第26話 I will send a letter to you

 次の日。ミシェルはまた朝の公園の中を歩いていた。

 人の少ない、平日の大きな公園。歩きながら、色々なことを考えていた。

 残してきた店のことは大丈夫だろうか。イヴェールに任せてきた花はどうなっただろうか。水曜の午後に行くことのできなかった、いつもの場所はどうなっているだろうか。

 とりとめもなく考えていると、どんどん思うことは多くなる。どうしてミシェルは〈レーグルの主〉なんてものを知ったのだろうか、それは運命と呼ばれるようなものなのだろうか、あの夢は、

「ヴァレリアンが、見せたのかな」

 ぐるりと回って戻ってくるのは、結局その思考だ。図書館で見た夢の中で告げられた、あの言葉が本当ならば、ヴァレリアンは何らかの形でミシェルのことを待っているということになる。

 もしも、もしもそれが本当なのであれば。

「どれだけいいかな」

 また、涙があふれそうになる。ヴァレリアンのことを思うと、心が苦しくなる。

「どうして、独りにしたんだよ、ヴァレリアン」

 ヴァレリアンは、繁盛している花屋と、ミシェルに秘密にしていた葬儀屋と、大切なミシェルのことを置いて流行病で逝ってしまった。ヴァレリアンの悲しみや苦しみが、ミシェルに寄り添う。

 それだけではない。ミシェルには、抱えていたくない悩みがあった。

 もしも、ヴァレリアンの優しさを知らなかったのなら、こんな思いをしなかったのではないか。

 あの路地裏で、あたたかいケープに包まれることがなかったなら、喜びも悲しみも知らず、孤独という檻の中で独り死ねたのではないだろうか。

 いくらでも仮想は湧いてくる。ミシェルの心に、暗く、重く、ヴァレリアンへの――恨みが、圧し掛かる。

「〈亡き者を恨むことなかれ。悲しみは亡き者の心に鉛の如く宿っている〉……だったかな」

 ミシェルはレーグルの一節をそらんじる。

 レーグル。〈おきて〉という意味の、聖書の一部。

 シカトリスでは主に、このレーグルを一番、大事なものだとして取り扱う。

 アルティザン国の全てを見ると、レーグルを含む〈ビリーオ〉を信仰する者は少なくない。〈ラポカリトス〉や〈モラール〉などを聖典とする宗派もあるが、比率を取るのであればビリーオ信仰者は人口の半数以上を占める。

 そのビリーオ信者の中でも派閥に分かれている。戒律を書いたレーグル、福音書であるエヴァンジル、古事記であるミトロジー。

 それらすべてを平等に信仰する者もあれば、シカトリスの土着信仰のようにレーグルを主に扱うこともある。

 ミシェルはシカトリスの隣町であるエクリプセの生まれだ。――そこでは、とても、嫌な思いをした。

「…………ヴァレリアン」

 拳に力を入れて、ヴァレリアンへの思いを強くしてみる。どこかにいるヴァレリアンに思いが通じないかと思ったのだ。

 不意に、風が吹いた。柔らかな春の風だ。それが一枚の花びらを運び、どこかへと連れ去っていく。

 ミシェルは思わず、花びらが飛んでいく方向を向いた。

 花びらの飛んだ先。そこではくるくると花びらが公園の端で踊っていた。

「どこから」

 少し先までミシェルが歩いてみると、花びらは再び踊る。そこに何かがあるかのように。

 何かに、呼ばれた気がした。

 ミシェルはゆっくりと花びらに近づいて、そのたびに花びらが踊り、離れて。何回か繰り返したときだった。

 花びらが、踊るのをやめて辺りに散った。そこが、導きの先だった。

 大きな石碑があった。ビリーオの一文が刻まれている。


故人たちひとびとの生きた証を忘れるなかれ

 心に彼らは生きている〉


「心に……」

 ミシェルが考えていたことに、答えを出すような一文だった。ヴァレリアンが生きていたことを、どこかで拒絶していた自分がいたことに、気が付いたのだ。

 ヴァレリアンに出合わなければよかった。

 どうして、そんなことを思ってしまったのか。ヴァレリアンに出会わなかったら、今頃、本当に死んでいただろうに。

「俺は、ヴァレリアンに出会って幸せだった」

 確かに、心に刻まれている。

「ヴァレリアンのことが、好きだ。生きていても、そうじゃなくても」

 今までの恨みが、少しだけ晴れたような心地がした。

「あー、何やってんだろうな。ったく」

 空を仰ぐ。キャリエールの空はシカトリスのものよりも少しだけ狭く、霞んでいたが、それでもしっかりと青い。

 初夏の雲が、ところどころに浮いている。

「ホテルに戻るか」

 そしてミシェルは、ゆったりとした足取りでホテルへと戻ったのだった。



*****



 今日もまたニコラにしこたま朝食を食べさせられたミシェルは、膨れた腹を抱えてバスに乗り込んだ。

「本当にジークフリート先生のところに行くの?」

「ああ」

「だって、先生は何にも知らないって言っていたじゃないか。それなのに〈レーグルの主〉のことを聞きに行くなんてちょっと間違っているような気がするんだけどなあ。一体どうしたの、ミシェル。わざわざもう一回、会いに行こうなんて。今日は観光をするはずだったのに」

 隣の座席に座ったニコラは、ミシェルに散々、文句を言う。しかしミシェルは聞く耳を持たず、適当に流していた。

 その様子を見て、ニコラもミシェルが何かをつかんだのだと悟ったのだろう。目的地に着く頃にはすっかりおとなしくなった。

 ミシェルとニコラが降り立ったのは、ジークフリートのがある場所だった。墓場に近く、教会にもほど近い。ここに死体が運び込まれ、ジークフリートの手によって飾り付けられるのだ。

 死体に慣れ親しんだニコラとミシェルはこの場所に何の感情も持たないが、一般人からしたらうすら寒い感覚を持つだろう。

 ミシェルは、アトリエのドアをノックした。重く、硬い木が叩かれる音が響いて、中にいるジークフリートに来客を知らせる。

「あい、どちらさん」

「ミシェルです、先生」

「おや、どうしたってんだい、馬鹿弟子」

 すぐにジークフリートはドアを開け、ミシェルのことを見た。昨夜、仕事が入っていたのか、女性にしては切れ長な瞳が眠たげに細められていた。

「私ゃ昨日、大事な仕事が入ってたんだよ。これからひと眠りしようと思っていたんだ。一体何の用だっていうんだい」

「先生を、訪ねろと言われたので」

「ふん、誰にだい」

「――ヴァレリアンに」

 その名を出した瞬間、ジークフリートは動きを止め目を見開いた。

「……お前さん、何を見た」

「夢を見ました。なんだか、不思議な夢を。そこで、ヴァレリアンに――先生に会いに行けと言われたんです」

「そうかい。ふむ、仕方ないね。とりあえず〈それ〉はここに無いんだ。私の家にある。支度を整えてくるから待ってておくれ」

 そう言ってジークフリートはアトリエの中に取って返し、少しすると上着と鞄を肩にかけて再びドアを開けた。

「待たせたね。行こうじゃないかい」

 ミシェルは頷き、黙っていたニコラも同じように頷いて、ジークフリートの先導でバス停へと向かった。


 バスの座席では、ニコラをひとつ後ろの席に座らせ、ジークフリートとミシェルが隣り合わせに座った。

「ヴァルはね」

 ぽつり、と、ジークフリートは口を開いた。

「お前さんのことを可愛がっていたんだよ。それも、相当に。……私が羨ましくなるくらいにね」

「そんなに、ですか」

「そうさ。あいつは筆まめだったから、よく手紙を寄越したんだ。それで、お前さんのことも知ったんだ」

「ヴァレリアンは、俺のことを何て」

「急かすんじゃないよ、馬鹿弟子。これからそれを教えてやろうってんだから」

「え、」

「家にはね。ヴァルの遺したガラクタだの手紙だの、日記だのが残っているんだよ」

「ヴァレリアンの……」

「そのガラクタ、くれてやるよ。どうせ私にゃもう必要のないもんだからね」

「でも、先生の大事なものでもあるんじゃ」

「うるさいね、馬鹿弟子。必要なものは必要な場所にあったほうがいだろってことだ」

「俺の手の中が、あるべき場所だと?」

「そうなるよ。ふん、ヴァルの奴め、いずれこうなることを見越していたとしか思えないね」

「はは、ヴァレリアンは、不思議な人でしたもんね」

 ジークフリートは深く、深くため息をついて。

「……不思議で済んだらそれでいいんだがね」

 と、誰にも聞こえないように、呟いた。



*****



 ジークフリートの家に着くと、本人はニコラとミシェルに形ばかりの茶を出して、家の奥、物置のある方向へと進んでいった。

「おとなしく待っておくんだよ」

 言い残して、ジークフリートは姿を隠す。

 ミシェルとニコラは、テーブルに残されて、手持無沙汰になっていた。

「なんだか昔みたいだね、ミシェル。こうやってジークフリート先生の家によく来て、お茶とお菓子をいただいたっけ」

「うん。懐かしいな」

 透き通る紅茶に、ミシェルの顔が映る。少しくたびれた、大人になった自分の顔。

「あのときは、自分が大人になるだなんてこと思ってなかった」

「あー! 今、僕がそれを言おうと思ったのに。ミシェルってば、昔は本当に無口で小食で、何においても『勉強、勉強』って言っててさ」

「いいだろ、子供にとって一番大事なのは学ぶことなんだから」

「それにしても勤勉がすぎたよ。大人になってワーカホリックになるんじゃないかと思っていたら、案の定、そうなったし」

「勤勉も仕事人間なのも良いことじゃないか。俺は好きだよ、この生活」

「ふーん。ならいいけど。でも、それならなおさら疑問だよ。なんでミシェルはジークフリート先生を訪ねようと思ったんだい? やっぱり〈レーグルの主〉とかいうやつ?」

「まあ、そうなるんだが。なんだか、ヴァレリアンに呼ばれているような気がしたんだよ。ここで待っている、って言っているような」

 ミシェルは、少し冷めた紅茶に角砂糖を二つ放り込んで、波紋を作る。

「そんな、気がしたんだ」

「つまり『気のせい』かもしれないのに、シカトリスからキャリエールまで来たの!? はぁ、本当、ミシェルの謎の行動力には恐れ入るよ。今回はたまたま僕も用事があったから一緒にこれたけれど、君を一人にさせたらどうなるかわかったもんじゃないからなぁ」

「む。お前だって一人にさせたらあちこちで無茶するじゃないか。それに、ミスも」

「なんだとー!」

「おい、静かにしろよ、じゃないと先生が」

「聞こえてるよ、馬鹿弟子」

 その声に、ミシェルとニコラが恐る恐る振り返ってみると、怒りをあらわにしたジークフリートが、大きな木箱を持って立っていた。

「おとなしくしていろっていったじゃないかい。私ゃ、昨日は徹夜だったんだよ。これがどんな意味か、賢い馬鹿弟子にゃわかるんじゃないかい」

「ご、ごめんなさい先生!」

「あわわ……す、すみません……」

 ミシェルとニコラがそれぞれ謝罪を口にすると、それで留飲が下がったのか、ジークフリートは大きくため息をついた。

「ほれ、こいつらだよ」

 言いながら、ジークフリートは木箱を机の上に置いた。

 中には、何冊ものノートと日記帳、押し花の研究記録、それにあちこちにメモが貼られた図鑑などが入っていた。

「これ、全部ヴァレリアンさんのものなんですか」

「これが全部じゃないさ。一部だよ」

「ええ! ヴァレリアンさんのもの、そんなにあるんですか!?」

「そう。花屋と葬儀屋が軌道に乗るまで預かっていてくれって言われたんだがね、結局取りに来ることも送ることもなく死んじまいやがったのさ」

「よかったじゃないか、ミシェル。こんなにたくさん、ヴァレリアンさんのものが遺って……あ……」

 見ると、ミシェルは涙を流していた。

 ここに、ヴァレリアン=アンダーグラウンドという人間が生きた証がある。確実に、遺っている。

 この場所にいたのだ。ミシェルの知らない顔をして、ミシェルの知らない場所で、暮らしていたのだ。

 それがミシェルの胸に沁みて――涙を、呼んだ。

 ミシェルは、ほこりにまみれた日記帳のうち一冊を手に取って、表記されている年号と、書いた主の名前を――〈ヴァレリアン=アンダーグラウンド〉の文字を、そっと指でなぞった。

「ここに、いたんだ」

 ミシェルは、日記帳を静かに握りしめた。ヴァレリアンがいた、その証を。

「ミシェル……」

「そっとしておいてやんな」

 ニコラは、ミシェルに伸ばしかけた手をそっと下ろして、ジークフリートの方を見た。

「本当に、ここで待っていてくれたんだ。ヴァレリアン。……なら、どうして夢で姿を見せてくれないんだ」

 ミシェルの両目から、ぼろぼろと涙が落ちる。

 日が傾き、午後になっていく。

 ミシェルと、ヴァレリアンの過去はこうして、出会った。

 過去から贈ったヴァレリアンからの手紙が、ようやく、ミシェルに届いたのだった。


【あなたに手紙を送ります――fin.】

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