正義のヒーロー
「怪我はなかったか、……芥川君」
私の傍らまで飛んできた彼はビョインと跳ねて速度を殺すと、そう尋ねました。
怪獣の深部を潜ったせいでしょうか、黒い瘴気がベットリと粘ついています。
「大丈夫です、……水鏡君が守ってくれましたから」
「そうか、それは何よりだ」
「何よりなもんですか。部長のアホ」
部長はいつも通りの偉そうな仕草で私の頭を撫でました。
見上げて気が付きましたが、いまの彼は巨人と言うよりも大男レベル。
精々2メートル弱しかないように見えます。
「……なんだか部長、縮んでません?」
「ああ、全く。血を流しすぎたのだ」
「どういう理屈ですか」
彼は、こちらに歩いてくる水鏡君に振り返りました。
「水鏡匠、貴君の協力に感謝する。我輩だけでは骨が折れたであろう」
「先パイさん、彼から離れて」
水鏡君は抜き身の幅広剣を構えて言いました。
剣呑な雰囲気を感じて彼の前に立ち塞がります。
「え。……ま、待ってください! 人間に戻してくれるんじゃ……!」
「言ってないよ」
「言いました!」
「言ってない。人間には戻せないんだ。……ボクが言ったのは、人型に戻すとだけ」
「……それ、どう違うんですか?」
「キミにとっては同じかも知れない。けれどボクにとっては……」
「不要だ」私達の会話を遮って部長がノイズを出しました。「夜が明ければじきに戻る。貴君の手を煩わせるまでもない」
「そういう訳にはいかない。……キミを倒さなきゃ、救われない人達がいるんだよ」
予備動作なしに水鏡君が突っ込んできました。
進路上に立ち塞がっていた私は、邪魔と言わんばかりに部長の巨大な手で退かされます。
袈裟に振われた幅広剣。
それを、スプリングの腕で咬むように受け止めます。
驚く水鏡君を伸びる拳で打ちのめし、一気に壁へ叩き付けました。
置き去りになってガランッと落ちる幅広剣。
先程まで自在に伸縮していた青い刀身は、彼の手から離れると果物ナイフのように縮んでしまいました。
魔法の武器を失って蹌踉めく水鏡君。部長は一瞬で距離を詰め、伸びる拳を撃ち出します。
真っ正面に、氷の篭手で殴り返されました。
両者、拳のものとは思えない衝撃が、ビリビリと大気を揺らします。
それがゴングの代わりでした。
伸縮自在のパンチが驟雨の如くに注がれ、しかし踏み止まる水鏡君。
小柄な体を活かしたダッキングで懐に潜り込むと部長のボディに痛烈な一撃を捻じ込みます。
ズドンッと重く響く氷の篭手はトゲトゲで、痛そう。
怪獣を凍らせたときと同じく、刺した部分に霜が降りました。
ハラハラ見守っていると今度は部長の方が水鏡君を殴り飛ばします。
男同士の拳の語らいは暫く続き、人型に戻すという彼の宣言通り、確かに部長の顔は右半分だけが人の物になっている気がします。
しかし方法は目を覆いたくなるほど野蛮でした。
やがて元のサイズに随分近づいた部長が白い息を吐きました。
「もう限界だろう?」
「そっちこそ」
「貴君は悪人ではない。そろそろ引いてくれないか? 狗に鞭打つのは趣味じゃなくてね」
「……狗って言うな。ボクのこれは狼だから」
「狼男か。首輪付きの」
「……もしかして喧嘩売ってるの?」
「我輩はとっくに買ったつもりだったが」
二人はそれきり、黙って睨み合いました。
「部長は悪い化け物じゃないんです。意識もしっかりしてますし、害があるわけじゃ……」
「この街で起きてる集団昏睡事件。キミの仕業だね? ――――スレンダーマン」
水鏡君が睨むと、部長は静かに瞼を閉じました。人の方だけ。
「そうだ」
「……隠さないんだね?」
「恥ずべき事など何もない」
「……そう。彼らの魂魄を返してくれるなら、ボクもこれ以上手荒な真似をせずに済む」
「断る。……奴らの中には能力者もいた。そちら側では魔人というのか。法で裁けない外道共だ。それとも、他に居合わせたゴロツキの事を言っているのか?」
「……全員だよ」
「ならば答えは変わらない。再び野に放てば被害を受けるのは善良な市民だ。そんなことは許容できない」
「だからって、永久に眠らせて良いことにはならないよ」
「永久ではない。購いが済めば目覚める」
「贖い?」
「そうだ。失われた秩序は血によって贖われる。小麦の搾取は1000デナリオン。傷を付ければその三倍。命の略取はその十倍。休まず作れ。飢餓に震え、吐いた血だけが魂魄を埋める。――――
「……キミが捕え、キミが裁き、キミが赦すと? それじゃあまるで神様だ」
「神などいない。……あの日から、他の誰にもいないのだ。――――天道の目があるなら教えてくれ。善の尊厳が踏み付けにされ、網に掛からぬ卑劣漢が蔓延っている、その訳を。伝奇の影に泣く人を、救えぬ正義のあるものか。……誰もが罰せぬと言うのなら、我輩が目になってやる。悪の萌芽は全て潰す。邪魔立てするなら容赦はしない!」
訳の分からぬ事を吠えました。
緑の外皮からシュウシュウと、粘つく黒煙が立ち上ります。
それが何かと考えると目眩がして、上手く言葉が纏りません。
義憤と憎悪に満ちたドロドロが溢れ出し、部長の体を色濃く覆い、締め上げていきます。
まるで漆黒の鎧甲冑。
表情を隠すヘルムに複眼が一対、真っ赤に灯りました。
死神でも、蝗でも、人ですらない奇怪な容貌は、謂わば描き損じのヒーロー。
「
水鏡君が真っ青なのは、空中投影されたモニターの光のせいでしょうか。
筋肉剥き出しの巨人から一転、流線型のスリムな甲冑姿。
先程までとは比べものにならないスピードで拳脚交じる連撃を繰りだして、水鏡君を滅多打ちに。
風を切る四肢から瘴気が広がって、紫に輝いて、その美しさは破滅的。
堅牢なガードの上から猛撃を捻じ込みます。
追撃を阻むように迫り上がった氷の障壁目掛けて、伸びる拳撃が一息に数千発。
バネ腕が何十本にも錯視するほどのラッシュ。
力強い驟雨にゴリゴリ削られていく氷の壁。
バギャッと崩れた直後、白い冷気から飛び出した人影が氷の鉾槍を振いました。
完全な奇襲。それを紙一重で回避して、水鏡君の前で翻るフードマント。
後ろ回し蹴りが炸裂し、水鏡君を砲弾のように吹き飛ばしました。
「――――……ぐッ、参ったね、これは……。
機材に打ち付けられて膝を付き、血反吐混じりにボヤく水鏡君。
部長はそれを掴み起こし、壁に叩き付けました。
胸ぐらを押え込む一方で、手甲の爪を彼の腕に食い込ませます。
水鏡君の苦悶を掻き消して、蝗の羽音のような
何を叫んでいるかは分かりません。
赤い脳味噌と同じ。人語も人格も捨て去った
水鏡君の腕を捥ぎ千切ろうと、凄まじい力が加えられます。
「ダメです部長! それ以上は!」
彼の腰回りに抱き付いて引き剥がそうとしますが、微動だにしません。
「ごめん……っ、逃げて、先パイさん……! もう、元には……ッ」
胸郭を圧迫された水鏡君が、息も絶え絶えにとんでもないことを口走りました。死にかけなら何を言っても許されると思ったら大間違いです。
「諦めないでください! 戻すって約束でしょう!?」
「無理なんだ! こんな濃度の瘴気、見たことが……ぐぅぅぅぅ……っ!」
あらぬ方向へ引かれる腕からミシミシと嫌な音が響きます。
「部長、しっかりしてください! 私です! 芥屋です! わかるでしょ!?」
彼は耳障りな虫の奇声を発するばかりで、やはり私の声はスルーされます。
揺さ振っても叩いても、こちらを振り返ることすらしません。
「駄目だ、彼はもう魔獣に成った……!
「私、知っています! 理性を損った人も、愛と友情で正気に戻るんです! 呼び掛けたらきっと目を覚まします! そうでしょう、部長!?」
「これはおとぎ話じゃないんだ!」
「魔法使いがどの口で! 童話から抜け出した非常識のくせに!」
「ボクの知る限り、魔獣から回復したルディクロはいないんだよ!」
「ならこれが初めてのケースです!」
「ラクリマ・グラシア……ッ」
起死回生を狙って紡がれた呪文は、その喉を絞められて中断させられました。
水鏡君の顔がみるみる青ざめていきます。
「やめてっ! やめてください! その一線を越えたら、本当にただの怪物になっちゃいます! 彼は悪人じゃないんでしょ!? 自分の気持ちすら裏切る気ですか!? そんなのダメです! 耕太郎さん! あなたがどこにもいなくなっちゃう!」
彼の凶行を止めようと私も躍起になりました。
黒い甲冑を殴りつけてもこちらの手が腫れるばかり。
呪文を恐れてそれを封じたということは、一方通行ながらこちらの状況は認識してるはずなのです。赤い脳味噌もそうでした。
水鏡君の魔法のナイフを拾いに走って、私は声を張りあげました。
「よく聞け部長! あなたの事が嫌いです! オカルトと無縁の高校生活を送るつもりだったのに! こんなことに引っ張り込んで! 大ッ嫌いです! あなたに付いて回ったのは、お化けに取り殺されるところを特等席で見るためです! それを勘違いして、懐いちゃってバカみたい! お弁当だって、そんなに美味しくなかったでしょう? ホントは、本気を出したら、もっと美味しく作れるんですから! ホントです! そ、それと、人魚を探しに潜った時、海パンが勝手に脱げて笑われましたね! あれも私の悪戯です! こんな極悪非道な輩、他のどこにもいませんッ! っ、なぜなら私が! 『機関』の構成員だから!」
彼の手からどさりと水鏡君が滑り落ちました。
黒い甲冑が振り返り、炯々と輝く赤い瞳が私を捉えます。
感情の窺い知れない容貌に、私は震える切っ先を向けました。
怖くなんてありません。武者震いです。
「さぁ! かかってきなさい、正義のヒーロー!」
黒甲冑はかぶりを振って呻き、瘴気を吐きました。
「無茶だ!」水鏡君は苦しそうに叫びました。「逃げろ!」
「あなたは殺させません」
「キミに守られる筋合いはないよ!」
「勘違いしないでください! これは部長の為なのです!」
全身のバネを効かせ、徹甲弾の如く迫撃する。間違いなく必殺の所作。
全てが緩慢な時の中、黒甲冑に附属したスプリングがギチギチと絞られる音が聞こえました。
嗚呼、頭を吹き飛ばされる。
狙いが分かっても体の反応は追いつかず、ギュッと瞼を閉じるのが精一杯。
――――そして1秒、2秒。幾ら待っても痛みは訪れません。
薄目を開けてみれば黒甲冑は、攻撃の途中で止まっていました。
「……部長?」
返事はありません。
ただ黒いヘルムの中で虫達が苦しそうにキィキィと泣いていました。
バネ付きの甲冑が矯正ギプスのように軋み、震えながら、ゆっくりと私の手に添えられて。
その冷たさには覚えがありました。
蹌踉めく彼に抱き寄せられ、私は導かれるまま貫きました。
「……え?」
ナイフの鍔は鎧にくっついていて。まるで刀身が引っ込む玩具。
――――そう感じるほど、冗談みたいに深々突き刺さっていました。
彼の体が氷で覆われていきます。手元に溢れる血さえ冷たい。
「あ、ああ……っ! うそ、うそ、うそ……っ」
魔法のナイフを引き抜かなくてはいけないのに、がっちりと手を抑えられてそれも叶いません。
「いやだ! 嫌です! こんなの嫌だ! 部長、離してくださいっ! 死んじゃう! 死んじゃいます! 正義の味方なんでしょ!? 悪には負けないんでしょ!? なにしてるんですかっ!」
声も体も震えていて、どうやってもナイフは抜けなくて、自分の非力さを恨みました。
彼が何かを囁いた後、私を抱く腕が氷像に変わりました。
聞き返しても返事はなく、既に頭まで凍っていて。
私は未練がましく縋り付いていましたが、溢した涙で氷が溶けるなんていう奇蹟はおとぎ話限定らしく。
「驚いた……。あの魔獣、いま、自分から……」水鏡君が誰ともなく呟きました。「いやまさか、そんなはず……」
「部長を……、部長を助けてください……」
「できないよ……。もう、できないんだ。……ごめんね」
「どうしてですか!? 戻すって……! 戻せるって言ったのに! 約束したのに!」
水鏡君を困らせるようなことを、子供っぽく喚きました。最低の先輩です。
部長ならもっと、強がって振る舞いながら、彼の心中を慮るようなことを言ったでしょう。
部長なら……。
そう思うと悲しさが込み上げてきて、誰かを恨まずにはいられないのです。
一抹の正当性も客観性もありません。
事件の外側の、撮影者であるべき私が、唾棄すべき悲劇のヒロイン何ぞに、なってたまるものですか。
ファインダーを覗こうとして、まだ彼に手を握られていることに気付きました。
ほんの一分前まで生きて動いていたのです。今この時まで沢山の時間を共有してきたのです。
ああ、駄目だ。泣いてしまう、泣いてしまう……。
再び落ち着くまでに私は、たくさんの霜焼けと仲良くなりました。
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