第17話 The Lord of the Book

「『亡き者と神へ、我は祈りを捧げます』」

 ミシェルは、静かに階段を降りる。黒の燕尾服に身を包み、黒のロングコートを羽織り、薄手の黒い手袋をはめ――正装帽を乗せて。

 それはミシェルが〈副業〉に携わるときの恰好だった。このあとの作業によって着脱することはあるものの、最初に〈亡き者〉に触れる際にはかならずこの格好をする。

 それが、ミシェルにとって〈亡き者〉に対する精一杯の礼儀だと考えているからだ。

「『遺志を尊び、遺言に法り、亡き者と神を崇めます。我の祈りを受け入れてください。我の命を見守ってください。どうか、この祈りが届きますよう、願います』」

 ひとこと、ひとこと。大事に口に出しながら徐々に暗くなっていく地下への階段を降りる。最近、出回りだしたフィラメントを使ったランプで暗闇を照らし進む。

 ふ、と開けた場所に出る。ミシェルが〈副業〉を行うときの、【Ung-rose】の作業場だ。

 しとりと湿り気を帯び、甘く、塩辛く、脂っぽく、鉄錆のような……死の香りが満ちている。

 正三角形に置かれた三つの作業台。それらは大理石でできており、触ると手袋越しでもひやりと冷たい感覚が伝わった。

 今日は、三つの作業台の上に何も置かれていなかった。大きな黒い櫃に入った仕事道具も、きちんと片付けられて作業場の隅に片付けられている。

 用事は、この【Ung-rose】に置かれている〈あるもの〉にあった。

「ヴァレリアン……」

 ミシェルは、正三角形に置かれた作業台、三角形の底辺の奥――その先にある、縦に安置されている黒檀の棺に目をやった。

 その中には、彼が眠っている。永遠に、この黒檀の中で眠っている。

「ヴァレリアン」

 彼の名は、ヴァレリアンといった。ミシェルの師匠であり、育ての父であり、命の恩人だ。

 静かにミシェルは彼に呼びかける。返る応えなど、ある訳がないのに。

 手を伸ばして、黒檀の棺に触れた。細密な彫刻の施されている黒檀は、作業台の大理石と同じく、そしてこの作業場の温度と同じく、ひやりと冷たかった。

「なあ、ヴァレリアン。あんたなら、何か知っているのか?」

 ミシェルはなおも問いかけ続ける。応えはない。わかっている。

「あんたなら、ベルナールさんの言ってたことがわかるのか?」

 それでも、ミシェルは問いかけるのをやめない。どうしても、応えてほしいと言わんばかりに。

「……ヴァレリアン」

 最後の問いかけは、悲愴だった。今にも泣きだしてしまいそうな、震えた声だ。

 けれど、名前の主は――答えない。



*****



 シカトリスの街にある、公立図書館。アルティザン国立第六十七図書館。シカトリスの街の人間は、旧い書物や資料などを閲覧したいと望んだときは、多くの場合この図書館を利用する。シカトリスで〈図書館〉と口にすれば、国立第六十七図書館を指す。

 今日、ミシェルはそこに居た。

 ベルナールの言っていた〈レーグルの主〉という言葉が、どうしても気になるからだ。もしも、その本性に、正体に、真実に近づけるのであれば、手を伸ばしたい。そう考えたがために、図書館を訪れていた。

 見ている本棚の列は、歴史に関する書物が集められた棚だ。プレシュールの歴史やレーグルの起こりなどについて書かれた本が多く蔵書されている。

 ミシェルは背表紙をじっくりと吟味し、ときに本を手に取って中身を覗き、落胆しては棚に戻すということを繰り返していた。

 図書館でわかったいくつかのこと。

 シカトリスと、隣の街であるエクリプセはかつて同じプレシュ―ルと呼ばれる街だったということ。

 プレシュールの街ではかつて、聖教戦争が起こったということ。

 その戦争を境に、「蝕の街エクリプセ」と「傷の街シカトリス」に分かれたということ。

 それくらいのものだった。ミシェルの望んでいる、レーグルの根本に触れる本をうまく見つけられない。何度も本を開いては閉じる行為を繰り返し、嫌気がさしてきたときのことだった。

「あれ、ミシェルじゃないか」

 耳によく馴染んだ声が、ミシェルの耳に届く。声に振り向いてみると、書類の束を山というほど持ったニコラと目があった。

「ニコラ。珍しいじゃないか、お前が現場にいないなんて」

「僕もたまには書類仕事だってするんだよ。こういう歴史に関する書物をまとめたり、レポートにまとめたりするのも考古学の側面だからね」

「へえ。ニコラがこんなところにいるのは、なんだか俺にとっちゃ違和感しかないけどな」

「失礼だな、ミシェル。これでも僕は職人学校で結構な成績を修めていたんだよ?」

「そうだったのか。でも……」

 ミシェルは改めてニコラの姿を見る。埃で汚れた白衣に、しわの寄ったシャツ。ズボンには落とし切れない泥がこびりついている。

「ここにいるような恰好じゃないだろ、それ」

「まあね……現場から急にここに寄越されたんだ。目をつぶってくれよ」

「現場から図書館ね。忙しいことこの上ないな、ニコラは」

「そうだよ。僕は忙しいんだ。そういうミシェルはどうしてこんなところにいるのさ。えーと、今日は水曜だから【Michele-rose】は午後休だよね」

「ああ。それでちょっと調べものをしたくてな。買い物ついでにここに寄ったんだ」

「なるほどね」

 ニコラは立ち話が長くなりそうだと踏んだのか、近くにあった読書台に書類の山を作ると、再びミシェルの方を向いた。

「歴史のことに関してなら、僕に訊いてくれたっていいじゃないか。これでも考古学が専門なんだ、ある程度のことなら知っているつもりだよ」

「なるほどな。それならありがたい。ちょいと相談に乗ってくれ」

 ああ、いいよ。ニコラが快諾すると、ミシェルは少しずつ自分の頭の中から調べたいことの欠片を取り出して、言葉にした。ミシェルは決して頭が悪いわけではないが、それでも伝えたいことを全て話し終えるにはそれなりの時間を要した。

「そっかぁ、レーグルの主ね……。そのベルナールさんって人は、ミシェルに『レーグルの主に愛されている』って言ったんだよね」

「ああ。確かにそう言った。『死人に口なし、遺言だけが彼らの言葉』だとは言うが、それでも俺はベルナールさんが最後に言った言葉を覚えている」

「うーん。正直なことを言うと、レーグルの起こりには諸説あって何が正解だって今は言えないんだよね。何日にもわたって届いたボトルメールがレーグルを構成するミトロジーになったとか、最初にエヴァンジルを哲学者が唱えたとか、吟遊詩人が謡ったたわごとだとか」

「どれもこれも胡散臭いな。俺には見極められない」

「そりゃそうだよ。僕みたいな考古学者たちだってまだその先にたどり着いていないんだよ? それなのに、こんな図書館で簡単にたどり着いてごらんよ。僕たちの仕事もあがったりだ」

「そう言われたら返す言葉もないんだけどな」

 ミシェルは、ニコラの言葉に苦笑する。

「ベルナールさんは、それでも確かに言ったんだ。レーグルには主がいるって。その主が、俺を愛しているとも。それがどんなことを意味するのか尋ねる前に――ベルナールさんは、逝ってしまった」

「悲しいことだけれど、仕方が無いね。それが彼の最後だったんだ」

「ひとつ歴史の証拠が終わったと思うと、お前も寂しいんじゃないか、ニコラ」

「まあね。ベルナールさんのことはバズ先生から聞いていたけれど。それでもかなり偏屈なお爺さんだとも聞いていたから、顔を合わせたことはないけれど」

 少し渋い顔をして、ニコラは言う。

「それでも、過去の歴史を語る人が亡くなったのは僕も辛い。過去のことを知りたいっていう、不純な動機かもしれないけれど、それでも会ってみたかったっていう気持ちは強い」

「本当、お前は考古学馬鹿だな」

「うるさいなぁ。この花と死体馬鹿め」

 二人は、くすくすと小さく笑った。

 その後、大きくため息をついて。ミシェルは真剣な面持ちを取り戻した。

「なあ、ニコラ。この問題をどうにかするには、どうすればいいと思う?」

「そうだなぁ……」

 少しの間、ニコラは無精ひげの生えたあごを右手でいじりながら思案する。少しして、とても良いアイデアを思い付いたという表情でミシェルの方を向いた。

「ミシェル! 君、帝都に行ったらどうだい?」

「帝都ぉ?」

「そんなに嫌そうな顔をするなよ。職人学校に嫌な思い出でもあるの?」

「まぁな。あんまり良い思いはしなかった」

「それでも、絶対に行くべきだ。あそこには国立帝都博物館も国立第一図書館もある。そこで調べものをすれば、少しは〈レーグルの主〉に近づけるかもしれないじゃないか」

「……なら、やっぱり」

「うん。ジークフリートさんにも会いに行ったらいいよ」

「だよな……はぁ……」

 腕組みをして、ミシェルは天を仰ぐ。ものすごく、難しい顔をして。それでもひとつ、意を決して言葉に出した。

「そうだな。ジークフリートさんに会いに行く。そして、あの人にも話を聞いてみる。何か知っているだろうから」

「よし、決まったね。丁度いいから、僕も休みを取ってついていこうかな。久しぶりに、帝都の空気を吸いたくなったよ。穴倉にこもっているのにも飽き飽きしてきたところだからね」

 楽しそうに、ニコラは言う。対して、ミシェルは嫌気のさした顔で見ていた。



*****



 ミシェルは、再び【Ung-rose】の作業場にいた。三つある作業台のうち、ひとつ。黒檀で出来た棺桶に近い二つのうち東側にある方に向かい、ラタンの椅子に腰かけて、グラスを傾けていた。ストレートのウィスキーは琥珀色に透き通り、甘い香りを漂わせている。

「ヴァレリアン。あんたの師匠に――ジークフリートさんに会いに行ってくるよ」

 応えの無い棺桶の向こうの顔に、静かにミシェルは語り掛ける。

「あんたは、この【副業】のことを何一つ教えてくれなかったな。たまに、仕事に行くときの恰好を見せてくれたり、祈りの言葉を教えてくれたり。そんなことをしただけだった」

 ゆっくりと、ミシェルはグラスの中身をくるりと揺らし、思い出をかみ砕く。

「あんたは、花のことなら何でも教えてくれた。それこそ、咲かせることも枯らさない工夫も、綺麗なまま保存する方法も。それなのに、この【副業】のことは。【葬儀屋】のことは、教えてくれなかった」

 一口、グラスの中身を口にする。甘く、樹木を感じさせる香りが口の中に広がり、アルコールの熱と共に喉を滑り落ちていく。その感覚を、ミシェルはゆったりと楽しむ。ふわり、と小さな高揚感が強まり、大きく息を吐く。

「ヴァレリアンに、まだ会えることが嬉しくてたまらない。この黒檀の中にいるってことが、とても嬉しい。だから、ジークフリートさんに感謝している。そして、あんたが、俺に身体を遺してくれようと願ってくれたことにも」

 ヴァレリアンは、ラタンの椅子からゆっくりと立ち上がり、棺桶に近づいて、そっと左手で触れる。右手は、胸にかけたロザリオを自然と握っていた。

「あんたの顔は、とても、穏やかで。静かで。まるで、死んでいないみたいで」

 左手で、棺桶の蓋の右側を掴む。棺桶の蓋の左側には蝶番がついていて、まるでどこかへと繋がるドアのように開閉できるようになっていた。その蓋を、そっと開ける。



 中には――燃えるような赤い髪の、青年が納められていた。



 赤く燃え盛る炎のような髪はみずみずしく、肌は白い。スリーピースのエンディングスーツに包まれた身体は細く病的であった。

 久しく見る、ヴァレリアンの姿。硝子越しの姿であれど、ミシェルに憧憬を感じさせるには充分だった。

「ヴァレリアン。あんたなら、知っていたかもしれないな。レーグルの主ってものの意味を」

 す、と火照ったミシェルの頬に、雫がつたう。それは瞳から自然と流れた涙で、涙が意味するものは、きっと、愛と呼ぶべきものだった。

「あんたに愛されていたから、俺は幸せだった」

 そっと、硝子に触れる。ロザリオを握る右手に力が入る。

 ああ、この質問をするのは何回目だろうか。答えてもらった数は何回だろうか、応えてもらえなかった数は何回だろうか。もう、数えるのをやめていた。

 それでも、ミシェルは問いかけた。


「ヴァレリアン。俺といて、幸せだったかな」


 応える者は――いない。


【書物の主――fin.】


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