3-3 街を回る

 ひとりになって冷静さを取り戻したアネットは、オフィスの傍らで繰り広げられた一大スペクタクルを、激しく後悔していた。……なんであんなことをしてしまったのだろう……酔っ払っていたわけでもないのに。もしかして、瘴気の影響? ……なんてことがあるわけがない。なにかのせいにしたい気分ではあるけど……。強いてあげれば、リンディさんのせいだ。あんな美人が、あんなことに……くくく。思い出すと笑いが込み上げてくる。あれは、反則だ。イリュージョン魔法のレベルである。あんなのを見せられたら、こちらがおかしくなるのも無理はない。ここは美人のセデイターさんのせいにして、反省もほどほどにしておこう。なんだかんだで楽しかったことは事実だから……。

 とはいえ、そんなふうに、ほどほどの後悔で終わらせることができるのは、幸いにも人が入ってこなかったから。状況を思い起こせば、アネットの脳裏には、起きていたかもしれない最悪の事態が浮かんでくる。あんな場面、つまりは、あんな顔を見られたら、いったいどうなっていたことか。大きくない街だから、噂が広まって……。まぁ、ここのオフィスにはこの街の人はあまり入ってこないけど、それでも……。いやいや、むしろ、この街以外の人が入ってきて、街の外にまで噂が広がったら……。まずは、魔法省本部へ……次に、魔法省のある副都へ……そして、セレンディア全体……ついには、全世界へ……。ああっ、どうしよう。ただでさえ、出会いの場が少ないのにそんなことになったら……婚期どころの騒ぎじゃない……もう一生……。

 いつの間にか平静さを失った思考は負の連鎖にはまり、アネットはひとりオフィスで身もだえしていた。


 その頃、街の下見に出かけたリンディとナユカは、その最初の目的地へ直行中。

「なにか買うんですか? リンディさん」

 街を回るはずなのに、どこにも寄らず、アネットから聞いたお勧めのブティックに向かっている。

「ユーカの服を買うよ」

「え? わたしの?」

「そう。その格好だと、少し目立つからね」

「そうでしょうか……」何やかやであたふたしていた昨日よりも落ち着いている今、自分の着ている服と通行人のそれらを改めて見比べると、確かに基本的なデザインが違う……。やたらに目立つというほどではないにしても、少々変わったファッションではあるだろう。「まぁ、少しは……目立つかなぁ」

「状況を考えると、できるだけ人の印象に残らないほうがいいんじゃない?」とはいえ、ナユカが異世界から来たというのは、リンディにとっては、いまだ可能性の段階でしかない。「それに、着替え……欲しいでしょ? もう、ずっと着たきりじゃない」

 確かに、そのとおり。洗濯はしてもらったものの、こちらに来てからのナユカは、バスローブや寝巻を除いて、ずっと同じ服……この世界に来たときの服を着ている。思い出したくもない最後のデートの服……もう、いい加減に別の服を着たい。毎日着替えるのは女子の身だしなみ……無理なら仕方ないとはいえ、心情的にはそう。ただ、問題は……。

「わたしには……その……」

 先立つものがないというのを口にする前に、先を読んだリンディがその点に言及する。

「お金のことは気にしないで。あたしが出すから」

「でも……」

 それはありがたいが、「宿場」での費用などにそれまでもが加わるのは、さすがに出されるほうも気が引ける。たぶん、そこまで「経費」には含まれないはず。

「いいの。さっき言ったでしょ、借りがあるの。あなたは、その……」口ごもったセデイターは、続きを一気に早口で締める。「あたしのキャリアを以下略!」

「え?」

「当面、あたしが全部出すから、お金のことは今後口に出すの禁止!」

「は、はい」

 語気の強さに押されて、一文無しはうなずく。キャリアの話はさきほど聞かされたものの、詳しい理由は把握していない。

「大丈夫だよ。後から返せなんて言わないから」

 リンディの口調は普通に戻った。

「す、すみません。ありがとうございます」

「それも禁止ね」

 あまり感謝されると居心地が悪い。

「は? はあ」

 なにが禁止なのかよくわからない異世界人をよそに、セデイターは小声でつぶやく

「……ったく、それを言いたかったのはこっちなんだから」

「はい?」

「なんでもないよ……さ、急ごう」

 特に急ぐ必要もないリンディは、歩みを速めた。


 思ったよりも早く到着したブティックにて、ここでの目立ちにくい服というのはどういうものかと、ナユカがリンディに尋ねたところ、しばし待ってから差し出されたのは、ひじから腰にかけてレースの羽のような飾りがついた派手な服……。いくらなんでも、それはない……はず。第一、街を歩いている人がそんな服を着ているのを見たことがない……。そう思って怪訝そうな顔をする異世界人に対し、「とにかく試着してみて」というスポンサー。言われるままに試着し、ひらひらのついた両腕を広げてみると、どっかの歌合戦に出られそうになった……。

 もちろん、そんな年末歳時イベントは知らないリンディだが、昇天し損なった天使のような姿を前にして、くすくす笑ってけしかける。

「それ買っちゃえ」

「あの、できればふつうの服のほうが……」

 出してもらう手前、遠慮がちではあっても、心の中は決然としている。……これは絶対ありえない。

「あ、やっぱり?」異世界の感性を測った……というわけではなさそうだ。スポンサーの笑い方がそれを示している。「でも、似合ってると思……」

「それはないです」

 食い気味に、今度はナユカもきっぱりと否定。あれが似合うなんて……なんか失礼な気がする。

「一周回って逆に目立たなくなるとか?」

「……どういう意味ですか?」

 一周回ったら元に戻るだけでは? どの言語の表現にも不可解なものはある。

「その格好している人が、まさか『あれ』だとは思わないんじゃない?」

 それは、逆にそうかもしれない。「異世界人」というよりは「宇宙人」……もう異世界を飛び越えている……。実際、どっちが遠いのか……判断しようもないが……。でも、「あれ」だとは思われなくても、「あれ」だと思われてしまうかも。誤解するなら、せいぜいレイヤー程度にしてほしい……この世界にコスプレ文化があればだけど。

「それは……」

 どう答えるべきか無駄に悩んでいる異邦人を、おもしろがってその場へ放置したまま、スポンサー兼スタイリストは、近くへかけてあった普通の服を持ってきた──すでに上下数点をまじめに選んでおいたもの。その中から、予測されるナユカの好みに基づいて、リンディは二セットをコーディネート。試着してみたところ、どうにか無難にまとまり、今度は選んだ本人から冗談ではない「似合ってる」という評価を得て、無事それらを購入。実は、先の「似合ってる」もあながち嘘ではなかったのだが……持ってきた服は冗談でも、事実、似合ってはいたのだから。

 ともあれ、これから街中を回るために、店内で異世界人をこの世界の新しい服に着替えさせたリンディは、店を出る間際、「あの服もよかったかなー」と指を差す。その先には、各所、というか、全体的にいろいろ透けている、どセクシーなドレス。どん引くナユカを見つめて「試着してく?」とか聞いてくるにわかスタイリストへ向け、当のモデルは大きく首を振る。幸いにも、首を振るのは、ここでもノーだ。これがインドのように逆だったら、おもしろい結果を招いていたかもしれない。


 次に、リンディに連れられて来たのは、別のブティック。そこはアネットからの情報では、ランジェリーが豊富ということ。外側だけというわけにはいかない乙女として、ナユカは感謝である。ところが、採寸後にスポンサーが「ふつうの下着」としてスレンダーボディに勧めたのは、思いっきりセクシーなランジェリーセット……いわゆる、紐系であった。こういったものは、この世界にもあるってわけだ。ただ、それらがふつうかは……。

 渡された紐たちをじっと見つめて固まっていたところ、ブロンド美女から「ふつうだよ」という追い討ちが……。そう言われてしまうと、今度こそそうなのだろうかと思い、それにしなきゃならないような気になった異世界人だが、ここであることに気がつく。

 ここの人たちがどんな下着を標準としているのか、自分は知らない。それは、もちろん、見たことがないからだ。ゆえに、さきほどのブツが「ふつう」と言われても否定しようがない。これまで、ちらっとでも目にしたのは、着替えのとき……リンディのだけ。しかし、少なくともこのブロンドセクシー美女のものはあれではなかった……。それらは向こうの世界の基準で「ふつう」に分類されるものに近かったと思う。それに、考えてみれば、下着を人前にさらして歩くわけではないから、こちらでの「ふつう」のものにしなくてもよいのではないか……。そう思い至り、リンディーズセレクションは辞退して、自分の考える「ふつう」の下着を選ばせてもらうことにした。

 その「ふつう」の下着を見ての、セクシー美女の感想は「なんだ、つまんないの。ふつうじゃない」というもの。やはり、さきほどの紐系各種は、あまりふつうではなかったようだ。この「下着は見せないから、『ふつう』でなくてもいい」というナユカの決断は、実は、リンディの選択理由と同じでもあった。方向性が逆だっただけで。


 こうして、無事、「ふつう」のアンダーウェアを数点買った後、今度はバッグや小物類を買いに行く。ここまでいろいろ買ってもらうと、気にするなといわれても、さすがに恐縮する一文無し。次は、スポンサーのお勧めどおりのものにしてみてもいいかな……という気にもなる。もちろん、まともなものという前提で。

 ところが、リンディが最初に持ってきたバッグはやはり曲者であった。いや、むしろ、ストレート過ぎた。透明である。なぜ、そこにこだわる……? 異世界人は力なく指差す。

「あの……それは……」

「セクシーでしょ」

 透け透け。厳密には、半透明、トランスルーセントというやつだ。形は大きめのトートバッグ。

「いえ、その……」セクシーかどうかはとりあえずスルー。「なんで透けてるんでしょう?」

 子供の水着入れじゃあるまいし。

「さあ? あたしにもわからない」

 では、なぜ選ぶ? なにか、透けることにこだわりでもあるのだろうか。ナユカは、がっくりと肩を落とす。

「自分で選んでもいいでしょうか……?」

「どうぞ、どうぞ」

 スポンサー様の快いお答え。この世界の貨幣価値もなんとなくわかってきた異世界人は、無難そうなバッグを……この際、ファッション性はさて置き、実用性を重視して探し、結果、コスパも高い、大きめのバックパックを選択。もちろん、透明にあらず。リンディに見せると、「色気がないなぁ」と、のたまうも「ま、それでいっか」と了承。無事、ナユカはふつうのバックパックを入手した。服とのコーディネートとしてどうなのかは、少々疑問だが。


 その後、小物類や生活必需品などを買うべく数店舗を回り、その都度、妙ちくりんなものを薦めてくるスポンサー様に抗いながら、利用者本人はどうにか買い物を終えた。実は、ナユカが気がねなく商品を選べるよう、わざと却下されるような変わったアイテムをリンディは薦めていたのだが、その思惑に違わず、当人のセンスがこの世界での「ふつう」に近いのは幸いだった。さもなければ、今後、この異世界人は、隣を歩くのがはばかられるような姿で街を闊歩することになっていたかもしれない。

 ともあれ、途中で昼食をとったり、いったん出張所へ戻って荷物を置いてから街の反対側へ行ったり、セデイターの必要アイテムや薬類などを入手したりなど、思ったよりも精力的な買い物だったことから、日はもう傾いている。街の下見というよりも買い物が中心だったわりには、あちこちを歩き回ったことが効を奏して――もとよりその目論見も初めからあったのだろう――本来の目的は叶った。そして、当初の期待とはちょっと違った意味で、ナユカにとって「おもしろい」街巡りとなった。


 さて、一通り用事を終えてオフィスへ戻ったふたりは、今夜、アネットを伴って街へ夕食に出ることになっている。というのも、食後に魔法省推薦の情報屋がいるパブへ行き、セデイター出張所の管理者を介して、この街は初めてになるリンディの顔を彼らに通しておく必要があるからだ。ターゲットの目撃情報を知らせるように話を通しておくだけの事務的な手続きにつき、取り立てて危険な要素はない。情報屋とはいえ、相手は事実上、政府「公認」であり、目的地も胡散臭い場所ではない。

 出張所管理者のアネットにとって、この手続きは公務扱いとなり、魔法省から特別手当が出ることになっているが、それに加えて、リンディが食事をおごってくれるというので、同行するのは願ったり叶ったり。ただ、問題なのは、自分がこのブロンド美女のペースに乗せられてしまうこと……例の件、たった一度ではあっても、そのインパクトは大きすぎた。間違っても朝のような不測の事態に陥らないよう、気を引き締めなければならない。出先で変顔、もしくはそれ以上のこと、変顔で踊りだすとか、変顔で歌いだすとか、あまつさえ変顔で脱ぎだすとか、それとも変顔であんなことやこんなことを……もう想像はやめよう。とにかく、そんなことをやってしまったら身の破滅は必至。尼寺にでも行くしかなくなる……。


 出掛けに妙な懸念を抱いて、えもいわれぬ緊張感を漂わせている出張所管理者に、セデイターが声をかける。

「大丈夫だよ、公認だけだから」

「え?」

 はっとしたおかげで、変顔に関わるアネットの妄想はいったん中断された。

「今夜は非公認の情報屋には接触しないんで」

 今回は、情報に正確を期すのがリンディの主眼であり、公認の情報屋に接触するだけで十分。すべきことは、彼らへの顔見せ、並びにターゲットとしているパーティの進路確認……そんなところ。

 ちなみに、彼らと違う非公認の情報屋が扱うのは、デマや噂などを含む不確定な情報であり、それらは信憑性が低く、ものによっては彼ら自身による捏造が含まれることもある。そもそも、そういった類の情報は、人を介することによって内容が膨れ上がっていくものであり、情報屋たちが意図するしないにかかわらず、結局は彼らもその一端を担っている。しかしながら、たとえそんなものであっても、たとえば、なんらかの秘密を探ったり、誰かを恐喝したりする材料としては、それら信憑性の低い情報も有用なことがあり、それゆえに、彼らの商売も成り立っているわけだ。

 基本的に、リンディが非公認の情報屋を必要とすることはほぼないとはいえ、それでも、何らかの事情で彼らに接触する必要があるときには、当然、公務員のアネットを連れていくことはない。

「ああ、はい。承知してます」このセデイターなりに気を配ってくれているのはわかるが、アネットにとって危険なのは、そういった点ではなく、当のリンディである。……いや、それよりも影響されてしまう自分だ。流されないように、冷静さを保たなければ……。とりあえず、深呼吸を一回。「……では、参りましょう」

「う、うん」

 リンディは、アネットのよくわからない気合に押し出されるかのように、ナユカとともにオフィスの外へ。入念に戸締りをしている施設管理人には、やはり、妙な意気込みが見て取れ、これから食事に向かう食道楽に一抹の不安がよぎる……。

 食事をおごる店の選択はアネットに一任してあるのだが、もしもそれが高級店で、かつ、今の気合で食いまくられでもしたら、懐が少々まずいことになるかも……。払うのがいやというのではなく、純粋に持ち合わせの問題がある。ナユカの買い物などに予定外の出費をしていることが、ここへきて少し響いてきた。

 というのも、こちらの世界には銀行はあってもATMやキャッシュカードの類はない。よって、この時間帯では、所持している現金もしくは小切手にて支払うか、つけとなる。現金が足りない場合、この街は初めてのリンディでは、小切手は受け取られないだろうし、つけも利かない。それで仕方なく皿洗い……などという事態にはさすがに陥りたくはないので、どうしても足りなければアネット本人に頼るしかない……そして、それは、かなり決まりが悪い。もちろん借りるだけで、早めに返すつもりなのだが、そうしたくても銀行制度がまだ未発達なため、初めて訪れた街において、口座を持っている系列の銀行からすんなりと金を引き出せるようになるまでには、それなりの日数が掛かる。

 そこで、リンディの場合、手っ取り早く、翌日に魔法省の知人──おそらくは……というより、間違いなくサンドラ──に現金を転送してもらうことになるだろう……。そして、こちらは、輪をかけて格好悪く……馬鹿にされること必至だ。あの筋肉姉さんのことだから、たぶんリンディを幼児扱い、悪くすれば赤ちゃん扱いして、からかったりするに違いない。「あーら、リンディちゃん。お金足りなかったでちゅかぁ。ちょうでちゅかぁ」などと言って……絶対そうだ……そうに決まった。

 セデイターがまったく架空の屈辱に耐えているところへ、気合が入ったままの出張所管理者が声をかける。

「どうかされましたか?」

「え? あ、終わった? 戸締り」

「ええ。完璧に」

 アネットの気力はみなぎっている。

「そう……それは……ご苦労様」リンディの気分は下がり気味。「じゃ、ま……行こうか」

 こうして、お互いに関わることにもかかわらず、まったく接点のない取り越し苦労を抱えた両名は、ナユカを伴って、まずは夕食へと街に出る。


 異世界人を除く二者それぞれの杞憂に反し、起きうべからざる失態など起こるべくもなく、リーズナブルなレストランでのノーマルな量の食事、並びに、パブでのセデイターと公認情報屋との顔合わせプラス情報確認をつつがなく終え、三人は無事に出張所へと戻ってきた。

 出掛けほどではないにせよ、それなりに気を張り続けていたアネットは、戻るやいなや、ふうっと大きく息をつく。……何事もなかった。もうここでなにをしようがかまわない。たとえ、変顔で裸踊りしようとも……。安堵感に満たされたその肩に、懐の心配がなくなったリンディが後方から触れる。

「お疲れー」

「お疲れさまですぅ」

 公務員の緊張感は今や抜けまくっており、いつになく語尾が延びた。

「アネットさん、外ではずっと……えーと……」

 異世界人は、さっきまでのその姿を「凛々しい」と感じ、褒めようとしているのだが、その単語を知らず、うまく表現できない。気を引き締めていた当人の理由はともかく、ナユカにはそう映っていた。言葉に詰まっているところ、代わってリンディがその先を付け足そうとする。

「顔が……」引き取ったものの、続く表現が思いつかず……これ。「がちがちだったね」

「え?」

 聞き返した表現対象に、言い直す表現者。

「ごちごちっていうか……ごわごわ?」

 この魔導士は、別に中傷しようとしているしているのではなく、これでもナユカと同様の意味合いで褒めようとはしている。というのも、石化魔法が決まったときのことをイメージしているから。

 地系魔法の一種である石化魔法は、土や石で障壁を作ることによって物理攻撃をガードする魔法で、魔法自体は上級ではないが、タイミングを計るテクニックと効果をもたらすための高い魔力が必要なもの。物理障壁ゆえに一定時間で自動的に消滅することがないことから、戦術的な使いどころも含めて結果的に難しい魔法なので、うまく決められるとかっこよく、先のオノマトペなどで賞賛される。

「か……顔が……?」

 魔導士ではないアネットはそういった意味合いを知らないので、当然、ポジティブには捉えられず、きょとんとして肩越しに振り向く。

「ん? どうしたの? 変な顔して」

 この表現は、口をぽかんと開けた表情に対するものとしては、妥当だろう。リンディの言葉の選択に間違いがあるとはいえない。それでも、ダメージを与えることはある。

「……ぁ」

 かすかに空気の抜けるような音を出し、顔が「石化」したアネットは、くるっと反転して、ふらふらと控え室のソファへ……。


 その後姿を怪訝そうに見ているだけの舌禍のぬしに代わり、心配して後を追ったナユカは、ソファに沈み込んだ彼女に、気遣わしげに声をかける。

「大丈夫ですか?」

 突然の不調の原因は、セレンディー語の言語表現に疎い異邦人にはよくわからない……が、なんとなく、後方にあるような気が……。目の前でぐったりしているアネットは、顔を右手でかざすように隠したまま、力なく答える。

「いえ……少し疲れて……」

「具合悪いの?」

 距離を取ってついてきた容疑者の声に、ナユカが振り向く。

「……疲れたそうです」

「……大丈夫です……すみません」

 か細い声とともになんとか動き出そうとする世話役を、多少は責任を自覚し始めた魔導士が押し留める。

「今日はもういいから休みなよ、後は適当にやるから。寝るだけだし」

「でも……」

 なおも立ち上がろうとする彼女を、今度はナユカが制止する。

「疲れは『ビボウ』によくないですよ、アネットさん」

「え? 美貌? 誰の?」

 何気なく口にした覚えたての単語に表現対象がやけに食いついたため、異世界人は少したじろぐ。意味は間違っていないはず……。

「あの……アネットさんのですけど……」

 自分の名前が耳に届き、疲れた全身に血が巡り始める。

「そ……そう?」

「はい」

 発言者の肯定がアネットに力を与えた。間を空けずに、すっくと立ち上がる。

「では、もうひと片付けして、休むことにします」

 漏れ出す笑みをたたえつつ、控え室を颯爽と後にする施設管理者を、リンディが見つめる。

「なんか……元気だねぇ……」

「……ですねぇ」

 ナユカもその姿を目で追っている。今日はもうすることのないセデイターは、なんだか逆に疲れを感じ、別室で作業を始めたアネットに叫ぶ。

「じゃ、あたしたちは部屋に戻るね」

「はーい。おやすみなさーい」

 届いた元気な声に安堵したリンディとナユカは、今日の日を終えるべく、ゆっくり自室へと戻っていった。



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