加藤光彦の人生

 地平線まで続く大海原を眺めるように、砂浜に座りながら光彦は悩んでいた。

 例えば食糧について。

 中国の開発したメカデボラだかなんだかが負けて以来、世界はますます寒冷化が進んだ。今はまだ九月なのに、昨日も雪が降っている。寒さの所為で山に入っても枯れ木ばかりが広がる有り様。植物が芽吹かなければ動物も生きていけないため、山には獣の姿も見えない。獲物がいないのだから、狩猟で食べ物を得る事なんて不可能だ。海産物に関しては陸の幸より幾分マシらしいが……砂浜で暮らす貝は寒冷化により壊滅。無事なのは沖の生き物だ。船を持たない人間は、跳ねる魚を眺めるのが精いっぱい。安定した食べ物は得られず、今日、今日の分の食べ物を探さなければならない。

 例えば治安について。

 十年前より更に悪化した。食糧がないのだから当然である。人間を最も凶暴化させるのは、怒りや後悔ではなく、空腹なのだ。食糧を持ってると分かれば、相手の人数が上回っていても襲い掛かる……下手な野党より余程凶暴な『孤児』が至る所に潜んでいる。油断をすれば、一瞬であの世行きだ。

 どちらの問題もちゃんと考えなければ死を招くものだ。他にも水や寒さの問題もある……しかしながら光彦にとって、これらは今気にする問題ではない。

 今、気にするべきは。

「とーちゃんっ!」

 考え込んでいると、不意に光彦の背後から抱き付いてくる者が居た。

 振り向かずとも声だけで分かる。なんやかんやもう、二十年の付き合いになるのだから。

「……アカか。どうした、いきなり」

「んー、父ちゃんが居たからくっついただけー」

 光彦がその名を口にすれば、とても上機嫌に、『娘』のようなものである女性――――アカは答える。

 出会った時には赤ん坊だったアカも、今や二十になる大人だ。身長はとても伸び、百七十二センチある光彦より僅かながら高いほど。これまで得られた栄養が少なかったからか、手足や腰はすらりとしていて、二十年前ならばファッションモデルとして出られそうな体躯である。顔立ちもあどけなさはあるが大層な美人で、二十年前ならさぞモテたに違いない。長く伸びた髪が油でベタついているのは……こんなご時世なのだからご愛嬌だ。

 そんな美女に育ったアカは、光彦を背中からぎゅうっと抱き締める。とても強く……嫌がる素振りもなく。その身に纏っているのは、もういっそ裸でいた方が余程恥ずかしくないのではないかと思えるほどボロボロな服なのに。

 光彦は、眉を顰めながら窘める。

「お前なぁ、何時までべたべたしてるんだよ」

「え? 別に何時までも出来るけど?」

「そうじゃねぇ。年頃の娘は、こう、普通は父親を嫌うもんだっつー話だ」

「普通なんて言われても、私にとってはこれが普通だし」

 光彦にどれだけ窘められても、アカは離れる気配もない。ついに光彦は大きく項垂れ、ため息を吐いた。

 どうにもアカは、ファザコンの気がある。

 いや、実父ではないのだからファザコンでもなんでもない筈だが、兎に角アカは光彦の事が大好きなのだ。正直かなり鬱陶しい。二十年前の世の父親達が何故娘とのスキンシップを望んでいたのか、さっぱり分からない。

 実際問題、少しは『親離れ』をしてもらわねば困る。治安が悪いどころか、食糧すら満足に得られない時勢なのだ。何時自分が死ぬかなんて分からない。こんな甘ったれでは、いざその時が来た時、何時までも泣き続けて飢え死にしそうな気までする。それは、光彦としては面白くない・・・・・話だ。

 ……なんやかんや歳も五十を超えたからか。はたまた二十年も一緒に暮らしてきたからか。昔の自分だったら吐き気を催していたであろう甘い考えに、光彦は自嘲気味の笑みを浮かべる。

「んー? 父ちゃんどうしたの?」

「ふん。何時までもガキみたいなガキを持つと苦労するなって思っただけだ」

「む! 流石にそれは馬鹿にされたって分かる!」

「じゃあ少しは親離れしてみろよ」

「それは断る!」

 キッパリと告げるアカに、光彦は小馬鹿にするように鼻を鳴らす。しかしそれで離れるようなら苦労はせず、アカはますますべったりと光彦にくっついた。

「相変わらずの仲良し親子ねぇ」

 そんな彼等を見て、感想を述べる女性の声がする。

 その声もまた、光彦の知り合いのものだ。

「おう、早苗か。なんか良い物見付かったか」

「缶詰一つ。正直、もう此処はダメなんじゃないかしら」

 手に持った缶詰を見せ付けるようにして語る女性こと早苗に、光彦は頷いて同意する。

 早苗との付き合いももう十年。どうせすぐ別れると思っていたのに、存外長く一緒に過ごしている。仲良しこよしだった訳ではなく、割と口喧嘩は交わしたが……不思議と今日まで離れはしなかった。

「んじゃ、次は何処行くかなぁ」

「あー、南行こうよ。南って暖かいんでしょ」

 立ち上がる光彦に、アカが希望を述べる。

 成程、確かに南の方は暖かい。学がない光彦にもそのぐらいの事は分かる。

 分かるのだが……ちらりと後ろを振り返る。

 光彦の視線の先には、大きな看板があった。そこにはこう書かれている。

 『ようこそ和深の海へ』。

 此処は紀伊半島の南端――――九州でも最も南側に位置する町だった。二十年前は関東で空き巣をし、十年前は東北で飯を漁り、そして今では南の海で途方に暮れる毎日。我ながら中々愉快な人生をしていると、光彦は自嘲気味に笑った。

「おう、じゃあお前あっちに泳いでいけ。南はあっちだ」

「海じゃん!? えー、なんだよぉー、南って海なの?」

「今じゃ南に行けばちゃんと暖かいかも怪しいと思うけどね。夏の九州で連日雪が降るとか、気流の流れも変わってるでしょうし」

「実際、どうしたもんかなぁ」

 ぼんやりと、海を眺めながら光彦は考える。

 今、日本の人口がどの程度のものかなんて光彦には想像も付かない。寒冷化により農業や畜産による食糧生産が行えず、山の幸も採れないとなれば、数万人も生きていれば御の字ではないか……とは早苗の弁である。

 しかしその数万人は、恐らく誰もが南を目指しているだろう。少しでも暖かく、苔でもなんでも良いから植物が生えていて、虫でもトカゲでも良いから生き物のいる環境……その心当たりなど『南』以外にはあるまい。

 もしも、その数万人の誰かと鉢合わせたらどうなるか?

 間違いなく、襲われる。極論人間だって『肉』なのだ。その気になれば食べられる。おまけに……こう言うのも難だが、早苗もアカも美人だ。イッてる・・・・輩にとっては是非とも手を付けたい一品に違いない。無論光彦は要らないのでぐちゃっと潰してポイだろう。

 三対一なら返り討ちに出来るかも知れないが……三対二だとちょっと厳しいかも知れない。三対三ではどうにもならない。女の力ではまず男には勝てないのだから。

 困った困った。しかし困ったところで答えは下りてこない。しばし目を瞑って考え込み――――

「っ!? 父ちゃん、父ちゃん!」

 不意に、アカが大声で喚いた。

「なんだぁ? 今考え中なんだから静かに……」

「アレ見て! 海の方!」

「……海?」

 アカに言われるがまま、光彦は海を見遣る。早苗も光彦と同じ場所を凝視した。

 アカが指差す先には、ぽつんと小さな影が見えた。

 海にある影。真っ先に光彦の脳裏を過ぎったのは、大怪獣デボラの姿だ。アレが上陸すれば、その際に起きる津波で海岸付近は壊滅的な被害を受ける。

 思わず身を仰け反らせる光彦だが、しかし僅かな違和感が彼の足を止めた。もう一度、海に浮かぶ影を見つめる。

 影は、黒く、細長かった。細長さは兎も角、黒というのはデボラの特徴ではない。盛り上がった海面なら水と同じ色だし、身体が海上に出ているならば赤く見える筈。どうにもデボラの影っぽくない。

 そうして見つめていると、影は段々と大きくなる。近付いているのだ。光彦は真剣に、じっと影を凝視し……

「……船?」

 ぽつりと早苗が呟いた言葉により、確信を抱いた。

 船だ。海上に船が浮かんでいるのだ。

 まさか船が浮いているとは思わなかった。ガソリンやらなんやらなんて、十年前の時点で既に稀少品だったのに。

 そしてそんな貴重な筈である船が、自分達の方へと近付いている。

「……どうする?」

 早苗に問われ、光彦は考える。

 アレが自分達にとって安全な船だという保証は何処にもない。もしかしたら中からぞろぞろと、大勢の無法者が出てくる恐れもあるだろう。戦いになれば絶対勝てない。

 ひとまず逃げるべきか……そう思った、矢先の事だった。

【にげないでくださーい】

 海の方から、機械的な声が聞こえてきたのは。

「うひゃうっ!? え、な、何? 今の、放送……?」

 アカは動揺し、不安げに光彦にしがみつく。

 彼女は慣れていないのだ。『拡声器』の存在に。物心が付く頃には文明と社会が衰退し、夕方五時のチャイムすら聞いた事がないのだから。

 しかし機械的に増幅された音など幾度も聞いてきた光彦と早苗も、身体が強張って動けなくなっていた。

 今の放送は、明らかにこちらに向けて伝えられたもの。

 つまりあの船の乗員は、自分達の存在を認識している。今から慌てて逃げたところで、向こうもそれを確認するだろう。そして船を動かせるほどの燃料を持っているのなら、バイクや車の一台二台は動かせてもおかしくない。

 十中八九逃げられない。

 なら、下手に抵抗するより……大人しくして、怒りを買わない方がまだ『マシ』か。

「(やれやれ、年貢の納め時ってやつかね)」

 肩を竦めて、光彦はその場に立ち尽くすのであった。

 ……………

 ………

 …

 尤も、光彦の予想は全く当たらなかったが。

「よく今日まで無事に生きてこられましたね! 本当に良かった!」

 眩い笑顔と共に掛けられたのは、こちらを気遣う言葉。

 砂浜付近にやってきた船……全長百メートルを超える軍艦だった。早苗曰く駆逐艦の一種らしい……から下ろされたゴムボート。そのゴムボートに乗って光彦達が待つ砂浜にやってきたのは、一人の女性だった。

 女性は二十代ぐらいの若者で、ボロ布を纏っている。ボロ布といっても、殆ど裸同然のアカと比べれば遙かにマシなものだが。顔立ちからして日本人のようだ。実際彼女の日本語はとても流暢で、聞き苦しいものではなかった。

 思っていたのと違う乗組員の姿に、光彦は呆気に取られてしまう。アカは見慣れぬ他人に怯えているのか、光彦の背中に隠れてしまった。

「……あなたは何者? 私達にどんなご用かしら」

 言葉を失った『親子』に代わり、早苗が女性に尋ねた。

「はいっ! 私達は、今まで生き延びてきた人々を探し、そして『新天地』にお連れする事を目的としています!」

「新天地?」

「現在、大勢の人々がその地で暮らしています。農業や畜産も行われていて、食べ物も豊富ですよ」

「……何処の馬の骨とも知れない私達を、そんな素敵な場所に連れていく? 胡散臭いわね」

 早苗がきっぱりと告げると、女性は少し苦笑い。しかし図星を突かれて慌てるようではなく、「確かに」と同意するかのよう。

「正直に言いますと、人手が足りないのです。新天地に来た人々は安心感から……お子さんを持つ人が多いので」

「ああ、成程。人口爆発しちゃったのね。食糧の消費が増えたのに、働き手は増えていない。だから大人の労働力を補充しないといけない、と」

「恥ずかしい話ではあるのですが……」

 照れたような笑みを浮かべながら答える女性だったが、その言葉の意味は決して笑えるものではない。

 安心感から子を作る。光彦にも、それは自然な考えに思えた。アカを拾った時、デボラを見た不安から「家庭を持たなくて良かった」と思ったぐらいだ。逆の心境になれば、つい、作ってしまうのも頷ける。

 人口が増えているという事は、その『新天地』とやらはさぞ住み易いところなのだろう。

「私達は社会を安定させる労働力が得られる。あなた達は安全な寝床と安定的な食糧を得られる。WinWinな関係というやつです。無理強いはしませんが、悪い話ではないと思いますよ?」

「……ちょっと相談させて」

「ええ、構いません。ゆっくりご家族の方とお話になってください」

 光彦達を家族と勘違いしながら、女性は早苗を送り出す。特に否定もせず、早苗は光彦とアカの下へと寄ってきた。

「……で、どうする?」

 光彦はひそひそ声で早苗に尋ねる。

「私は、彼女の話を信じても良いと思うわ」

 早苗はすぐに、ひそひそ声で自らの考えを打ち明けた。

「理由を教えてくれ」

「あの女の人、服が綺麗だった。まぁ、二十年前なら雑巾に使われるような布だけど……私達が着ているよりマシでしょ? デボラに世界が滅茶苦茶にされる前、二十年前に作られた物であそこまで綺麗なものはもう残ってないと思う。だから多分、あの人の言う『新天地』では布が生産されている筈よ」

「……それがなんだ?」

「良い? 布ってのは、当然食べられないもの。ないと困るけど、死にはしないものよ。布を生産出来るという事は、食糧にある程度余裕があるに違いない。あの人の話には信憑性があるわ」

 早苗の語る推論に、成程、と光彦は思う。流石は元テレビ関係者という典型的インテリだ。こうした推理は、光彦にはとても出来ない。

 勿論早苗の推理が完全に当たっている保証もない。運良く綺麗な布を手に入れた無法者、という可能性は否定出来ないからだ。罠だとしたら、あるのは身の破滅だけである。

 しかし、生き続けたところでこの地に今更どんな希望がある?

 そう、そんなものは何処にもない。自分達が歩き回ったところで、恐らく楽園は見付からない。遅かれ早かれ野垂れ死ぬだけだ。

 どうせ暗く終わるしかない人生ならば、ちょっとぐらい夢を見るのも良いだろう。

「……分かった。俺も賛成しよう」

「父ちゃんが賛成なら、私も良いよ」

 光彦の意見に続き、アカも答える。早苗はこくりと頷き、女性の方へと振り返った。

「聞こえたかしら?」

「ええ、歓迎しますよ。何か、持ち込みたい荷物などはありますか? あまり大きいものだと、ゴムボートでは浮かべないので難しいのですが……」

「私達にそんな財産があるように見える?」

 身軽さをアピールするように、早苗は両腕をひらひらと動かす。随分と剛胆な女になったものだと、光彦はぼんやり思う。

 そして自分は、女共に囲まれて少し女々しくなったかも知れない。

「そうだ、乗り込む前に一つ確認したい。その新天地とやらは何処にあるんだ?」

 光彦が尋ねると、女性はニコリと微笑む。

 そして彼女は、臆面もなくこう答えるのだ。

「人類誕生の地、アフリカです。我々は帰る時が来たのですよ」

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