4 社長

「ところで、この書類というのは他でもない」

 社長は、微笑みを浮かべたまま、未開封の封筒を俺のほうに押しやって、ペーパーナイフを貸してくれた。

「開けてみなさい」

「よろしいんですか」

 俺は、社長のペーパーナイフを借りて、開封した。中には、薄い二つ折りの紙が入っていた。茶色の枠と印字。婚姻届だった。

「娘には、何とか生きる希望を持ってもらいたくてね。いつからか元気をなくしてしまって、時々、死にたいと言うようになった。今回のような病気では、回復には特に本人の生きたいという強い意志が決め手になる。君に会いたいという言葉を聞けた時は、私たち家族も救われたんだよ」


 婚姻届の用紙は、白紙のままクリアファイルに挟んで封筒に入れられていた。

 中身はそれだけだった。これを、急いでここへ運ぶことに、どんな意味があったのだろう。

「こんな白紙を運ばせて、今回の事は何だったのかと思っただろうね」

「あ、いえ、そんなことは……」

「そういう君の実直な反応を期待していた」

「?」

「預かった時や、途中で、こっそり開封して中身を確かめることだって出来ただろう? しかも指定の時間に間に合わせるとは。無茶な設定だったんだがね。君の真っ直ぐな熱意が気に入った」


「……つまり、どういうことなんでしょうか」

「いやあ、悪かったね。半ば君を騙して、試したんだよ。君さえよければ、娘の婿に来てもらえないだろうか」

 社長は、穏やかな口調で尚も続けた。

「君に指示を出した南原なんばら部長は、私の長年の親友でね、仲人を頼む予定になっている。彼に、君の日頃の勤務態度なんかを聞いてみたんだが、予想以上に褒めていたよ。営業の社員は数居れど、面倒な雑用を頼めば、大抵の社員は上手いこと言い訳をして回避する。ところが、東野くんは貧乏くじを厭わず、嫌な顔も見せずに引き受けて、時には無駄とも思える雑事に東奔西走し、きちんと結果を出してくるんだと。数値化される営業成績よりも、人として重視すべきはそういう遠回りの善行ではないかと、私ら年寄りは思うんだ。どうかね。社長がこんなふうに酔狂では、社の行く末が心配か」


 何だか、怒涛の展開になってきた……。

 俺は、何だか知らないが社長に気に入られて、西沼家の婿になる予定?

 道中で出会った妖怪や幽霊は、関係あるんだろうか?

 まさか、それはないよな。

 そんなことより、素子もとこに再会出来た喜びが、胸の奥でふつふつと湧き上がってくる。彼女は本当に生きている……会いたい。

 俺は、何より今すぐ彼女に、彼女の本体に会いたいと思った。


「すみません、社長。差し支えなければ、今から病院に伺って、素子さんに面会させて頂けないでしょうか。正直、驚いて混乱しておりますが、自分も彼女に会いたいです!」

「ああ、これから向かうところだから同行してくれ。それは、承諾の返事と受け取っていいかね?」

「あ、は……はい! 彼女が望んでくださるのであれば……謹んでお受け致します」

 つい、また二つ返事でOKしてしまった。

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