緒方早苗の展望

「……はぁ」

 古びた一軒家の中で、早苗は大きなため息を吐いた。

 その手に開いているのは、一冊の手帳。

 『遠山銀行』と書かれたその手帳には、幾つもの数値が書かれている。開いているページの一番最後には、『8,000,000』と書いてあった。

 つまりそれは早苗の預金残高を示す数字だ。

 ――――今じゃ、『円』なんて幾ら持ってても紙切れにしかならないが。そもそもこの遠山銀行、もう日本には存在していない。

 最早なんの意味もない数字。何度見ても、どれだけ見ても、決して手元には戻ってこない。

「……こんな事になるのなら、ぱーっと使っちゃえば良かったわね。将来が不安だから貯金するって言うけど、本当に最悪な事が起きたら、なーんの意味もない行為になるなんて……けほっ、げほっげほっ」

 ぼそぼそと独りごち、咳き込みながら、早苗は家の窓から外を眺める。

 目の前に広がるのは、コンテナを改造して作られた金属製の家。塀どころか庭もなく、家だけが幾つも並んでいる。どの家も壁が錆び付き、窓がくすんでいた。外を出歩く人々は誰もが覇気を失い、屍が歩いているようにも見える。

 途上国のスラム街のような惨状。だが、此処は確かに日本である。それもかつて世界有数の大都市だった、東京都港区。

 十年前に破壊し尽くされた町であり、十年以上前から早苗が暮らしていた場所だ。

「……アイツが来てから、何もかも変わったわね」

 最早記憶にしか残っていない自宅を思い出し、早苗はそのまま昔の事を思い出す。

 今より十年前の、二〇一九年一月一日。日本の富士山からそいつは現れた。

 体長三百五十メートル、推定体重百五十万トン。巨大なハサミと無数の足を有し、赤色の甲殻に身を包んだ巨大甲殻類……

 その名はデボラ。

 一見して『デカいエビ』でしかないその生物は、しかし圧倒的な戦闘能力を有していた。自衛隊はおろか米軍の攻撃さえも跳ね返す頑強な甲殻、仮に傷付いても即座に再生する生命力、航空機すら撃ち落とす長射程攻撃、そして水爆さえも無力化する熱吸収能力。

 当時大きな被害を受けていた日本と米国が手を組み、共同駆除作戦を実行するも失敗。米軍が強行して使用した水爆もデボラには通じず、活性化したデボラにより日本は主要都市を破壊し尽くされた。政府首脳陣は破壊される前に逃げたため無事だったが、しかし主要企業は物理的に破壊されて倒産。水爆による放射能汚染により復興は絶望的となり、見込みのない『事業』に金は掛けられないとばかりに他国からの援助や融資は僅かしかない有り様。加えてデボラの襲来は収まる事を知らず、日本の情勢は良くなるどころか悪化する一方。復帰どころか成長の兆しもない国に投資など起こる訳もなく、資金不足による倒産も続出する有り様。結果、世界有数の経済力は、たった三年で途上国水準まで落ちぶれた。

 没落したのは日本だけでなく、米国も同じだ。いや、ある意味では米国の方が日本よりも没落具合は酷いかも知れない。

 日本と同じく米国も太平洋に面した国であり、そしてデボラは米国を避けるような『気遣い』をしなかった。デボラにより米国本土は蹂躙され、断トツの世界第一位のGDPが十位圏内から消え去るのにさして時間は必要なかった。

 米国が失ったのは経済力だけではない。費用の一部負担や現地民との揉め事など、様々な問題を起こしながらも駐留して・・もらっている・・・・・・駐在米軍が、少なくともデボラという脅威に対しなんの役にも立たない事は明らかになったのだ。勿論デボラは水爆すら通用しない超生命体。倒せなかった米軍が無力ではなく、デボラが強過ぎたというのが正しい。対人・対国家において米軍が頼もしい事に変わりはなかったが……「アメリカは同盟国にも核を落とす」という悪評 ― という名の事実である ― が致命的だった。勝てばまだ言い訳も出来ただろうが、負けてはただの落とされ損である。これならデボラに蹂躙される方がまだマシだと、反米デモが世界中で活性化した。

 それどころか反米テロ組織への支援と加入者までもが激増した。米国本土でのテロも増加し、年間数千人が犠牲になる。経済力低下により規模の縮小を余儀なくされ、何時やってくるか分からないデボラ監視をしている米軍に、テロ組織と戦う余力なんて何処にもない。世界中から米軍が撤退した。

 今や米国はテロと略奪が横行する、無法地帯と化している。自国の統制だけで手いっぱいで、世界に目を向けている余裕なんてない。

 そうして出来た力の隙間に入り込んだのが、中国だった。

 中国は米国が消えた地域に進出し、在中軍として滞在する事になった。当初は、負担金などなしに滞在してくれる中国軍を歓迎する国民が多かったが……その後中国による経済的・軍事的『支配』が行われた。中国企業の進出により国内経済が滅茶苦茶に。島などが占拠され、漁民が漁場を追い払われるなどの問題が発生している。反中テロ組織も多数生まれた。

 日本も現在、中国軍の駐留が行われている。戦力の壊滅に加え、経済難から装備さえも維持出来なくなった自衛隊に代わり、デボラ対策を行うための部隊だ。しかし実態は中国からの侵攻部隊。我が物顔で日本国内の反中組織の調査・逮捕を行い、豊かな漁場を中国人に占有させる。やりたい放題だ。

 今ではデボラは、中国が開発したものというのが日本国民の大部分が抱いている考えである。反中感情は劇的に高まり、潜在的にかなりの数の若者が『テロリスト』予備軍と化していた……尤もそれを黙って見過ごすほど中国は優しくない。廃墟と化した町を定期的に巡回し、不審者を逮捕するなど取り締まりを強化している。残念ながら逮捕されている者の殆どは、テロ組織メンバーではなく浮浪者の類らしいが。当然彼等はテロに関する情報など何一つ知らないが、そうなると強情なテロリストとして拷問に掛けられ――――

 日本は変わった。最早此処は世界で一番安全な国ではないし、何処かの組織が出した民主化ランキングの低さに「いい加減だ」と文句を言える国ではなく、『政府与党』に感情的な悪口を言える国でもない。

 当然報道の自由なんかもない。報道機関はもう、中国に乗っ取られた。経営陣も取材スタッフも中国人か、中国に媚びへつらう『人権家』に支配されている。多くの日本人スタッフや芸能人は業界から追い出された。

 早苗もまた、追い出された一人だ。彼女は正義感に強い訳でも、中国への反発があった訳でもない。ただ純粋に、本当の事だけを話し、筋の通った持論を述べただけ。それだけで、彼女は居場所を失った。それだけの事が、あの国には都合が悪かったらしい。

 仕事を失った彼女は両親の下で暮らし、両親の店を手伝う事で生計を立てていたが、その両親は先日他界した。十年前の日本だったら簡単ではないにしても、完治の見込みがあった病……結核によって。病院で病名は分かったが、高価で稀少な薬を買う事は出来ず、自宅療養の甲斐もなかった。

 そして両親の看病していた早苗も、同じ病を患った。

 確証はない。両親が受診した病院は、採算が取れなくなって潰れ、早苗は診断を受けられなかったからだ。しかし咳が延々と続く症状は結核としか思えない。

 八千万円もあれば、十年前なら問題なく結核の治療を受けられた筈だ。けれども今、この国で価値があるのは『元』……今や基軸通貨の地位に君臨した貨幣である。どんなに大きな額面が載っていようと、もう、この通帳が示している金にはなんの価値もない。

 適切な治療を受けられない場合、結核の死亡率は約五割に達する。早苗は感染して日が浅いためどちらに転ぶか分からないが、今の栄養状態を思えば、助かるとは到底思えなかった。

 感染源である両親を恨むつもりはない。看病は自分がしたかったからやったものであり、今時結核で死ぬ日本人など珍しくもないのだから。

 けれどもこのままだらだらと生き続ければ、その間延々と結核菌を出し続ける。この辺りは早苗と同レベルの栄養・衛生状態の人が多く住んでいた。もしかすると地域流行エンデミックを引き起こしてしまうかも知れない。

 早急に、菌を絶たねばならない。

 それをするための、一番簡単な方法は……

「……まぁ、長生きしても、げほっ、げほっ、希望はないし。迷惑掛ける前に、おさらばしましょうか……げほっ」

 立ち上がり、近くに置いておいた縄を手に取る。部屋の中でやるのは気が引けた。臭いがあるし、近所の迷惑にはなりたくない。

 ひっそりと、何処かの森に行こう。土に還り、養分となって、大きな野イチゴ ― 正式名はナワシロイチゴだったか ― になり、みんなのお腹を少しでも満たせたら……ちょっと素敵だ。

「問題は、そこまで行けるか、あと今時の日本に野イチゴの群生地が残っているのかだけど……最期の最期だし、気合い入れていきましょ」

 早苗は明るく、楽しげに、家の外へと出る。

 最期ぐらい前向きにならなければ、本当に、辛い事ばかりになってしまうのだから。

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