第2話 常、日常①

「いってきまーす!」

「あら文華あやか、靴が左右で違いますよ」

 ここは【空傘からかさ】、高級住宅街。貴族街や豪邸街と呼称する者もいる。城にも程近いこの場所に貴族たちは広大な敷地を構え、何ひとつ不自由することなく暮らしてきた。

 その貴族街の一角に居を構える、鷹司たかつかさ家。一族は代々その名を冠してきた由緒正しき高位の貴族である。

「その靴! 片方は僕のです!」

 だが今は。

 由緒正しい感はあまりない。

「えーじゃあ、みっちーもあたしのくつ半分はいていいよー」

「そういう問題じゃないです!」

 靴のことで揉めているのは、この家の子供たちだ。

「けんかしないの、二人とも。文華、ちゃんと自分の靴を履きなさい」

 母親らしき女性が、子供たちのそばに腰をおろして優しく声をかける。

「奥様、お見送りは私たちが」

「いいのよ、子供たちの見送りくらいさせてちょうだい」

 使用人が慌てた様子で寄ってきたが、母親は未だ靴の取り合いをしている子供たちに温かい眼差しを向けている。

「いってきます、母さん」

 玄関の端、靴喧嘩に生温かい視線を送る子供がもう一人。

耀宗あきのり……できればこの子たちの面倒を見てほしいのだけど」

 生温かい視線はそのままに、耀宗は母の言葉に困ったような表情を浮かべる。朝から壮絶な靴合戦を繰り広げている妹弟きょうだいには、使用人たちも手を焼いていた。

 二人とももう初等部も高学年なのだから、もう少し分別をわきまえてほしいとは思う。だが、わざわざ巻き込まれに行きたいとは思わなかった。それでも母のため、兄としての立場を全うすべく一歩踏み出そうとした、その時。

「その必要はない」

 耀宗を制したのは、この屋敷の主人、禮一郎れいいちろうだった。父の声に、三人の子供たちもその場にいた使用人も一様に凍りつく。

「文華、政迪まさみち

 ただ名を呼んだだけにもかかわらず、その重々しい響きに、先ほどまでにぎやかに騒いでいた二人は声も出せず、ただ俯くことしかできなかった。

「禮一郎様……」

芳哉かや。子供の見送り、出迎えは召使いの仕事だ」

 その口調は癇癪や怒りによる激しいものではない。至極当然といった重みを含む圧倒的な威圧感があり、それが場の空気を支配していた。

「耀宗。お前も茶番に付き合うことはない」

「申し訳ありません、禮一郎様。私の注意が行き届かずにお心を煩わせてしまいましたこと、真に申し訳ございません」

 反論しようと口を開きかけた耀宗の前に、芳哉が進み出る。続いて使用人たちも頭を下げた。

 耀宗が反論しようとしたのは事実だが、あの後に実際言葉が続いたかはわからない。父親の威圧感と重苦しい空気に圧倒されて、耀宗は少し震えていた。

 嵐が去った、というよりは葬式が終わった、といったところだろうか。数人の部下と使用人を伴い、正門へ向かった禮一郎の姿が見えなくなると、凍り付いていた空気はやっと動き出した。それでも先ほどのような活気は戻らない。

 このような空気とは縁がなさそうな文華も、さすがに口を閉ざしたままだ。靴戦争を終えた二人の子供は何も喋らず静かに家を出ていった。耀宗も後に続こうとしたが、玄関先で寂しい顔をしている母を振り返る。

「ほら、はやく行きなさい。遅刻しますよ」

 いつもなら門の外まで見送りに来る母も、今日は玄関を出ようとしない。耀宗は、あの人の言うことを気にすることはない。世間体や貴族の体裁ばかり守ろうとして、家族を大事にできないかわいそうな人なんだから……と日頃から父に対して溜めている気持ちを言おうとしたが、それよりも早く芳哉が口を開いた。

「あなたが気にすることではないのよ。あのような態度でも、父様なりに家族を想って言った言葉なんですから」

 芳哉は耀宗が言いたいことをわかっているようだった。

「いつかきっと歩み寄れるわ。親子なんですもの」

 息子の気分を少しでも晴らせるようにと、芳哉は穏やかに笑ってみせた。しかしその笑顔は、耀宗の心に刺すような痛みを伴って映る。開きかけた口を固く結んで、耀宗は門へ向かう。

 門といっても、重厚な作りの正門が開くことは滅多にない。正門は左右に扉が開く開き門で、特別な行事の時や、特別な客が来るという時などに開かれる。外には二十四時間体制で門番が立っているが、正門が開かない普段、門番が番をしているのはむしろ通用口の方だった。耀宗たちは学校の行き帰りに、主にそちらを使っていた。

 通用口をくぐりながら、隣家の二階部分が耀宗の目に入る。

「氷瀧さん、今日も朝の光が心地よいですよ」

「お母さん、学校行ってくるね。あやちゃん来たみたい」

「あら、今日は早いのね。気をつけていってらっしゃい」

「はーい。お兄ちゃん、いってきます!」

月湖つきこ、ちゃんとお父さんにも言っていくのよ」

「わかってるー!」

 ちょうど部屋の窓を開けているところで、耀宗の耳に和気藹々とした話し声が届く。

 小道を挟んで向かいにある宮嶋みやじま家は鷹司家と同格の貴族で、長女の月湖つきこが文華と同学年であることもあり、鷹司家との親交も深かった。長男の氷瀧ひたきは耀宗の一つ年下で、幼少期は互いの家を行き来し、いつも一緒にいたものだ。

 ところが以前に不幸な出来事が起こり、氷瀧は口をきけなくなってしまった。氷瀧の将来を危ぶむ声や、一族の未来を心配する声も多く上がったものの、宮嶋家には今でも変わらず温かい空気が流れている。まるで、突然の不幸などなかったかのように。

 由緒正しき名家も、格式高い貴族も、そこには感じられない。耀宗はそんな宮嶋家が羨ましかった。

 耀宗も、母や妹弟たちと一緒にいるときは、貴族としての格式を忘れられた。それもすべて等しく愛情を注いでくれる母のおかげである。いつも子供と同じ目線で物事を考え、父に厳しいことを言われても一番に庇ってくれる。自分が厳しい立場になることもお構いなしに、常に耀宗たちの味方でいてくれる。


 耀宗はそんな母が好きで、あんな父が嫌いだった。

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