第5話 召喚

 彼が去って行ったあと、私は一人ベンチで大きなため息をついた。宮廷省に入って早7年、それなりにいろいろな職場は経験してきたけど、上司や同僚に恵まれていたこともあって仕事がストレスだと思ったことはなかった。時にはスケルトンの解体——あれは商工省に出向していた時に魔物の大量発生があって無理やりやらされものだった——とか、第2王子の無理難題に付き合わされた——18歳の黒髪で巨乳の料理が上手な魔導士を探して来いという意味不明な命令だった——とか、厳しい仕事もあったけれど、王国最難関と呼ばれる王室上級職員採用試験に受かったというプライドもあって、がむしゃらに頑張っていたら何とかなったものだ。


 だから春先に、200年ぶりの勇者召喚に際して勇者の専属秘書官をやるよう辞令が出た時には、喜んで飛びついた。こんなに面白そうでなおかつ重大な仕事、一生に一度関われるかどうかだし、何よりも尊敬するハンナ女王が勇者を召喚するのなら、お手伝いしないわけがない。しかも歴代勇者はイケメンだっていうし、そういったロマンスっぽいことについてもちょっと期待した部分が無いとは言わない。


 最初に召喚の間に彼が現れたとき、そのクールな瞳に胸が高鳴ってしまったのは当然のことだと思う。きっと私でなくとも年ごとの王室女子職員であれば、誰だって期待してしまっただろう。高くスマートだけどもしっかりした体つきに堂々とした立ち方。髪の毛こそはこの国で珍しい黒髪だけれども、貴族の令嬢のように白く滑らかな肌は隠しようもない育ちの良さを示していた。3日としないうちに宮廷省のみならず王室中の女性の話題を掻っ攫っていった彼と一日中一緒に居られるのは、自分が選ばれた人間であることを実感させ嬉しいと同時に誇らしくもあった。


 彼も最初こそは戸惑っていたものの、宰相補佐官より詳しい説明を聞くにつれ状況が理解出来て来たみたいで、私にも様々なことを質問してきた。おかしくなったのは、いやおかしくなったんじゃなくて彼が本性を出した始めたのは、召喚から10日が経ったあの時だ。


*****


 私たちは夕食を終え、彼専用の執務室でその日の説明の振り返りをしていた。窓からは春の甘い風がこっそりと入り込んできて、平和な夜のひとときを甘い葉の匂いで満たした。召喚の翌日から始まった勇者専用レクチャーは、王室の礼儀作法や魔法学の基礎、さらには王国の経済や文化といったことにまで及んでいた。もちろん内容は初歩的なもので、同席していた私からすれば全て知っていたことではあるのだが、それでも彼は興味深そうに聞き入って質問を返していた。しかしレクチャーもその日で終わり、1日の休日を挟んで明後日からは本格的な訓練が入る予定となっている。もっとも、その前にやらなければならないこととして、私は秘書課長から気の重い仕事を預かっていた。


「勇者様、ちょっとよろしいでしょうか?」


 私が声をかけると、ソファーで足を組みつつ書類に目を通していた彼が顔だけをこちらに向けた。


「ええ、何でしょうか?」


「先日もお話しした通り、この国に関する基本的なレクチャーは本日が最終日になります。休日を1日挟んで明後日からは、本格的な魔法や戦闘の訓練を行う予定です。これは約半年間続く訓練であり、通常の王立軍の新兵教育課程とほぼ同じカリキュラムとなっています。もっとも、勇者様は王立軍ではなく宮廷省の所属なので、訓練は基本的に騎士団が行います。ここまではよろしいですか?」


「ええ、了解しています」


 彼はまっすぐこちらを見据えて答えてきた。その声からは特に緊張や疑いの色はうかがえない。彼が特に質問をする様子が無いのを確認すると、私は手元のファイルを探って「雇用契約書(勇者用)」と書かれた紙と、「王室福利厚生会」と書かれたパンフレットを取り出した。


「本格的な訓練に先立って、勇者様には王室と雇用契約を締結していただきます。要するに勇者様には宮廷省の一員になっていただくため、王室に雇われていただくということです。そのため、形式上の話ではありますが、今後は上司、つまり王族の指揮命令に従っていただく形になります。もちろん、日常的な業務における指揮命令は直属の上司である秘書課長から発せられるでしょう。他方で王室職員となることにより、例えば戦闘訓練で負傷した時には労災、いわゆる労働災害補償も出ますし、王室職員として福利厚生施設も使えるようになるとったメリットがあります。例えば……このバスー保養地にあるエルフの里は王国内でも超人気の避暑地ですが、王室職員であれば通常の2割引きで利用できます」


 私は契約書とパンフレットの該当箇所を指さしながら一気に説明した。


「ふむ……なるほど、今後のことを考えると私が王室の一員になっていた方が都合が良いということか……。まぁ筋は通っているな。で、他には何かあるのか?」


「そうですね、職員になるのでお給料も出ますし、週2日の休日も保証されます。勤務時間は9時から5時まででお昼休みは12時から1時までの1時間ですから、実働は1日7時間です。なのでおそらく勇者様がいらっしゃる前の世界とそうそう変わりないかと」


「確かにな。週休2日で9時―5時なら私のいた世界ではホワイト企業だな……。他には?」


「そうですね……」


 私は手元の雇用契約書に目を落としながら続ける。


「有給休暇の付与がありますね。初年度は年10日ですが、年々増えていくはずです。あとは結婚した時やお子さんが生まれたときには祝い金が支出されますし、もし住宅を購入される場合は福利厚生会から低利で住宅ローンが借りられます」


「ほうほう……やはり王室職員は公務員だけあって待遇が厚いな。それで、その契約書とやらにサインすれば良いのか?」


「ええ、こちらのところにサインをお願いします」


 そうやって私は契約書のサイン欄だけを——意図的に他の欄が見えないようにして——差し出した。


「ここにサイン……と。ところで一応雇用条件を文章で確認させてくれるかね?」


「……はい、どうぞ」


 やっぱりそうなりますよね、心の中でつぶやきながら、私は契約書の上から手をどかした。


「これは……さすがに文字は読めないな。日本語のものはあるのか?」


「いいえ、手元にあるのはアルビオン共通語のものだけでして……。両言語で書いたものを用意するとなると明日の昼以降になりますが、それでも良いでしょうか?」


「一応契約条項は確認しておきたい。明日に持ってこれるか?」


「……はい、お持ちいたします」


 結局サラっと契約書にサインさせる私の作戦は失敗し、翌日に日本語とアルビオン共通語で書かれた雇用契約書を持ってくることになってしまった。それを読んで彼が素直にサインしてくれるだろうとは思っていなかったし、実際予想通り、翌日の夕食後の時間に彼に問い詰められることとなった。


「リリー秘書官、あなたから渡された雇用契約書についていくつか質問があるのですが、よろしいですか……?」


「……はい、どうぞ」


 彼は正面のソファーに座りながらまっすぐこちらを見据えてくる。その視線には、昨日には見られなかった他人に対する疑いの色が含まれていた。


「まず雇用期間なのですが、『アルビオン歴1219年水月11日から同1220年水月12日まで』となっています。要するに明日から1年間ということですが、これは何故ですか?」


「正直なところ王室も財政難のため、新たに職員を1人終身雇用するだけの余裕がないのです。そのため勇者様は契約職員ということになっていただきます。もちろん、魔王討伐は1年では終わらないと思いますので、来年の同じ時期になりましたらまた契約を更新させていただきます」


「うーん……感情的に何となく納得いかないが、まぁ何らかの事情があるのなら受け入れましょう。とりあえずそのことは置いておくとして次に勤務条件ですが、勤務時間が9時から5時までなのは良いとして、時給850ゴールドというのは普通なのでしょうか?」


「宮廷省の契約職員は王室労働法で定められた最低賃金で勤務することが決まっていますので、ごく普通のことです」


 私は何とでもないという風を装って言う。


「しかし食堂のドワーフのおばちゃんに聞いたところ、彼女は最低賃金である時給900ゴールドしかもらっていないと愚痴をこぼしていましたが……これは何かの間違いじゃないですか?」


「いいえ、正しいです。確かに王国の最低賃金は900ゴールドなのですが、採用半年間は試用期間となるため、最低賃金より低い金額で勤務していただくことになります。王室労働法上、試用期間中は最低賃金以下の金額で働いてもよいということになっていますので」


「……ということは私は最低賃金以下で働くのか?」


「……一時的なものですから……」


 ついつい彼から目をそらしてしまった。


「ちなみにリリー秘書官も採用当時は時給850ゴールドだったのでしょうか?」


 彼がこちらを睨みがら質問してくる。


「いいえ、私は正式な、要するに終身雇用が保証された宮廷省職員なので、最初から時給ではなく月給で給料をいただいています」


「……解せない。私はこのアルビオン王国の希望の星となる勇者なんですよね?それで時給850ゴールドって……コンビニのアルバイトじゃん?」


「コンビニのアルバイトというものが何なのかは存じ上げませんが、王室としてはこの条件で勇者様を雇用したいとのことなので……。ちなみに勇者様は王室に暮らすことになりますので住居代はかかりません。食事も食堂であれば職員割引がききますし、お風呂は自由に使えます。そう考えれば悪い話ではないかと思いますが……」


「そりゃそうだけどさ……、私が戦わないとこの国って魔王に滅ぼされちゃうかもしれないんですよね?だから私を召喚して……だけど食堂のドワーフのおばちゃんみたいな待遇ってどうなんですかね?」


「勇者様、今の発言はドワーフに対する人種差別的発言になりかねないので公の場では慎んでください、最近はいろいろとありますので。……とまぁそれはともかく、これは王室宮廷省の秘書課長と財務課長が協議のうえ決めたことです。なので私としてはどうにもならないです。申し訳ありません」


 私は申し訳なさそうに頭を下げた。もともと良い人っぽいし、私がこうやってお願いすれば何とか契約してくれるだろうという甘い読みはあった。女の子が泣きそうになってお願いすれば何とかなるというアルディの助言により実行した泣き落とし作戦だが、彼が出した答えは私の予想を裏切るものであった。


「そういう話であればこの契約はお受けできませんね。ということで、明日からの訓練にも参加できません。秘書課長にはその旨お伝えください」


「え……!」


 私が茫然としていえると、彼は書類をその場に置いたままソファーを立ち執務室を出て行ってしまった。ということは明日から組まれていたスケジュールはどうなるのだろう? すでに魔法省から魔導教官の手配もしているし訓練場の予約もある。午後には騎士団長による戦闘訓練だし、武具のレンタルだってもう連絡してしまった。これで予定がずれると全てまた初めから調整しなおさなきゃいけなくなってしまう。それだと私の仕事がものすごく増えるし、そもそも秘書課長から大目玉を食らうだろう。私は椅子から飛びあがり彼を追いかけたが、彼は既に寝室に入っており、私が外から何を言っても出てこなかった。


*****


 それからのことは今思い出すだけでも気が滅入ってくる。翌日朝一番で秘書課長に報告すると当然のごとく激怒されるし、給料のことで財務課長のところに行ってもこれ以上は予算が無いと突っぱねられるし、その日の訓練教官となっていた魔導教官は勇者がいないからって怒り出すし。最終的に「勤務条件はそのままだけれど、別個に討伐依頼を受け報酬を得ることは妨げない。また、別途王室から討伐任務を依頼する時には臨時ボーナスを支給する」という財務課長の言質をもらって彼には納得してもらった。要するに、王室はお金を出せないけれど副業して個人で稼ぐことはご自由にどうぞ、ということだ。


 その後も方々への謝罪や訓練予定の再スケジューリング、レンタル機材の再手配など数日間は怒涛の忙しさで、今思い出しても本当に嫌になる。もちろん最初に秘書課長からあの雇用契約書を見せられた時点で、普通の感覚を持っている人であれば反発するだろうなと思ってはいたんだけど、まさか契約しないと言い始めるとは予想外であった。王室側の官僚主義もそうだけれど、彼の我の強さもいろいろ面倒なことになりそうだなと初めて感じたのがその時。


 それから何度かそういうことがあって、そして先日のオーク討伐の件での衝突だ。恐らく彼は私や王室に対して基本的に不信感を抱いているのだろう。そりゃ王室の四角四面なところとかケチなところとか理不尽な仕事押し付けてくるところとか私もいっぱいいっぱい不満があるけれど、所詮一職員に過ぎない人間は上に強くは言えない。けれど彼は勇者という立場があるからいろいろ主張してくるし、そして結局私が板挟みになるという……。最近、ついに王室職員なってから初めて胃が痛いと感じるようになってしまった。


 と、彼との経緯を考えていたら昼休憩が終わる鐘が鳴った。午後は戦闘訓練——といっても彼の訓練を見ているだけだが——なので訓練所に行かなければならない。モリソン騎士団長は良い人なので彼ともうまくやっているし、訓練も順調のようだ。しかし突然彼がまた何を言い出すかは分からない。とりあえず彼の保護者として訓練所に向かうべく、私はベンチを立った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る