グールズ・ブレイン
「おいデカブツ! こっちを見ろ!」
迂闊でした。彼らのやりとりに目を奪われていた私は、他の気配に気づきませんでした。
背後から抑えられ、喉笛に鋭い物を突き立てられているのです。
この格好は見るからに人質。
――――ですが、私を押さえるアナさんは震えていて、今にも倒れそうな気配。苦しそうな息づかいを隠して、凄んで見せます。
「健斗を離せ。その足をどけろ。……この幼子が可愛いなら」
「……あの、高校生です」
「…………そうなのか? 日本人の年は分かりづらいな」
600歳越えのお婆ちゃんに言われる筋合いないんですけど?!
「アナ、こっちにくるな! 離れてろ!」
痛みに震えていたはずの加治は鋭い声でアナさんを制しました。
「どうした、健斗。遂に私の保護者面か。ふふ……、偉くなったものだな……」
「そういう話じゃない! キミはもう、戦える体では――――」
――――不意に解放されました。
アナさんの頭がパァンッ、と吹っ飛んだからです。
巨人の拳が砲弾の如く横切ったのだと、全てが終わってから気付きました。
脚をスプリングに変えたのと同様、腕部をスプリングに変えて、離れた位置の吸血鬼を一瞬で撃ち抜き、バチンッと元に戻ります。
不用意なモーメントを受けたアナさんはもんどり打って倒れ、そのまま何も言わなくなりました。
「あ、あ、あ、あ、あ……!」
加治は興奮の余りに痛みを忘れているようでした。
「よくも、よくも、よくも……ッ! アナは庇っただけだ……! 俺をッ! そんな奴をどうして殴れる!? アナは、お前達さえ助けようと……」
「これで魔法使いの心臓を狙う理由もなくなった」
「ふざけるな……っ! ふざけるなよ……! 佃耕太郎! お前だけは許さない……!」
鬼人の形相に、輝く紋章。
引き裂いた書契が燃え、加治の体からも黒煙がシュウシュウと立ち上ります。
コールタールのようにどす黒く粘り気のある煙は、彼の憎しみを代弁しているかよう。
仄暗いこの場所でも不気味に煌めく銀河の紫。
強力な怨霊や妖怪が纏う力の証。魂を融かす猛毒――――
颶風の如くゴォッと吹いては巨人すら弾き飛ばし、尚も強く溢れる黒煙。遠く離れたここまで薫って、グラグラと平衡感覚を揺さ振られます。
憎悪を燻らせる加治も同じなのでしょう。
蹌踉めきながら、怒りの詰まった胸中を片腕で掻き毟り、絶叫しました。
瞬間、ブチンッと爆ぜる、人間の皮。
裏返った加治から得体の知れない輝きが溢れ出し、メキョメキョと膨張を繰り返します。
それはサナギの羽化に似て。
身の丈8メートル、と思ったのは、床から頭頂までと、頭頂から天窓までの高さが等しく見えたから。
吹き抜けの場内を埋めるほど巨大で、真っ赤な脳味噌。
ブヨブヨでトゲトゲな外観は
機材や水槽はペシャンコに潰され、脳と床の間には紫苑の肉リボンが無数にのたくっています。
噎せ返るような瘴気が空間を満たしました。
◇
甲高い悲鳴を打ち鳴らしてズルズルと前進する赤い脳味噌。
進路上に倒れ込むミイラ達を、アナさんを、紫の触手が次々と平らげていきます。
人語も人格も切り捨てた怪物。
生きて動く以上、彼には彼の行動原理があるのでしょうが、推し量ることはできません。
加治が怪獣となったとき最も側にいた部長は、今、工場内をスーパーボールのように跳ね回っていました。
床を、壁を、天井を足場にして、跳弾を繰り返すほど速く、より速く。
ハイスピード撮影でも捉えるのは難しいほどに加速して、もう、ジャンプの振動しか見えません。
ブヨブヨの赤い脳味噌に蹴りが突き刺さった瞬間だけ、緑の巨体を視認できるのです。
そして脳からビームの如く伸びる触腕を躱して、また跳躍。
体格では劣る彼ですが、機動力で相手を翻弄し、一方的に攻撃を与え続けています。
ただ、深手を負わせているようには見えません。
どちらも決め手を欠く状況で紫の触腕が束ねられ、人間の腕が形作られました。
そのサイズは規格外、指一本だけでも人の全身より大きいのです。
何処からか握られたクロスボウも自動車の大きさをゆうに超えていました。
爆風の余波で天窓が一斉に割れ、私も吹き飛ばされそうになるほど。
コンクリ壁にはドデッカイ風穴。
もしこれを受ければ部長の硬質な外皮とて無事では済まないでしょう。
しかし高速で動く彼に当たるかと言えば、それはきっと難しい。
――――そう思った矢先、紫の触手からウゾウゾと転がり出てくる白い球体が4つ、5つ。
その全てが巨大な眼球でした。
視神経を剥き出しにしたまま、ギョロッと彼に目を向けて。
「――――耕太郎さん! 撃たれます! 逃げてください!」
轟音が空を裂き、緑の巨人が爆炎の中から真っ逆さま。
撃ち落とされてビョインビョインと地面を跳ね転がる部長。
その動きのおかしみとは裏腹に流血は酷いものでした。
「逃げましょう! もうこれ以上、戦う理由なんて、ないじゃないですか!」
駆けよって彼に触れると邪魔だと言わんばかりに振り払われます。
私はその程度で傷ついたりしません。……しませんったら。
「あれを野放しには出来ない。人里に降りれば被害は甚大だ」
「言ってることは最もですけど……」
「心配するな。正義は必ず勝つ」
私には、どうにもそれすら怪しく見えるのです。
ノイズ掛かった化け物みたいな低音ボイスのくせに、愚直なまでにヒーロー然としていて、それが致命的な歪みになっていました。
好き勝手暴れているという意味では赤い脳味噌と差して変わりません。
外皮の破られたまま血塗れで飛び出して、秒で迎撃されて跳ね返って来ます。
「部長のアホ! 頭使ってください、いつもみたいに! 頭脳労働はあなたの管轄ですよ!」
「……何か策でもあるのかね」
「目玉ですよ目玉! セオリーですよ! 常識ですよ! あのデッカイ脳味噌で弾道計算してるんでしょう? まず視界を潰してください! それから――」
「――――なるほど、わかった」
「ほら、行ってください! 肉体労働はあなたの管轄です!」
脚部のスプリングを活かして一瞬で掻き消える巨体。低空軌道で幾度となく跳弾し、怪獣の目玉が立て続けに爆ぜました。
突き抜けた緑の巨体は壁と天井で加速して、剥き出しの脳天にも跳び蹴りをかまします。
盲撃ちの弩砲は再び外れだし、赤い脳味噌は奇声を打ち鳴らしました。
怪物の足元から更に転がり出てくる白い眼球。
そのギョロ目が映すのは、天井を跳ね回る巨人ではなく。
「わ、私……っ?!」
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