Embalming My Heart - 3

 切っ掛けを与えてくれたのは彼だったかも知れないし、違う人かも知れない。

 姉さんから怒られた彼は夜の外出を控えるようになった。

 そして物臭な僕に手料理を振る舞い、一緒に食卓を囲む。


「美味しいだろうか?」


 僕を養って来た家政婦と比べると、全体的に味は落ちる。しかし料理の優劣で人間関係を破綻させるのは面倒だった。彼が用意してくれたお吸い物を褒めた後、その昔家政婦さんが作ってくれた鰻のお吸い物は僕が思うに一番の好物だったと、彼に伝えた。


「鰻好きなのか?」

 肯定的でもないし、否定的でもない。

「お前と話してると、面白いよ。人生に彩りが生まれて俺は幸せだ」

 思いがけず、誰かの感情を著しく揺り動かすのは面倒だ。

 これからは発言を控える、でないと悶絶しそうだ。


「……今夜あたり、俺としてみるか?」

 何を?

「夫婦の営み、きっとお前は初めてなんだろ?」

 僕は彼の誘惑を即座に断った。

 彼は何を勘違いしたのか「怒るなよ」と言い、申し訳なさそうにしている。


 怒ってないと伝えるのは面倒で、口を噤めば次第に彼は失望的な表情を取る。

 自分の願望が叶わなかったからと言って勝手に失望を募らせるのはやめて欲しい。

 食事を終えた僕はラウンジチェアに戻り、椅子の上で待っていた愛猫を抱えた。


 彼は遠巻きに僕を見ていた。

 僕も洗い物をしている彼を見詰めていた。

 彼と視線を幾度となく合わせても、不快に思わない。


 すると彼の口元は緩み、募らせていた失望を霧散させているようだった。

 数瞬、無言で彼が溢した笑みを眺めた後、肘を伸ばし、左手を彼の方に向けた。

 片目を閉じて、彼と左薬指に嵌められている銀色の指輪とで交互に焦点を替えた。


 永遠に途切れることのない愛情の証である指輪を覗い、僕は思う所があった。

 ような。なかったような。

 今となっては思い出せないけど、思い出のねつ造は後々面倒になるだろうし。

 ここは先の展開へと筆を走らせよう。


 ある日のこと。

 僕は夫と、夫の友人達と外に出掛けた。

 

 面倒だったけど、彼の最後の願いだと思えばこれくらいの義理は果たせる。

 それに彼の誘いを蹴ってしまうと、夫婦仲に亀裂が入ってもっと面倒になる。

 あの時の僕は肉体的な辛苦よりも、精神的な辛苦の方が面倒だった。


 夫は友人達との会食の場に、海岸沿いのレストランを選んだ。

 潮騒が僕達の聴覚を癒すように押し寄せては返す。

 僕は白波をぼんやりと眺めるのに夢中になった。


「お前達と生きて会うのも、これが最期だ」

「何か言い残してることはないか?」

「あってたまるか。あったとしても俺がどうこう言う問題じゃないんだよ」

 夫は哀愁の雰囲気が漂う中で気丈に振る舞っていた。

「……今までありがとう」

 しかし、夫の友人の一人がそう口にすると、彼の涙腺は決壊したようだ。

 

 注文した料理がやって来る前に、夫は咽び泣き始めてしまい。

 友人の一人がからかうように動画を撮り始めた。

 その友人に向けて夫が「お前最低だな」などと反駁して、大粒の涙を拭う。

 その後料理がやって来た。


 運ばれて来た料理の中には夫の友人達がサプライズとして用意した特大ケーキもあって。

 珍しく、僕は自主的に夫と皆さんの写真を撮ってあげた。


 シャッターを切る、すると彼らは一様にどよめいた。

「今撮ったのか? 合図ぐらい出してくれよ」

 面倒だな。と堪らず口から漏れてしまう。


 一般的にカメラで人物を撮影するには、何かしらの掛け声が必要だったんだ。

 夫や友人の皆さんから撮影のやり直しを促される。

 二の轍を踏まないよう、行くよ、と声を掛けてから撮った。


「ありがとう」

 二度目の撮影に不満は出なかったようだ。

 その後、特大ケーキを僕らは突いたのだが、消化し切れなかった。

 甘いものが好きだった僕は食事を放棄してまで頑張ったのに。


「もうやめたらどうだ? 苦しんでまで食う必要がどこにある」

 それもそうだ。

 甘いものが好きだからと言って過剰摂取したら糖尿病になる。

 夫の忠告に僕は命を救われたみたいだ。


「奥さん今いくつだっけ?」

「二十歳だよ、彼女は数えで二十歳だ」

「犯罪臭がするな」

 その後、夫は友人達と夕食時まで談笑して、別れても笑いを絶やさなかった。


「さてと、この後はどうする? 凄い疲れてるみたいだけど平気か?」

 物臭な僕は基本的に体力がない。

 体力がないから物臭なのか、それとも物臭だから体力がないのかは謎だった。

 疲労困憊としていると夫は僕の肩を抱き寄せる。


「帰ろう、君をこれ以上疲れさせると死んでしまいそうだ」

 そう言い、僕達は電車で帰路につく。

 夫は一つだけ空いていた電車の席に僕を座らせて、つり革に掴まる。

 姉さんよりも上背がある夫は僕を覗きこむように見守っていた。

「もしも俺がいなくったら、今日会った連中とは縁を切れよ?」


 どうして? と尋ねる前に夫はその理由を口にした。

「奴らは俺と同じで節操がないし、俺とは違って裕福じゃない。夫に先立たれるどこかのお嬢様にとっては危険極まりないからな……言っとくが俺は至ってマジだ」

 夫は僕に釘を刺すように真剣な眼差しを向けていた。


 疲労から物憂げだった僕は頷くように視線を下にやり、夫の忠告に相槌を打つ。

 そのまま俯いて寝入っても良かったんだけど。

 僕は無意識に、夫の顔を覗うため再度彼を見詰めた。

 

 すると夫は今までに見たことがないくらい、表情を綻ばせていたよ。


 それが、彼が最後に見せたジョークだったことを、僕は姉さんから教えられた。

 どうしてそれが彼の最後のジョークだったのかと言えば――


 翌朝、彼は寝室で倒れ、意識不明になってしまったからだ。

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