夫がインフルエンザになりました。そして感じた自分の大変さと、垣間見えた結婚の本質の一部。を、書き記しておく。(下)

(つづき)



 そのあと私はしばらくダイニングテーブルのところでうーうー唸りながら脚をじたばたさせていた。

 かろうじて電話だけは済ます。今日はキャンセルさせてくださいと。挙動不審な電話になってしまったと電話している最中から後悔する。


 せっかく空いた時間なのだから、ほかのなにかをすればよい。というか、やることならいつでも山積みだ。わかっている。わかっているが、なんかもうなにもする気になれない。

 なにかをやろうと思うと苛立ちが身体の表面じゅうを覆う。拭いきれない。この感覚も発達障害的ななにかなのだろうか。そのなかでも、いくぶんは個人的なものなのだろうか。ともかく私にはそういう感覚がある。いっかい予定を乱されると、ほかになにをしていても、苛立ちが全身を覆って「そのつもり」ではないことをしている自分がむしゃくしゃして許せなくなる。居ても立っても、居られなくなる。


 無為に時間が過ぎていくことそのものにさらに苛立ってきたりする。だから、ハマっているゲームを起動させてみた。だが数分もやるとやはり苛立ちが身体を覆う。楽しみにしていたゲームなのに。投げやりなプレイは簡単にゲームオーバーを招いた。最後はもうやられるとわかっていてモンスターに突撃、案の定一瞬でやられた。夫のものなのに、スイッチを机の上に放り投げた。


 もう座っているのも苛立つ。座椅子に横になった。でも私はベッド以外だと横になっても落ち着かない性質タチである。

 だから病人が隣にいるのに寝室のベッドで寝転んだ。彼とは違うほうを見ていたとはいえ、インフルエンザのひとの近くにそんな理由で近づくべきではない。そのことくらいはわかる。たとえインフルエンザだとそのときわかっていなくても、そんな理由で病人の隣に行くだなんて愚行だ。 


 わかる、わかるけど、私はもう寝転ぶくらいしかそのときできることがなかった。

 身体じゅうを覆う苛々を削ぎ落すように全身を強く撫でまわしたり、ベッドに脚や背中を強くこすりつけた。他人が見たらあきらかに子どもっぽく、あるいは不愉快かもしれないほどの振る舞い。

 泣きながらそんなことをしていた。



 でも、そんな一見ばかみたいなことは、私にとってはたしかにだんだん気持ちを修復していく儀式でもある。私は自分自身の立ち直り方はなんとなく心得ているから、しばらくそんなことをしていたら、じょじょに気持ちが落ち着きを取り戻していくのがわかった。


 むくりと起き上がり、さきほど電話をした番号とおんなじところに電話をした。たびたび申しわけないのですが、本日これから時間を遅らせて診ていただけませんか、と言った。快く引き受けてくださった。

 すぐに着替え、化粧もし、マスクをつけて、家を出た。出るときに「ちょっと出かけてきます」と夫に声をかけたが、深く寝入っているようで返事はなかった。

 私はそのまま自転車に乗り、ショッピングモールに向かった。自転車を漕いでるうちに気持ちは完全に凪いできた。いまこの道をほんとうは夫とふたりで走ったはず、と思っても、呼び起こるのは苛立ちや怒りではなく、冷静になったからこそ戻ってきたまともな感覚での後悔だった。



 自分が勝手に振り回されておいて、あのとき○○が体調を悪くしたから私はお休みの日に整体も用事もできなかった、とかいうのだけは避けたかった。ひとのせいにしたくなかった、いやもうすでにしていたんだけど。もともとそうやってひとのせいにする性根の腐ったところが私にはあるから、それを自覚して、せめてそういうところは減らしたい、と思った。


 冷静になれば多少そうやって考えられるようになるが、やはり立ち直りにはいまだに一時間くらいを要する。というとずいぶん幼稚な人格の持ち主に聞こえるかもしれないが、幼少期にはとても無理な芸当だったから、相対的に劣っていても、そのあたりがいちおう私の二十六年間の成長でもある。

 それがだからせめてあと一時間あれば、と言ったのは、いちおう根拠はあったのだ。

 ただ、そんな自分の都合を、あのときぶつけるべきではなかったことは変わらないけど――。



 ショッピングモールに着いたらまず、自分の気持ちがいったん完全に落ち着いたことを確認して、夫に謝罪のラインを送った。病院が開いたらすぐに行って、とも。ほんとうにごめんね、ほんとうにおだいじに、とも書いておいた。


 整体は行って正解だった。頭痛が消え、肩が軽くなる。どうしても普段パソコン作業が多いので、ダイレクトに全身と肩にくる。

 終わったときに夫にラインをした。



 そして、彼がインフルエンザだったことが、わかった。



 私は思わずショッピングモールの柱に寄って、立ち尽くした。

 そのときうまれた感情の名前を私はもう知っていた。苦い。はかり知れない。――間違った、と思い知らされた。そして、そう思って、なおさら苦くなった。


 だから、すぐに歩き出した。薬局で大量に買い物をして、スーパーでおうどんやらおかゆやらアイスやらを買い込んで、ショッピングモールを出る。途中コンビニに寄って、夫がラインで食べたいと言っていたコンビニブランドの鍋焼きうどんを買った。

 全身に、エネルギーがあった。あんなに疲弊した自分と、いまの自分が地続きだなんて、ほんとうにふしぎだった。



 薬局やスーパーで歩き回りながら、コンビニで買い物をしながら、自転車を漕ぎながら、私は考えていた。日は暮れかけて、水色と紅の塩梅が好きな時間帯だ。でも、今日ばかりは、きれいだというよりは、ただ暮れていく恐怖のような感覚が、勝った。



 インフルエンザだった。そのことにびっくりしたから、私は今回は、自分のおかしいところをこうやって冷静にみつめることが、結果的にはできた。

 でも、じゃあ、かりに。インフルエンザでもなんでもなく、ちょっとした風邪ですよ、と病院で診断されていたとしたら――私はやはり、夫を責めたのか。


 私には、そういうところがある。けっきょくのところ、ひとの痛みや苦しみに、どうしても寄り添えない。共感能力に欠陥か欠如があるのだ。いや。それは、もういい。自分がそういう人間であるからこそひとの役に立つ人間になるってことで、それはもう片がついてるのだ。

 自分でも衝撃だったのは、彼に対してさえ、追いつめられると私はそうなっちゃうんだな、ああ、ああ、やはりな、ってことだった。



 結婚って、こわいな、って思った。

 いっしょに暮らす前や、おつきあいしているときは、いくらでも気遣えた。彼が結婚前に会う約束を直前で守らなかったことは、二度しかなかったんだけど、その二度、私は苛つくどころか事情を聴いてとても心配し、負担にならないようにとても気遣った。


 世のなかで彼にだけは、苛つかないし、優しくできるって思ってた。いくらでも。無尽蔵に。

 でも、それは、同居したり結婚する前は、いくら親しく心をゆるしあってても、やはり、他人、だったからなのだ。


 いっしょに暮らして、結婚する。すると、もう他人というわけにはゆかない。生活になる。

 あんなにいくらでも気遣える、力になれる、自立すると決心したことは、半年もすれば崩壊してきた。


 

 自分がすこし、母親に似てきたのかな、って思った。生物学的な遺伝もあるのかもしれないけど、なんというかそれ以上に、環境的な遺伝として。

 うちの母親は、なんというかあまり子どもにべたべたかまわないひとで、それはそれでいいといまなら思えるし、育ててくれたことに素直に心底感謝をしている。じっさい、干渉がほとんどなかったことで、私はひとりで部屋で思索を深めたり書き物をすることが、周囲よりずっとできた恵まれた環境だったと自覚もある。

 ただ、そのぶん子どもの体調不良にもあまりかまわないひとという印象があり、私はある程度大きくなってからも、ちょっと体調が悪いと看病してもらえる同級生とかが、けっこううらやましかった。


 そういうのは私はさみしいから、真似しないようにしよう、とずっと思ってた。つまり、いっしょに暮らすひとが体調を崩したら、それはもう献身的に看病しよう、と。



 でも、でもね。

 いまなら、わかるのだ。


 そりゃ、たまにだったら、いくらでもできる。いくらでも、優しさをつぎこめる。でもね。これは、生活なんだ。私にも生活があり、彼にも生活がある。そのなかで病気になったりトラブルが起きる。彼だけ、というわけにはいかないし、私だけ、というわけにも彼はいかない。




 結婚って、だからほんとうに、してみてやっとわかることが、多くって。

 当時はさみしく思っていた母親の態度だけど、なんだかちょっとだけ、想像できた気もして。





 だからこそ、あの状況で。

 躊躇なく、私の頭に手を差し伸べた夫のことを、ずっと考えていた。






 たしかに、結婚なんてしないほうがいいのかもしれない。

 私はなんだかんだ結婚ことじたいをってゆるく肯定してたんだけど、うん、たしかに。




 ここまで。

 びっくりするほど尊敬できて。

 かなわなくて、自分が不用意な行為をしたら圧倒的な負い目を感じて。


 いまだに、知りたくて、だから恋していて。

 そのとなりにずっとふさわしくいたいから、変わり続けたいって思えて。




 ここまで、愛するひとでなくては、結婚なんて、こりゃたしかにやってられんなあ、と、思った。




 ワリが、合わないもん。

 愛しているから。尊敬しているから。恋しているから。となりでふたりで生きるってことだけに、こんなにいろんなことをつぎ込める、だって、彼が私といっしょにいてくれるのは、必然でもあるけど、奇跡でもあるから。ずっとずっと、いっしょにいてほしいから。それがいずれ当たり前に感じられるようになっても、いっしょに生きれるというのは、当たり前ではない。


 


 そしてそういうのは自分自身にあぐらをかいていてはけっしてかなえられないことなのだろう。結婚って。意外と、しんどいときもある。だから、だからこそやっぱり私はあのひとと結婚してよかった――。



 たったいちど。たかがたったいちど、彼に心ない言葉を向けただけ。

 そうとも、言えるかもしれない。けれど。私は、そうは、思わない。

 それは、あきらかに私のいけないところで、このくらいいいやって思ってれば、いずれそれも当たり前になっていく。



 そんなことを当たり前にしてはいけない。だから、まずは。帰ったら、もういちど、声をかけて。もし起きてたら、謝ろう。いけないことをしてしまったら、なんどでも、なんどでも謝ろう。謝ることをクセにしてもいけない。でも、いけないことは、ちゃんと言葉にして謝る。

 察して、なんてけっして言わない。思わない。伝えることは、ちゃんと伝える。




 彼はつらいインフルエンザのなかにあってさえも私の気持ちを優先して考えてくれたのだ。そういうひとの、となりで、生きてるんだ。生きてくんだから。いままでも、これからも。




 そんなことを想いながら家に向かって一直線に自転車を漕いだ、新年の夕暮れでした――とりあえず夫がすこしでも楽なように祈るし、そういう状況をつくるし、ただ、自分自身が、こうやって文章に起こすという業を背負った人間なので、ごめんね、と夫に向けて書いておく。

 ほんとうに、ほんとうに、元気になってほしいよ……おだいじに、ってほんとに思います。




(いちおう、このおはなしは、いったんここでおわり!)

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