマリアンヌはビール醸造組合の建物から外に出た。

 建物の前にあるススキの群落が風に揺れていた。

「なんか、得しちゃったわね」

 彼女は、組合長からもらった金貨の入った袋を見ながら、かわいい顔でにっこり笑った。そして、それを自分の布製のショルダーバッグにしまった。

「さあ、がんばらなくっちゃ。期待されてるんだから」


 マリアンヌがティシュリの街まで戻ったときには、もう時計の針は午後四時をまわっていた。太陽は西の空に大きく傾いている。

 彼女は街に入ると、まっすぐ港に向かった。

 港広場までやってきた彼女は、ふと、ジョゼフ・シャルマーニュ提督の銅像に目を向けた。そして、そこで足を止めた。

「お父ちゃん。あたし、今度コスバイアまで行くの。まだ行ったことのないところへの航海だけど、心配いらないわ」

 南側に広がる水平線をまっすぐに見つめる彼女の父親の像に向かって、彼女は心の中で話しかけた。

「絶対にどこかで会おうね。約束だよ」

 彼女は銅像の前から港に向かって歩き出した。

 港湾管理事務所の入り口の前で、彼女はセレウコスと出会った。

「仕入れの仕事はもらえましたか?」

「ばっちりよ。レグラーン産の大麦を200樽、二ヶ月以内に仕入れて持ち帰ってほしいって。報酬は4000ターバルで引き受けたわ」

「そうですか。200樽となると我々の船だとぎりぎりの積載量ですな。何とかなるでしょう」

「補給はしてくれた?」

「一ヶ月分の食料と水を積み込んでおきました。中央大陸までなら十分だろうと思います」

「オーケー。じゃあ、いつでも出航できるわね」

「すぐに出航しますか?」

 セレウコスが聞くと、マリアンヌは首を横に振った。

「今からだとすぐに日が暮れちゃうから、明日の朝出航したらいいと思うわ」

「確かに。明日の何時ですか?」

「うーんと、九時。九時に出航する予定でいいわね」

「承知。それまでに準備しておきましょう」

 二人は街に向かって歩き出した。

 港広場を抜けると、街道の分岐点にでる。そこから街道が北、東、西に伸びている。街道を挟んだ向こう側は酒場街だ。

「酒場に行きますか?」

 いつもならここで酒場に直行するのがマリアンヌの行動パターンだが、彼女はこのときばかりは首を横に振った。

「ビールが飲めないんなら、星の水鳥亭に行っても楽しみがないもん。やめとくわ。それに、明日出航だから、今日は家に帰ってゆっくり休みたいの」

「そうですか。自分は酒場に行きます。では、明日」

「じゃあ、また明日ね」

 セレウコスは酒場街のほうに足を向け、マリアンヌは東の街道を歩き出した。

 港の前から、三つの主要な街道が三方に伸びている。北に続く街道は官庁街を通り抜けて、山の手と呼ばれる高級住宅街を経て、エメラルドや鉄鉱石の鉱山のほうに向かう。西の街道を進むとティシュリ漁港に行き、そこから海岸線に沿って道が続いて、農村地帯に抜ける。東に向かって伸びる街道は、ティシュリの下町を通り、連邦軍の基地のほうに向かっている。

 港から東の街道を歩いて五分もすると、ロレンス川という川にかかるボワール橋という石のアーチ橋にさしかかる。その橋のたもとにマリアンヌの自宅がある。赤い板葺き屋根の小さな平屋建てだ。

 多少立て付けの悪い引き戸を開け、彼女は家の中に入った。

 彼女に家族はいない。母親は彼女が十歳の時に風邪がもとで亡くなり、父親は前述の通り、二年前の秋に消息を絶った。それ以来、彼女はこの家に一人で暮らしている。

 彼女は寝室にはいると、ショルダーバッグをベッドの上に放り投げ、着ていたベストを脱いでハンガーに掛けた。そして、自分もベッドの上に転がった。

「さーて、明日は出航。がんばらなくっちゃ」

 彼女はベッドに転がりながら、上目づたいに壁のほうを見た。

 彼女の視線の先には一枚の絵が掛かっていた。両親と一緒に暮らしていたときに、家族全員で書いてもらった肖像画だ。

「お父ちゃん……お母ちゃん……」

 家族そろって楽しく過ごしていた小さいころのことを思い出したのか、彼女はふと寂しそうな表情になった。だが、すぐに元気を取り戻して笑顔になった。

「お父ちゃんもお母ちゃんもいないけど、あたしにはたくさんの友達や仲間がいるんだもん。独りじゃないからさみしくないよ。……さてと、お風呂を入れなきゃね」

 彼女は寝返りを打って、ベッドから降りた。そして、浴室のほうに向かった。

 ティシュリの街の郊外に、非常に水量の豊富な温泉があり、そこからティシュリの全戸に温泉の湯が引かれている。当然、マリアンヌの家にもこの温泉水道が引かれている。

 消火栓のように太い蛇口のバルブを開けると、温かいお湯が勢いよく出てきた。水道施設の保温状態がよいのか、彼女の住む下町に湯が届くころには、湯はちょうどいい湯加減になっている。

 しばらくして、小型のバスタブいっぱいに湯がたたえられた。

 マリアンヌは着ていた木綿の白いシャツとクリーム色のジーンズ、それと下着を脱ぎ散らかして、風呂に入った。

 明日からしばらく海の上で汗くさい男たちと一緒に働くことになる。港に寄港するまでしばらく風呂に入れない日が続く。だから出航前はゆっくりと風呂に入って、身体を洗って、きれいにしておきたい。彼女はそう考えていた。

 船乗りとはいえ、彼女もやっぱり女の子なのだ。

 風呂に肩まで浸かりながら、彼女はご機嫌な様子だった。

「ああ、やっぱりお風呂は最高! んー、あったかい」

 彼女はハミングしながら幸せな気分に浸っていた。

 玄関のほうから、とんとんとんとドアをノックする音が聞こえた。

「ごめんください。マリーちゃん、いる?」

「あ。おばちゃんだ」

 彼女は風呂から急いで上がると、バスタオルを身体にまいて、玄関に出ていった。

「あら、お風呂に入っていたところだったの。あらあら、そんなかっこで。風邪ひくわよ」

 狭い玄関に立っていたのは、マリアンヌの伯母マーサ・バーレイだった。彼女の家の近所で雑貨店を営んでいる、世話好きであわて者の太ったおばちゃんだ。

 海の上に出ていて普段は家にいないマリアンヌだが、自宅はきれいになっている。それはこのおばさんが掃除などの世話をしてくれるからだ。

「いいのよ、あたしは風邪ひいたことないもん。ところで、何の用なのおばちゃん? ……トイレブラシなんかもって」

 マーサは手に売り物の柄付きブラシを持ってきていた。ゴート銀貨3枚(通貨単位。10ゴート銀貨=1ターバル金貨)という値札までついている。

「あれま、あんまりあわててたからこんなものまで持って出てしまってたよ。マリーちゃんが明日出航だって聞いたものだから、あわてて飛び出してきちゃったんよ」

「そうだったの。明日の朝九時に出航する予定よ」

「今度はどこまで行くんだい?」

「中央大陸のコスバイア皇国までいくの。レグラーン港に大麦を仕入れにいくのよ。キャンベル村のビール組合に頼まれたから」

「おやまあ、コスバイアと言ったら相当遠いじゃないの」

「うん。あたしも初めて行くところだけど、でも心配いらないよ」

 マーサは少しさみしそうな表情をした。

「そこまでの遠出となると、今年のティシュリ祭りはマリーちゃん抜きですることになるわね。さみしくなるわ」

 ティシュリ祭りというのは、毎年十月の半ばに数日間にわたっておこなわれるティシュリ島最大の祭りである。移民が中央大陸からこの島にやってきたことを記念するもので、仮装パレードと豚追い(町中に放った豚の大群を市民が追い回す。けっこう盛り上がる)が最大の呼び物だ。この週間は家庭でごちそうが振る舞われるのが習わしである。

「あたしもおばちゃんの料理が食べられなくて残念だわ。おばちゃんの作ったごちそう、とってもおいしいんだもん」

「そうかい。そう言ってくれるとうれしいわね。そうだ。明日お弁当を作ってあげるわ。リックに港まで持っていかせるからね」

「ほんと?やったあ」

 マリアンヌは跳びはねて喜んだ。

「それじゃ、気をつけて行って来るんだよ」

「うん」

「あんまり危ないまねをするもんじゃないよ。命はひとつしかないんだからね」

「うん。わかってるわ」

 マーサは帰っていった。

 彼女が帰ったとたんに、外の冷えた風が家の中に吹き込んできた。さっきまでおばちゃんの太った身体で風をシャットアウトしていたのだ。

「ふぇっくしゅ。う~、寒い」

 マリアンヌはひとつ大きなくしゃみをしてから、戸を閉めようとした。そのとき、ちょうど強い風が吹き込んできて、彼女のバスタオルをめくりあげた。

 彼女は短い悲鳴を上げ、顔を真っ赤にして、あわてて戸を閉めた。

 幸い誰にも見られていなかった。


 翌朝、10月8日。

 朝の八時に目が覚めたマリアンヌは、急いで旅支度を調えると、ロールパンを口にくわえて家を飛び出した。

 九時に出航予定と言うことは、出航準備をそれまでに整えておかなくてはならない。だから本当なら港に早めに行っておかねばならないのだが、うっかり寝坊をしてしまった。これで遅刻してしまったら、提督の面目が立たない。

 走って港にやってくると、彼女のいとこのリックが弁当を持って待っていた。

「はい、マリーお姉。母ちゃんから弁当だよ。サンドウィッチだって」

「ありがとう」

「おみやげ忘れるなよ。じゃな」

 リックは彼女に弁当を渡すと、街のほうに走っていった。

 彼女は弁当を持って、自分の率いる船、ディカルト連邦製軽クリッパー帆船インフィニティ号に乗り込んだ。

 彼女の艦隊はインフィニティ号一隻である。それでも艦隊である。

 船の上には仲間たちと、30名程度の船員たちがすでに乗り込んでいた。

「ごめーん。みんな、待ったぁ?」

 彼女はタラップを駆け上がって船の甲板に立つと、乗組員全員に声をかけた。

「遅刻ですよ、お嬢ちゃん」

「ごめんごめん。で、出航準備はどうなっているの?」

 彼女はセレウコスに尋ねた。

「船のほうは準備が整っています。出港手続きはまだですが」

「そう。じゃあ、すぐに管理事務所に行って手続きをしてくるわ」

「わしも行くわい、嬢ちゃん。買い忘れたものがあるでの」

 甲板に座って好物のカツサンドを朝食に食べていたカッサンドロスが立ち上がって、彼女と一緒に船を下りた。

 船を下りる途中、マリアンヌは何かに気がついたのか、振り返ってカッサンドロスのほうを向いた。

「そう言えば、セルの頭に包帯が巻いてあったけど、何かあったの?」

「うむ。ゆうべ星の水鳥亭で客同士のけんかがあっての。ディカルト連合艦隊の水兵と、寄港していたグリフヘッド艦隊の水兵とのいさかいじゃったが、大乱闘になってのう。そのときに、黙って飲んでいたセルの頭に、グリフの水兵が『この黒坊のハゲ!』って叫んで酒の瓶で殴りかかったんじゃよ」

「うわ」

「その後グリフの水兵どもは全員セルの頭突きでのびて、けんかは収拾したがの。セルのけがは大したことはない。かすり傷じゃよ」

「ふーん、そんなことがあったんだ。昨日星の水鳥に行かなくて良かった。それにしても、プットならともかく、セルがけんかに加わるなんて珍しいわね」

 セレウコスはとにかく冷静沈着な男だ。嵐が吹こうが槍が振ろうが火事が起ころうが、表情ひとつ変えないでいる。

「ふむ。まあ、セルに黒坊とハゲは禁句だからのう」

 マリアンヌとカッサンドロスは港湾管理事務所の前で別れた。

「じいさん、なにを買い忘れたの? まさかエッチな本ってんじゃないわよね」

「それなら忘れないように真っ先に用意しておいてるわい。買い忘れたのはアルコールランプの予備燃料じゃよ。すぐ買って戻ってこれるわい」

「あ、そ……。出航時間に遅れないでね」

 カッサンドロスは街のほうに行き、マリアンヌは事務所の中に入った。

 出航の際、書類の手続きをして、それまでの停泊期間分の寄港税を支払わなくてはならない。これらの手続きをしないと、港湾管理員が船を桟橋につなぎ止めている鎖を外してくれないので、出航することができない。

 必要な書類にサインをし、寄港税分の金貨を払って、彼女は事務所を出た。街のほうに出ていったカッサンドロスはまだ戻ってきていないようだったので、彼女はひとりで船に戻った。

 戻った船の上では、船長のセレウコスの命令で船員たちがいつでも出航できるように準備をしていた。

「手続きは済みましたか?」

「うん。あとはじいさんが帰ってくるのを待つだけ……あ、帰ってきたわ」

 インフィニティ号にカッサンドロスが乗り込み、これで乗組員は全員そろった。

「出航前に確認しておきますが」

 セレウコスが、甲板に備え付けてある船長用のテーブルの上に海図を広げた。

「目的地のレグラーンは、中央大陸の中央よりやや東よりの内陸、ゼナガ川をさかのぼったところにあります」

「えっと、レグラーンは……あ、あったわ」

 マリアンヌは地図を眺めて、レグラーンの所在地を確かめた。

「そこに行く航路は二通りあります。ひとつは、ここから西微北に進路を取って、東大洋に面したゼード港の付近から青ゼナガ川に入り、遡上する航路」

 セレウコスはその航路を指でたどった。

「もう一つは、ここから西微南に進路を取ってニート海に入り、マーシア港の付近から白ゼナガに入り、遡上する航路です」

 彼はその航路も指でたどった。

「ゼナガ川は途中で二つの川に分かれておるんじゃ。川の分岐点からは、どっちの航路をとっても同じじゃの」

 カッサンドロスが海図をのぞき込んで、付け加えた。

「組合長さんになるべく急いでほしいって言われてるし、近いほうの青ゼナガ川の航路を行こうかな。こっちはどんな航路なの?」

 マリアンヌはセレウコスに尋ねた。

「こっちの航路を通れば、レグラーンまで二週間程度の航海で着けます。ただし」

「ただし?」

「このゼード付近からゲイマージ沿岸に至るまでの海域はコスバイア海軍、ゲイマージ海軍の警備が手ぬるすぎて、海賊の巣窟になっているんです。中でも、リッチー・リガールという奴は名うての凶暴な海賊だから、関わらないほうがいいですな」

「海賊がなんぼのもんだ。この俺様がみんな叩きつぶしてやるぜぇ。リッチー・リガールも逆にこてんぱんにして、けつの穴の毛をみんな むしってやるわ」

 すぐそばで話を聞いていたプトレマイオスが勢い込んで言い放った。まくし立てながら、丸太のような太い腕をぶんぶん振り回すので、危なくてしょうがない。三人は海図を持って、彼から七歩ほど離れた。

「この船は相当速い船よ。海賊くらい振り切れるんじゃないかな」

「あまり海賊を甘く見ないほうがいいです」

「わしは危険な海域を通るのは好かんのう。世界中のいい女が天下の色男であるこのわしを待ってくれておるのに、そのわしの身に万一のことがあったらいかんわい」

「……あのさぁ。じいさんってばいつも色男気取りでいるけど、ほんとにそんなにもてるの?あたし、じいさんが女の子に手を出してはひっぱたかれてるところしか見ないんだけど」

「なにを言う。カッサンドロス・リベールといえば世界を股に掛ける好色一代男として世界の津々浦々に知れわたっとるくらいだわい。ジョゼフ提督と世界を駆け回っていたときは、寄港する先々できれいなねーちゃんたちとよろしくやったもんじゃ。今だってばりばりに盛んじゃぞい。その証拠に……」

「はいはい。別にどうでもいい事ね」

 マリアンヌは口をとがらせて熱弁を振るうカッサンドロスを置き去りにしてセレウコスのほうを向いた。

「そうね。万一戦いに巻き込まれたら勝ち目は薄いし。じゃあ、もう一つのニート海を通る航路はどんな航路なの?」

「ニート海のほうを通る航路は治安もまあまあ良くて、港も周辺に多いからいざとなればどこにでも寄港できます。ただ、こっちの航路を通るなら、航海日数を三週間前後と見積もっておく必要がありますが」

 彼女は腕組みして考えた。

「うーん、早いほうを通るか、安全なほうを通るか、迷うわね……」

 彼女はじっと地図とにらめっこしながらしばらく考えていたが、決定したらしく、組んでいた腕を解いてセレウコスを見上げた。

「ここは安全なニート海航路でいくわ。船の操縦をおねがいね」

「了解」

「ちぇっ、なんでえ。海賊どもをぶん殴れねえじゃねえか」

 プトレマイオスはおもしろくないらしく、仏頂面でいすにどすんと腰掛けた。

 とたんにいすがぺちゃんこにつぶれ、彼は甲板の上にかぼちゃのように転がった。

「もう準備は完了しています。出航するなら命令を下してください」

「うんっ」

 セレウコスの言葉にうなずいて、船首の当直甲板に立ったマリアンヌは、甲板のほうを向いて、すうっと息を吸い込んだ。

「抜錨開始! 展帆全開! 出航よ!」

 彼女のりんとした声が甲板上に響きわたった。

 その命令に従って、それぞれの配置に散っていた船員たちが、船の上をわらわらと駆け出した。

 数人の船員が桟橋に立って、艫綱を外し、船に上がってきてから、船と桟橋を渡していたタラップを引き揚げた。

 別の船員が巻き上げ機を使って錨を海中から引き揚げた。

 錨が引き揚げられたとたん、船は安定を失ってゆっくりと揺れだした。

 十数人の船員たちが、索具をつたってマストによじ登り、帆を手際よく上げはじめた。

 フォアマスト、メーンマスト、ミズンマストに帆が張り巡らされた。

 白い帆は風をはらんで少しずつふくらんでいき、インフィニティ号は徐々に海面を滑り出しはじめた。

「よし、取り舵35度。灯台岬の付近から沖合に出るぞ」

「了解! 取り舵35度」

 セレウコスの命令を舵手が復唱し、舵輪を回した。

 船首がゆっくりと向きを変えて、ティシュリ湾の入り口のほうを向いた。

「灯台岬のそばには暗礁があるから気をつけいよ」

「重々承知」

 船はゆっくりとしたスピードで湾口を抜け、外海に出ていった。

「取り舵80度。西微南に進路を取れ」

「了解! 取り舵80度。進路変更、西微南」

 舵手が復唱し、舵を大きく切った。

 船首がぐぐぐっと向きを変え、船は予定通りの航路に乗った。

 外海に出たため、波が強くなって、船は大きく揺れ動いていた。

 マリアンヌは船首に立って紺碧の海を眺めながら、大きく深呼吸をした。

「んー、この潮の香りが気持ちいいのよね」

「嬢ちゃんもだんだんと海の娘になってきたのう」

 彼女の後ろに立ったカッサンドロスが、しみじみとした口調で言った。

「あれ。前からそのつもりだったけど」

「そのようだったようじゃがの。じゃが、前と比べて一段と海の娘らしくなったような気がしたんじゃよ。海を愛する航海少女、と言ったところかのう。航海者にとって、海を愛する心は大切なんじゃ。それが嬢ちゃんにあれば、わしらも安心して嬢ちゃんを助けることができるというものじゃ」

「海は大好きよ。寄港して街にいるときなんか、よく海に出たくてたまらなくなるけど、それが海を愛してるってことなのかなあ?」

「うむ。そうかもしれんのう」

 カッサンドロスは灰色の口ひげをひねりながら、水平線のほうを遠く眺めた。

「海は多くのことを教えてくれるものじゃ。その豊かさ、優しさ、厳しさ……。わしらが知り得るのはその一部に過ぎんじゃろう。わしのような歳になってもまだまだ学ばねばならんこともある。海というものは本当に奥が深いものなのじゃ。だから、嬢ちゃんも海の女なら、もっともっと海から学び、海に鍛えられねばならんよ」

「うん」

 彼女は大きくうなずいた。

「うむ、それでこそジョゼフ・シャルマーニュ提督の娘、航海少女マリアンヌじゃわい」

 そう言いながら、彼は彼女の身体を、頭のてっぺんからつま先までしげしげと眺め回した。

「ふうむ。嬢ちゃんもまだまだ子供だと思っておったが、それでもだいぶん大人びてきたものじゃのう。航海者としても、身体のほうも」

 カッサンドロスは彼女のおしりをなで回した。

「きゃっ。なにすんのよ、このスケベじじい!」

 彼女は怒って、彼に向かってバックナックルを繰り出した。彼は見事なフットワークでその攻撃を回避した。

「やっぱり嬢ちゃんぐらいの年頃の女の子のおしりはいいのう。形もくずれておらんし、張りもあるわい。ついでに、そのたいして大きくないおっぱいも、わしがもんで大きくしてあげようかのう」

「いらないわよっ!」

 彼女はそばに落ちていたデッキブラシを拾い上げた。

「もうほんとに怒ったんだから! このスケベじじい、海に突き落としてやる。待てえっ!」

「んなこと言われて、待つ奴などおらんわい」

 マリアンヌはデッキブラシを振り上げてカッサンドロスを追い回した。カッサンドロスは甲板の上を逃げ回った。そんな二人を、船員たちはげらげら笑って見物していた。

「しょうがないな」

 セレウコスはあきれ顔でつぶやき、視線を進行方向に向けた。

 インフィニティ号は風に乗って静かに西に向かって進んでいた。


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