第8話 最果ての海

 口実とはいえ一応は探すつもりでいたエスタの姿は、やはり繁華街の人込みに紛れて見えなくなっていた。

 しかし、カイルはそれどころではなかった。歩き始めてすぐに、ルキウスが口元を押さえて道の端に蹲ってしまったのである。

「――ルキウス!」

 カイルは慌ててルキウスの傍に屈み、声をかける。

 どうしよう、まだ起きて出歩いたりしてはいけなかったんだ! せっかく仮死薬の症状から覚めて少し歩けるくらいになっていたのに、また自分のせいで負担をかけてしまった!

 仮死薬から覚めないルキウスを見るエスタの視線から、彼の体が普通じゃないらしいことは何となく察していたのに……!


 早くホテルに戻らないと! 焦りながら、必死にルキウスを揺り起こそうとするカイルの手は強く振り払われた。荒い息遣いの中に、か細い声が交じる。

「ゆ、ゆらすな……。きもちわるい、くさい……」

「え?」

 返事があることも予想外だったが、その内容の意味がカイルにはわからず、思わず聞き返してしまった。しかし、もうルキウスからは返事がない。ただ苦しそうに息をしているだけだ。


「おーおー、どうしたおふたりさん。酔っちまったのか? え?」


 通りがかりの男が2人に声をかける。さぞかし楽しい思いをしてきたのだろう、上機嫌な様子で近寄ってきた男の呼気から濃縮されたようなアルコール臭がして、視界が滲みそうになったところで、ようやくカイルはルキウスの言った意味がわかったような気がした。心配そうに2人を見る男に軽い礼を言ってから、カイルはすっかり力の抜けているルキウスの体を担いで、そこら中から漂う酒気から逃げようと人気のない路地に移動する。

 更に大通りから離れようとするカイルだったが、脱力しきった体というのは予想外に重いもので、路地に入ってから数歩のところで力尽きてしまった。折り重なるように倒れてきたルキウスの体の下から抜け出そうとするが、重さが尋常ではない。必死にもがくカイルは、1つの影が自分たちの前で立ち止まっていることに気が付いた。

「…………っ!」

 背筋が凍るような思いがした。

 街を歩いているだけの酔っ払いならまだいい、いや、最悪自分たちに目をつけて金を強奪しようとしている暴漢であっても構わない。それならばその場限りで済ませることができる。しかし、今は2人を追う理由のあるものがいる。

 エデンから放たれたかも知れない、追っ手。

 まさか、もう見つかったのか!? 焦るカイルに、無言で迫る足音。通り過ぎてくれと願うカイルの願いも虚しく、足音の主はカイルの目の前で屈み込み――


「あら~! 2人ともお熱いのね~、ん? どうしたの?」


 カイルの顔を覗き込んだのは、大柄なスキンヘッドの男だった。右手には食料品が入ったと思しきビニール袋を提げて、目を丸くしている。

「あぁ、この坊や酔っ払っちゃってるの? お嬢ちゃんも大変ねぇ」

「おじょ……?」

「冗談よ。坊やたちどうしたの、こんな時間に? ここら辺は子どもにはあぶない場所だけど」

 冗談めかして笑う男。しかし身動きの取れない状況で男と相対しているカイルは動揺し、大げさに体を震わせてしまう。その姿を見て、男は「あら」と呟く。

「何か相当驚かせちゃったみたいね……。ちょっとアタシの店で休んでいきなさいな。すぐそこだから」

 よいしょ、と事も無げにルキウスを小脇に抱えた男が指し示したのは、カイルが倒れている路地に構えられた唯一のバー『ラパン・エキャルラット』。相変わらず動けずにいるカイルに、「大丈夫よ、うちは家族連れのお客様でも平気な店になってるから!」と優しげな口調で言いながら店のドアを開けて中に入っていく。

 店主らしき男の思惑は外れ、カイルの中で彼の胡散臭さは全く解消されていない。しかしルキウスを連れて行かれた以上、カイルは覚悟を決めて、恐る恐る店の中に入って行った。

 入った店の中は薄暗く、とても家族連れ向けだとは思えなかったが、そこは確かに、行き交う観光客の狂騒に満ちた大通りからは隔絶された場所だった。シーリングファンが静かに回り、店内では数人の客が静かに何事かを話していた。

 そのうち入り口から遠いボックス席に座る2人の間にアタッシェケースが見えたが、その辺りは気にしないように努めた。ルキウスはカイルが店に入った直後にトイレらしき所へ連れて行かれたので、店主に勧められたカウンター席にはカイル1人だけが取り残される。席に着いてすぐにウェイターの青年が置いていったメニューから適当に注文した後、手持ち無沙汰になって辺りを見回す。

 カウンター席には自分1人。他の席も入ったときより空いていき、目に付いたのは、窓際の席で談笑している頑強な体つきをした3人の男たちだけだった。

 静かな店内である、外でだいぶ酒を飲んできたと思しき彼らの大声はよく響いた。どうやら彼らは、カイルがデゼールロジエに着いたばかりのときに見かけた、井戸掘りのうち3人であるようだ。涸れた泉の底に水源を探すのをやめて、新しい所を掘らないかと年若い男が言い出したらしい。代わりにどこを掘るかという話題は、いつしか彼らの酒の肴になっているようだった。


「じゃあよぉ、あのロディエの野郎の床下掘ってやろうぜ? 土台崩してやらぁあの野郎……!」

「あんたが金借りてんだろうが、やめとけって。バレたら俺らまで巻き添えだ」

「あぁ!? バレるかどうかなんて、やってみなきゃわからんだろうが!」

「こいつ、あそこのメイドに熱上げてんだぜ?」

「い、言うなよクラテールの旦那!」

「あー、ありゃやめとけギァリック。あれは相当くわえ込んでるから。それに何より、ロディエの『いい人』だって話だしよ」

「そ、そんなのただの噂だろうよ……!」


 そのまま話題はギァリックと呼ばれた若者の恋路に及び、彼の反応を周りの2人が面白がるといった会話がしばらく続いた。

 ――ルキウス、まだ戻らないのかな。

 運ばれてきた料理を食べながら、店主とルキウスが行った方角を気にしているカイルに気を利かせて、ウェイターの1人が奥の部屋に入って行った。戻ってきた彼が言うことには、ようやくルキウスの嘔吐感が落ち着きを見せているのだという。

「よっぽどの量を飲んだのでしょうね」

 苦笑交じりに言う彼にルキウスは1滴も酒を飲んでいないと言ったらどんな反応をするだろう、とカイルは思った。

 優しげな物腰のウェイターは例の3人組に呼ばれていったため、カイルはまた1人になる。サービスと言ってウェイターが置いて行った果実酒を口に含む。酒の味わいを感じるには経験に乏しいカイルだったが、そんな彼に合わせてか、しつこくない程度の甘い味付けで飲み易かった。

 今まで、酒を飲む――飲まされるときは、いつも度数の強いものを、それこそ意識や判断力が朦朧とするまで飲まされていた。それは、その後に待ち受ける忌まわしい行為の「準備」でしかなく……。しかい、過去の記憶に不意を突かれて全身に走った悪寒も、果実酒の優しい甘さに洗い流されるように感じた。

 ふと、奥の扉がそっと開いた。

「カイル……」

 妙に弱々しく自分を呼ぶ声にカイルが目を向けると、ルキウスは大柄な店主に付き添われながらカイルのもとへ戻ってきた。苦々しい表情で傍らの店主を見上げながら歩いている。

 店主は困惑したような、呆れたような表情で何事かを説明している。「だから~、これは腕のいい薬剤師から調合方法を教わった、ちゃんとした気付け薬なのよ? 安心してちょうだいよ~」という声には、きっと何度も繰り返してきたのだろう、疲労の色が濃く出ている。

 カイルの姿を見かけるや、店主は大きな体を丸めてカイルの脚にしがみついて哀願する。

「ちょっと、坊やからも言ってくれない? ホントに安全な薬なのに毒なんて言われちゃったらうちのイメージに響くのよ~」

「いやカイル、あの苦さは毒だ。騙されるな」

「…………」

 実際ルキウスは普通に話せるまでに快復しているのだから、恐らくルキウスが飲んだのは本当に気付け薬なのだろう。毒呼ばわりは完全に言いがかりだ。しかし、カイルは薬に関する知識がない。誰か薬に詳しい人が近くにいれば……と思ったところで、あることを思い出した。

「ルキウス、エスタさんは!?」

「……あ」

 2人が外に出ていることを、エスタは知らない。もし先にホテルに戻っていたら、いらぬ心配をかけかねない。早く戻らなければ。カイルは困った顔をしている店主に気付け薬の礼を言ってから、知人とこの街を訪れていて、自分たち2人は繁華街に出かけて行った知人を探しに出て来ているところなのだと事情を説明した。すると、ふーん、と頷いてから、店主はカイルの顔を覗き込んだ。

「もしかして、坊やが言ってるエスタって、エスタ=グラディウスのこと?」

「え、はい……」

 暫しの沈黙に、カイルの背筋を冷や汗が伝う。まさか、エスタの予想に反して、既にエデンから手配書が近隣地域に届いているのではないか。

 脱走者の手配書を回していても不思議ではない。だとしたら自分の行為は考えなしに過ぎた……! その不安はルキウスにも伝わったのだろう、まとう雰囲気が鋭いものに変わる。

「――――!」

 ルキウスに力を使わせるわけにはいかない、反射的にそう思ったカイルが次の行動を思案し始めたとき、店主は急に破顔して、カイルの柔らかな髪を撫で始めた。


「へぇ~! 坊や、師匠せんせいと旅してるの!? え、じゃあ何? 将来薬剤師志望? 何よ、早く言ってくれればあんたにも気付け薬の作り方教えてあげたのに~! じゃあ待ってて、師匠せんせいに連絡してみるから」

 話に付いていけずにいるカイルを尻目に、店主は明らかに浮かれた様子でエプロンの胸ポケットから携帯用の通信端末を取り出し、電話を始めた。

「もしもし師匠せんせい? お久しぶり~! アタシですよ、リシャールです~。そうそう、うんうんうん、はい。こっちは全然大丈夫よ! ほんと師匠せんせいのおかげ! あ、いえいえそうじゃなくて、今師匠のお連れさんだっていう坊やたちがうちに来ててね? ……あら、切れちゃった」


 リシャールという名前らしい店主は、「すぐ来るみたいよ?」とカイルたちに微笑んだ。

「あんた、エスタのおっさんと知り合いなのか?」

 訝しげに問うルキウスに、リシャールは「あら聞いてないの?」と問いを返し、自分が2人にとって弟子にあたることを、熱を込めて長々と説明し始めた。律儀に相槌を打つ一方で、カイルの意識は先程の3人組の噂話に移っていた。話術に長けているリシャールの話は退屈ではなかったが、3人組の会話の内容が、気になるものに変わっていた。

 彼らの話は二転三転し、借金のことでぼやいていた中年の男がどこかに移住したいと言ったのを皮切りに、住みよい場所はどこかという話が弾んでいるようだった。

「やっぱり東の果てにあるとか言う黄金の国か? 金に困らなさそうだしよ」

「あんたはいつも金ばっかりだな~。たまにはもっとこう、幸せっての? それこそエデンとか」

「幸せ、ねぇ……。それならエデンよりいい場所があるらしいぞ? 何でも、永遠の幸せが約束された場所って話だぜ? つっても、ガキの時分に近所の婆様から聞いた話だがな」

「旦那がガキの頃? 何か想像できねぇな」

 話の腰を折るギァリックを肘で小突く借金男。クラテールは話を続ける。

「いいか、これは本当かどうかはわからねぇ。俺が聞いたときにはもう伝説だとか言われてたからな。だがあれば……」

「勿体つけるなよ、クラテールの旦那! どんな所なんだよそこは!?」

「わかったわかった、そう急かすなよ。どうやらそこってのは、この世の果てにあるらしいんだ」

「この世の果てぇ!? 何だよ何だよ、それほんとにあんのかぁ?」

 何やら金策でも考えていたのだろう、真剣な顔をしてクラテールの話を聞いていた借金男が笑い交じりに問う。「だから伝説だって言ったろうが」と苦笑交じりに言うクラテールにしばらく食い下がっていたギァリックだったが、やがて話がどこまで行っても不確かなのを聞いて、落胆したように両手を広げていた。

「それじゃあ、ほんとに伝説でしかねぇ場所みたいだな~」

「だから最初からそう言ってたろうよ。まぁ、結局この街が1番ってことよ。世界中回った俺が言うんだから間違いねぇ」

 朗らかに笑うクラテールのその言葉で「この世の果て」の話は終わったようで、その後3人組の会話はこの後どこの店を回るかという話に変わった。何でも借金男が気に入って色々な物を貢いでいる娘のいる店に行くとかなんとか。

 その後やけに慌てたエスタが店にやってきて、「おい、お前ら何もされてないか!?」と言ってリシャールから「失礼ね~」と笑われるという一幕を挟んで店を出ることになった。出歩くとは無用心な……とカイルとルキウスを少し叱るエスタだったが、出歩くのが危険な自分たちを置いて飲み屋に行ってしまった彼には言われたくないと思うカイルであった。

 宿に戻って、ベッドの中。

 カイルは1人眠れずに部屋の天井を見つめていた。

 色々なことがあったからかも知れない。ルキウスとの出会い、中央収容所からの脱走、そしてエデンからの脱出。理想郷とも言われる――自身も収容所に入れられるまではそう思っていた――エデンを、逃げるように出ることになるとは、思っていなかった。

 隣で静かに眠るルキウスを見やる。

 彼に連れられて、僕はここまで来ることができた。でも、どこに行けばいいのだろう? そう思ったカイルは、先ほど聞いた話を思い出していた。


 この世の果てにある、永遠の幸せが約束された場所。


 そこならば、誰もが幸せになれるのだろうか。エデンですら無縁ではいられない、自分が感じた――そしてルキウスの話から推測されるような――理不尽からも解放されて、今度こそ幸せになれるのだろうか?


 ……《最果ての海》。

「――――っ!?」


 カイルは困惑する。

 そんな呼び名を、彼らは使っていなかった。それなのに、どうして自分はその名前を使えたのだろう。それも、随分前から知っていたように感じた。ずっと前に、どこかで聞いたような。

 それがいつ、どこでのことだったのか。

 カイルの自問に答えが出ることはなく、結局カイルが眠ったのは、夜空が白み始めてからのことだった。


 夜空が白み、デゼールロジエが眠りに就く頃。黒衣の少年は街角の安ホテルを見上げて微笑む。

「やはりこの町に立ち寄ったみたいだね。それでいい」

 浮かれた人の流れの中でただ一点立ち止まっている彼は、その笑みを深くする。

 ……結末は決まっている。キミたちはそこに向かってただ踊っていればそれでいいんだよ、お姫様と同じようにね。

 彼は一声、さも可笑しそうに笑ってからそのホテルを離れる。

 人ごみの中、その姿に視線を送る者は、誰もいなかった。

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