第5話 今日、興、狂②

 自ら望んでここへ来たのは、もしかすると初めてかもしれない。少しでも弱い自分を変えたい、少しでも母に誇れる人間になりたい、そう思って一歩を踏み出す先に選んだのは、学校だった。

「おはようございます! 耀宗様!」

「耀宗様、お加減はいかがでいらっしゃいますか……?」

 耀宗は相変わらずの面々を見て、なぜかホッとしている自分に驚く。

 学校は、中間休みを終えて午前中最後の授業に入るところだった。正門をくぐるところまではさすがに誰にも会わなかったが、教室棟に入るとどこからか嗅ぎ付けた生徒たちがわらわらと群がってきた。

「おはよう。大丈夫だよ」

 生徒の波が一瞬静まり返る。普段オール無視で通しているのにあいさつを返したものだから、面食らっているのだろうか。しかしすぐにまたいつもの活気を取り戻して、口々に自分がどれほど心配していたかを言い始めた。

 ──まったく、ここは市場か何かか。

 耀宗は飛んでくる無数の言葉を聞きながら、あいさつしたことを若干後悔し始めていた。なので、心の中だけで返事をすることにする。

「おはようございます! 耀宗様!」

 ──これはさっきも聞いた。

「お体のお具合がおよろしくないとお聞きして、お心配をしておりました!」

 ──気持ちはわかったが、「お」が多い。

「無理しちゃだめですよー」

 ──そのくらいのテンションだとありがたい。

「おはようございます! 耀宗様!」

 ──……他に言うことはないのか。

「具合が悪くなったら、いつでも言ってくださいね」

 ──ああ、ありがとう。

 少々疲れるが、こうして耳を傾けてみるのも悪くない。たとえ心からの言葉でなかったとしても、面倒くさがらず健気に声を掛けてくるので、自分が輪の中心にいる安心感が持てた。今や、ちやほやされることが嬉しい、と思えるほどに。相変わらず誰が何という名前かはわからなかったが。



 いつもとは、全くの逆だった。

 授業中は孤独に押しつぶされそうになり、大勢に囲まれる昼休みは、なぜだか落ち着いた。

 今日が特別というわけではない。みんな、初めからずっと同じだった。

 全員の全ての言葉に相槌を打つのは難しいが、話す方も相手が聞いているのと聞いていないのとでは気分も違うだろう。いつもは一方的に話してくる生徒も、今は耀宗の反応を伺って言葉を選んだり別の誰かに話を振ったりしている。

 興味のない話に相槌を打つのは正直面倒だと思ったが、気分が悪くなるわけではない。耀宗は、ひねくれていた自分の態度を恥ずかしいとさえ思うようになっていた。

 そうやって昼休みを過ごすうち、耀宗はあることに気がつく。

 いつか耀宗を陥れようとした、あの生徒。取り巻きの生徒の中に、その顔を見つけることはできなかった。

「ねえ……」

 取り巻きたちにその生徒の所在を訊ねようとしたが、名前が思い出せない。どこかで聞いた気はするが、それがどこかもわからない。金庫の鍵紛失事件のことを話題に出せば誰かがそれに関わった生徒の名を挙げそうだが、せっかく気分が良くなっていた耀宗は、あの忌々しい出来事の記憶を今更掘り起こしたくなかった。

「……ごめん、なんでもない」

 耀宗は、静かに言葉を待っていた取り巻きたちに笑いかけた。



 下校時にも、多くの生徒が耀宗の周りにいた。違うクラスの生徒も混じっているが、逃げ出したり追い払ったりということはしなかった。そんな取り巻きたちも、近所に住む生徒や兄弟、迎えに来た従者などを見つけて各方面に散らばって行く。

 一方で耀宗は、校門を出るのをためらっていた。校門のすぐ横に、厳しい顔をした護衛の姿を見つけたからだ。向こうも耀宗に気づくと、早足で近づいてくる。

「耀宗様、お迎えにあがりました」

 いつかどこかで聞いたことのある台詞だ、と思った。西地区の公園に迎えに来た父親の側近とは違う声だが、耀宗はその時のことを思い出し、一気に現実に引き戻される。軟口蓋を下から押し上げられるような感覚を覚え、息苦しくなった。

 護衛たちは迎えに来たわけではない。耀宗が学校に来た時からずっと、校門で待っていたのだ。

 特に会話もなく、耀宗は左右を護衛に挟まれて家路へと進んだ。

 永遠に家に着かないのではないかというほどに長い時間歩き、走ったわけでもないのに、家に着くころには息が上がっていた。

「耀宗様……! またご無理を……」

 朝一緒だった使用人が靴も履かずに玄関を飛び出してくる。耀宗は眉をハの字にして駆け寄ってくる使用人を鬱陶しそうに避け、家の中へ入った。

 外から、護衛と使用人の話し声が聞こえてくる。どうせ、なぜ学校にいかせたのかとかなんとか言っているのだろう。

 陰口を叩かれているような不快さを生唾と一緒に飲み込み、耀宗はその場を離れた。

 まだ芳哉も、文華あやか政迪まさみちも帰っていないようだ。誰もいない居間を覗き、肩の力を抜きながら自分の部屋へ向かった。

 ──母さんに謝ろう。いつも迷惑ばかりかけてごめんなさい、と。

 ──そして言おう、今日の学校は楽しかった、と。

 いずれ使用人や護衛たちに対しても、父に対しても、心持ち穏やかに接することができるようになるのだろうか。禮一郎の顔を思い出してやや身体が強張ったが、今日の一歩は自分の中で大きな一歩だったと、耀宗は小さくこぶしを握りしめた。



 ベッドの木枠にもたれかかってうとうとしていた耀宗を現実に引き戻したのは、突然上から降って来た文華だった。

「……何やってるんだ」

「えへへ」

 どうやら文華は、ベッドの木枠を伝って天井部分によじ登り、バランスを崩して耀宗の上に落下してしまったらしい。大した高さではないものの、その衝撃たるや。

「えへへじゃない。はやくどいてくれ……」

 耀宗の上に馬乗りになった文華は、軽やかに畳に転がりながら言う。

「えへへー。お兄ちゃん、ご飯だってー」

 それならそうと、普通に起こしてほしいものだ。

 この文華という妹は、貴族の令嬢らしからぬはちゃめちゃな性格で有名だった。少なくとも耀宗の中では。

 きちんとしなければならない場所ではそれなりに大人しくしているし、礼儀や礼節を知らない子でもなかったので、学校や家の中以外では明るい性格ということで通っている。

「一応言うけど、ベッドに登っちゃダメだぞ。危ないから」

「はあい」

 文華は兄の顔を見ずに、空返事をした。

「……あの様子だと、絶対またやるな」

 耀宗は後頭部や胸のあたりをさすりながら、ゆっくりと起き上がった。文華の姿は、いつの間にか消えている。

「文華様! 廊下を走っては危のうございます!」

 廊下から使用人が叫ぶ声が聞こえてくるので、文華はおそらく、長い廊下を気持ちよく駆け抜けて行ったに違いない。

「ん……」

 部屋を出たところで、耀宗は一瞬視界がぼやけるような感覚に見舞われた。まあ、このところ続いた体の不調の所為か、それとも先ほどの文華落下事件の副産物か、その辺りだろう。すぐに治ったので、気の所為と思うことにした。

 文華から遅れること数分。食堂へ足を踏み入れると、食卓には文華の他に政迪の姿しかなかった。

「あれ、母さんは?」

「母様も父様もまだお帰りではないので、先に──」

「たえてねへろっへ!」

 政迪の言葉は、口いっぱいに飯を頬張った文華に遮られた。

「あやちゃん……きたないよ」

「むほっ」

 姉の口から飛び散った飯粒を、政迪は丁寧に拾い集める。全く、この二人は生まれる順番を間違えたのでは……と、耀宗が日々思う光景が、今日も目の前で繰り広げられていた。

 禮一郎の帰りが遅いことはよくある。だが、夕飯の席に芳哉の姿がないことはめずらしかった。確か会合に出掛けたと言っていたが、それにしては帰りが遅い。今日は特に大きな行事もなかったはずなので、夕飯前には戻って来るものと思っていたのだが。

 会合とは、貴族の夫人達が情報交換や世間話などを目的に、定期的に開いている交流会のことである。俗に言う「ママ友会」とは少し事情が異なり、上流階級の奥様方にとっては重要な社交の場だった。耀宗達兄弟も何度かその場に行ったことがあるが、重要な会という割にお茶を飲んで喋っているだけで、子供にとってはとてもつまらない場所だった記憶がある。ましてや、社交辞令が苦手な耀宗にとっては、トラウマ級の記憶だった。

 人に気を遣ったり遣われたりする場では(耀宗の場合より顕著だが)、多少のストレスは付きまとう。芳哉も、少なからず感じていることだろう。

 これ以上自分のことで母に心配をかけるわけにはいかない。いずれは母の顔を立てるために、ああいった社交の場へ赴く努力もしなければ……。そう前向きな決意を新たにする耀宗の耳に、盛大な政迪の溜息が聞こえて来る。

 ストレスなどこれっぽっちも感じていなそうな妹は、溜息をつく政迪の隣で、ずぞぞぞと盛大に汁物をすすっているところだった。

「文華、音を立てないようにすすってくれないかな」

 言いながら、耀宗は文華の向かい側に腰を下ろす。

「むほ?」

 文華は、椀に口をつけたまま目線をあげた。政迪も困ったような視線を兄に向ける。

「兄さん……ちょっとそれは無理なんじゃ……」

「むほう」

「じゃあ」

 耀宗は自分のお膳から木のスプーンを手に取って、文華に渡す。

「せめてこれ使って」

「むほ!」

 もはや口に食べ物が入っていないのに、相槌が「むほ」になっている文華。そしてそんな姉の世話に忙しい政迪。母のいない寂しい食卓だが、そんな妹弟達を見ていると耀宗は少しだけ、気が紛れるような気がした。

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