第16話

 ランタンの照る友人達の場から離れると、目に慣れない闇はすぐに柳を覆った。モノグラムの飛びかう軽快な音楽が耳に入り、上塗りして会話の印象をかき消す。網から立ち上る香ばしい匂いもどこか幻に消え、臭みのある土の香りに変わった。そこらで人影の動くのも見える。


「見えれば見えたで気にさわる、見えなきゃ見えずに気にさわる、とどのつまりがでっちあげって、鼻のあたりが丸裸、そいつはたしかに嫌味なもんさ! はっはっはっ! 肉をあさりに肉が動き、闇夜にまぎれて肉は騒ぎ、観も聴もしない歪〈いびつ〉な音に、肉は憎々しげに肉をあさる、はっはっはっ! ドッペルゲンガー! そいつは滑稽きわまる無用心、円皿両手に肉を盛りあげ、こぶに溜まった精子を膿ませ、とうに原始を体感! あああ原始的感覚原始的感覚! 肉を食って肉になれ! はっはぁ、この音色いいねいいね、こいつが教えるは、ああ、模造品のレモンの果汁をたらし、ああ、カニの缶詰を鉛の頭でかち割り、ああ、血になぞったソースは美味でなく、たしか異国の川で洗った砂利のようで、たしかにトカゲの尻尾のように跳ねまわり、湿気〈しけ〉ったねずみ花火のようであり、たたら踏みつけ起こす放屁にならい、甘っ辛い浮遊感をもたらすばかりで、ははは、ははは、ちっとも役になんか立ちゃしねえ! ほっほほぉ!」


 うすら笑いを浮かべる柳は独り言をつぶやき、意気揚々と歩を進め、背を丸く、尻から取り出したウイスキーに噛みつく。器用に指で弾いて蓋〈ふた〉を宙に飛ばし、花卉の放ったカップにかけて、地面に雑な水滴をこぼす。


「きっとこいつは最後の出会い、会ったが最後の死んでの出会い、骨と骨とがぶつかる妙味の立会い、やっとこ見つけたとどめの鉢〈はち〉合い、あああ臭い! 谷で味わうたった一度の愛こそ、藍に染まった薄手のワンピース、臭い! はは、はは、ははは、最悪だぁ! 今日は最悪だぁ! 肉を身につけ、どれだけ酸素を吸えるかをつなぎに、なんとか泳いで過ごしたこの世界にも、こんな最悪な日が訪れるなんて、ざまあみろ! 肉のつぶれるノイズが心地良い! 内臓渦巻くノイズが心地良い! 心臓流れるノイズ音がっ、がっ、がああ!」


 聞くに堪えない叫びを挙げ、左足を不器用に宙に浮かせると、力任せに振りかぶって、空になったウイスキーの小瓶を真下に投げつける。これが木の根に弾んで、柳の脛〈すね〉に強く衝突した。


「天災だぁ! こらあ! なに瓶のくせに調子にのってんだよ! ああ? とんでもない! とんでもない! 花卉はどこにいるのかな? ええ? どこに? ノーともイエスとも言えないノイズ君、もっとど太く、もっとぶ厚く、体積増やして支配してくれ! 脳がチーズになるほど震わしてくれ! ああ、ノイズが足りない! せっかくの広い空間も、音響機材も、選曲とDJを間違えるだけで、どれほどの毒になるかわかんないのかなぁ? ええぇ? 苺の踊りだす、蜜柑〈みかん〉のお漏らしする、林檎〈りんご〉の引きつる、パイナップルの爆発するほどノイズをくれ! あああ、ノイズをくれ! ノイズをくれ! ノイズをくれ!」


 叩きつける音に合わせて両手を突き上げ、あちこち見渡し、熱の集まるブース目指してステップを踏む。


「今日は複雑頭が痛い! 恋に疲れて腰が痛い! かわいい花卉に肩がこる! 今日は最悪他殺の日! ほどほど醜悪自殺の日! 仕事に疲れてホームを降りる! 自然が一番不出来な人間! 世界は狂った万華鏡! 花卉も大好き大きな生ガキ! ああ、あああ? 君はたしか、山形君!」  


 燈色の空間に広がる蔓〈つる〉型の屋台の前で、長身短髪の男と目が合った。


「んんっ? お、おお、今日も来てたんですか? えっと、今日の調子はどうです……」


「今日の調子を聞く馬鹿がどこにいますかぁ? ええぇ? まさかり担〈かつ〉いだ金太郎さながら、恥部を露出して踊り狂う調子ですよ、ええ最悪、極悪、トップレス! なにせ今夜は黒い夜、ねえ花卉見ました? 花卉ですよ花卉、彼岸の芳香身にまとう、ああ! 愛すべき花卉はいったいどこへ? ねえ山形君ですよね、中学の時歯を矯正していて、笑うと虱〈しらみ〉が湧きそうな山形君ですよね? ぼくは忘れてませんよ」


 唇を尖〈とが〉らせて、尋常を欠いた顔を山形に近づける。


「あっ、ああ、もちろん覚えてる、お、覚えてる、えっと、花卉、そう花卉、ああぁ、生ガキ、あの梶井花卉だよな?」白い容器に入ったポトフを食べるのを止め(ナンダヨコノ気持チ悪イ野郎、ナンデオレノコト知ッテイルンダ?)、顔を引きつらせて柳を睨み(馬鹿ダト? コノオレガ馬鹿ダト? ナンテ失礼ナコトヲ言ウンダコイツ! 薬物ダナ、薬物ノセイデ狂ッテイルンダナ、シカシコイツ誰ダ?)、スプーンを握る指に力を込めて答える(コイツ歯ノ矯正ヲ知ッテイヤガル、クソッ、コイツ馬鹿ニシタ目デ、オレノ歯ヲ見テイタンダ、糞野郎、心ノ中デ笑ッテタンダナ、ソウカ、中学時代ノ知リ合イカ、デモコンナ気持チ悪イヤツイタカ? アアッ! アイツダ、エット名前ガ、ナンダッケ? ソウダ、桂ヤ立石トイツモツルンデイタ、アノ、ナメクジミタイナヤツ、エエ……)。 


「生ガキって言うなぁ! おい、山形、もう一度生ガキなんて言ってみろ、豆電球を握りつぶすように即死させてやるからな、ええ? わかったかぁ? コンマ一秒ほどの追憶も与えず、一瞬にして無に放りこんでやるからなぁ? おい? わかったか?」


 柳は素早くポトフを叩き落し、節くれだった手を爪の先まで延ばして、鋭利に首を刈り取る仕草を見せつける。山形の穿〈は〉くマハラジャパンツはポトフに汚れ、臙脂〈えんじ〉にパセリの緑をぽつぽつ付けた。


「悪かった、もう言わない、絶対に言わない、何があっても絶対に言わない」激昂に山形はひどく驚かされ(オオオ!)、自然、従順に受け答える(コイツハイカレテル! 下手ニ刺激スルト、本当ニ殺サレル。コウイウノガ一番危ナイ、抑エモ何モ持ッテイナイカラ、ナンデモ有リナンダ、ヤバイゾ。適当ニヤリ過ゴシ、隙ヲ見テ遠ザカルシカナイ)。


「花卉はどこですか? ねえ花卉はどこですかぁ? 山形君、ぼくは時間がないんですよ、ええ、ぼくは決して冷静を失わない男ですから、どんなに酷い状況、毛穴から泡の出る状況でも、ぼくは浮かれません! 浮かれているように見せているのです! いや、こんなことはどうでもいいです、とにかく時間がありません。わかりますか山形君? ものにはタイミングがありまして、こんなことはいちいち説明しなくても、眼有り耳有り、歪〈いびつ〉な頭有るなら、どこの誰でも知ってます、ええ、そうです、すこし遅れれば、神経がらせん状にねじれて、呪いの金切り声をあげ、ついで花卉の五臓六腑から血は噴出し、原始色の体液を前後上下左右に放射して、絶命! それは死と同義です! 理屈をこねくり返した男が、『それは同義じゃないんだ! 妄想なんだ!』と叫んでも、妄想を切り出したこの世界では、いったいどこまで妄想で、ここからきわまで現実で、明日の明後日遁走〈とんそう〉して、ええ、時間はないんです! 覚せい剤は一生効きません、そう、時間が過ぎれば切れるんですよ! ええ? わかりますか山田君! 夢想は一生続かないんです!」


 叫ぶと同時に真上に飛び上がり、両手両足を蝶に広げて着地した。表情には幾何〈いくばく〉の余裕も見られず、その緊張は全身に表れ、ちょんと刺激を与えれば、伸びきる筋は跳ねて切れそう。出来損ないの器械体操さながらに。


「覚せい剤? あ、ああ、とにかく時間がないんだね、そう、梶井さん、梶井さんなら、さっき見た! この店の前でポトフを買うのに並んでいた時、そうだ、めずらしく赤い顔していたから、最初は誰かわからなかったけど、ちょうど目の前を通り過ぎる時に、そうだよ、なんかうれしそうな顔して、ちらちらうしろを振り返り、テキーラを抱え込んで、そう、なんか不思議にかわいらしくて、ついポトフを一緒に食べないか……」


「ポトフがどうしたぁ! そんな糞にも満たない話なんかいいんですよ、もっと端的かつ簡潔に、具体な情報だけを教えればいいんですよ! ええぇ? 誰がそんな、癇〈かん〉にさわる主観的意見と、狐の目的と、ああ? 話しかけたのか? おい山田、話しかけたんだな?」


 広げていた両腕を山形の肩に掛けて、柳は見境なく揺するものの、背の高い山形を揺らすには体勢が悪く、ぶら下がるような具合になってしまう。


「い、いや、話しかけていない、話しかけるまえに通り過ぎて、声をかける間もなかったんだよ、そう、ブースの方に向かって走って……」


「よしっ、わかりました! 山田君、時間をとらせてすいませんでしたね、ええ、でも、人の幸せに直結、いや不幸に貫通するための時間です、そう、だらだら溶ける用無しの時間ではありません。明確なふしあわせに向かって費やされた時間です、ええ、それこそ生きている人間が、本当に役に立った時といえるでしょう、ええ、花卉、ポトフなんか絶対に食べさせないから!」


 爆発的な笑いを山形に見せつけると、打って変わった邪悪な眼つきを数秒間、柳は飛び跳ねてその場を離れた。

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