第09話 母

「おとうさ~ん!おとうさ~ん!」


 今いま、桃子と一緒に祭りに出掛けようとしている時に、母の大きな声が自室から聞こえてきた。


「桃ちゃん、また、おばあちゃん、なんかあったみたいだからちょっと待っててね」


「ええええ~ ももこ、すぐに、おまつりいきたいのに~」


「うん。ごめんね。きっと、また、いつものやつだから、そんなに時間掛からないよ」


「う~ん… わかった。でも、ちょっとだけだよ。すぐにきてね!」


「わかったよ。ほら、お母さんがスイカ切ってくれてたでしょ。あれ食べながら待ってて」


 桃子は、履き掛けていた片方の靴を脱いで、ドスドスドスと大げさに音を立てながら居間に向かって歩いて行った。



「母さん、どうしたん?」と母の自室の襖を開けて俺は落ち着いた口調で言った。


「ないのよ~」


「ん?ないって、何が?」


「私、確かに、この箪笥の奥にしまっておいたの」


「だから、何をしまっておいたの?」俺は、わかっていながらわからないふりをして心配そうに尋ねた。


「だから、お金よ!2万円を封筒に入れてしまっておいたのにないのよ!」


「母さん、また、いつもの思い違いなんじゃない?」


「そんなわけないって!桃子にお祭りのお小遣いをあげようと思って、一昨日、ここにしまっておいたのよ!」


「桃子はまだ5歳なのに2万円はいくらなんでも多すぎるよ」


「そんなことはいいの!それより…もしかして、お父さん、私がしまってた2万円、取ったんじゃないの?」


「またあ、そんなこと言う。俺がそんなことするわけないでしょ。ね、いつもの茶色い封筒に入れておいたの?」


「そうなのよ!もう、お父さん、警察に電話して!これはもう泥棒の仕業だわ」


 こういう騒ぎは、もう、何十回目になるだろう。

 痴呆の症状とすれば、ある意味、王道の“お金がない・盗まれた”騒ぎだ。

 お父さんと呼ばれる俺はその都度、お袋に疑われた。痴呆の症状に慣れていなかった頃は、俺もカンカンになってお袋に怒ったものだ。しかし、どんなに酷く怒ろうとも、逆に「息子(もしくは旦那)を疑うのか…」と悲しみの表情を演出しようとも、お袋にはまったく効き目がないことを悟ってからは、俺は冷静に、そして、なるべく温かみをもって相手にするようにしてきた。


「母さん、ほら、こんなところにあったよ」


 俺は、事前に用意していた茶色い封筒にお袋に分からないように2万円を入れて、さぞ、茶箪笥から見つけたように出してそう言った。


「あら、どこにあったの?」


「んと、この茶箪笥の2番目の引き出しのお菓子の缶々の中だよ」


「あらあ、おかしいわ。私さっきそこを見たはずなのに」と、お袋は言いながら俺から手渡された封筒の中から1万円札を2枚取り出した。


「あんまり慌てて探していたから見つけられなかったんだよ、きっと」


「う~ん…そうなのかしら」


「そうそう、そんなに考え込まなくていいんだよ。ね?俺が取ったわけでも、泥棒が入ったわけでもないでしょ。母さんだって、あんまり大事にしずぎて、しまった場所を忘れることだってあるよ」


 俺は、通算何十回目かの同じセリフを温かい雰囲気を醸し出しながら言った。


「うん…悪かったわね、お父さんを疑ったりして」しょぼくれた感じにお袋はそう言った。


「いいんだよ、母さん。俺ら家族だろ?困ったときはお互い様だよ。ほら、今度は、そのお金、どこにしまっておくの?俺もちゃんと知っておいた方がいいと思うよ。ほら、おんなじことが起こったときにすぐに教えてあげられるだろ?」と俺は言った。


「ううん、大丈夫。今度はちゃんとしまっておいて忘れないようにするから」お袋はそう言って俺に背中を向けた。これもいつものことだ。結局、誰のことも信じてはいないのだ。


「わかったよ。ん?でもさ、そのお金、桃子にお小遣いであげるんだろ?俺の方から渡してあげるよ」意地悪くもそう俺が言うと、「ううん、ちょっと、桃子には多すぎるわね。今度の時にするわ」と俺に背中を向けたままお袋はそう言った。


 潮時だ。これ以上しつこくしてもいけない。


「うん、わかった。じゃあ、ちゃんとしまっておいてね。俺、桃子とお祭りに行ってくるから」


 俺はそう言うと、お袋の背中を見つめながら部屋の襖を静かに閉めた。


 さっきの2万円は、申し訳ないけれど、家のプリンターでカラーコピーをした偽札だ。しかし、誰が見てもコピーをした偽札だとわかるレベルのものだ。以前、試しにこの方法でやってみたら見事にお袋の腑に落ちてくれて、それ以来、この方法で誰をも傷つけることなく事を治めてきた。外出してお金を使うことがないお袋ではあるが、万が一のために、自宅周辺のお金を使いそうなお店には事情を話してある。また、そんな不測の事態の時は、偽札を指摘せずに買い物をさせて、後で、俺に申告してほしい旨も伝えている。


 物を言わない襖に、俺は片方の耳をくっつけてみた。

 すると、ガサゴソと音がする。

 新たな隠し場所を模索中なのだ。

 これまでにお袋に渡した何十通という偽札が入った封筒は、今、どこにあるのだろう。



「桃子~!お待たせ!お祭りに行くよ~」


 まあ、いい。道義的に正しいとか間違っているとかじゃないのだ。

 けっして治ることがなく、悪くなるしかない病気なのだから、お袋自身も、そして、家族みんなもなるべく傷つかないように穏やかに過ごせる方法こそが、正しい選択なのだ。

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