レベッカ・ウィリアムズの悲劇

 カタカタと小物が揺れる音によって目を覚ました事は、その日レベッカ・ウィリアムズの身に起きた事では数少ない幸運だった。

 レベッカの暮らす町はアメリカ西海岸に近く、一月でもそこそこ暖かいが、夜間となれば流石に寒い。うっかり目覚めてしまったばかりに寒さを感じてしまい、レベッカは意識がどんどん覚醒していくのを自覚した。明日も学校があるから、ちゃんと寝ないといけないのに……

 仕方なく身を起こしてみれば、寝室でもある自分の部屋の中は真っ暗。部屋中に飾ってある人形達の姿も見えやしない。どうやら日もまだ上っていないようだ。手探りでベッド横の棚を探し、その上にある目覚まし時計を捕まえたが、生憎針は見えそうになかった。

 スマホがあれば画面で照らすなり、そもそも画面の時計を見るなり出来るのだが、残念な事にレベッカは自分のスマホを持っていない。両親が持つのを許してくれないのだ、十三歳である自分にはまだ早いという理由で。

 後はもう部屋の電気を付けるしかないが、しかし部屋の中を歩き回るにはあまりにも暗過ぎる。もう諦めて二度寝してしまおうとレベッカは思った。

 しないで済んだのは、小物が立てるカタカタという音が何時まで経っても収まらないからだった。

 何か、おかしい。

 違和感と不安を覚えたレベッカは、なんとなく外の様子を知りたくなった。長く伸びた栗色の髪を背中側へと回し、棚の中に入れたロザリオを手探りで取り出して首に掛けた後、ゆっくりとベッドから足を下す、記憶を頼りに部屋の中をゆっくり歩き、カーテンで閉じられた窓辺まで辿り着いた。カーテンの隙間から外の明かりが微かに入ってくる。室内より若干外の方が明るいのは、月とか街灯のお陰だろうか。

 レベッカはカーテンをそっと開けた。

 そうして目に入った景色は、しかしレベッカには理解出来ないものだった。

 本来、この家の前には広々とした道路と、庭を囲うように生えている木々と、お向かいさんの一軒家がある。なのに今、その全てが見付からない。暗いからではない。その存在が、跡形もなく消えているからだ。

 代わりにあるのは、暗闇の中でもハッキリ分かるぐらい濁った、川のように流れる大量の水だけだ。

「な、なに、あれ……?」

 想像すらしていなかった光景に、レベッカは震えながら後退り――――する寸前に、ドオンッ、ドオンッという音が聞こえてきた。それは身体に響くような重々しい音で、レベッカは驚きのあまり飛び跳ねてしまう。

 何が起きているのかさっぱり分からない。お向かいのマーティンさん一家のおうちは何処に行ってしまったのだろうか、お隣に住んでいる幼馴染のジョージはこの事に気付いているのか……色々と考え、思う事はあるが、どれも確かめる気なんてしない。

 それよりも今は何処かに逃げないと、きっと大変な事になると思った。

「パパ! ママ!」

 レベッカは両親を呼びながら、自室から跳び出した。両親の寝室はすぐ隣の部屋。例え真っ暗な中でも迷わず辿り着ける。扉を開けて両親が寝るベッドに跳び込むのに、一分と掛からない。

「う……ん、レベッカ……? どうしたんだ……?」

「パパ! 大変なの! お外を見て!」

「外……? ああ、分かったから、落ち着いて……」

 熟睡していたのだろうか。目覚めた父はのろのろと、ゆっくりとベッドから出る。その動きがもどかしくて、レベッカは今度は母親を起こすべく揺さぶった。母が唸りながら身を起こした頃、ようやく父は寝室のカーテンを開ける。

 外の景色を見た瞬間、父の眠気が一瞬で吹き飛んだ事が、レベッカには背中越しからでも理解出来た。

「……レベッカ、すぐに着替えなさい。可愛いのじゃなくて、ちゃんと動きやすいものにするんだ。マリア起きてくれ。洪水が起きてる」

「洪水? でも雨なんて」

「本当はなんなのかなんて分からないし、大した問題じゃない。とにかくたくさんの水が家の近くを流れている。逃げないと家ごと流されるかも知れない」

 父の強い言葉を受け、母もようやく動き出す。レベッカは自室に戻り、言われた通り可愛いのではなく動きやすい服装に着替えた。言われるまでもなくそうするつもりだった。大切なロザリオを首に掛け直し、ぎゅっと握り締めた。

「レベッカ、準備は良いか。外に出るよ」

 着替えが終わった頃、普段着に着替えた父が部屋にやってきた。レベッカはこくりと頷き、父親の手を握る。

 その時ふと父のズボンが膨らんでいる事が分かった。

 銃を持っているのだと察した。アメリカは銃社会で、治安が悪いところだと普通に銃を持ち歩くが、逆に治安の良いところでは早々持ち歩かない。この町は平和なもので、レベッカも家に銃があるのは知っていても、外に持っていくのは初めての事だった。思わず父と繋いだ手に力がこもる。

 父に連れられて向かった一階には、母が待っていた。母と合流したら一家揃って家の外に出る。

 家の前は、やはり大量の水が流れていた。何か独特の匂いが感じられ、しっかりと嗅いでみたところ、レベッカはそれが潮の香りだと気付く。あの水は海水なのか? 確かにこの町は海と近いが、家の前まで海水が来た事なんて初めての事だ。

 水の勢いは段々と衰えているようで、最初部屋から見た時よりは落ち着いているように見えた。しかしそれでもかなり激しい流れで、うっかり足を踏み入れれば、レベッカなんて簡単に流されてしまうだろう。今よりもっと強ければ……お向かいさんの家も押し流せてしまうかも知れない。

「あなた、これからどうしたら……」

「……とにかく学校に行こう。レベッカの通ってる学校だ。学校はこういう時避難所として使われるし、あの建物はこの辺りで一番高い位置にある。きっと此処より安全だ。車はもし水に飲まれた時危ないから歩いて行こう」

 戸惑う母に、父はやや早口に答える。レベッカは、それが言い訳する時の自分によく似ていると思った。父もまた不安なのだ。

 けれども父は決して取り乱している訳ではなかった。告げられた方針は、十三歳のレベッカにもとても正しいものに思える。母も父の傍に寄り添い、家族で学校に向けて歩き始めた。

 学校へと向かう道中で、ちらほらと人々の姿が見えるようになった。多くの人がスマホを使って情報を集めていたが、顔が強張っている。時折父が何があったか尋ねていたが、分からない、という答えばかりだった。時折ドオンッという音が聞こえて、人々は走り出した。レベッカ達も早歩きになったが、怪我をしないようしっかりと歩く事を重視した。

 やがてレベッカの通っている学校が見えてきて、同時にその校門の前に出来た行列も目に入った。行列の傍にはパトカーや消防車が並び、警察官が列を整理したり、喚いている人を宥めたりしている。

「すみません、何が起きているのでしょうか? 家の前が水浸しで、慌てて逃げてきたのですが状況が分からなくて」

 父は行列に並ぶ前に、近くの警察官に声を掛けた。

 警察官は帽子を被り直し、神妙な面持ちで答える。

「我々も正確には……ですが、どうやらデボラが出現したとの事です」

「デボラ? って、確か日本に現れた」

「ええ、巨大モンスターです」

 警察官の話に、父と母が呆気に取られたのがレベッカには分かった。

 レベッカもテレビで見た。日本に映画やゲームで出てくるようなモンスターが本当に現れた、と。学校の友達は放射能の影響だとかなんだとか言っていたが、本当の事かは分からない。そもそもテレビに出てきたデボラはどんな建物よりも大きくて、あんなにも大きな生き物が実在するとはとても思えず、レベッカはいまいちその存在を信じきれていなかった。

 そのモンスターがこの町に来たなんて。

「……レベッカ、大丈夫。今に軍隊がやっつけてくれるよ」

 無意識に手を強く握っていたらしい。不安な気持ちに気付いてくれた父が、にっこりと笑いながら励ますように声を掛けてくれた。

「ほんと? でも、日本の軍隊は負けたって、言ってたよ?」

「そうだね。でもアメリカ軍は日本軍より強いぞ。学校で習ったかな? 昔、アメリカと日本は戦争をしていたんだ。日本軍は色んな国を占領するぐらい強かったが、アメリカはそれを打ち破った。日本が負けたモンスター相手でも、アメリカ軍の敵じゃない」

 父の説明に、レベッカはこくりと頷く。納得したのではない。大丈夫だと思いたかったのだ。だから父の言葉を信じた。

「避難所は利用されますか? その場合記名が必要ですので、列に並んでお待ちください」

「分かりました、使いたいと思います。教えてくれてありがとうございます」

 デボラについて教えてくれた警察官にお礼を伝え、レベッカ達は行列の一員に加わった。

 行列はとても長く、受付に辿り着くまで何時間も掛かりそうだった。けれども大勢の人と一緒だと安心感があって、レベッカは気持ちが落ち着いた。

 心に余裕が出来ると、行列の様子を見ようと思えるようになった。

 殆どの人が行列が進むのを大人しく待っていて、家族と一緒の人達は家族と抱き合い、一人の人はスマホを使って情報を集めている様子だ。スマホを見ている人達の顔色があまり優れず、しかし行列から離れる事もしていない。あまり成果は上がっていない様子である。

 そんな観察をしていたところ、ふと頭上から轟音が聞こえてきた。顔を上げると、チカチカと光るものが見える。きっと戦闘機とか爆撃機とかの飛行機なのだろう。デボラ退治に向かっているのか。

 飛行機はあっという間に頭上を通り過ぎ、何処かに飛んでいく……と、ドオンッという音が何度か聞こえた。先程からずっと聞こえているこの音は、どうやらデボラを攻撃する際のものらしい。爆音が自分達を守ってくれる音だと分かると、途端に心強く感じられた。

 今にきっとモンスターを退治して、家に帰れる。レベッカは自分を励ますように力強く鼻息を鳴らし

【ギギギギギギギギギギギギイイイイイイ!】

 彼方より響く。終末のラッパがその鼻息を打ち消した。

 ――――よく考えてみれば、おかしい。

 さっきから爆音は何度も聞こえている。つまり軍隊は何度も攻撃している訳で、だからデボラは何度も攻撃されている訳で……何時までも戦いが続いているという事。

 どうして、戦いは終わらない? 何度も軍隊が攻撃しているのに。

 レベッカの不安に同意するように、行列を作っている人々も少しずつざわめき始める。警察官が宥めると一旦は大人しくなるが、すぐにまたざわめきが起こった。レベッカの父と母もそわそわし始め、母がスマホを取り出して情報を集め始める

 その最中の出来事だった。

 空から・・・降ってきた・・・・・何かが・・・みんなが・・・・目指していた・・・・・・学校に・・・突き・・刺さったのは・・・・・・

 その瞬間、まるで雷が落ちたかのような爆音が響いたが……赤子の泣き声以外、騒ぐ声は聞こえてこなかった。誰もが唖然としていて、ぼうっとしながら学校の方を見ている。父も母も見ていて、レベッカも誰に言われるでもなく学校の方を見つめる。

 ガラガラと崩れていく校舎の壁。中に避難していた人達は大丈夫なのか? 心配する気持ちは、しかし暗闇の中にあるそれに気付いた瞬間吹き飛ぶ。

 戦車だ。

 校舎に突き刺さっていたのは、戦車だった。つまり戦車が空を飛んできて、学校に突き刺さった? レベッカはクラスメートの男子ほど軍事兵器には詳しくない。けれども戦車がとても重い事は知っている。空を飛ぶなんてあり得ない。だけど現に戦車は空から落ち、学校に突き刺さっている。

 そして今、戦車が戦っている相手はデボラしかいない。

 レベッカは理解した。誰もが気付いた。

 自分達の国の軍隊は、デボラを全く止められていないのだ。

「ひ、ひいいいいいっ!?」

「いやあああああっ!?」

 悲鳴があちこちで上がり、行列が崩れる。警察官達が宥めようとしたが、もう人々は言う事を聞かない。

 中には警察のパトカーを奪おうとする人も居て、時折パンパンッと軽い音が鳴り響いた。

「パパ……ママ……!」

「あなた……」

「大丈夫。落ち着いて逃げよう。ほら、声は後ろから聞こえたから、あっちに逃げれば」

 レベッカは母と共に父にしがみつき、父は逃げる場所を指で指し示す

 その最中の事。

 父が指差した方角にある市街地が浮かんだ・・・・

 そうとしか言えない。並んでいた家々が一斉に、轟音と共にふわりと舞い上がったのだから。浮かび上がった家は解れるように崩れ、無数の板やコンクリートの塊へと分かれていく。それらは四方八方へと飛び散り……レベッカ達の方にも向かってきた。

 瓦礫達は決してレベッカ達を狙ったものではないのだろう。大半はレベッカ達とは関係ない方向に飛んでいっている。しかし空を埋め尽くすほどの量だ――――避けられない。

 きっと自分はここで死んでしまうのだとレベッカは思った。こんなたくさんの瓦礫から逃げきるのは無理だから。

 一人なら。

 だけどレベッカには両親が居た。そしてレベッカは父と母にとても愛されていた。

 両親二人が揃ってレベッカの身体に覆い被さるのに、迷いなんてなかった。

「パパ!? ママ!?」

「レベッカ、愛してる」

「大丈夫よ」

 二人の行動を止めようとして、だけど時間はあまりにも短い。

 全身を襲う衝撃と共に、レベッカは意識を手放してしまうのだった。

 ……………

 ………

 …

「う、う、ぅ……」

 途切れた意識が回復した時、レベッカは全身に痛みを覚えた。それと、ずっしりとのし掛かる重さも。

 痛みはまだ我慢出来る。しかし重さの方は如何ともし難い。重さが肺を圧迫し、息がし辛いのだ。

 四肢をバタバタと動かし、上に乗っているものを退かす。そこでレベッカは、ようやく自分が目を開けているのに辺りが真っ暗なのだと気付いた。どれだけ見渡しても、目を凝らしても、周りの様子は分からない。

 一体どうなったんだろう。パパとママは? 軍隊はモンスターをやっつけたの?

 疑問を抱いていると、不意に光が自分の目を刺激した。それは柔らかな青み掛かった明かりで、月明かりだとすぐに気付く。普段なら町の明かりに負けてろくに辺りを照らさないそれは、真っ暗闇の中では十分な光だ。

 だからこそ、全てを照らしてしまう。

 レベッカは理解する。自分の周りが、無数の瓦礫で覆われている事を。あちこちの瓦礫の下に、腕や足が見える事にも。どの方角を見ようとも、自分が暮らしていた町の姿なんて何処にもないのだと。

 そして自分のすぐ傍に、倒れている両親が居る事も。

「ぱ、パパ!? ママ!? ねぇ、起きて、起きてよ!」

 咄嗟に呼んでも、両親は起き上がるどころか返事もしてくれない。ついに我慢ならないとばかりに、レベッカは父の頭を掴んだ。

 その手にねっとりとした生温かな感触を覚えなければ、きっと力いっぱい頭を揺さぶっただろう。

「ひっ!? ひ、あ。ぁ」

 レベッカは尻餅を撞き、反射的に自らの手を見る。青み掛かった月明かりではよく見えないが、それは黒ずんだ液体のような気がした。

 レベッカとて中学生だ。これが何を意味するのか分からない歳ではない。どうしたら良いかを考え、助けを呼ぶべきだとの結論に至った。しかし周りには、自分が意識を失うまであった筈のパトカーや救急車の姿はない……いや、あるにはあったが、どれも瓦礫がぶつかったのか、車体が潰れているものばかり。それらを運転する警察官やレスキュー隊員の姿なんて、影も形もない。

 人に頼るのは無理そうだ。ならば何処かに公衆電話はないかと考え辺りを見渡せば、なんという幸運か。スマホが落ちているのを見付けた。両親からは使用禁止を言い渡されているが、そんなルールを守ってる場合ではない。

「電話、電話……え、これ、どうやって使うの……」

 なんとか電源を点けてみたが、ロックが掛かっている。解除方法が分からない。両親がやっていた事を真似してみても上手くいかず、もう諦めてやっぱり人か電話を探そうかと思い始めた

 その時だった。

【ギギギギギイィィィィ……】

 おぞましい鳴き声が響いたのは。

 ゾッとした。それがデボラの鳴き声なのは明らかで……何よりすぐ近く・・・・から聞こえてきたのだから。

「ど、何処、か、ら」

 聞こえてくるのか。その言葉をレベッカは、最後まで言いきる事は出来なかった。

 目の前で、壁が動いていた。

 壁はとても大きくて、高くて、故に今まで存在する事が分からなかった。しかし動き出した今、どうして今まで気付かなかったのかと自分を責めたくなる。

 地鳴りのような音を奏でるそいつは、なんとも緩慢に動いていた。けれどもあまりにもサイズが大きいがために、途方もない速さとなっている。装甲のような甲殻が、ガチャンガチャンと金属のような音色を奏でた。やがて『壁』は大きく仰け反り、身体の下にある足の何本かをレベッカに見せた。ちょっと前に母が作ってくれたパエリアのエビと、よく似た足だった。

 レベッカは確信する。

 自分の目の前――――ほんの百数十メートル先に居るこの『壁』こそが、デボラなのだと。

「あ、ぁ」

 レベッカは腰が抜け、その場にへたり込んでしまう。だけど不思議とそこまで恐怖は湧いてこない。

 きっともう、自分の心は諦めてしまったからだとレベッカは思った。

 死を覚悟したレベッカだったが、されどデボラが彼女に襲い掛かる事はなかった。むしろ三百メートル超えの身体を起こそうとして、直後にぐったりと横たわり、足を伸ばしたり……なんだか動きが鈍い。勿論巨体故にちょっと動くだけで瓦礫が飛び散り、地震のように大地が揺れたが、町を破壊し尽くしたほどのパワーは感じられなかった。

 もしかすると、このモンスターは弱っているのだろうか。いや、そうに違いない。軍隊が一生懸命攻撃していたのだ。平然としている筈がない。

 胸の中に希望が芽生えるレベッカ――――そんな彼女の前で、デボラは大きく背中を丸め始め

【ギ、ギィイイイイィィィィ……】

 断末魔としてはあまりに間の抜けた、のんびりとした鳴き声を上げた。

 それからデボラは、悠々と身体を起こす。デボラの姿などテレビでちょっと見ただけだったが、今の佇まいがとても元気の良いものだとレベッカは察する。やがて始まった歩みにも、何処かの足を労る気配すらなく、淡々と動くのみ。

 こいつは、このモンスターは、さっきまで寝ていたのだ。軍隊が滅茶苦茶に攻撃した、そのすぐ後に。

 デボラは軍隊の攻撃なんて、蚊が刺すほどにも感じなかったに違いない。でなければこんな場所で悠々と寝ている筈がないのだ。レベッカだったら、蚊が飛び回る草むらで昼寝なんて出来ないのだから。

 レベッカはその場から動けなかったが、デボラはレベッカなど見向きもしなかった。する訳がない。軍隊の攻撃すら気にも留めないのに、足下のミジンコをどうしてわざわざ踏み潰すのか。

 デボラはその身を反転させ終わると、何事もなかったかのように歩き出す。瓦礫の山を蹴散らして進む姿に、なんの目的意識も感じられない。

 レベッカは呆然と、デボラの後ろ姿を眺めるのみ。泣き叫ぶ事も、石を投げ付ける事もなく、呆けた顔で見つめるだけ。

 やがてデボラの姿は地平線へと消える。デボラが居なくなれば、もう、何も残っていない。

 そう、何も。

 建物も。人も。命も。

 そして悲しみさえも。

 レベッカの顔に涙が浮かぶ事は、なかった。

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