第九章

第九章

「今日は、新規の患者さんが見えます。多少難しい年ごろの方ですが、しっかりフォローしてやってくだざい。お願いします。」

今日、影浦医院に行くと、影浦が、そんなことを言った。

「あ、わかりました。どんな人なんでしょうか。年齢とか、職業とか、、、。」

基本的に、精神科の予約をする場合は、年齢や学歴、職業などをあらかじめ聞かれる場合が多い。それは、治療者側にとっても、あらかじめ知っておいたほうが、ある程度悩んでいることを予測できるからだ。

「どんな人ではありません。」

どういうことか?と、茉莉花は身構える。

「今度は、小さな女の子です。12歳になったばかりの。」

ここで重要なのが、人と子ははっきり区別しなければならないことだ。そのあたりは、難しいところだけど、大人の女性と、女の子は、考えていることはちょっと違う。

「わかりました。そうなると、小学生ということでしょうか?学年は六年生。」

「ええまあ、そうですね。しかし、本人はちょっと違うと申しております。」

「どういうことですか?」

茉莉花が聞くと、そのあたりは、本人に会ってみなければわからないといった。法律的に言ってしまえば、彼女はそういう年齢だ。しかし、ちょっと違うというのはどういう事だろう。

「あ、そうだ。すみません、先生。彼女の名前だけ、教えてくださらないと。」

「そうでしたね、ごめんなさい。園田小夜子さんです。漢字は小さな夜に子と書いて、小夜子。」

今時のキラキラネームに近い名前だと思った。そこから、なんとなく、彼女の困っていることがわかる気がした。

「じゃあ、九時に彼女は来ますから、よろしくお願いしますよ。」

影浦は、そう言って診察室に戻っていった。たぶん先生は、そういう子供さんを扱うことも慣れているんだろうが、茉莉花は、生まれて初めての経験で、ちょっと緊張した。

九時になった。影浦医院の前に、一台のタクシーが止まった。そして、中年の女性が一人と、12歳の女の子が一緒に入ってきた。たぶん母親と娘さんだろう。母のほうは、娘さんのことでかなり悩んでいるようであるが、娘のほうは、なんで私がこんな場所に!という顔をしている。

「あの、園田です。昨日予約の電話を入れました、、、。」

「あ、はい。どうぞ。お待ちしておりました。先生もお待ちです。」

受付係に誘導されて、二人は、診察室に入ってきた。

「初めまして。医師の影浦と、彼女は、カウンセラーの、西郷茉莉花さんです。あなたの診察と治療は、僕たち二人が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。」

「よろしくお願いいたします。」

まず、影浦と茉莉花は、基本的な自己紹介をする。その間にも、彼女の表情やしぐさなど、冷静に観察した。

「じゃあ、まず、一般的なことをお伺いしましょうか。えーと君の名前と年齢は?」

影浦が聞くと、

「園田小夜子、12歳。」

小夜子は、その通りに答えた。特に、さらりとしていて、ふてぶてしい感じはなかった。

「学校はどこですか?」

「笹原です。学部は小学部です。」

なるほど、笹原かあ。公立ではないが、かなりのエリート学校というか、金持ちのお嬢様が行く学校と聞いている。そうなると、また学年の区分わけが違ってくるのかもしれない。

「今は学校に行っているんですか?」

影浦がそう聞くと、彼女は恥ずかしそうに首を垂れた。

「あ、言わなくていいですよ。じゃあ、質問を変えましょう。今日は、どうして病院に来たのかな?」

「わかりません、ただ、学校に行く前にひどくだるいからです。」

「すみません。実を言えばこういうことなんです。先月くらいから、朝起きると微熱が続いていて、総合病院で診てもらったんですが、何も異常が見つからなくて。それでお宅へ来させてもらいました。」

と、母親の解説で納得がいった。つまり、朝起きると熱が出て、学校に行けなくさせてしまうのだろう。それが、細菌感染とか、そういうものではないので、こっちへやってきたのだ。

「学校の先生とか、そういう人には連絡されましたか?」

「ええ、養護の先生には言いましたが、担任に言ってしまうと、、、。」

一瞬口をつぐんでしまう母親。

「言ってしまうと、どうなりますか?大切なことなんで言ってみてくれますか?」

影浦に質問されて、母は、言ってもいい?と聞くような感じで、小夜子のほうを見た。小夜子は、どうぞ、という顔をした。

「それが、変な人で、問題がある生徒が出た場合、こちらのほうから辞退しろとか、そういう風に言われてしまうものですから、それはしたくないんです。」

なるほど、そういうことか。

確かに、そういうことを冷たく言う教師も少なくない。そういう生徒を何とかしようではなく、多数派の生徒を守るため、どんどん出ていけと言ってしまう教師。エリート学校には、そういう者が多いのである。

「困りましたね。そういうことを、平気で言う教師いるなんて。全く何もしようとしてくれなかったんですか?」

「え、ええ。まあ、でもまだ、このことは先生には話していません。もし話してしまったら、そういうことを言われてしまうのは、もう目に見えていますから。そうなったらほかに行くところもないし、言い出すのも怖くて。でも、昨日学校から電話が入りましてね、欠席が続いているがどうしたのかって。それで相談に来たんです。」

と、母親は言った。

「なるほど。そういうことになると、よい教育が行われているかどうかなんて、不詳ですね。最近では公開授業なんて物もよくやっていますけど、その時だけ、猫かぶって、いい教師を演じている、悪い教師も少なくないですからな。学校って、言ってみれば、ダイヤの檻みたいなもので、きれいなものに見えるけど、誰かに手を出されても、簡単には壊れない。」

彼女が抱えている問題は、たぶん、解決するには時間がかかるだろう。それは、薬を出すだけでは無理な話だと、影浦は確信した。

「じゃあ診察と、カウンセルの併用ということにしましょうか。もちろんこちらに来ていただいても結構ですし、必要があれば、西郷さんにお宅へ伺うようにさせてもいいですよ。」

「あはい。自宅へ来てもらうのは、ご近所の目もありますし、私たちが来訪するようにいたします。」

と、母親がいう。茉莉花は、母親の話ではなく、小夜子さんの話を聞いてみたかったが、彼女は、この病院が怖いのか、何も言わなかった。

「わかりました。それでは、いつがいいですかね、希望する日付や時間帯などがありましたら、教えていただけないでしょうか。」

「はい。うちは会社をしていますので、なるべくなら、時間は夕方以降でもよろしいですか?」

「結構ですよ。この病院の最終時間は六時半なので、その時までに来ていただければ。」

「わかりました。うちの会社は五時までが操業なので、終わり次第伺います。日付は、今週の木曜なんていかがでしょうか?その日だったら、夕方は特に用事もありません。私も、時折、仕事の息抜きとして、夕方料理教室とかそういうところにいっているものですから。」

と、母は言った。料理を習いに行っているというのが、どうも引っかかるが、会社をやっているとなると、かなりストレスもかかるだろうし、そのための手段も必要なんだろうなと茉莉花は考え直した。

「わかりました。じゃあ、その日に。僕は立ち会わず、西郷さんだけになりますけれどね。」

「はい。わかりました。」

「とりあえず今日は、ここまでにしましょう。どうしても不安な時にこれを飲んでおいてください。ただ、薬はお母さんが管理してあげてくださいね。」

と言って、影浦は、つくったばかりのカルテに何か書き込んで、

「じゃあ、また会いましょうね。」

と、彼女に軽く挨拶した。

「ありがとうございました。」

と、母親に連れられて帰っていく彼女。影浦は、次の患者さんを迎えるための準備を始めた。

「結構いい子じゃないですか。」

茉莉花は、影浦に言った。

「そうでしょうかね、ああいうしっかりしていそうに見えて、無口な子は、一番危ないんじゃないかなと思います。今回は初めてなので、お母さんがということもあったかもしれないけど、そういう子は、傷ついた度合いが比較的高いですよ。いまは、口に出して苦しいといえるほうが、幸せだと思わなきゃ。医学的に言ったら症状は軽くても、傷ついた度合いは強いという子も多いです。そういうところをちゃんと見極めたうえで、いいこと言う言葉を使わないと。軽々しく言ってはいけません。」

影浦の表情は厳しかった。

「たぶんきっと、結構いい子以上に傷ついていると思いますよ。また新しい、展開が始まりそうですね。」

茉莉花はちょっとため息をついた。影浦が、すぐに頭を切り替えて、次の患者さんを呼ぶようにと、受付係に指示をだしているのが、ある意味すごいなあと思ってしまう。


そして、お約束の木曜日がやってきた。

二人は、午後五時を過ぎると、すぐにやってきた。

「すみません。今日は、会社が終わってすぐに来てしまったので、このような恰好をしているのですが、許して下さい。」

小夜子さんの家族は、家族経営で、板海苔の製造会社をやっていると聞いた。なので、母は板海苔製造の時に着用している、制服のままである。たぶん、着替える暇もなく、うんと急いで、来たのだろう。茉莉花は、二人をカウンセリング室に通した。

「服装は気にしませんから、どうぞ。」

とりあえず、テーブルに座らせて、お茶を出す。

「じゃあ、先日の続きのようなことから話していきましょうか。えーと、確か、娘さんの学校は、笹原学園でしたよね。ちょっと語弊が出てしまう言い方かもしれませんが、そこはこの町でも、かなり偏差値などが高くなければ入学できないでしょう。」

「ええ、私たちも、小学部を受験したときは、合格することはないだろうなと思っていたので、入学のことは、ほとんど忘れていました。」

と、母親は言った。

「そうですか。では、誰がその学校に入ろうと決めたのですか?」

「ええ、保育園の先生方です。たまたまはいった保育園の園長先生が、割と学力を重視される方で、学力テストなどをよく行っていました。私たちは、希望していた公立の保育園に入れなくて、仕方なく、そこへ入らせてもらったんです。公立にこだわりすぎて、待機児童としてしまうのも、なんだかまずいかなとおもったものですから。」

つまり、早くから、受験を意識させる保育園だったのだ。

「と、いうことは、結構進学率とか、そういうことを強調していたのですか?」

「いえ、そういう感じではありません。むしろ逆でした。体の弱い子供さんほど、私立のいい学校に入れてやったほうがいいと、私たちは園長から聞かされました。そのほうが、いじめられたり、仲間外れにされたりすることもないからって。この子は、昔からいろんなところに過敏な子で、ほかの子が。ストレスにならないことであっても、すぐに反応してしまうような子でしたので、園長先生がそうしてくれたんだと思います。確かに、私もそうだと思います。そういうところのほうが、比較的子供さんも落ち着いていらっしゃるでしょうし。でも、その笹原というところは、正直ものすごいレベルが高いところですから、受かるはずがないと、園長先生に伝えました。そうしたら、先生方が、付きっ切りで面倒を見てくださって、受験を手伝ってくれたんです。受験本番では、出来栄えが良くなかったと、この子本人は言っていましたが、結局合格することもできて、無事に入学もできましたし。」

「では、入学してみて、学校生活はどうだったのでしょうか?」

「ええ、かなりのスパルタ教育で、本当に厳しいところでした。六年生になって、すぐに中学受験のための、模試も受けさせられました。それから、毎週土曜日も学校で補習を受けさせられたり、すぐに志望校を決めさせられたりして、この子も本当にキツかったと思います。学校へ行かなくなってから、そういうことを考えさせられました。保育園の先生は、あの学校はレベルはものすごい高いけれど、自由で束縛されないいい学校だよ。なんていってましたけど、校長先生が二代目になってからは、すごいスパルタになっていたのを知らなかったほうなのです。まあ、園長も高齢ですしね。仕方ないと思いましたが、、、。」

それこそ、年寄りがもたらす弊害だ。過去によい学校であったといわれていても、今は、スパルタ教育に変わっている学校は少なくない。でも、大体の人は、そう変わってしまったことを知らないで、「いい学校だよ」と勧めてしまうから、こういう弊害を生じる。

それに、年寄りとなると、大体上の立場にいることが多いので、たとえ悪事であっても、従わなければならないこともあるのだ。

「それで、六年の二学期の終わりごろから微熱を出し始めるようになったんです。お昼ごろには下がるんですけど、また翌朝になると、熱が出て学校に行けなくなるという、、、。」

なるほど、問題提起はここではっきりした。彼女は、一言で言えば学校に行きたくないのだ。それでも、保育園時代に一生懸命受験勉強したことが忘れられなくて、口に出して言えないのだろう。それで、体の症状が出たのである。言ってみれば、彼女なりの自己防衛だ。

「そうですか。それで、その保育園の先生はまだ存命中なのでしょうか?」

「ええ、かなり高齢ではありますが、今でも園長として、保育園を続けていると聞いています。」

日本人は実に長生きだなと思う。有数の長寿国になった。これは大変お目出たいことでもあるが、こうしていつまでも元気でいるせいで、若い人にこういう弊害が起こるのを忘れてはいけない。年寄りは、若い人の、進路決定には、よほどのことがない限り、役に立たない場合がほとんどであった。

「じゃあ、今度は、娘さん、本人に聞きます。あなたは、勉強は好きですか?」

「はい、好きです。ただ、数学は苦手なので、それはあんまり好きではないけど。好きな科目は、国語が好きかな。本を読むのが結構好きなので。」

と、彼女は、小さい声で答えた。国語が好きな子は、結構繊細な面を持っていることが多いのは、資格を取った時の勉強で知っていた。

ただ、発言に、あまり力がなく、これでは、繰り返して質疑応答はしないほうがいいなと、茉莉花は思ったので、次の質問をした。

「学校へは、ずっと通っていたいですか?」

いきなり核心をついてしまったが、こういうきき方も時には、必要である場合もあった。特に小夜子のように、ずっと黙っている人には、そういう手段をとったほうが、かえって結論を出しやすい場合もある。

「私、、、。」

少し躊躇してしまう小夜子。

「いいのよ。言ってしまいなさい。ここではそういうことを言っていいことになっているし、言っていい場所なのよ。」

隣の母が、にこやかにそう言ってくれているのをみて、母もある程度覚悟をしてくれているのだなと、茉莉花は確信した。

「私、できれば普通に生活したい。もう、特別扱いされるのは嫌。でも、あの時の園長先生たちの顔を覚えているから、どうしてもやめられない。」

この場合のやめられない、は、たばこをやめたいとか、酒をやめたいという意味ではなかった。それはすぐわかったけれど、茉莉花も、彼女はやっぱり笹原にいたほうがいいような気がしてしまう。だって、せっかく、六年間笹原ですごすことができたのではないか。それを全部捨てて、下層市民の世界にいってしまうのは、なんだかもったいないというか、いけないことをしているというか。ある意味、こういう悩みは、「贅沢な悩み」である。

「おばさんは、そのままいたほうがいいと思うな。だって、おばさんいろんな子を見ているからわかるけど、立場の低い学校って、安全なところじゃないわよ。きっと先生の前で反抗的な顔をして、授業が始まっても先生のいうことを聞かないで、携帯でメールを打っている子、休み時間になれば、下らないファッションブランドのこと、恋愛のこと、そういうことしかしゃべらない子、そういう子ばっかりよ。そういう子たちから見たら、あなたのような悩みなんて単に面白いことしか見ないでしょうし、中には嫉妬していじめる子だってたくさん出てくるわ。本当に勉強したいという気持ちも、いずれは、どこかへ消し去らないと、いられなくなってしまう。そういうところが普通の生活なの。だから、そういうところから逃げて、真剣に勉強したかったら、多少つらいかもしれないけど、いいところと呼ばれているところにいるべき。そういうことなのよ。それが、心の健康を保つということなのよ。わかるでしょう?あなたみたいに国語が好きな子は、そういうところが弱い場合があるの。だからもし、今の学校で先生がきついのであれば、おばさんが話を聞いてあげるから、それで、通ってごらん?だって笹原さんは、小学部から、高等部まであって、もし、希望する学部があれば、大学まで、同じところに通えるのよ。だから、中学受験とか、高校受験の負担もさほどないはずよ。いいじゃない、そんな幸せが、用意されているんだから。」

「あの、先生。本当にそれは幸せなんでしょうか?」

急に、小夜子の母親がそんなことを言った。

「私、そういうことを保育園からも言われて、今、笹原さんへ、彼女を通わせているんですけどね、本当に将来笹原に行ってよかったといえるのだろうか、と疑問が絶えないんです。ほんとうに、全部が全部用意されたところに行ってですよ。確かに、受験の苦労はしなくなるとは思うんですけど、毎日通って苦しかったら、かえって、つらい思いでしか残らなくて、この子が、可愛そうなのではないかと。」

「お母さん、何を言うんですか?だってお母さんこそ、そうやって導いていってあげなくちゃ。それができないで甘やかしているだけでは、、、。」

「いいえ、私は、この子じゃなくて、私のほうが、保育園に騙されたのではないかと思うんです。確かに、周りにお母さん友達もいませんでしたし、会社で、てんてこまいだったので、あの時は保育園の先生たちを信じ切ってしまいましたが、今は、ちゃんとこの子に向き合ってやらなければだめだと思います。もしかしたら、そうしなければ、この子は将来、大きな問題を起こすかもしれない。会社がだめになるとか、そういうことではなく、この子が一番かわいそうです。その考えをまとめたくて、こちらに来させてもらったんですが、そういう場所ではなかったのでしょうか?」

ああ、私の、負けだ。

と、茉莉花は思った。

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