4 流血

  風が土を巻き上げる動きに、様々な名前が付いている。

  その言葉は、時に人の振る舞いをも言い表すが、

  私には理解することができなかった。

  木々のざわめきも、太陽を相手取る影遊びも、地表にしかない。

  暗い地の底で呼び習わされる風の名に興味を抱く人間は、

  よっぽどの暇人か、新たな侮辱の種を探す、そこそこの暇人に他ならない。

 

 

 まだ眠い目をこすりながらエトはヴィノを迎えに行った。二十八層の復旧作業は連日遅くまで続き、ろくすっぽ身体を休める暇もないまま大市場の始まる朝を迎えた。

 ヴィノの暮らす生活層は陽の当たりが相変わらず悪く、粉塵にまみれていた。吸気管や水の循環器は休むことなく稼働を続け、独特のうなりを上げている。

 エトは部屋の前に辿り着くやいなや、いきなり扉を叩いた。寝不足で声を張り上げる気力がなかった。

 ヴィノはすぐに顔を出した。

 「眠そうだね?」ヴィノは扉の隙間から体を滑らせると後ろ手に扉を閉めた。

 エトはヴィノの両親に挨拶をするつもりでいたが、まだ寝ているのとヴィノは申し訳なさそうに答えた。ヴィノは作業着ではなく、生活区の人間が身につけるような、たっぷりと布地に余裕のある服を着ていた。服の布地はよそ行きにしては質素に見えたが、髪飾りをしたり、腰紐を色鮮やかな物にしたりと、精一杯の努力がなされていた。エトは少し前を行くヴィノの姿を眺めながら、しかしこの服も地上に出るまでに砂塵に汚れてしまうのだろうなと、そんなことを思った。

 地上に上がるとヴィノはさっそく衣服についた汚れをばたばたと払った。エトは彼女の背中や足回りを一緒になってはたいて回り、身繕いを手伝った。ヴィノは、衣装がよく見えるように両手を広げ、変じゃないかと尋ねた。

 「生活区の人間みたいに見える」とエトは答えた。エトのよく知るヴィノは、油に汚れた作業着を着て、顔も作業着と同じくらい汚れ、髪はぐしゃぐしゃで、水辺の獣が濡れた毛のクセからすぐに見分けがつくように、油人区の人間であることを隠すことはできなかった。それが今は、少なくとも採油作業とは無縁に見える。

 「でも上の人たちはもっとずっと綺麗な格好をしていると思うよ」とヴィノはこぼした。

 「そんなことないよ」とエトは答えたが、大市場に参加したことのないエトにはそれが本当のことなのかどうかわからなかった。

 「さあ行こう。こんなところでぐずぐずしていもしょうがない」

 大穴からは二人と同じように大市場に参加する人間が上がってきていた。二人はぽつりぽつりとまばらな人の列に紛れて、市場通りに通ずる道を歩いて行った。途中ヴィノが、エトの手にはまる作業用の手袋を見とがめたが、エトは頑なに手袋を外そうとしなかった。ヴィノはそのせいでなんだか、今日の大市場行きにケチがついたような気持ちになったが、それ以上の追求をする気にはならなかった。

 やがて二人は油人区の剥き出しの地面を越えて生活区の敷居をまたいだ。ふっと華やいだ香りが市場通りから漂い、風に巻かれてすぐに消えた。

 「見て回りたいところ、決めてあるの?」ヴィノは尋ねた。

 「大市場のことは、まるでわからないんだ」エトは心底申し訳なさそうに答えた。

 「ヴィノはどこか見たいところがある?」

 「今日はエトを案内しに来ただけだから。私のことは気にしなくていい」

 「やっぱり大市場に行きたくないの?」ヴィノの、どこか無理をしている様子にエトはどきりとした。

 「そんなことない」

 ヴィノが立ち止まったので、エトも立ち止まらざるをえなかった。二人はじっとにらみ合う形になった。

 「少し、怖いの」

 「怖い?」

 「私は滅多に上に上がらないから」

 「でも、僕よりヴィノの方が市場に詳しいじゃないか」

 ヴィノは子供のようにかぶりを振った。

 「ヴィノが竜の子であることに関係があるの?」

 「聞いたの?」ヴィノは眉をひそめた。

 「竜の子であると名乗りを上げたのはヴィノだろう」

 「私はもう竜の子じゃない。塔を出ることで私の務めは終わったの」

 「でも、君は名乗りを上げたじゃないか」

 「元竜の子として私は呼ばれたの。私たちには祭司が居ないから、誰よりも詳しく祈りの言葉を知っているというだけで竜の子は必要とされる」

 「ヴィノが食前にいつも唱えているのも竜への祈りだろう?」

 「それが竜への祈りであろうとなかろうと、私は気にしない。私はただ祈りの文句をそらんじているだけで、私の祈りには意味なんてないから。竜への祈りは、洗っても洗っても落ちない油染みのように、私から離れてくれないクセのひとつ」

 「ヴィノは竜の子であることが嫌だったの?」エトは、ヴィノの言葉の節々に嫌悪の響きを感じ取っていた。

 「私は竜の子として学んだ務めも、祈りも、文字も大嫌いだった。それらは地表の人たちのもので、私たちのものではないとわかったから。私は、油人にしては珍しく文字を読めるようになったけれど、それだって大穴の中では必要とされていない」

 「ヴィノは字が読めるの?」

 「少しだけね」

 「すごいじゃないか!」

 「エトは何もわかっていないんだね」

 「何がさ」エトは少しむすっとして答えた。

 「油人が文字を読めてもしょうがないんだよ」

 「どういうこと?」

 「エトは、文字が読めないことで大穴で困ったことがある?」

 「いいや」答えを返すのに、考えるまでもなかった。

 「ほら、必要ないじゃない」

 「でも文字が読めれば、地図だって書物だって読めるじゃないか」

 「大穴には地図も書物もないでしょう」

 「そうだけど……」エトは反論することができなかった。

 それきり二人は、言葉をつぐことも、道を行くこともできぬまま立ち尽くした。大穴から歩いてくる油人たちは、怪訝な顔をして二人の脇を通り過ぎたが、その場に漂う剣呑な雰囲気を感じ取ったのだろう、誰一人として二人に声を掛けなかった。

 二人はお互いを避けて空を見上げていた。地表を覆う油霧はまるで油人区と生活区の境を表すかのように途切れ、青い空を覗かせていた。大きな羽根を広げて旋回する大鳥がぱっと目にとまった。

 「ヤイャの鳥だ」とヴィノは指さした。「不敬の鳥と呼ばれているの。竜と一緒に空を飛ぶからそう呼ばれているんだって。ヤイャからしてみれば、竜が飛ぼうと空は空なのにね」

 ヤイャはイルルルルと、甲高く鳴いた。今や空のすべてを独占しているというのに、その鳴き声はなんだか寂しいとエトは思った。

 「ヴィノは竜を見たことがあるの?」

 「ないよ。あるかもしれないけど覚えていない。マドゥ婆が言うには、私が生まれる前からもう何年も竜が飛んでいなかったって」

 エトは空を見上げ、ヤィヤの羽ばたきに竜の姿を重ねた。ふと、短剣の束に刻まれた竜の姿が目に浮かび、慌ててその印象を振り払った。短剣に刻まれた竜が象徴する暴力性を自身の内に取り込みたくなかった。

 「そろそろ行こうか」ヴィノは歩き始めた。

 二人は、上空から落ちるヤィヤの影に後押しされるように、市場通りに足を踏み入れた。

 

 市場通りは足の踏み場もないほど混雑していた。人々の熱気が大気を歪め、たくさんの声が嵐のように通りに満ちていた。大人も子供と同じように浮き足立ち、目を輝かせている。イーンに暮らす者にとって大市場は特別な祭りだった。

 そんな中、エトは身体を休めていた。人の多さに目を回したのだ。

 「まいったな」エトは樹の幹に背を預けていた。

 「大丈夫?」ヴィノは手持ちぶさたに、垂れ下がる大きな葉の一枚を指先で弄んだ。

 「こんなに多くの人を見たのは初めてだよ。もう少し待っていてくれればすぐに慣れるから」

 「大穴の底でだってへっちゃらな顔をしているのにね」

 「勝手がまるで違うよ」エトの目は往来を行く人々を次から次へと捉えていた。途切れない人の流れは、まるで増水時の荒ぶった川を思わせた。エトはヴィノの勧めに従ってなるべく物を見ないように努力してみたが、空を見上げても市の幟がはたはたと風にたなびき、下を向いても人の足が無数に地を叩いているので、目のやり場がなかった。

 「いつもこんな風なの?」

 「そうだよ。大市場だからね。イーン中のお店が市場通りに集まるんだもの、イーン中の人が通りに集まるのも自然なことでしょう?」

 「それにしても、あんまりに人が多いよ。<木陰の下アモウラ>にも、あんなに物が溢れてる」

 エトはうずたかく物の積まれた一画を苦々しく見やった。

 屋根と机がいくつかあるばかりの空間には、様々な物が山と積まれ、ひっきりなしに人が出入りしている。そこは<木陰の下アモウラ>と呼ばれる特別な空間でイーンのそこかしこに点在していた。<木陰の下アモウラ>には、各家庭で余らせた青果や衣類、金物、ときには家畜までもが持ち込まれ、それらの物品は一日と置かずして持ち去られる。<木陰の下アモウラ>の規則はひとつで、持ち込む者は何も持ち去らず、持ち去る者は何も持ち込まないことだった。これらの習慣は、イーンの人々が移住性の生活を送っていた頃の名残で、余り物を融通しあった習慣が、イーンの地に生活を根付かせた後も、竜の恵みを分かち合う心づもりで続いていた。

 「今日だけはね、特別なんだよ。誰も物を持っていかないから、物が貯まるばかりなんだ。でも、大市場が終わると、あっという間になくなるらしいよ」

 「ヴィノも<木陰の下アモウラ>から何か物をもらったことがあるの?」

 「ないよ。地表の人と物を分かつことはないから」

 「でも、みんなイーンに暮らす仲間じゃないか」エトにはその感覚が理解できなかった。

 「でも、違うんだよ。昔、まだ小さかった頃、こっそりと市場に通ったことがあるの。市場には大穴にない物がたくさんあったから、通行人の飾り立てる足下を見てるだけで一日をつぶすことができた。市場に上がると、私は決まって<木陰の下アモウラ>に行って、物の積まれた机の下に潜り込んだ。物に気を取られて誰も私に気がつかなかったから、私は、それこそ商人にでもなった気分で<木陰の下アモウラ>を訪れる人を眺めていたの」

 ヴィノは物品で賑わう<木陰の下アモウラ>をじっと見つめた。

 「竜の死んだ年、<木陰の下アモウラ>は物で溢れかえった。教主様は安心するように仰ったけれど、安心することなんてできなかった。誰もが多くの物を<木陰の下アモウラ>に持ち込み、分かち合った。あの時ほど、イーンの人が物を分かち合ったことはないのだと思う。でも、私には<木陰の下アモウラ>で交わされる温かい言葉のやりとりを許容することができなかった。ずっと<木陰の下アモウラ>に潜んでいたから、油人が一人もやってこないことを私は知っていたの。そのことに気がついた時、私は<木陰の下アモウラ>でどこか見知らぬ採油道に迷い込んだような息苦しさを覚えた。私は恐かった。地表でいきなり、自分の居場所をなくしてしまったんだもの。怖くて、みじめで、堪えきれなくて泣いてしまった。そんな風に泣いたりするべきじゃなかったのに」

 ヴィノは<木陰の下アモウラ>から目を離さなかった。

 「しょうがないよ。子供だったんだから」とエトは当たり障りのないことを言った。

 「でも私は、泣くべきじゃなかった」

 気がつくと、ヴィノの表情から色が消えていた。エトはヴィノの強ばった表情を見るといつも身のすくむ思いをした。言葉が途絶えるとエトには打つ手がなかった。普段はふいに訪れる沈黙さえ心地よかった。ところが地表では、二人を包む親密な空気は、保つ壁も天井もないせいで、空に消えてしまうらしい。エトは自分でも気づかぬうちに人々の笑い声だけを耳に集めていた。

 「チウダ」とエトは無意識につぶやいていた。

 二人の目の前を水割り果汁の行商人が通ると、ヴィノが呼び止めた。

 「二つください」

 エトは薄い赤紫色の果汁で満たされた簡素な紙の杯を額にあて、それから喉を潤すのに使った。甘く、ほんのり苦みがあり、遅れて舌先に刺激のある味が広がった。

 「おいしいねこれ」エトは、ごくごくと一気に飲み干した。

 「ナララの実だよ。でも、ちょっと薄い」いっと歯を見せたヴィノの口元は赤紫に色づいていた。

 「これくらいがちょうどいいよ」同じくらい口元を赤紫に染めてエトは笑った。

 二人で笑い合うと、気持ちはずっと明るくなった。

 風が汗を乾かすと、エトはようやく人の多さに慣れてきた。市場通りの往来に目を向けても、人の動きに目を回すことはなくなった。人、人、人が通りを流れていく。それも、皆がみな人目を引く格好をしている。エトは視線を戻し、きょろきょろと辺りをうかがうヴィノの全身を眺めた。彼女の服装は、たしかに市場通りを行く人々の格好よりも落ち着いている。しかしそのことが、どうしても悪いことに思えなかった。むしろ、彼女と並んで歩く自身の姿の方が問題であるかもしれない。

 「みんな派手な格好をしているね」エトはぼやいた。

 「だから言ったでしょう?」

 「でもヴィノの格好も素敵だと思うよ」エトは何の気兼ねもなく言った。

 ヴィノは上着の裾を引っ張って、そうかなと独りごちた。

 エトはそこら中に乱立する市の幟を眺め、今日一日でこのすべてを見て回れるのだろうかと口にした。

 「全部は見て回れないよ。大市場は五日立つの。全部見たければ、本当は二、三日かけて市を回るんだから」

 「じゃあなおさら急がないと」エトは覚悟を決めて立ち上がった。せっかくの大市場で人混みに酔っている暇はない。

 二人は塔の方向を目指しつつ、市を見て歩いた。目的もなくぶらぶらとだ。始めは、食べ物の屋台を見つけては立ち止まった。二人とも腹ぺこだった。エトは竜の翼焼きと名付けられた鳥足の香草焼きをかじりながら、竜を食べてもいいのかなとヴィノに尋ねた。

 「どうして?」ヴィノは肉汁の滴る肉厚の鳥足にかぶりついた。

 「まがりなりにも竜は特別な生き物なんだろう?それを食べちゃうなんてさ」

 「外の人みたいなことを言うんだね。昔から、竜のなんとかって名前のつく料理はイーンにいっぱいあるよ」

 「そういうものかな」エトは承伏しかねるといった顔をしてみせたが、肉からしみ出る旨味を口に含んでいると、そんなことはどうでもいいことのように思えてくる。

 「おいしい」とエトはうなった。もごもごと口の中をいっぱいにしながらヴィノも同意した。

 食に関わる屋台だけでも、通りには無数の店が出ていた。それがひとつ所に固まらず、一定の間隔を置いてあらわれるものだから、二人は常に口をいっぱいにしていた。

 店に並ぶのはイーンの伝統的な料理だけではなかった。砂漠の南からはるばるやって来た辺境人が物珍しい珍味を提供しているかと思えば、セオやフォンリュウといった、東の古代都市の名を冠する料理も並んでいた。セオの名物料理を指してヴィノはあれを食べたことがあるかとエトに尋ねたが、セオから遠い場所に暮らしたエトにはとても答えられなかった。二人は、べったりと蜜を絡ませたセオの揚げ菓子をかじりながら通りを楽しく歩いた。

 いつもはファの引く荷車に独占される中央道は、今日に限って解放されていた。大市場に詰めかける人の多さに、ファを歩かせる余裕などどこにもなく、ファの立ち入りを禁じるほかなかった。ヴィノは出店の並ばない中央道を歩きたがった。エトは最初ヴィノに従って歩いていたが、彼女があまりに出店から離れて歩くので、どうかしたのかと尋ねた。ヴィノは、油衆は目立たないように歩くものだと答えた。

 「そんなことないだろう?今日は僕らが油人だなんて誰にもわからないよ」エトは本当にそう思って言った。それでもヴィノは、「地表の人たちは私たちが油人だとすぐにわかるよ」とかたくなだった。

 イーンの外からやってきた、しかも村人が互いの名前を余さず言い合えるような村で育ったエトにはわからぬことだが、市場通りを我が物顔で歩く人間からしてみれば、油人とそうでない者との差は一目瞭然だった。それは普段長時間地下で過ごすせいで色の薄い肌の色であったり、それこそヴィノが気にしていた服装のちょっとした違いのせいであるかもしれないが、油人であることは、エトが考えている以上に隠しようのないものだった。今、市場通りを行く人々は、祭りの雰囲気に浮かれ、いろいろな屋台に目移りをしているだけで、油人の若者に気がついていないわけではなかった。屋台のそこかしこでは、実は油衆に物を売り渋る商人も多くいたのだが、それらの店に近寄らないように、うまいことヴィノが進路を変えていた。

 「あれはなんだろう」少し気落ちしたようなヴィノを盛り立てたくて、エトは広場の人だかりを指さした。華やいだ格好をした子供たちが一カ所に集い、その周りを同じくらい着飾った大人たちが取り囲んでいる。

 「あれが、竜の子の行列だよ。通りの始めから出発して、一日掛けて塔に向かうの。ああして市場のあちこちで休憩して、晴れ姿をお披露目するんだ」

 エトは、しまったと思いつつヴィノの横顔を見やった。

 「竜の子を見るのはやっぱり嫌?」

 「ううん、懐かしく思うよ。あの頃はお母さんもお父さんも元気だったから」

 竜の子たちは、普段着慣れぬ格好に疲れたのか、それとも朝から歩きづめのために疲れたのか、少しぐったりしていた。子供たちの周りでは、世話人の他に、見物客が大勢いたむろしていたが、そこに混じって祭司たちが、様々な世話を買って出ていた。祭司たちの柔らかな表情から、竜の子の行進が堅苦しい儀式ではないことが知れた。

 しばらく竜の子を眺めていると、もう行こうとヴィノは言った。

 市場通りは相変わらず混み合っていたが、人のより多く流れる方向は西から東に変わっていた。

 「そろそろ賢主様のご挨拶が始まる時間だ」

 「賢主の?」

 「そう。今日だけは私たちでも塔まで行くことができるよ」

 「僕たちも行こう」エトは間髪入れずに答えた。イーンを統べる賢主の顔を見ておきたかった。

 人がゆっくりと流れる速度に合わせて、二人は塔に向かった。途中、店を覗き見ることがあっても、賢主の登壇に間に合うように長居はしなかった。それでもエトはひとつの露店の前で立ち止まった。軒先には古本が並んでいた。柱には二頭のファが繋がれ、退屈そうにあくびをしていた。最初、エトはファに目を留めたのだった。珍しい黒っぽい毛をしたファだったからだ。

 エトはファの首下を撫でさせてもらいながら、ちらちらと書物に目を落とした。エトは文字を読むことができないゆえに一層書物への憧れが強かった。

 イーンに暮らす人々の識字率は他の古代都市と比べてそれほど高くなかったが、地表に暮らす人間のほとんどは字が読め、貸本を娯楽にしていた。文字に疎いのは油衆くらいのもので、彼らの半分くらいはまったく字が読めないか、案内版に記された表記のいくつかを理解するに留まっていた。

 一年間塔に暮らしたヴィノはいくつかの文字を読むことができたが文章が長いものになると、お手上げだった。彼女はエトのために、表紙に刻まれた言葉だけでも読み上げることができればと思ったが、表紙の文字は装飾の度合いが強すぎて判読が難しかった。

 エトは古本の出店から離れると、いつか文字を読めるようになりたいのだとそうヴィノに語った。ヴィノは、私が教えてあげると言い、それから、わからないところは一緒に覚えようと言った。エトは、そんなことが本当に実現したらどれ程素晴らしいだろうと思った。故郷に地図を持ち帰りたかった。自分たちが世界のどの辺りに暮らしているかを指さし、それから母の生まれ故郷へと続く道を地図の上で辿っていく。エトの夢は、いつかすべての古代都市を巡ることだった。旅慣れた隊商の隊員たちは、よく異境の話を聞かせてくれた。隊員たちは出自もさることながら、生きてきた過程も様々だった。ギリヤは、酒を飲むとよくフォンリュウの話をした。焔竜と契約を交わした鉄と炎の戦士たちの話だ。フォンリュウの都市は東の古代都市群を、さらに東に住む蛮族から守る壁だった。その戦いの記憶はエトの心を熱くさせた。

 セオの話はカデッサや、彼に古くから付き従う連中が教えてくれた。通商の中心地であるセオは人の往来が激しく話題も豊富だった。セオの都市で恒久的に開かれている市は、酔っ払いの話を信じるならば、イーンの生活区域すべてを飲み込めるくらい大規模なものだ。セオの市場ならば、たとえイーンの油衆でも大手を振って歩けるのではないかとエトは夢想した。

 「ねえヴィノ、いつの日か君を僕の村に案内できればと思うよ」

 「エトの暮らしていた村に?」

 「そう水族の村に。話したことがあっただろう?川が流れているって。その川は乳白の色をしていて、ほのかに光るんだ。川のずっと上の方には滝があって、切り立った崖が背高くそびえている。そして上流の方が水の光がずっと強いんだ。光は夜になると梯子のように天に昇る」エトの知る、村で唯一美しい場所だ。水の光の強さは毒の強さを表している。だから上流には誰も足を伸ばさない。静かで、美しい。

 「もっといろんな場所を案内できればいいんだけど、村には他に見て回るものがないんだ。大穴の円の内側にすべてが収まってしまうくらいに、とても小さな村だから」

 「エトがちゃんと案内してくれるなら行ってもいいよ」とヴィノは言い、そしてまたイーンに戻って来られるのならばと心の内で思った。

 「ファを手に入れなくちゃ。無の砂漠を渡れるくらいうんと強いファを」

 「私、ファになんて乗ったことない」

 「ヴィノならすぐに乗れるよ。僕よりも勘がいいだろう?」

 「そうだね」とヴィノは歯切れ悪く答えた。エトは知らないのだ。油人はファに乗ったりしないし、荷物を引かせもしない。ファは地表に生きる者を運ぶ動物で、油の匂いを嫌がるかも知れない。

 ヴィノは、自分がひどくちっぽけな存在であると感じながら、エトの話に適当な相槌を打っていた。旅の話は魅力に溢れるものだったが、現実味はまるでなかった。今まで一度たりとも、大穴を出て行こうと考えたことがなかった。油人に生まれたからには、油人として生きるほかイーンには居場所がない。そのことは、塔で暮らした一年の間に忘れがたく身についている。油人は、まっさらな布地に落ちた染みのように、地表ではよく目立つ異物だった。油人であることに引け目を感じるつもりはないが、地表の暮らしに憧れる気持ちが心の億底に隠れていることを自覚していた。それに、家族のこともある。いったいどうすれば、病に苦しむ両親を置いて外の世界に飛び出すことができるだろう。ヴィノは自分には到底できぬことを話し続けるエトに腹を立てる代わりに、冷や水を浴びせる自分の考えにわびしさを覚えた。

 二人は生活区を抜け、政治区の一部を歩き、塔の足下に向かった。エトは初めて生活区の外に足を踏み入れたわけだが、ヴィノにしたって数えるほどしか生活区を越えたことがなかった。政治区には、田舎者のエトでさえ目を留め置くような物は何もなかった。市場通りよりも建物の高さは増していたが、その外観は無骨で、飾り気がなく、通りを行く人々にしても、生活区から流れ込んだ大市場の見物人が歩いているに過ぎず、目新しい物がなかった。

 政治区の天に囲いをつけたような息苦しい通りを抜けると、目の前に現れた塔を見据えながら、きょろきょろと腰を落ち着ける場所を探した。塔の足回りはちょっとした広場になっていて、そこかしこに腰掛けや樹木の植わる囲いが整備されていたが、そのどれもに人が集まり、座ることもままならず、少しでも背の高い場所を確保しようと腰掛けに立つ者までいる始末だった。大市場に参加している見物客の大半が、今や賢主の演説を聴こうと塔に集まっていた。

 二人は広場の一角を占める水場に移動し、外周に並ぶ滑らかな石の彫像に腰を下ろした。ヴィノが、水の中で子供たちがはしゃぎ回るのを見習って、裸足になり、服の裾をまくり上げ、水の中へと一歩足を踏み入れたが、エトは後に続かなかった。

 ヴィノは無邪気に水を跳ね上げた。水場の水は冷たく、澄んでいた。二番水よりも綺麗かもしれないとヴィノはうらやんだ。賢主のお膝元では、無為に流される水ですら高級だった。水場にたたずむヴィノを見て、顔を背ける者もいたが彼女は気にしなかった。

 エトは間近に塔を見上げ、世界にこんな背の高い物があるのかと驚いていた。地表に上がるたびに塔の姿を目にしていたが、それはイーンの象徴として眺められる、たとえば遠く霞んで見える山並みの風景に似て、非現実的な物に映った。今、エトの目の前でようやく塔は現実となった。それは途中で折れているにもかかわらず、エトの知るどんな物よりも立派に映った。壁の材質はつるつるとした石のような物でできていて、素材を判別することができなかった。太陽が照らす場所には、石の表面を透かしてなにやら文字のような文様が見えた。

 「とても高い」とエトは当たり前のことしか言葉にできなかった。

 「ここが、イーンの真ん中だからね」

 「こんなところでヴィノは暮らしていたの?」

 「そう、それも塔のずっと上の方に」

 「塔での暮らしはどうだった?塔で暮らしていたなんてすごいじゃないか。それこそイーン中の人がうらやましがりそうな話だよ」

 「そんなことはないよ」ヴィノは素っ気なく答えた。

 「私の他に油人の子供はいなくて、すごく居心地が悪かったことを覚えてる。私は、とにかくお母さんたちが迎えに来てくれる日が待ち遠しくて、そのことばかり考えていた」

 「友達はできなかったの?」

 「油人は地上で暮らす子供とは決して友達になれないの」ヴィノは目を細め、挑むように塔の頂上を見やった。エトはヴィノの視線を追った。塔の頂上を仰ぎ見るためには、頭を大きくそらさなくてはならなかった。頂上は空に吸いこまれるように霞み、塔は、どこまでもどこまでも果てしなく続いているように見えた。

 塔を見上げていると、聴衆のざわめきが変わった。

 人々は塔の下ほどからせり出した演説台を指さした。

 噴水が水を吐くのをやめた。

 演説台にイーンの旗を持つ儀仗兵が姿を現した。

 人々は意味もなく歓声を上げた。

 イーンの旗が、威勢良く風にたなびいた。

 儀仗兵に続いてあらわれた楽団が、ひとつふたつ剥き出しの音を鳴らした。

 広場のざわめきが減った。

 それから楽団は短い楽曲を奏で、賢主の登壇を報せた。

 賢主グムトが演説台にあらわれた。グムトは濃い青を基調とした儀式用の外衣を纏っていた。右手には杖を持ち、左手で小さな子供の手を握っている。二人の後ろに、年頃のまばらな三人の子供が続いた。一人はエトよりも年が上でありそうだったが、後の二人は似たような年であるように思えた。あの子供たちは恐らくグムトの子供なのだろう。グムトが杖を掲げた横で、にこやかに両の手を掲げている。グムトは見るからに壮健で、精悍な顔立ちをしていたが、四人の子供を持つにしては、その見た目が若すぎるようにエトには感じられた。

 グムトは演説台に立ち、両の手を大きく掲げた。

 「土と水と血を分かち合う者たちよ、大市場の立つ今この時を楽しんでいるだろうか」拡声器を通したグムトの声は、塔の広場を越えて市場通りにも届くように思えた。割れんばかりの歓声が彼の声に応えた。

 「予の最初の娘トアの喪が明けて二度目の大市場だ。子供たちもようやく市を楽しむ気概を示すことができるだろう。トアの眠りは、三の息子ミンカに続き、非常に心痛む出来事であった。しかし予は、イーンに根付くすべての者たちのためにも、また自身の子供たちのためにも悲嘆に暮れるつもりはない。竜なき今、予はイーンの地を豊穣に導く義務を負っている。そのことを忘れたことはない」またしても大きな歓声が大気を揺らした。グムトへの支持はここまで大きなものなのかと、エトは素直な驚きを受けた。

 「グムトはずいぶん人気があるんだね」

 「ここ数年だよ。今の賢主様が認められてきたのは」ヴィノは賢主の方を見上げながら答えた。

 「今日ここに立つ末の娘ダリアがようやく幼年の儀を迎えられる喜びを皆と分かち合いたい。彼女は今日この日をもって、ようやくイーンの一員として地に根付くことができるのだ」グムトは末の娘ダリアを抱きかかえ、聴衆に掲げた。

 

 血を水に、肉を土に、魂を木としてイーンに根付くべし。

 

 グムトが祈りの略式を唱えるのに合わせて、ダリアは聴衆に臆することなく手をかざし、人々の祝福に対する返礼の型を終えた。ダリアを華麗に彩る外衣の長い裾がイーンの旗と同じように風にたなびいた。彼女は床に下ろされ、兄弟たちのもとにぱたぱたと舞い戻っていった。その様子だけは年齢相応に幼く、また可愛らしかった。

 グムトの言葉が続いた。今期の収穫や、人々の勤勉や、都市の繁栄に対する謝辞の表明だった。聴衆はグムトが言葉を休める度に沸いた。

 「竜の死からもう八年が経つ」賢主グムトの声音が変化し、これから重要なことが語られるのだという雰囲気が人々の口をつぐませた。「我らは竜の力に頼らずとも生きていけることを示してきた。かつて竜の死を聞きつけた東方の者たちは、イーンが滅びの途についたと口々に語ったという。イーンは滅びに向かっているか?」

 グムトは一拍置いた。

 「いいや、イーンの土は変わらず豊かである。イーンの子供は変わらず健やかである。大市場を賑わす皆の声こそがその証明である」聴衆がまたわっとわき上がったが、グムトは身振りひとつで、聴衆の昂揚を制した。「不安を抱いたまま眠る夜もあったことだろう。滅びを予感した夢も見ただろう。とりわけ土が痩せていくことに怯え、日の始まりとともに大地がまだ足下にあることを確かめずにはいられなかったことだろう。しかし我らはすべての恐れをはねのけ、今日までこうして生きてきた。それはひとえに皆の努力の成果であろう。土を耕し、水をくみ上げ、森と畑を維持してきた。緑の世話をする傍ら、家畜たちを守ってきた。学ぶことを捨てず、妄言に飲まれず、学問の研鑽を続けてきた。それをである――」グムトは拳を握りしめ、杖の石突きで地を叩いた。「あたかも我らが竜から力を奪ったかのように吹聴する者が後を絶たない。東の都市群に暮らす者たちは、我らの血と汗の成果であるイーンの繁栄をうらやみ、そのような妄言を口にし、あまつさえ詩に歌う。我らはそのことをどう受け止めるべきか?怒りか、それとも彼らを嘲るべきであろうか?予は、哀れみをもって彼らの畏れを受け入れよう。未だ竜の影に怯えているのだから」グムトは厳かに後ろを振り返り、教主の名を呼んだ。

 「教主ホロをここへ!」グムトはホロと入れ違えるように、自分の子供たちを後ろに下がらせた。

 イーンの教導舎を統べる大魔術師がゆっくりと姿を現した。ホロは齢百を超えると言われながら、その体躯、顔つき、歩き、すべてが力強かった。マドゥ婆より年を重ねているようにはとても見えない。

 ホロは覆いを掛けられた包みを持ちながら、賢主の前で慇懃に頭を下げた。

 賢主グムトは丁寧に返礼を返した。

 「予は人の口に、イーンの繁栄の疑義がのぼることを咎めようとは思わない。我らがこうして自身の力でのみ生きている事実を変えることなどできないからだ。しかし、その世迷い言をもって、我らの都市に害をなす者を決して許しはしない」

 グムトが合図を送るとホロは演説台の最前まで歩き、手に持つ覆いを払い落とした。聴衆は凍り付いた。次いで前の方から悲鳴が上がった。ホロの手に載る物を理解した者から順々に声を上げていった。

 ホロはひとつの首を掲げながら、言葉を発した。魔術師の声は拡声器を通さずとも、不思議と人々の耳に届いた。

 「この者はイーンを嗅ぎ回る悪い鼠だった。魔術師としての研鑽を積みながらその眼を曇らせ、真と偽の見分けを付けられなくなった暗愚の者である。この者の心はわしに語った。イーンが秘する竜の力の秘密を盗みに参ったと。そのような物がないことはお主らがよく理解しておろう。竜の死はわしらに結束しかもたらさなかった。しかし遠くから物事を見るとき、このような賢人であってもその真実を見誤るということだ」ホロは片手で首を持ち、もう片方の手で魔法文字を描いた。魔術師の首が魔法の光を放ちながら浮かび上がった。聴衆はおぞましく声を詰まらせたが、目をそらそうとはしなかった。

 「わたしは魔術師ウェナリアである。常闇の先の主であるホロに従う者なり」ウェナリアが言葉を発した。その声はホロと同じく不思議な響きを伴って聴衆の耳に届いた。しかし口元はまんじりと引き結ばれ、動きがない。代わりに目元が見開かれ、瞳には魔法の光が燦然と輝いている。

 「ウェナリアよ。お主がイーンにやってきた目的を言え」

 「主の問いに答えましょうぞ」ウェナリアの首は答えた。「わたしは弟子と共に、イーンに隠された竜の死の秘密を探りに参りました。竜が司りし大地の代わりをいかように務めているのかを知りとうございました」

 聴衆は首だけとなったウェナリアの復活に最初こそ驚いたが、さすがは魔術師ホロの魔法だとすぐに納得した。何事もなかったかのように、ウェナリアの語りに聞き入っている。

 エトの目はウェナリアに対して最大限見開かれていた。ホロの手元にある首級がウェナリアのものであると気がついた瞬間から、心臓はいつ破裂してもおかしくないほど早く脈打っている。いっそのこと耳をふさいでしまいたいと思ったが、耳をふさいだところで魔術師の声は頭に響くことだろう。目をそらしたところでしょうがない。なぜならその光景は、エトの目に強く焼き付いてしまったからだ。

 エトの額には汗がにじんでいた。ホロの掲げ持つ首級よりも具合が悪そうに見える。そんなエトの様子にヴィノは気がつかなかった。ヴィノの視線はしゃべる首に釘付けだった。魔法というものをほとんど見たことがなく、魔法の光ひとつとっても珍しかった。それでも首だけとなった人間が声を上げることに恐怖を感じないわけではなかった。ヴィノの手は無意識にエトの手を探り、重ねていたが、エトがいつものように拒否反応を示さないことにも気がついていなかった。

 「ウェナリアよ、してその答えは見つかったのか?」

 「真実を見出すことは叶いませんでした」

 「お主の探す答えなどそもそもありはしないからだ」

 「わたしは竜の死から主が何を得たのかを知りたかったのでございます」

 「探求者ウェナリアよ、我々が竜の死から得たものは我々の生に他ならない」

 「わたしは竜の死から主が何を得たのかを知りたかったのでございます」

 聴衆の顔が恐れにゆがんだ。同じ言葉の繰り返しほど不気味なことはなかった。

 「竜の死は我々を死の呪縛から解放し、イーンの地に生きることの正当な光を投げかけた」ホロはウェナリアの首級を下ろし、虚空に魔法文字を描いた。ウェナリアから魔法の光が消え、見開かれた瞳はゆっくりと閉じていった。彼はすでに死んでいるのだから至極当然のことなのだが、ウェナリアの首はひどくくたびれて見えた。ホロは首級を脇に控えていた従者に手渡した。

 「わしは老いた魔術師かもしれないが、イーンに潜む賊を見逃すほど衰えてはおらん。すでにこやつの弟子は捉えられ、牢の奥深きところに繋がれておる。イーンの民よ、安心してもらってよい。イーンの教導舎は太陽と月の時間を通して目を光らせておる。しかし悪い鼠どもは物陰に巣くう。お主らの住まいの隣人が、あるいは訪問者が、実は賊であるともかぎらない。わしの二つの目を補うためにもよくよく眼を開いておいて欲しい」

 ホロは両の手を天に掲げ、呪文を唱えた。

 塔を中心に魔法文字が展開していく。

 黒い染みが空に滲んだ。

 染みは、見るみる塔の周りに広がり雲に変わった。

 広場を影が覆う。

 雷鳴が轟いた。

 風が吹きすさぶ。

 「我々に仇なす者には裁きが下る」

 ホロが静かに手を振り動かすと、稲光が起こった。

 人々は、その眩しさに目をつぶった。

 再び目を開いた時、人々が目にしたものは、黒く焼け焦げたウェナリアの首と、嘘のように青い空だった。

 それからホロは、教主としての務めとして、賢主グムトと同じように、人々の労をねぎらう演説をした。演説の最後には、彼は厳かな祭司であることをやめ、祭りを盛り上げるために、空に魔法の花火を上げてみせた。それは実に華々しい光景であったが、言い得ぬ恐怖に囚われた少年と、それを案ずる少女の目には映らなかった。ヴィノがもう帰ろうと言うのをエトは素直に受け入れた。

 ヴィノはエトの様子が急変したことに戸惑いを覚えたが、その理由がウェナリアの首級にあるとは夢にも思わなかった。未だ人混みに慣れぬエトが、今まで我慢を重ねてきたあげく、いよいよその無理が祟ったのかとそんな風に考えた。

 エトの調子は、広場を離れ、政治区を横切り、生活区に戻る頃には回復の兆しを見せた。エトはヴィノに調子を崩して申し訳なかったと詫びた。頭の中では、首だけとなったウェナリアが警告を発していた。今すぐ逃げ出せと、そうささやく。エトは突然、自分とこうして並んで歩くヴィノにも危害が加えられてしまうのではないかと恐怖に囚われ、ヴィノを自分から突き放したが、彼女が意味もわからず、ごめんねと謝ると、エトは自分が何をしたのかようやく理解した。

 「ごめんよ、少し頭が混乱しているんだ」

 ヴィノはすぐに気を取り直すと、エトに寄り添った。二人は竜の子の一行が休んでいた場所まで戻ると、だだっ広く空いた空間に場所を見つけて、腰を下ろした。

 「やっぱり地表に上がると疲れるね」とヴィノは言った。

 エトは力なく笑い返した。

 「魔術師の力に驚いたんだ」

 「わかるよ。人の頭をあんな風に動かすなんて、怖いよ」

 「でも彼は、盗人だったんだ」エトの言葉は、まるで自分がそうではないと主張しているかのようだった。

 「それでもおかしいよ。だって、盗むものは何もなかったんだから」

 「そうだね」でも、今はまだ見つけられていないだけだ、とエトは心の内で思った。

 「どうして、盗みだそうなんて思ったんだろう」

 ヴィノの問いかけに、エトは自身の言い訳を語りそうになった。僕は盗み出そうとなんてしていない。ただ、その秘密を知ることで、故郷の皆を楽させてやりたいだけなんだ、と。

 「イーンにとんでもない秘密が隠されていると思ったんじゃないかな。だってほら、この都市は竜なしでも立派にやっているからさ」

 「そうじゃなくてさ」ヴィノは口をすぼめた。「どうして教えてくださいと言えないのかな。何かを一方的に強いるようなことを私たちはしない。知りたいことがあるのなら、私たちと秘密を分かち合ってくださいと言えばそれですむ話じゃない?もし秘密があればの話だけどさ」

 「隠す方だって悪いさ」エトは見当違いな答えを返した。

 「エトも賢主様が何か隠していると思っているの?」

 「まさか。賢主様も言っていたとおり、イーンの繁栄は僕たちの働きの成果なんだよ」

 エトは、僕たちの、と言えて良かったと思った。

 「油衆の働きは、イーンの豊かさには関係ないかもしれないけどね」ヴィノは肩をすくめた。

 二人は来た道をのろのろと引き返していった。市場通りは相変わらずの混雑ぶりで、市の活気は衰えをしらなかった。このうちの幾人が僕を異境人と見るだろうと、エトは気にかかった。油衆であることが暗い気休めになった。なぜなら地表の人間は、穴に潜る人間を一緒くたに軽蔑するからだ。

 大穴の境で二人は別れた。ヴィノはエトを送っていくと主張したが、もう大丈夫だからと一人帰路についた。また明日ね、と背中越しにヴィノの声を聞きながら、この土地を後にすることはさぞや辛かろうとエトは思った。

 

 ここ数日というものエトは、常にびくついて過ごした。いつ塔からの使いが現れて、牢獄に繋がれることになろうかと気が気でなかった。ところが幾日経っても、塔の使いはおろか、誰それが捕まったという噂ひとつ聞こえてこない。それどころか、ホロが掲げた魔術師の首の話しすら、油衆の間ではほとんど話題に上らなかった。油人は大穴に潜りっぱなしで、地表のことなどまるで知らない。そういった周りの環境もありエトの心配は次第に薄れていった。心が平静を取り戻すと、今度は、カデッサたちから何の指示も届かないことが不安になった。食堂での決起から、だいぶ時間が空いている。速やかに次の行動を起こすとカデッサが宣言していただけあって、自分が計画から外されているのではないかと変に気をもみはじめた。うじうじと答えの出ない問いをこねくり回してようやく、リシアにそれとなく様子をうかがってみると、あれから何も連絡はないわと素っ気なく返され、問題がないのならば忘れてしまいなさいと諭されてしまった。

 エトは聞き分けよくわかりましたと答えたが、リシアの答えに内心苛立っていた。なるほどリシアは計画を忘れたとしても、この土地で今まで通りに生きていける。彼女の生活は、まさにこの土地に根ざしているのだから。――でも、僕はそうじゃない。計画は、ここにいる唯一の理由なんだ。計画はあらゆる物事の上位にあって、日々の生活に霞むことなどあってはならない。それをにべもなく忘れてしまえなんて……。

 そんな風に憤りを覚えながら、心の奥底では、忘れられるものなら忘れてしまいたいとエトは思っていた。計画の進行は、すなわちイーンでの暴動を意味する。賢主と教主は秘密を探る者たちへ警告を飛ばし、対決の姿勢を見せた。もし、カデッサがあきらめていないのならば――カデッサは決してあきらめたりしないだろう――お互いの持ちうる力と力がぶつかることになる。その結果は、今や火を見るより明らかなように思われた。

 暴力というものをエトはぼんやりとしか捉えることができなかった。エトは元来、争いとは無縁の場所で生きてきた。唯一、命のやりとりをしたのは、砂犬に出くわしたあの時だけだ。たしかに、ロゴ族や砂犬の相手をしながら自身の血が騒ぐのを感じた。血の匂いに酔い、昂揚を覚えた。しかしその後に訪れた死の感覚は、今まで体感したことの中で最も寂しく、虚しいものだった。あの命の抜けていく感覚を克服できたとして、それを他人に負わせることが果たして正しい行いと言えるのだろうか。エトの頭には、ヴィノの言葉が残っていた。豊かさを分かち合うことを望む言葉をまずは賢主にぶつけてみるべきではないだろうか。――しかし、イーンから竜の秘密を得たところで僕たちが代わりに差し出せる物などあるだろうか?エトは、ヴィノとこの問題について話し合いたいと思った。ヴィノならきっと納得のいく答えを与えてくれるように思えたのだ。でも、そんなことはできっこなかった。

 ヴィノはエトの落ち着きのなさに気がついていたが、わざわざ指摘する必要はなかった。採油場で共に働く誰もがそのことに気がついていたからだ。アグノアは、エトの不注意を叱りとばし、時には頬を張ることで注意を与えた。

 エトはひりひりと痛む頬をさすりながら、昇降機と作業場への道を往復していた。「きちんと仕事に集中できるようになるまで、現場の前線に出すわけにはいかないよ」とアグノアから、きついお達しを受けていたのだ。

 作業が単調で危険の少ないものになればなるほど、エトの意識は他を向いた。資材を満載した手押し車を押して歩きながら、交差路や開けた場所にやってくると忙しなく目を動かし、ギリヤの姿を探し求めた。よもや身近で頼れる人物はギリヤしかいなかった。しかしエトはギリヤがどの作業場で働いているのかをまるで知らず、ギリヤを探す努力は徒労に終わった。

 そうして十日が過ぎた。

 ある朝エトは覚悟を決めた。じっと待っているだけでは、望みの物は決して手に入らない。それならば、自分から事を起こしてやろう。閉鎖された葬儀穴に忍び込んで、隠された秘密を暴きだす。秘密の答えさえわかれば――もちろん秘密の内容次第ではあるが――カデッサも砂漠の向こうに控えさせた軍隊を呼び寄せる必要がなくなるだろう。少なくとも、イーンに潜伏している者たちだけでも、問題に対処できると説得する材料にはなるはずだ。

 その日、エトは一日の仕事を終えるとすぐに、そそくさと採油場を後にした。腰から下げた道具袋には愛用の工具とは別に、あの短剣が入っていた。武器を身につけているという事実は、エトを勇気づけた。いざとなればこの短剣を引き抜いて身を守ることもできる。そう思いはしても、人間を相手に短剣を構える自信がエトにはなかった。短剣は勇気を鼓舞する、ささやかなお守りに過ぎない。

 葬儀穴まで続く昇降機まで辿り着くと、エトは後ろを振り返り誰にもつけられていないことを確認した。余裕を持って三十秒、来た道を見つめた。今、人が来れば、迷い込んだのだと言い訳することができる。しかし、きっかり三十秒待っても、点々と弱い明かりの灯る道を辿って、人がやって来る気配は感じられなかった。

 「まだ上らないの?」

 背後から声がして、エトは飛び上がるほど驚いた。慌てて振り返ると、昇降機の裏から、ヴィノがけのびをしながら現れた。

 「ぐずぐずしちゃってさ」

 「ヴィノ!どうしてこんなところにいるんだ?」

 「エト、どうしてこんなところにいるんだ?」ヴィノはオウム返しに尋ねた。

 「僕は、その」エトは口ごもった。ヴィノに対してまさか迷ったなどと言い訳してみたところで意味がない。

 「上に用があるんだ」嘘ではないもののひどく間の抜けた答えをエトは返した。

 「エトの落ち着きがないのはわかってた。でも、何を考えているのかは全然わからなかった」ヴィノはエトをねめつけた。「だから、こっそり跡をつけてみたんだけど、途中でぴんときたの。きっとここに来るって。葬儀穴に行こうとしているんでしょう?ほら、こっちから行ったってしょうがないよ。葬儀穴は封鎖されているって知ってるでしょう」

 「どこに連れて行くつもりなの?」エトは自身の無計画を自覚していたので、さしたる反論も返せなかった。

 「葬儀穴のことなら、私知ってる。天井に配管を通すための上穴が開いているの。お父さんが工事の担当をしていたから、何度も通ったことがある」

 エトはヴィノの案内に従って、昇降機を後にした。大人しくヴィノの後についていったが、最後まで探索に付き合わせるつもりはなかった。――この先には、どんな危険が待ち構えているかわからない、これは自分自身で解決すべき問題なんだ。そう意気込んでみても、ヴィノの案内がなければ件の通路に辿り着くこともできないのだから、格好がつかなかった。

 ヴィノは彼女がいつもそうするようにエトの一歩前を進んで歩いた。そういえば、こうやって二人きりで歩くのは大市場から戻って初めてのことだ。

 「ねえ、葬儀穴にどんな用があるの?」

 「別に、ヴィノには関係のないことだよ」

 ヴィノは歩みを止めて、エトをにらみつけた。エトは早々に折れて、言い訳を探した。

 「葬儀穴がどういった場所か知りたいんだ。油人にとって大事な場所なんだろう?」

 「そうだけど、葬儀穴のことを私だって詳しく知っているわけじゃないよ」

 「でもヴィノは立ち入ったことがあるんだろう?」

 「まあね。葬儀穴はさ、すっごく暗いんだよ。灯りは全部、入口に置いて行かなきゃならいないから、奥まで行っても何も見えないし、薄闇の中、足下の道を探りながら歩いていると、変な話だけど、その場では何も見てはいけないような気持ちになってくるんだ。まるで、闇の中に恐ろしい何かが潜んでいて、顔を向けると目が合ってしまいそうな、そんな気持ちに」

 「何か?」

 「わからないよ。でも、何がいても不思議じゃない」

 道の開けた場所に出ると、ヴィノは足を止めた。そこは三叉路の中心で、道の一方は鉄板で蓋をされていた。三叉路の中心には古い給水場があって、油人たちは給水場が汚れることを恥と捉えることから、砂埃のつもる空っぽの水場が、長い年月使われていないことを示していた。

 「そっちの道を行くと、北の昇降機があるから、帰りはそっちから戻ると早いよ」ヴィノはそういうと、土壁にはまった鉄の封印を体全体を使って動かそうとした。エトは、反対側から鉄の塊を押しやった。

 「ここをくぐれば葬儀穴の北側に出るから、後は少し進むだけで隙間穴から下の様子を覗けるよ」

 エトは腰袋を外し、短剣だけを抜きとった。

 「ヴィノ、これは邪魔になるから持って帰って欲しいんだ」エトは仕事道具の詰まった腰袋をヴィノに差し出した。

 「何言ってるの?」

 ヴィノが明らかに怒っていることはエトにもわかった。

 「ヴィノを連れて行くわけにはいかないよ。これはすごく危険なことなんだ」

 「でもエトは行くんでしょう?」

 「僕は行くよ。そのために来たんだ」

 「なら私も行くよ」ヴィノはエトより先に通路に足を突っ込んだ。

 「だめだ!」

 ヴィノは驚いた。エトが声を荒らげたことなどあっただろうか。

 「でも……」ヴィノはまだ抵抗する気概をみせた。

 「これをリシアさんのところに持って帰ってよヴィノ。そして僕が市場通りまで出掛けて行ったと伝えるんだ。僕が朝になっても戻らなかったら、僕が本当はどこに行ったかをリシアさんに伝えて欲しい」

 ヴィノは通路から足を戻し、エトの手から腰袋を受け取った。ここ半年、エトの仕事は一人前に増えて、腰袋にしまわれたいろいろの道具はずしりと重かった。

 「エトは一体何をしようとしているの?葬儀穴のことを知ろうとしているなんて嘘なんでしょう」

 エトは上手く答えを返せなかった。

 「これが終わったら、きちんと話をするよ」

 どこまで正直に話をすることができるだろうとエトは思った。

 「私は邪魔なの?」ヴィノの目はどんな場所でも決して外されることのないエトの手袋に向いていた。

 「足手まといだよ」エトは心にもないことを言わなくてはならなかった。

 ヴィノはエトをにらんだきり口を引き結んだ。

 エトはヴィノを残して、通路に潜り込んだ。入り口の部分には吸気管や水の分岐管が伸びていたが、それはすぐに途切れて、ようやく一人がくぐれるだけの暗い穴道が残った。目の前にはただ濃い闇があり、繰り出す手の先もほとんど見えなかった。それでもエトは手持ちの照明を付けようとしなかった。

 通路は熱く、息苦しかった。エトは汗を拭いながら這いつくばって通路を進んだ。精一杯身をかがめても、壁や天井に体がこすれた。この先が行き止まりであったなら、さぞや戻るのが面倒になるだろう。それでも今更引き返すわけにはいかない。エトは、イーンの、異境の、大地の下、そのどこかわからぬ場所を這い回りながら、不思議と一人ぼっちな気持ちにならなかった。ヴィノが自分の所在を知っていてくれることが大きいのかも知れない。

 黙々と通路を進んでようやく、目線の先に覗き穴が空いているのを見つけた。

 光?

 エトは訝った。ヴィノの話では葬儀穴は真っ暗なはずだ。穴からは闇に色を付けたような弱々しい光が漏れていた。覗き穴を覗き込む前に、その場に広がる少しばかりの空間で体勢を整えた。床や壁がきちんと整地されている。おそらく配管の中継器をここに置くつもりだったのだろう。どうやらこの先の道は、そのせいでわずかばかり開けているらしい。

 エトは光の漏れる覗き穴を恐るおそる覗き込んだ。

 巨大な、半球状の空間が広がっていた。空間はリシアの下宿が丸々収まるほど広く、床面までの距離はちょうどエトの部屋から地表部分を見下ろしているのと同じくらい高く感じられたが、不均一な光と、空間を占める物体のあまりに異質な見てくれのせいで、その目測にはさほどの自信も持てなかった。

 「あれは何だ」エトは思わずひとりごちた。

 硬化した水飴のような物体が地面一杯に広がり、一部はそのまま、地面の落ちくぼむ絶壁に流れ込み、地の底まで垂れ下がっていた。岩の塊がごつごつと隆起し、水飴様の物体が、糸引くように絡みついている。その中心からは、巨大な樹の幹を思わせる柱が葬儀穴の天井部に向かって屹立していた。うっすらと光を放つ何かが幹の内に埋もれていたが、あまりにもぼんやりとして見えるために、その光源の正体を解き明かすには、目前まで迫るほかなかった。

 エトは、覗き穴から辺りをもっとよく観察しようと顔を突き出してみたが、穴まで昇ってくる熟れた果実と排気油を混ぜ合わせたようなきつい匂いにたじろいでしまった。鼻をふさいでも毛穴から入り込んでくると感じられるほど強い刺激臭がした。

 大地が腐りでもしているのだろうかと、エトは考えた。腐った油だってここまでの臭いを発したりはしない。エトは、ギリヤが話していた、セオの発掘場の話を思い返した。セオの発掘人である土竜たちが大事にする地下の森。その森がまるごと腐ったような、そんな印象こそがこの場にはぴたりと合う。

 きつい臭気にまけじと目をこらしていると、エトはあることに気がついた。

 ひょっとするとこれは、竜の死骸なんじゃないか?

 改めてその細部を見やると、隆起する岩はあばら骨のように見えなくもない。大樹の幹に見える部分は太い背骨で、どろどろに溶けた物体は、竜の体や臓物なのだ。するとこの辟易させられる臭いにも納得がいく。竜はとにかく巨大な生物だと詩に歌われ、絵に描かれているではないか。都市をも一呑みにすると歌われる物語口伝者特有の誇張を鑑みれば、葬儀穴いっぱいに広がるどろどろが、もとは巨大なひとつの生命であったとしても不思議ではない。

 しかしこの竜はどこからこの場にやってきたのだろう。遥か昔からこの地に眠っていたのだろうか?竜の死骸を掘り返したなどという話は、ついぞ耳にしたことがない。

 エトはさらなる事実をその目に焼き付けるために、葬儀穴への下り口を探しはじめた。遠目から眺めた様子だけでは、カデッサへの報告には足りないだろう。その物の正体をきちんと見極めなくてはならない。

 エトは覗き穴から頭を引っ込めて、通路のさらに奥へ進もうとした。身をかがめた矢先に、ぱっと強い光が一条、覗き穴から差し込み、すぐに消えた。

 一定の調子で大地を打つ音がこだまする。

 徐々に近づいてくる。

 足音だ、とエトは思った。そしてそれは一人のものではなく、恐らく二人のものが重なっている。

 歩みは早くない。急いではいない。警戒している様子もない。

 エトは逸る気持ちを抑えて、覗き穴から顔を出すのを、足音の止まるまで待った。

 二つの足音はやがて止まった。

 エトは覗き穴から慎重に頭を出した。

 そこには二つの人影があった。遠目にも、一人は魔術師であることがその服装からわかった。もう一人は魔術師のようには見えなかった。両手で、子供を抱えている。

 「これで最後になるか?」と男は言った。

 「おお、これが最後の捧げ物になるだろう」魔術師が答えた。

 男は魔術師に一瞥を返すと、子供をそっと横たえた。

 エトが息を止めていられるほどの沈黙があった。

 男は膝を屈したまま、始めろと言った。

 魔術師は宙に魔法文字を描き始めた。それは、エトがこれまで目にしたどんな魔法文字よりも長々と記述された。文字が空間を覆い、二重になり、三重になり、さらに重なっていった。魔法の光がくすぶる燠火のように瞬き、地面からはしゅうしゅうと蒸気が立ち上った。

 男は、魔術師の動きに一切の注意を払おうとせず、床に眠る子供をじっと見つめていた。深い眠りの中にあるのだろう、子供はぴくりとも動かなかった。子供をくるみ込む包みが、イーンの旗であることにエトは気がついた。

 男は子供の髪を愛おしそうに撫でた。

 魔術師は魔法文字の記述をやめた。

 おもむろに背骨のような幹に手をつくと、呪文を唱えた。

 光が、滝のように溢れ出た。

 幹の中心、あのどろどろの下に光源が埋まっていた場所からだ。

 魔術師の手がゆっくりと幹に埋まり、止まった。

 呪文の詠唱が続いた。

 魔術師が手を引き抜くと、その手には歪な形をした光の玉が脈打っていた。

 両手で光の玉を掲げると、展開していた魔法文字がゆっくりと収斂していく。

 地の底に、太陽が現れた。

 男が立ち上がり、腰に下げていた剣を引き抜いた。男の周りには光が踊るように満ちていた。エトは、まるで男が炎で焼かれているかのように錯覚したが、葬儀穴の温度は異様なほど下がっていた。自分の息が、白く吐き出されていることに気がついた。まるででたらめだとエトは思った。灼熱の釜を眺めながら、身も凍る冷気の指先に触れられている。

 「大地の綻びを継ぎ、イーンを竜の夢に留め置くために、我が娘ダリアを竜の心臓に捧げる」グムトは両手で剣を構えると、横たわる娘の胸に勢いよく刃先を落とした。エトの耳には、肉を突くずぶりと鈍い音が聞こえた気がした。ダリアは胸に剣を突き立てられながら微動だにしなかった。目も開けず、声も漏らさず、ただその胸から血を流していた。ダリアから流れ出た血は、ヘドロのような地面を生きた肉の色に変えた。それは人の肉ほど赤くはないが、竜の肉であるならば不思議はない。蒸気が、一層強く立ち上った。

 「魂を失い、長き眠りにある竜の心臓よ。まだ死に追いつかれてはおらん。その力の宿る先を与えてやろう。汝の血族の血を飲め、それが契約の捧げ物である」

 魔術師の掲げる光の玉は、ばくつく心臓のように暴れていた。囲い込む魔法文字がその力の暴走を抑えていた。

 「予が主だ」グムトは胸をはだけると、右の手を胸にあてがった。エトは目を見開いた。グムトの腕は、血のように飛沫を上げる光を溢れさせながら胸の内にめりこんでいく。苦しげに腕を引き抜くと、その手には明々と脈打つ心臓が握られていた。

 「ホロよ、別れた竜の心臓を今こそひとつにするのだ」グムトは自身の心臓をホロに捧げた。

 ホロは、支え持つ光の玉をグムトの心臓に近づけると魔法文字を解き放った。

 重なり合った心臓から、光が怒濤のごとく溢れ出る。

 閃光がすべてを貫く。

 エトはとっさに目をつむり、腕で目元を隠したが、光を防ぐ助けにはならなかった。

 光は、まるで乳白の川のようにエトの心を浸食する。

 川の水に肌を浸けた様子に似ている。

 ただし、その力はもっと圧倒的だ――。

 光を通して、声が押し寄せてくる。

 頭の中が、あずかり知らぬ声でいっぱいになる。

 エトはもがいた。

 意識の果てで、見知らぬ人間が代わるがわる訪れては、声を残していった。

 それは、言葉をなくした幼子であり、目の見えぬ老人であり、片腕のない身ごもった女であり、頭髪の焼け焦げた少年であり、裸の体の腐敗する少女であった。

 「やめてくれ!」エトは思わず悲鳴を上げた。

 「誰だ」ホロの声が葬儀穴に響いた。ホロは、魔術師の目を用いて空間のすべてを見やったが怪しいものは視界に入らなかった。悲鳴を発するとともにエトが膝を屈していたからだ。

 エトは、ぐちゃぐちゃになりそうな心をまとめながら、地に這いつくばり、その場から逃げだそうとした。魔術師に見つかることは、考えうるかぎり最悪のことだった。エトは通路の奥へ奥へと進んでいった。その先に何があろうと構わない。とにかくこの場から離れなくては。気ばかり焦り、上手く体を前に進めることができなかった。視界がまるで効かなかった。それは、通路の闇の深いせいではない。激しい光のせいで、目の機能が正常に働かなかった。手足の動きですらおかしい。口元からは唾液が止めどなく流れ続けている。

 それでも這って這って這い進んだ。

 やがて通路の終わりに辿り着いた。

 そのことを、体が落下する感覚で知った。

 痛みに声を上げる間もなく、エトは暗い虚無に身を打ち付けながら落下していった。

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